司祭の言葉 8/28

年間第22主日(ルカ14の7-14)

 今日のたとえで、イエス様は私達に対するいましめを伝えます。神は私達の父であり、私達はみんなそこへ招かれています。でもその招きに応えるためには、私達はいつも謙虚でなければならないという事です。

 名もない人が婚宴に早めに到着、上座についたとします。ところがもっと身分の高い人が到着すると上座を占めていたその人はその席を降りるようにいわれ、非常に気の毒な状態が生じます。他方、ある人がすすんで末座についた場合には、あとでもっと上座をすすめられ、その謙遜のおかげでますます尊敬されるようになります。

 わざとらしいへりくだった姿勢はかえっていやらしいですが、謙遜は、そのようにふるまっている人が至極当然の事として行っている時には、ほんとうに美しいものです。そして、この謙遜は偉大な人々にはつねに美徳の一つでした。

 この埼玉県児玉郡保木野村付近で生まれた江戸中期の有名な国学者がいます。塙保己一です。不幸にも7才で盲目となり、12才で母と死別した悲劇の人でした。
15歳で江戸に出て、3年間盲人としての修業を積み、按摩、鍼、音曲などの修業をしましたが不器用で、いずれも上達しませんでした。しかし、弟子入りした雨富検校のもとで学才が認められ、国文学を学んだところ抜群の努力と異常な記憶力で国学丈でなく中国文学にも通じるようになります。勿論、人によんでもらって聞くのですが、25.6のころは古今の有名な本の大部分を暗記。33歳の時、それまでの暗記した書物を全部出版しようとの大願をおこします。=群書類従 正編530巻、続編1000巻

 その保己一について、次のような逸話が残っています。彼の伝記を書いた花井泰子氏の文章の抜粋です。

 麹町の平河天神は西念寺横町から半里あまり。ある朝激しい雨の中を保木野一は、お参りを済ませて帰ろうとしたときに下駄の鼻緒を切らしてしまった。境内に前川という版木屋のあることを思い出した保木野一は切れた下駄をぶら下げて店先に立った。「鼻緒が切れたので、すげてくださいませんか」保木野一が奥に向かって声をかけたとたんに鋭い声がとんできた。「なに?下駄の緒をすげろだと?生意気言うんじゃねよ、按摩のくせによ。ほれ、さしをくれてやるから、さっさと行っとくれ!」「さし?」「なんだ、さしでは気に入らねえというのかよ。さし一本でもありがてえと思え!」
小僧の投げつけたさしが、保木野一の顔に当たって落ちた。さしというのは、銅銭の穴に通す縄である。下駄の緒にしたら弱くてすぐに切れてしまうのだ。保木野一はそれを拾い、丁寧にお辞儀をして歩き出した。小僧たちの嘲り笑う声が背中に浴びせられた。怒ってはならない。腹を立ててはならない。保木野一は激しい雨の中を心経を唱えながら歩き続けた。小僧の浴びせた「按摩のくせに」という言葉は保木野一の心に深く残り、修行への道を一層はげませるものとなった。

 それから10年ほどののち、「群書類従」が完成、出版するにあたり保己一は幕府に、この「前川」を版元に推薦しました。何もしらぬ主人が保己一に推挙の礼をいうと、保己一は「私の今日あるのはあの時うけた軽蔑に発奮したのが動機であるから私の方がお礼を申しのべたい」と見えぬ目に深い喜びを浮かべて語ったといいます。

 怨みに報ゆるに怨みをもってしたら、永久に怨みはなくなりません。しかし保己一のそのすばらしい謙虚な心は怨みをさえ感謝にかえたのです。

 皆さんがよくご存じのヨゼフ物語の中にも、その謙虚さが語られています。
ひとり父に溺愛されたヨゼフは兄弟の妬みを買い、エジプトに奴隷として売られましたが、そこで王の夢を解き、宰相となりました。王の夢で示された7年間の大豊作に続く7年間の大飢饉を乗り切り、家族をエジプトに呼び寄せました。そしてヤコブが死んだのち、自分たちが報復を受け奴隷とされるのではないかと恐れる兄弟たちに、「あなた方は私に悪をたくらみましたが、神はそれを善に替え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」といい、兄たちを、安心するようにと慰めました。

 私達はそれでは、どうしたら謙虚な心を失わないでいる事ができるのでしょうか。
 事実を認める事によってです。保己一はその大願成就の一因に、軽蔑されたことによる己の発奮があったことをすなおにみとめました。そして、そのために軽蔑した人に逆に感謝の心をもったのです。
 ヨゼフもまた、自分のうちに働いた神の摂理を認め、兄たちを慰めました。

 今日のいましめをききながら私達にも、謙虚な心が与えられるように祈りましょう。

司祭の言葉 2022 1月〜5月

2022/5/29 主の昇天
2022/5/22 復活節第6主日C年
2022/5/15 復活節第5主日C年
2022/5/8 復活節第4主日(ヨハネ10章27-30節)
2022/5/1 復活節第3主日 (ヨハネ21・1-19)
2022/4/24 復活節第2主日
2022/4/17 主の復活
2022/4/10 受難の主日 (ルカ23章1-49節)
2022/4/3 四旬節第5主日
2022/3/27 四旬節第4主日
2022/3/20 四旬節第3主日 (ルカ13章1‐9節)
2022/3/13 四旬節第2主日C年(ルカ9:28~36)
2022/3/6 四旬節第1主日 (ルカ4章1-13節)
2022/2/27 年間第8主日C年
2022/2/20 年間第7主日C年
2022/2/13 年間第6主日
2022/2/6 年間第5主日C年
2022/1/30 年間第4主日C年
2022/1/23 年間第3主日C年(ルカ1章1-4節、4章14-21節)
2022/1/9 主の洗礼
2022/1/2 主の公現

司祭の言葉 8/21

年間21主日C年

 新型コロナウイルス感染予防の規制緩和で、三年ぶりに移動の規制がなくなり、今年のお盆帰省は混雑したようです。特に高速道路は、蜜を避けて車にする人が多く、関越自動車道や東北自動車道もかなり込み合いました。 料金所も、ETCを使いますと、チケットを出さなくても車はそのまま通れるようになっていますが、通過するのは一台ずつであることには変わりがありません。

 イエスは神の国に入るのに「狭い戸口から入るように」とおっしゃいます。

 神の国の入り口は狭い。しかも、私たちが太ってしまうためにその戸口はさらに狭くなります。 
 ある時、現在熊谷教会にいらっしゃる藤田薫神父様と夕食の時、片足でかがみ、またそのまま立てるか、何回出来るかという話になったことがあります。藤田神父様はいつでも5回は出来る。足には自信があるという。わたしもやってみようと言ってしゃがんでみた。ところがしゃがめないのです。お腹の厚みがじゃまになって・・・

 太るのは体だけではない・見栄、傲慢、財産、えとせとら。
 司祭志願者は、神学校に入るときカバン一つですが、司祭になった時には段ボール箱20個ほどに。そして教会を移動するときには、トラックが必要になります。
 もちろん置いて行かれても困りますが。人によって必要が違いますから。

 狭い戸口から入るように努めなさい。

 この狭い戸口とは、何を意味するのでしょうか。お屋敷の正門わきのくぐり戸、お城の大手門わきのくぐり戸、あるいは茶室のにじり口を連想します。一人ずつ、個別に招き入れられる入り口です。

 アブラハムの子孫であるユダヤ人は、自分たちは当然のこととして、神の国に入れると思っていました。でも神の国は団体客としての招きではないのです。

同じことはキリスト者にも言えます。キリスト者だからと言って救いが確実なのではありません。団体客専用の入り口はないのです。

 「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」という言葉は、非常に多くの人がそこに受け入れられる感じであると思います。
 でも「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」という言葉は、「先だと思っている人が神の国では後になり、後だと思っていた人が、神の選びでは先になる」ということです。アブラハムの子孫である自分たちに優先権があると思っていた人たちは、驚いたことだろうと思います。

 マタイ福音書には「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」7の21との言葉があります。
 そして25章には次のような言葉があるのです。
 「それから王は左側にいる人たちにも言う『呪われた者ども、私から離れ去り、悪魔とその手下たちのために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いていたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに訪ねてくれなかったからだ。』」25の41-43
 「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」25の45

 記されている神の裁き・判断の基準は明白であると思います。

 ウイリアムバークレーが紹介しているお話があります。
 昔あるところに、贅沢の限りを尽くし、あらゆる尊敬を受けていた一人の女がいた。その女が死んで天国につくと、彼女をその割り当ての家に案内するために、一人の天使が送られた。二人は素晴らしい邸宅をいくつも通り越していった。その女は、それを通り過ごすたびに、これが私に与えられた邸宅に違いない、と考えた。天国の大通りを過ぎて郊外に近い場末に来ると、そこはずっとずっと小さな家が点点としていた。とうとう一番端まで来ると、そこに、山小屋よりもまだ小さい一軒の家があった。「あれがあなたの家です」とガイドの天使が言った。「なんですって、あれがですか」と女は思わず叫んだ。「あんな家には住めませんよ」。「お気の毒ですが」と天使が言った。「でも、あなたが送ってきたもので建てられるのは、これでせいいっぱいなんです」。

 狭き門から入るとは、地上にではなく天に宝を積むこと、主のみ心を行うこと・・・ではないでしょうか。

司祭の言葉 8/14

年間第20主日C年

 「私が来たのは地上に火を投ずるためである」この言葉に皆さんは何を連想しますか?
 先週のみ言葉は「あなた方も用意していなさい」でした。直接的にはエルサレム滅亡の予言に絡むものでした。今日の福音はそのあとに続くものです。神殿は焼かれ崩壊しましたので、戦火との見方も考えられます。

 77年前、人類史上初めて人類の上に原子爆弾が投下されました。一瞬にして中心部は4000度の高熱となり、爆心地から1.2キロ以内で熱線の直射を受けた人は皮膚が焼き尽くされ、3.5キロ離れた人も素肌の露出部分はやけどを負いました。
 1961年10月30日北極海の孤島で行われたロシアのツアーリボンバの映像の機密が解除されました。その公開された爆発の映像は広島長崎の1500倍というものでした。
 2021年1月時点、保有される核弾頭は13,080発 90%を米露が保有 ストックホルム平和研究所は使用されるリスクは過去最大と発表しています。
 今核戦争が起これば地球全体が火の海となり、そのあとに来るのは小氷河期だと言われています。その時果たして地球上の生命は、生き残ることが出来るのでしょうか。
 明日まで平和旬間です。今日のミサの中で平和のために祈りましょう。

 しかしながら、イエス様の「その火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることか」というこの言葉から見ると、この火は、別な火に思えます。

 旧約聖書では 火は神がそこにおられることを示すしるしでした。 モーセの召し出しでは、神は燃える芝の中から語られていますし、シナイ山では、神は燃える火の中からモーセに十戒を授けています。

 ルカ3章16節には、洗礼者ヨハネのこういう言葉がありました。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。

 「火」は、人に罪のゆるしをもたらし、神との結びつきを確かにする聖霊の火、信仰の火でもあります。

 今日のみ言葉の前にイエス様は空の鳥、野の花の話をしておられます。そして「恐れるな、ただ神の国を求めなさい」と言っておられます。
 だとしたら、イエス様が燃えていたらと願った「火」は、神の国に対する熱い思いであると考えることが出来ます。
 そのためには決断も迫られます。何にもまして神を求める・・という決断です。

 紀元64年に「ローマの大火」が起こりました。小説クオヴァディスでは、ネロ皇帝が放火したとのうわさが広がり、これを打ち消すためにキリスト者の放火という噂を立て、迫害が始まったとされています。ルカがこの福音を書いているとき、すでにキリスト者への迫害は始まっていましたので、ルカ自身は終末の時が近づいていると感じていたことでしょう。ルカの教会の人々は、イエス様によって始まっている神の国を受け入れるか、それを拒否するか、という決断を迫られていました。
 そこでは表面的な平穏さを保つだけではすまないのです。そしてそれは現実となりました。ローマ人がキリスト教を憎んだ理由は、そこにあったといいます。キリスト教は家庭を二つに引き裂いたからです。キリストとこれまでの友人知己とどちらを多く愛するか。イエス様の到来は、わたしたちの中にも分裂や対立の厳しい現実を引き起こすかもしれません。
 用心していましょう。そして備えましょう。

司祭の言葉 8/7

年間第19主日 (ルカ12章32-48節)

 今日のイエス様のメッセージは「あなたがたも用意していなさい」という言葉です。イエス様は、当時話題になっていた事件を取り上げ、「あなた方は、最近強盗に這入られたあの家の主人のように、驚かされないように注意しなさい」と、ご自身が予知なさった大惨事の警告をなさったのだ・・・と神学者は言います。

 イエス様の時代、ユダヤ人はローマの圧政に苦しみながらも、のほほんとした毎日を送っていました。そのユダヤ人を前にしてイエス様は福音を述べ伝えながら、強い言葉で、迫り来る苦難の日に備えるように、たとえをもって語りかけたのです。 今日の福音はその語りかけの場面です。

 西暦66年、ユダヤ人はローマ帝国に反乱を起こしました。(ユダヤ戦争)そして、4年後の70年、ローマ軍はエルサレムの大部分と神殿を占領し、破壊しました。この時、多くのユダヤ人が殺され、また奴隷となりましたが、予知なさった大惨事とは、この「エルサレムの滅亡と神殿の崩壊」と言う出来事です。

 ルカによる福音書では21章で語られるのですが、マタイによる福音書ではでは泥棒の例えの前に、エルサレム滅亡の予言が語られています。

 イエス様はその危機的状況に、人々の目を開かせようとします。盗賊のように、予期せぬ洪水のように、天変地異のように、過酷な恐ろしいことが起きようとしている。準備しなさい、もうすぐ手遅れになる・・・と。

 ルカは伝えられてきたイエスの語録集(Q資料)を紐解きながら、そこに自分の体験を重ね合わせて福音を編集しています。 ルカがペンをとったとき、エルサレムの滅亡は現実となっていましたが、まだキリストの再臨の時は来ていませんでした。でも近いだろうと思われていました。そこで、イエス様のお話を現実の共同体に当てはめて説明しました。
 ペトロの「この話はみんなのためですか、それとも私たちのためですか」と言う質問に、イエス様が、「忠実で賢い管理人のたとえ」を語ったところが、「あなた方に対して語ったのだ」というイエス様の答えになっています。

 イエス様が21章で語る「終末の徴」「時のしるし」を私達はどこに見ればよいのでしょうか。
 新型コロナウイルスのパンデミック、ロシアによるウクライナ侵攻、WHOが警告を発しているサル痘、地球温暖化、異常気象、成層圏のオゾン層の破壊、極地の氷の減少、過剰な開墾や伐採、放牧による砂漠化など、「時のしるし」は沢山あります。

 私たちはあまりにもぬるま湯のような今の現状になれてしまっています。

 イエス様の今日の言葉は予言です。エルサレムの神殿は崩壊しました。ルカはそのことを知っていました。でも、世の終わりではありませんでした。
 しかし21世紀の今こそ、しっかりと受け止めなければなりません。
 このホミリアを書きながら、慄いています。このままでは間もなく地球の終わりが来るのではないかと。今日、明日、それが来てもおかしくない所に私たちは立っています。
 世界の人口の8人に1人が飢えているのに、食用に生産された食料の3分の1が捨てられています。日本のテレビでは食レポ番組や食べ放題、大食いの番組があふれています。そして賞味期限の過ぎた食べ物の大量廃棄。フードロス。
 そしてこのフードロスが与える影響の一つとして、地球環境への負荷が挙げられています。世界の温室効果ガスの8~10%がフードロスによって排出されているといわれています。どこか狂っているとしか言い様がありません。

 終末時計・・という言葉を聞いたことがあると思いますが、どんな時計ですか?

 アメリカ合衆国の雑誌「原子力科学者会報」の表紙絵として使われている時計で、時計の45分から正時までの部分を切り出した絵で表されています。
 核戦争などによる人類の絶滅を『午前0時』になぞらえ、その終末までの時間を「0時まであと何分」という形で象徴的に示す時計です。

 75年前の1947年に発表され残り7分から始まりましたが、冷戦終結後は17分前まで戻されました。しかしここ3年は100秒前のままです。2022年現在は1月21日に発表され、依然として「100秒前」となっています。終末の時は迫っているという認識です。

 昨日から日本の教会は、平和のために力を尽くす10日間に入りました。教区としての特別な取り組みは聞いていませんが、私たちは今日の福音を通して、主ご自身から直接、すみやかに、平和について考え、それを行動に移すことを求められていると思います。