司祭の言葉 3/31 日中

復活の主日・日中のミサ(B年・2024年3月31日)ヨハネ20:1-9

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエス・キリストのご復活の日の朝早く、マグダラのマリアは、主のおからだが納められた墓を訪ねました。しかし、その墓の内に、主を見つけることは出来ませんでした。ヨハネによる福音は、そのように伝えています。

主イエスにもう一度お会いしたい。主への切ないほどのマグダラのマリアのこの一途な思い。しかし、訪ねた主の墓が空であった時のマリアの驚きと落胆。それは、皆さんもよくお分かりになると思います。

しかし、「その時」と、ヨハネによる福音は、続けて、マグダラのマリアとご復活の主イエスご自身との驚くべき出会いを伝えます。

マリアが「空の墓の外に立って泣いていた」「その時」、彼女は、「マリア」と彼女の名を呼ぶ声を聞いたのです。忘れもしないその声に、マリアは即座に、彼女の言葉で主に、「ラボニ」と、お応えしました。「わたしの先生」と言う意味です。

「わたしの先生」。この短い言葉にマリアの逸る心を感じます。ふたたび見(まみ)えることができたご復活の主イエス・キリスト。主に縋りつきたい。しかしこの時、主はマリアに、「わたしに縋りつくのはよしなさい」と仰せになりました。なぜでしょうか。

マグダラのマリアだけでは無いと思います。実は、気付かないままにわたしたち一人ひとりも、「わたしの」思いの中に、「わたしの」小さな愛の中に、「わたしの」願いの中に、主イエスを求め続けて来たのではなかったでしょうか。

しかしご復活の主イエスは、逆にわたしたちが、「主の」内に、「主の」深い願いの内に、「主の」大きな愛の内にわたしたち自身を見つけることを求めておられます。

主イエスは、エルサレムに最後に入城された直後、神殿での説教で人々に、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネ12:32)と、仰せになっておられました。

このみことばで主イエスは、ご自身の十字架に続くご復活が、聖霊による主ご自身の新しいいのちの始めであるとともに、主の十字架によって主に結び合わされたわたしたち自身の復活のいのちの始めでもあることを、語り示しておられます。そしてそのことを、復活の主イエス・キリストの使徒パウロは次のように語っています。

「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。・・・あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロサイ3:1-4)

ご復活の主イエス・キリストが、マグダラのマリアに、「わたしに縋りつくのはよしなさい」と仰せになられた時、主は、続けて次のように念を押しておられました。「わたしは、まだ父のもとへ上っていないのだから。」(ヨハネ20:17)

ご復活の主イエスは、決してご自分だけが「天の父のもとに上っていないのだから」と仰っておられるのではないと思います。ご復活の主のいのちとともに、マリアの命も、まだ天の父のもとに高く上げられていないのだから、ということです。

しかし、ご復活の主イエスが天の父のもとに高く上られる時、必ずやマリアの命も主とともに、主によって天に高く抱き上げられ、主のご復活のいのちと一つとされます。ただしそれは、マリアが、ご復活の主に「縋りつく」ことによってではありません。ご復活の主キリストが、マリアを「抱き起こし、抱き上げる」ことによってです。

実は、主イエスがマリアと話された『聖書』の言葉では、「復活する」とは、死んだ者、倒れた者が、一人で立ち上がると言う意味の自動詞ではありません。(倒れた者、死んだ者を)抱き起こし、抱き上げる」という意味の他動詞です。主は復活された。それは、倒れ死んでいた主イエスが生き返ったと言うだけではありません。むしろ、倒れ死んでいたのはマリアの方です。そのマリアを、あるいは倒れているわたしたち一人ひとりを、主が抱き起こし、抱き上げてくださる。それが主の「復活」です。

わたしたちのために十字架につかれた主イエス・キリストは、主の十字架のもとに、なお蹲(うずくま)ってしまうわたしたちのために復活してくださるのです。主のみ前に倒れているわたしたちを、死に打ち勝った主の力強い御腕で抱き起こし、さらに高く抱き上げてくださるために。十字架の傷跡のある主の御腕で。

ご復活の主イエス・キリストが、皆さんとともに。  アーメン。

司祭の言葉 3/31

復活の聖なる徹夜祭(B年・2024年3月31日)マルコ16:1-7

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエス・キリストのご復活の日の朝早く、マグダラのマリアたち三人の女性たちは、十字架の後に主のおからだが収められた墓を訪ねました。

そのマリアたちに、神は、最初にみ使いによって声をかけてくださいました。それが今日の福音です。実は、福音書は、さらに、ご復活の主イエスご自身とマグダラのマリアとの感動的な出会いの物語を語り継いで行きます。

ところで、最初にみ使いによってマグダラのマリアたちに出会われた神は、彼女たちに「驚くことはない」、文字通りには「恐れるな」と仰せになっておられました。なぜでしょうか。なぜ、神は、この時、マリアたちに、「恐れるな」と仰せになられたのでしょうか。皆さんは、三人の女性たちとともに、神からの「恐れるな」とのおことばを、どのような思いでお聞きになられたでしょうか。

この時、マリアたちは一体何を「恐れた」のでしょうか。主イエスが納められたはずの墓が、空だったことでしょうか。聖書はそのようには伝えていません。そうではなく、み使いによって、神が、彼女たちに会ってくださった、そのことを、マリアたちは「恐れた」のです。マリアたちは、神を「恐れた」のです。だからこそ、マリアたちに、神は「恐れるな」と仰ってくださったのです。

神に「恐れるな」と仰っていただく。わたしはこの主のみことばに、愕然といたしました。なぜなら、神のこのみことばの前に、わたしは自分自身を問い直さざるを得ないからです。果たして、わたしは、神に「恐れるな」と言っていただかなければならないほどに、真実に神を恐れて生きてきたかどうか。さらに、わたしは、今、この時、果たして、神を、そして神のみを、真に恐れて生きているといえるかどうか。

第二次大戦中、当時ドイツの大学で教えていたスイス人牧師カール・バルトが、ドイツの教会の人々に、クリスマスの説教をいたしました。その題は『恐れるな』。説教の題は、主イエスの誕生を予告する天使ガブリエルが、主の母となられるマリアさまに告げた「恐れるな」ということばから取られました。これはドイツのナチの軍靴の響きが、すでにドイツ内外に不気味な影を落とし始めている中で、恐怖と不安に心が動揺している人々に向けて語られた説教でした。

彼は教会に集った人々に、わたしたちは、今、一体何を恐れているのか、と問い掛けます。ナチの軍隊か。もちろん、そうであるに違いない。しかし、と彼はさらに問いかけます。わたしたちは、み使いに「恐れるな」と言っていただかなければならないほどに、果たして、神を、神のみを恐れているだろうか、と。彼は、この説教を次の言葉で結んでいます。「もし、わたしたちが、真の神を、神のみを恐れることがないならば、その結果、わたしたちは、真の神以外の一切のものを、恐れることになる。」

これは他人ごとでありません。先の東日本大震以来の自然災害、さらに未だ終息に至らない新型コロナ感染症に加えて、日常の些細なことでも、一端事が起これば、自分の身の危険や、さらには自らの死を恐れて心が動転するだけのわたしです。

もし、神から「恐れるな」とのみことばを聞かせていただくことがなければ、「神を恐れる」ことに、思いが及ばなかったようなわたしでした。その結果、「神を恐れる」という人として最も大切なことを忘れ、神を信じると言いながらも、取りとめのない不安と神以外のあらゆるものに対する恐れの中で、わたしは一生を空しく過ごしてしまったかも知れません。

こころから愛していた主イエスの十字架の死。頼りにし切っていたに違いない主の、まったく思いがけない死。主イエスのご復活の朝早く、神から「恐れるな」とのみことばを聞かせていただくその時まで、マグダラのマリアたちの心を占めていたのも、主を失った彼女たちのこれからの生活への不安、さらには、主を失った彼女たちを取り巻くすべてのものに対する恐れでは無かったでしょうか。言い換えれば、真の神以外のすべてのものへの恐れでは無かったでしょうか。

しかし、もうその必要はない。ご復活の日の朝、神はマリアに語られたのです。「恐れるな。」そして時を措かず、ご復活の主イエスご自身が彼女にお会いくださる。

神を、神のみを「恐れる」者から、神は、神以外の一切のものへの恐れを取り除いてくださいます。実はこの神こそ、主イエスにおいて既に親しくわたしたちにお会いくださっておられた神。十字架に至るまで、わたしたちを愛し抜いてくださった方です。この方が、今、ふたたびわたしたちにお会いくださる。それが主のご復活です。

「マリア、恐れることはない」。マリアだけではありません。これは、皆さんお一人おひとりへの、ご復活の主イエス・キリストご自身からの愛と慰めのおことばです。

「恐れることはない」。 ご復活の主が、皆さんとともに。 アーメン。

司祭の言葉 3/29

聖金曜日・主の受難(B年・2024年3月29日)ヨハネ18:1-19:42

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

昨晩のごミサで、わたしたちは主イエスと十二弟子たちとの「過越の食卓」「最後の晩餐」を記念いたしました。続く今日、わたしたちは、十字架におつきになられた主のもとに集まり、「信仰の神秘」を記念します。しかしなぜ、信仰は、神秘すなわち秘跡」なのか。信仰とはわたしたちの心の問題ではないのでしょうか。

ところで、「最後の晩餐」の時のことです。主イエスはペトロに、「わたしの行く所に、あなたは今ついてくることはできないが、後でついてくることになる」と仰せになられました。ペテロは「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためには命を捨てます」と、主にお応えしました。その時のペトロの気持ちに偽りはなかったと思います。しかし、このペテロに主は、「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と、冷淡とも言えるおことばを返しておられました。

わたしたちは神を信じるという時、何を思うでしょうか。聖書において、「神を信じる」とは、極めて重い言葉です。それは、神に自分自身を委ね切ってしまうこと、さらには、神に自分自身を一切明け渡してしまうこと、捧げつくしてしまうことです。すなわち、「信仰」とは、わたしたち自身を神に「奉献」することです。つまり、聖書において「神を信じる」とは、近代人が考えるように、神の存在を知的に承認するというようなわたしたちの心の問題などではなくわたしたちの身を神に捧げること、です。

ペテロは主イエスに、「主よ、あなたのために命を捨てます」と申し上げました。それが、「主よ、あなたを信じます」ということなのです。事実、ペテロは後に主のために命を捨てます。ペテロの主への「信仰」は、彼の心の内の確信ではなく、彼の殉教によって成就します。ただし、それは主のご復活の後、聖霊の導きによってです。

しかし、「主の受難日」の今日、わたしたちが目撃するペテロの姿はどうでしょうか。今日に限って言えば、ペテロは、自分を主イエスに委ね切って、主とともに十字架につくことはできませんでした。そのように主を信じきることはできませんでした。しかし、そこには命はありません。主を離れて、命はないからです。主イエスが、主とともに十字架につけられた一人の人に「神の国」を約束されたように、主とともに十字架につけば、じつに、そこに永遠のいのちがある、神の国があるのです。

しかし、受難日の今日、わたしたちが目撃した事実とは、驚くべき事に、ペテロではなく、じつに主イエスの方が、ペテロのためにご自身のいのちを捨てられた、そのように主がペテロを信じた、という事実ではなかったでしょうか。

主イエスを信じきれず、主に自分の命を差し出し切れない今日のペテロ。そのペトロに対して、主の方がペテロにご自身のいのちを捧げ切ってくださった。そのようにして、主の方が、ペテロを「信じ切って」くださったのです。信仰とは、奉献であると申しました。実に、わたしたちが自らを主に捧げきれない中で、先に主イエスの方がわたしたちにご自身を捧げきってくださったのです。わたしたちが主を信じる前に、主がわたしたちを信じてくださったのです。それが、主の十字架です。

「主の受難日」の今日、これが、福音が伝える主イエスとペトロの間に起こった事実です。「信仰の神秘」。福音において明らかにされた「信仰」とは、「神秘つまり秘跡」・神の自己奉献のみわざとして神がわたしたちに成就してくださった神の事実です。今日、主の十字架のもとで記念するのは、この驚くべき神の恵みの事実です。

「信仰の神秘」。「神秘すなわち秘跡」。それは、わたしたちの思いを超えた神のみ業です。それは、理屈ではありません。今日のペトロのように、主イエスを信じ切れずに疑い、従って主のために命を差し出しきれないわたしたち。主のために死に切れないわたしたち。そのわたしたちのために、主の方が十字架の上でご自身の御血の最後の一滴に至るまで注ぎ尽くしてくださった。そのようにしてまで主はご自身を捧げつくしてくださった。十字架の死に至るまで。それが、信仰の神秘です。驚くべきことです。しかし、これは神が、事実なさってくださったことです。また、ご聖体の秘跡として、ごミサの度ごとに神がわたしたちになさってくださる事実です。

「信仰の神秘」「秘跡である信仰」とは、わたしたちが頭で神の存在を確信すると言うような事でも、心の内に主の十字架を偲ぶというようなことでもありません。信仰とは、わたしたちの力を越えた主イエスの事実です。信仰とは、救い主キリストが十字架において、わたしたちにご自身を捧げてくださった恵みの事実です。

この主イエスに、わたしたちは感謝を以ってわたしたち自身を捧げさせていただく。これ以外に、主にお応えする道はありません。それがわたしたちの「信仰」、神へのわたしたち自身の「奉献」です。主イエスの方がわたしたちに先立ち、わたしたちにご自身を、ご自身の御からだと御血を、捧げ尽くしてくださったからです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 3/28

主の晩餐の夕べのミサ(B年・2024年3月28日)ヨハネ13:1-15

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

聖木曜日。主の晩餐の夕べのミサを祝う度に、かつて、わたしが英国で、ユダヤ人の友人の家庭の春の「過越の祭」の食卓に招かれた時のことを思い出します。

ユダヤの人々は、古い仕来りのままにユダヤ暦ニサンの月の14日の過越の晩、家族ごとに食卓に集います。家長のブドウの盃による祝福によって過越の祭儀は開始され、詩編の朗詠に続き、今日お聞きしたのと同じ出エジプトの物語が朗読されます。続いて、家長はパンを取り、感謝の祈りを捧げた後、パンを裂き、一同に配ります。その後、食事の終わりに、再度、家長からのブドウの杯による祝福を以て、過越の祭の食卓は閉じられます。ルカによる福音が正確に伝えている通りの順序です。

ユダヤ人の友の家庭で過越の祭の食卓に加えていただき、福音書の伝える主イエスと十二人の弟子たちの過越の祭の食卓、「最後の晩餐」の様子を心に思い浮かべていた時、ふと、わたしたちが囲んでいる家庭の過越の食卓の、いちばん大切と思われる席が空席であることに気付きました。ユダヤ人の友人によれば、それは、待ち望んでいるメシア・キリストのために、大切に空けてある席だとのことでした。

それを聞いて、ああ、ここには主イエス・キリストがいらっしゃらないのだなと、それまでの感動に代えて、突然一切が虚ろにさえ感じられた事を覚えています。

しかし、今、わたしたちが祝っているこのごミサは、違います。わたしたちの過越の食卓の主は、メシア・キリストご自身です。ただし、それは決して自明のことではないのです。これは、ユダヤの人々にとっては、今なお待ち望んでいる出来事なのです。

主イエスご自身が、ご自身の過越の食卓にわたしたちをお招きくださった。この驚くべき出来事を、ヨハネによる福音は、食事の前に主ご自身が弟子たちの足を一人ひとり洗ってさえくださったというさらに驚嘆すべき事実をもって語り始めます。ごミサ、すなわち主の過越の祭りの食卓は、そのようにして始められたのです。

それだけではありません。この主イエスの過越の食卓で、わたしたちのために裂かれるパンとわたしたちのために注がれるブドウ酒。それは、主イエスご自身です。じつに主ご自身の御からだと御血です。マルコによる福音は、次のように伝えます。

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしのからだである。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」

これが、主イエスと弟子たちの過越の食事。これが、主とわたしたちのごミサです。

ユダヤの人々のみならず、わたしたちも悩みや苦労の多い人生で、救い主キリストをひたすら待ち望んできた日々があったのではないでしょうか。救い主のために食卓を整えて待っていても、いつもその席が空席のままのような、長く虚ろな時間に疲れてしまったことが、かつての皆さんにもあったのではないでしょうか。

しかし今日は違います。このごミサは、主イエスご自身がわたしたちのために整えてくださった食卓。ルカの福音によれば、「イエスは言われた。『苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過ぎ越しの食事をしたいと、わたしは切に願っていた』。」 

食事の前に、一人ひとりの足をご自身で洗ってくださるほどに、救い主キリストご自身が切に願ってくださっておられた、主ご自身とわたしたちとの過越の祝い

長い間、わたしたちは自分の願いの中に救い主を求めて来ました。しかし今、このごミサでは、主イエスご自身の切なる願いの中にわたしたちが招かれています。

主イエスのわたしたちへの切なる願い。それは、ご自身のすべてを、ご自身の御からだ、ご自身の御血の最後の一滴に至るまで、わたしたちにくださること。それは、わたしたちを神の国の食卓に招き、ご自身のいのちに生かしてくださるためです。

救い主キリストを待ち望んできたわたしたちの願いに先立ち、わたしたちをご自身の愛の内に、ご自身のみ国に招き入れたいとの主イエスの切なる願いが、すでにわたしたちに向けられていたのです。そして今、わたしたちはこのごミサで主ご自身の限りなく深い願いの中に、強く、優しく、また確実に抱きしめられてよいのです。

救い主キリストのわたしたちへの切なる願いに抱かれて、今、わたしたちは、このごミサ、メシア・キリストご自身の食卓で、「神の国への過越」を祝っています。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 3/24

受難の主日(枝の主日)マルコ15:1-39

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「本当にこの人は、神の子だった。」 ご一緒に福音にお聞きしながら四旬節を歩ませていただいて参りました。それは、ちょうど主イエスに伴って、主とともに、福音に語られた人々との出会いを重ねる旅のようでもありました。

主イエスの出会われた一人ひとりの辿った人生は異なっていました。その中には、主にお会いするや否や主を信じ、素直に自分たちを主に委ねていった多くの人々がいました。しかし、主のみことばを聞き、主のみ業に与りながらも、なお主を疑い、主イエスを神の子キリストとして受け入れることができなかった人々もいました。

あるいは、エルサレムの群衆のように、ひとたびは主イエスを救い主・キリストと歓喜の声をもって迎えたにもかかわらず、その同じ週の内、まさにその舌の根も乾かぬ内に、その同じ主イエスを、「十字架につけよ」と叫び出した人々もいました。これらの人々の内、いったい誰がこのわたしなのか。実際は、そのすべての人々がこのわたしである、あるいはわたしであった、というべきかもしれません。

復活の主イエスの使徒パウロは、「聖霊によらなければ、だれもイエスは主である、と信じることはできない」(Iコリント12:3)と告白しています。その通りだと思います。わたしたちが、もし喜んで御子キリストを信じさせていただいているというのであれば、それはひとえに父なる神の恵みであり、聖霊の御導きであると思います。

事実、主イエス・キリストを疑わず信じさせていただく、これは本当に恵みです。神に対する最も難しい罪とはなんでしょうか。神に背き悪事を行うことでしょうか。それなら回心して神に立ち返ることもできるでしょう。実は、最も深刻な罪とは神を疑うことです。主なる神キリストを疑い続ける限り、その人には心底から信じ自分を委ね切ることができる神も、回心して立ち返るべき神もいません。救いがありません。

主イエスの時代の律法学者やファリサイ派の人々がそうでした。彼らは、約束されていた救い主・キリストを、熱心に待ち望んでいた人々でした。しかし、彼らは主イエスにお会いした時に、彼を神の子キリストと受け入れることができませんでした。自分たちを主に委ねることができなかったのです。自分たちの知恵に頼って主を疑ったからです。それが罪です。主は、それを本当に悲しまれたに違いありません。

律法学者だけではありません。主イエスを信じ切れず、主に自らを託しきれず、どこかで主を疑うわたしたちのただ中で、そのわたしたちのために、黙々と十字架を負って歩まれる主イエス・キリスト。四旬節の間、主とともに多くの出会いを重ねてきた中で、わたしたちは、わたしたち自身に、また同時に主イエスご自身に、繰り返し出会い続けてきたのではないでしょうか。主を疑うわたし、に。そして、そのようなわたしのために、主を疑うわたしの罪を一身にご自身の十字架として背負い、背負い抜いてくださる主イエス、に。

どこかで主イエスを疑っていたがゆえに、かつては主に捧げる何物も用意できなかったわたしでした。しかし、主はそのわたしのために、十字架の死に至るまで、ご自身の一切を、ご自身の御からだと御血の最後の一滴に至るまで捧げ尽くしてくださいました。十字架の主イエス・キリストは、このわたしの疑いの罪を破り、わたしに信仰をお与えくださる唯一の神です。

「信仰の神秘」。それは、主イエスが、主を疑うこのわたしを、主を信じる者としてくださった、つまり主ご自身がわたしの「信仰そのもの」となってくださった、ということです。どこかで神を疑うこのわたしが、主なる神キリストを信じさせていただくためには、それしか道が無かったのです。

主イエスの十字架。ここに初めて、そして最終的に、わたしたちの神への疑いが破られ、わたしたちが神を信じ、わたしたち自身を神に委ね切り、わたしたちを神に捧げつくして生きて行くことが赦される新しいいのちが、わたしたちの身の事実とされたのです。それが、「信仰」です。「信仰は、まさに主イエス・キリストによってわたしたちに与えられた恵みの神秘」です。

信仰。それは、主イエスがご自身の十字架の死をかけて、わたしたちをもはや主を疑うことができない者としてくださった、神なる主の恵みの事実です。そして、その事実を事実として受け入れさせてくださるのは「聖霊」、すなわち活ける主イエス・キリストによると 、復活の主イエスの使徒パウロは教えています。

主イエスはわたしたちの疑いの罪を破り、ご自身がわたしたちの信仰となってくださるために、ご自身のいのちをわたしたちにお与えくださいます。みことばとご聖体において。それがミサです。わたしたちは、ミサで、主から信仰をいただくのです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 3/17

四旬節第5主日 ヨハネ12:20-33 

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

ご一緒に福音にお聞きしながら、主イエスに伴われて四旬節の歩みを進めて参りました。次の主日は、いよいよ「枝の主日」。主の過越を、わたしたちもご一緒に祝わせていただく聖週間を迎えます。一年のカトリック教会の暦で、最も大切な時です。

さて、「枝の主日」に、主イエスはエルサレムに入城されました。その後の聖木曜日の晩の弟子たちとの「最後の晩餐」までのある時のこと、弟子たちとともにエルサレムの神殿を訪れた主が、そこで人々に語られた、神殿での最後となった主の説教を、ヨハネによる福音は極めて丁寧に伝えてくれています。

今日の福音は、主イエスのその時の説教の冒頭の部分です。主は、この説教を、「人の子が栄光を受ける時が来た」という、忘れがたいおことばによって語り始められました。

「栄光」。今日の福音の中で、このことばは三度繰り返されます。最初は、主イエスがご自身を指して、「人の子が栄光を受ける時が来た」。 次には、「父よ、御名の栄光を現わしてください」との父なる神への祈りの中で。 最後は、天の父なる神からの声として。「わたしは既に栄光を現わした。再び栄光を現わそう。」

「栄光」。それは、父なる神が、御子キリストを通して現わされる栄光であり、御子が、父なる神からお受けになる栄光です。ただしそれは、「一粒の麦が地に落ちて死ねば」と、明らかに主イエスご自身の死に結び付けられています。その時、「栄光」とは、一体いかなることなのでしょうか。

「栄光」。それは、「聖なる神の輝き」です。ただし、主イエスが話しておられたユダヤの言葉では、「栄光」と訳される言葉は、元来は「きわめて重いもの、ないし最も重いもの」を指す言葉でした。

その時、主イエスにとって、「最も重いもの」とは一体何でしょうか。十字架の死を目前に控えておられたこの時、主イエスにとって、父なる神からお受けになるべき「栄光」、つまり「最も重いもの」とは、まず何よりも、主ご自身の負われる十字架のことではなかったでしょうか。また、同時にそのことは、父なる神が、わたしたちにとって、実は、いかなる方であるのかをも明らかにしてくれていると思います。

御子キリストにおいて、ご自身の「栄光」を現わそうとされる父なる神。この方は、決してわたしたちから遠く離れて、わたしたちをその罪に従って裁かれるような方ではありません。むしろわたしたちの隣りで、本来わたしたちの負うべき重い十字架を負って、ともに歩んでくださる憐れみの神であられるということです。

これだけでも驚くべきことです。しかも、それだけではありません。主イエスは、今日の福音、主の神殿での最後の説教を、次のように結んでおられます。

「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

父なる神が、御子キリストによって現わされる「栄光」。それは、父なる神のみ旨に従って、わたしたちのために主が負い切ってくださる十字架の「重さ」のことだけではありません。地上に堅く立てられた主の十字架を通して、父なる神が御子とともに天に引き上げてくださる、わたしたち一人ひとりの命の「重さ」でもあるのです。

「神の栄光」。確かにそれは、十字架の死を経て、ご復活の栄光の内に天へと過ぎ越して行かれる、主イエス・キリストの過越の成就です。しかし同時に、それは、主とともに十字架に死に、さらに主の聖霊の注ぎによって聖(きよ)められ、主の復活のいのちに重ね合わされて天に上げられて行く、わたしたち一人ひとりのいのちの過越の成就でもあるのです。

神の「栄光」。父なる神が、御子キリストによって現わされる栄光。その重さ。それは、わたしたちのための主の十字架と復活、そしてご昇天。主の過越の勝利の重さです。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

「地に落ちて死んでくださった一粒の麦」、すなわち主イエス・キリスト。実は、わたしたち一人ひとりこそ、その主の重い「栄光」によって結ばれた尊い実りです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 3/10

四旬節第4主日 ヨハネ3:14-21 

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音は、主イエスと二コデモとの長い対話の後半の部分です。二コデモは、当時のユダヤ教律法学者集団ファリサイ派の一人であったと言われています。しかし、彼は、他の律法学者とは違いました。彼は、主が、父なる神の御許から遣わされた方であること、主において聖霊なる神が活きて働いておられる事実を、もはや疑い得ない事実として確信するに至りました。その結果、止むに已まれぬ思いからでしょう、ある夜、主イエスのもとを独り訪ねて来たと、福音は伝えています。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである。」

福音書の中でも、よく知られた、また多くの人々に愛されて来た主イエスのこのおことばは、実は、主が、二コデモとの会話の結びに仰せになられたおことばです。

ところで、主イエスと二コデモの対話で、注意したいことがあります。主は彼に、「人は、新たに生まれなければならない」との、同じおことばを繰り返しておられることです。ただし、それが聖霊によってであることは、「新たに生まれる」ということを、主ご自身が、「霊から生まれる」と言い換えておられることから明らかです。

「人は、聖霊によって新たに生まれなければならない。」なぜでしょうか。それは、「神の国に入る」ためであると、主イエスは明言しておられます。「神の国に入る。」すなわち、「神の国の主」キリストとともに、永遠のいのちに生まれるためです。

二コデモの属していたファリサイ派の人々は、律法学者、つまり神の律法の教師と言われるほどに、聖書に精通していたと自他ともに認めていました。その上で、彼らは、聖書に伝えられる神のことばを法律のように解釈・適用して、他人を裁くことについては習熟していた人々でした。

しかし彼らが理解していないこと、むしろ彼らが未だ体験していないことがありました。それは、神のみことばにおいて神ご自身、聖霊が働かれると言う事実です。

神のみことばにおいて、聖霊なる神ご自身が働かれる。むしろ、神のみことばは、たんに神の教えではなく、実に聖霊において働かれる神ご自身である、と言う真理です。それこそが、人なられた神のみことば主イエス・キリストに他なりません。

二コデモも、かつては律法学者として、聖書の神のことばは、律法ないし法律として人に与えられ、彼ら律法学者たちによって解釈され、人々の生活を正し、罪を裁くために適用されるべきものと考えていました。しかし、本当にそうなのでしょうか。

今や二コデモは、神のみことばである主イエスのみ前に、以前の彼の理解とはまったく別の真実をはっきりと知らされたのです。それは、聖霊において働く神のみことばとは、「主イエス・キリスト」として、世に与えられた神ご自身であられるという真実です。彼はその晩、この神のみことば・主イエスご自身に、お会いしたのです。

これが、福音の伝える二コデモと「神の国の主」キリストとの出会いです。そしてそれは、二コデモにとって、主イエスによって「神の国に入」らせていただくという体験です。そして、それこそ彼にとって、主の仰せになられた「聖霊によって新たに生まれる」と言う、彼自身もはや疑い得ない体験・身の事実であったはずです。

聖霊によって二コデモをまったく新しく「上から」産んでくださった神のみことば・主イエス。ただ、その方は、いかなる方なのか。主ご自身が、彼に仰せでした。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

神が罪なるわたしたちを罪に従って裁くのではなく、罪を赦して救ってくださるために、御子キリストはわたしたちの罪を一身に負い、十字架上でわたしたちに代って裁きを受けてくださいました。しかも主イエスは、わたしたちの罪の贖いとして十字架に「上げられた」ばかりではありません。主は、わたしたちにご自身の活けるいのち「聖霊」をくださるために復活してくださいました。聖霊によってわたしたちを「新たに神の国に生まれ」させてくださるために。

二コデモにお会いくださった同じ主イエスが、礼拝でわたしたちにお会いくださいます。それは、二コデモ同様、わたしたちも「神の国に入り、聖霊によって新たに生まれ、主イエスとともなる永遠のいのちに生きる者としてくださる」ためです。

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

司祭の言葉 3/3

四旬節第3主日 ヨハネ2:13-25  

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「イエスの言われる神殿とは、ご自分のからだのことだったのである。」

わたしたちは、主なる神への感謝と賛美とともに、過ぎた一週間のすべて、疲れた身体、乾いた魂をも携えて、主の神殿であるカトリック教会のミサに集まります。ミサで、わたしたちの神なる主イエス・キリストにお会いできるからです。

ご復活の主イエス・キリストは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」(マタイ28:20)と仰ってくださいました。わたしたちには主のこのお約束だけが頼りです。主だけが、困難の多い日々の生活を生きるわたしたちの唯一の望みだからです。

そのようなわたしたちの思いを、主イエスは誰よりも良くご存知です。そして、主ご自身、わたしたちとの出会いを心から願ってくださっておられると信じます。その主にお会いさせていただくために、わたしたちは教会に集います。とくに教会のミサに。みことばとご聖体の内に、主イエスご自身がわたしたちとともにおられるからです。しかし、旧約の時代、人々はエルサレムの神殿に主なる神を訪いました。

今日の福音は、そのエルサレム神殿でのことです。主イエスの「宮清め」と呼ばれてきた出来事です。これは、ヨハネによる福音によれば、主の宣教のご生涯の比較的早い時期のこととして伝えられています。が、この事件の背景には、当時のエルサレム神殿の非常に深刻な問題がありました。

神を呻き求める人々、神に依り頼む他に生きる術も望みもない多くの人々が、神に見(まみ)えることを一途に願って訪れるエルサレム神殿。しかしその神殿が人の罪によって汚され、もはや神を礼拝するに相応しい場では無くなっていました。

神殿が罪に汚され、救いを求める人々から神との出会いの「場」が奪われることによって、多くの人々が救いを得られないままに空しく命を終えて行かざるを得ない。このことに、主イエスは強く心を痛め、激しく憤っておられるのです。

同時に、そしてだからこそ、この時主イエスは、わたしたちの救いのために父なる神から託された神の御子としてのご自身の使命を、わたしたちに明確にされます。

それは、人の手によるエルサレム神殿に替えて、主イエスご自身を霊と真理による新しい神殿として神と人とにお捧げになられる。そのようにして、神と人との聖(きよ)い出会いの「場」を、ご自身において再びかつ永遠に保証してくださることです。

加えて、御子である主イエスご自身を、その神殿で捧げられるべき罪人の贖いの犠牲として父なる神にお捧げくださることです。罪に汚された地上のエルサレム神殿の現状を前に、それ以外にわたしたちの救い、神と人との和解が回復される道はないからです。事実、福音はこのことを、後に主の十字架と復活として語ります。

ただしその前に、福音は、当時エルサレムの神殿から疎外されていた多くの人々と主イエスとの出会いを伝えます。例えば、サマリアの女性。酷暑の中の水汲みのように報われることのない、いつ終わるともしれない虚しい日々。誰にも目を留められず、また誰にも心を開く事も出来ず、やり場もなく癒される術もない肉体の疲れと魂の渇き。彼女は、心底から魂を癒してくれる命の水を求めて、真の神を求めます。エルサレム神殿は彼女には縁遠い。しかし、神にお会いしたい。神による他に救いはないからです。彼女は自ら担うに重すぎる彼女自身を神に託したいのです。

わたしたちは、このサマリアの女性の魂の渇きが、痛いほどわかります。なぜなら、彼女はわたしたち自身だからです。(ヨハネ4:1-26)

この女性に、主イエスは実にご自身の方からお会いくださいました。この女性のために、主ご自身が神殿、さらに神ご自身となってくださるために。さらに、神なる主ご自身がこの女性の捧げるべき神への贖いの犠牲となってくださるために。しかしこの女性の主との出会い物語は、実はわたしたち自身の物語ではないでしょうか。

もう、他のどこをも、他の誰をも尋ね廻らなくてよいのです。乾き切った魂の癒しを求めて井戸から井戸へと尋ねることは、もう終わりです。なぜなら、今ここに神なる主イエスがおられる。わたしたちのためにご自身のからだを神殿とし、さらに贖罪の犠牲としてくださる主ご自身がおられるからです。みことばとご聖体の内に。

「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧。あなたをおいてだれのところに行きましょう。」(ヨハネ6:68,69)

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 2/25

四旬節第2主日 マルコ9:2-10

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

福音にお聞きしながら、主イエスの宣教の歩みに伴わせていただいています。それは、最後にはエルサレムに向かう旅です。その旅も、ちょうど道半ばです。

ところで、互いに親しさを増してゆく中で、つい相手の価値に気づかなくなってしまうことがないとは限りません。主イエスの弟子たちも、主と親しく生活をともにさせていただく中で、それが当然になり、時に主に対する勝手な思い込みや自分本位の期待や願いに、本来の主の姿を見失うようなことがあったかもしれません。

そのような弟子たちに父なる神は、主イエスが彼らとともに最後にエルサレムに登られる先立ち、主の弟子ペトロたちを、主ご自身とともに高い山に登らせ、そこで、主イエスが、実はいかなる方であるのかを、はっきりとお示しくださいました。

「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

主イエスは、たんに優れた人生の教師、あるいはユダヤの民の偉大なる指導者などではありません。「父なる神の愛する子」である、ということです。

実は、さらにその時、ペトロたちの前に、旧約の預言者を代表するエリアが、同じく旧約の出エジプトの指導者モーセとともに現れて、主イエスご自身と語り合っているのを、ペトロたちは見ていた、とも福音は伝えていました。

主イエスは、モーセとエリアとともに、何を語り合っておられたのでしょうか。

今日のマルコによる福音は、そのことを具体的には伝えていません。しかし感謝すべきことにルカによる福音は、それは「主イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」であったと、はっきりと伝えてくれています(ルカ9:31)。

「主イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期」。

これを聞いて、わたしたちは直ちにエルサレムでの主イエスの「最後」つまりご受難と十字架の死を思います。確かに、主はエルサレムで十字架の死を遂げられます。しかし、ここで「最後」ではなく、特に「最期」(「最期」の「期」は、「一期一会」の「期」)と訳されている言葉は、聖書の元の言葉では「過越」(エクソドス)と言う言葉です。

つまり、主イエスが、モーセとエリアとともに語りあっておられたのは、主の「過越」について、であったということです。

「主イエスの過越」、それは、エルサレム郊外のゴルゴタの丘での主ご自身の十字架上での犠牲奉献の死を含みます。しかし、それで終わりません。「主の過越」、それは、主が、エルサレムでのご受難と十字架の死を経て、ご復活の栄光へと「過ぎ越し」て行かれた、「主の聖なる過越の三日間」の出来事全体です。

「主の過越の三日間の全体を以て、主イエスはわたしたちの救いを成就してくださるのです。ただしその時、それはいったいいかなることなのでしょうか。

第一に、主イエスのご受難と十字架の犠牲奉献の死による、わたしたちの罪の贖いです。主はわたしたちの罪とその報いの一切を、ご自身の十字架として、わたしたちのために負い抜いてくださいます。それしか、わたしたちが罪を赦される道はないからです。しかし、主のわたしたちへの愛は、罪の赦しの十字架上の死によっても終わりません。

主イエスは、ご受難と十字架の死の後、わたしたちのために復活してくださいます。わたしたちにご自身のいのちの息吹である聖霊をくださるためです。それによって、汚れた霊、つまり罪によって神から離れていたわたしたちを聖霊によって聖(きよ)め、神への聖(きよ)い捧げものとして、再び神のみ許に返してくださるためです。

わたしたちは、主イエスの十字架によって罪赦され、さらにご復活の主から賜る聖霊によって聖い捧げものとされ、そのようにして主ご自身とともにわたしたちも神に献げられて、神のみ許に帰らせていただくのです。ここに救いが成就します。

「主イエスの過越」、それは、主の十字架と復活を通して神がご自身のいのちを注ぎ尽くして成就してくださる、わたしたちへの神の愛のみ業の全体です。

「主イエスの過越」の成就は、主ご自身の過越に加えて、主の愛によるわたしたち自身の死から命へ、罪のこの世から聖なる神の国への過越の成就でもあるのです。

父と子と聖霊のみ名によって。   アーメン。

司祭の言葉 2/18

四旬節第1主日 マルコ1:12-15

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先の水曜日、「灰の水曜日」から四旬節に入りました。当日のミサで、皆さんの頭ないし額に灰を授けさせていただきました。聖書では、灰を頭に被ることは、神のみ前での懺悔と回心を表します。この心で、四旬節の期間を過したいと願います。

四旬節の40と言う数字は、主イエスが、荒れ野で「40日間、サタンから誘惑を受けられた」ことに因みます。「悪魔」とも訳されるへブル語“サタン”は、「(神からわたしたちを)引き離す者」ないし「(わたしたちを神に)背かせる者」を意味します。

ところで、今日のマルコによる福音は不思議なことを伝えていました。がイエスを荒れ野に送り出した」、というのです。“霊”とは「神の霊」つまり「聖霊」です。つまり、主イエスを荒野の試練に導き出したのは、「サタン」ではなく、「神の霊」であったというのです。

つまり「神の霊」とは、主イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた時、天の父なる神から与えられたのことです。「(イエスは)水の中から上がるとすぐ、天が裂けてが鳩のように御自分の上に降って来るのを、ご覧になった」と今日の福音の直前にマルコが伝えている通りです。そのつまり「父なる神の霊」・「聖霊」が、御子キリストを荒れ野の試練に導き出したというのです。

なぜなのでしょうか。しかし、そうであれば、荒野で主イエスの受けられた試練は神のみ旨によるものであり、それを通して父なる神が主において成し遂げてくださる、わたしたちの救いのための大切なご計画があるということに違いありません。

ところで、今日の福音が語る主イエスの受けられた「サタンからの誘惑」は、実は、わたしたち自身が繰り返し「サタン」から受けている「誘惑」なのではないでしょうか。わたしたちは、大切な命や知恵や力を含めて、神と人とに仕えて生きるために過分な恵みを神から受けています。しかし、サタンはわたしたちに神から受けた大きな恵みを当然のように思わせ、むしろ不満をさえ抱かせ、さらに神から与えられた知恵や力の恵みを用いて「神を試し、神に背き、神から離れる」ようにと誘います。

日本語にも「受けた恩に仇(あだ)で報いる」ということわざがあります。もちろん、そのように振舞う者は人ではありません。同様に、神から受けた恵みによって神に背くのであれば、もはや人とは言えません。従って「サタンからの誘惑」とは、もしそれに屈すれば人が人でなくなってしまうような「罪への誘惑」ではないでしょうか。

そのような、実際わたしたちが受けている「サタンからの誘惑」の一切を、実は、主イエスが、わたしたちに先んじて、かつわたしたちに代って味わい尽くしてくださった。その上で、「サタンの誘惑」の一切に、主がわたしたちのために、前もって勝利を収めてくださった。これが、今日の福音が伝える、「神の霊」・「聖霊」に導かれての主イエスの荒れ野の40日の試練だったのではないでしょうか。

ところで主イエスは、荒野の40日の試練の直後から、神の国の福音の宣教をお始めになります。その中で、主は、「汚れた霊」に取り憑かれた多くの人々から「汚れた霊を追い出」して行かれます。「汚れた霊」・「悪霊」つまり「サタン」を追い出すことができるのは、「聖い霊」すなわち「聖霊」だけです。

そうであれば、主イエスの福音宣教とは、主がご自身の内に働かれる「神の霊」・「聖霊」によって、わたしたちから「汚れた霊」・「悪霊」つまり「サタン」を追い出し、わたしたちを、神から離れず、神と堅く結びつけてくださる救いのみ業です。

このように、主イエスは、荒野での試練において、「聖い霊」・「聖霊」によってわたしたちのために「汚れた霊」・「サタン」に対して前もって勝利を収めてくださいました。「サタン」に対する「聖霊」における主イエスの勝利。それが今日の福音です。

主イエスは、荒野での40日の試練の後、「汚れた霊」・「サタン」に取り憑かれたわたしたち一人ひとりから「聖霊」によって「汚れた霊を追い出し」、罪深いわたしたちのために、「汚れた霊」・「サタン」に対して、常に、そして永遠に勝利を収め続けてくださいます。それが、わたしたちに対する主イエスの福音宣教です。

ただし、主イエスの「聖霊」による「汚れた霊」に対する最後の勝利は、主ご自身の尊い自己犠牲である十字架とご復活、つまり「主の過越」を通してのみ勝ち取られ、わたしたちに成就するものであることを、わたしたちは決して忘れてはなりません。

四旬節第1主日の福音、荒野での「サタン」の誘惑に対する主イエスの勝利は、わたしたちのための主の十字架における最後の勝利を、明確に指し示しています。

父と子と聖霊の聖名によって。 アーメン。