司祭の言葉 5/14

説教:復活節第6主日(A年・2023年5月14日) ヨハネ14:15-21

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻ってくる。」

主イエスは最後の晩餐で、ご自身の十字架の死を目前に、この不思議なことばを弟子たちにお語りになりました。しかし、これはいかなることなのでしょうか。十字架の死の後、主はいかにしてわたしたちのところに戻って来られるのでしょうか。

実は、主イエスはこのおことばの前に、すでに次のように仰せでした。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」

主イエスは十字架の死の後、わたしたちを「みなしご」すなわち十字架の下に一人蹲ったままにはされません。その保証に、「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と仰せでした。「弁護者」ご自身であるご復活のキリストの「別の弁護者」とは、「真理の霊」つまり「聖霊」です。

ご復活のキリストご自身および「聖霊」は、新約のギリシャ語でともに「弁護者」と呼ばれます。ここで「弁護」とは、いかなることなのか。「弁護」とは、(助けを要する人の)傍らに来て助ける」ことを意味する言葉です。旧約のユダヤの言葉および新約ギリシャ語での「復活」すなわち「助け起こす」「再び生かす」と同じ内容です。

そうであれば、「別の弁護者」と呼ばれる「聖霊」は、実は「弁護者」ご自身であられるご復活のキリストの目に見えない、しかし確実にわたしたちを助けてくださるお姿に他なりません。実際、「別の弁護者である聖霊」は、主ご自身によって「真理の霊」とされますが、ここで「真理」が主ご自身であることは、すでに先週の福音で、主が「わたしは道であり、真理であり、いのちである」と仰っておられた通りです。

したがって主イエスがわたしたちに「真理の霊」をくださるとは、「真理」である主ご自身の「霊」つまりご自身の「いのち」をくださるということです。つまり、十字架に死んだ主ご自身を、わたしたちの追憶の対象としてではなく、「わたしたちの傍らに来て助け起こし、再び生かしてくださる真理、つまりご自身の霊・聖霊」として、わたしたちにお与えくださると言うことです。今日の福音で、主は次のようにも仰せでした。「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見るわたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」

「真理の霊」は、「生けるキリストご自身の霊」、すなわち「キリストのいのち」です。それは同時に「わたしたちを生かす神の霊」です。傷つき、疲れ切った者、さらには命を失った者に、いのちを与えるご復活のキリストご自身の霊です。「わたしが生きているので、あなたがたも生きる」(ヨハネ14:19)と主は仰せです。事実、ヨハネによる福音は次のように伝えています。すなわち十字架の死に打ち勝って復活されたキリストは弟子たちに「息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』。」(ヨハネ20:22)「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」と仰せの主イエスは、十字架の後「あなたがたのところに戻ってくる」とお約束くださいました。主は、まず「弁護者であるご復活の主」として十字架の下に蹲っているわたしたちを「助け起こして」くださるために戻って来てくださいました。さらに「真理の霊である聖霊」つまり「別の弁護者」として、再び苦難の十字架の前に蹲ってしまうようなわたしたちを「傍らに来て助け起こし、再び生かして」くださるために戻って来てくださいます。

ただし「弁護者」であるご復活のキリスト、さらに「別の弁護者」である「聖霊」は、いかにしてわたしたちの許に戻って来てくださるのでしょうか。わたしたちはご復活の主と、「聖霊」・わたしたちを死んだ者ではなく生きた者としてくださる主の「いのち」を、いかにして、またいつどこでお迎えすることができるのでしょうか。

それは、待ち望まれるごミサにおいてです。カトリック教会は、古来、ご復活のキリスト、さらには「聖霊」を黙想させていただく時には、必ず、「エウカリスチア」つまり「ごミサ」、とりわけ「ご聖体(聖餐)」を黙想してきました。なぜなのでしょうか。実は、キリスト、とりわけ聖霊において生き、わたしたちを生かしてくださるご復活の主は、決して目に見えない不思議な存在などではありません。この方は、十字架の死と復活を経て、わたしたちのために「エウカリスチア(聖餐)」になり、わたしたちの内にまで来てわたしたちを生かしてくださる、生ける主なる神・聖霊なる神です。

最後の晩餐での主イエスのお約束通り、ご復活の主、さらに「聖霊」としてわたしたちを助け起こし、再び生かしてくださる主。この方を、ごミサにおいてお迎えする、さらに拝領する。これが、わたしたちに与えられる父なる神からの最大の祝福です。

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

司祭の言葉 5/7

説教:復活節第5主日(A年・2023年5月7日)ヨハネ14:1-12

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「わたしは道である」と、主イエスは仰せです。主は、『論語』を残した中国の儒教の孔子のように、「道を教える」とは仰いません。また、仏教の開祖であるインドの釈迦牟尼仏陀のように、「道を示す」とも仰いません。主は、「わたしが道である」、と仰います。しかし、これは不思議なことばです。

聖地を訪ねられた方はご存じでしょう。エルサレムの町全体を囲む城壁の外は、見渡す限り砂漠に近い荒野です。そこには道などありません。オアシスの緑と次のオアシスの緑の間は、ただ茫漠たる土色の荒野です。その荒野で羊の世話をする羊飼いにとって、荒野に道などありません。

そこでは羊飼い自身が、羊のために、文字通り「道」である他ありません。羊には、荒野に緑のオアシスを探す知恵も力もありません。羊たちは、彼らの羊飼いを「道」として、一つの緑のオアシスから次の緑のオアシスへと命を繋ぐほか生き延びるすべはありません。羊飼いを失えば、羊たちには、死が確実に待ちかまえています。

主イエスは、「わたしは道である」と仰せです。荒野の羊は、道を教えられても、あるいは道を示されても、どうしようもないのです。羊飼いを「道」とするほかに、羊の生きる術はないのです。実は、わたしたちも荒野の羊と同じではないでしょうか。

人生という荒野の中で、緑のオアシスからオアシスへの道は、わたしたちには見えません。たとえ道があると思っても、その道がわたしたちをどこに導くか、実際には誰にも解りません。また、誰かに道があると言われ、その道の方角を示されたとしても、荒野には、次のオアシスまでわたしたちを確実に導いてくれるような目印はありません。人生という荒野に立ちすくむ時、わたしたちには道はありません。羊飼いである主イエスご自身が、わたしたちにとって「道」となってくださる他ないのです。

「わたしは道である」と言われる主イエスは、続けて、「わたしは命である」と仰せです。その通りです。わたしたちは、主に示された道を自ら辿って命に至るのではありません。荒野の羊たちにとって、羊飼いを離れることが死を意味するように、わたしたちも、「道」である主を離れて「命」はありません。「主イエスがともにいてくださること」、それが、そしてそれだけが、わたしたちの「命」です。

主イエスという唯一の「道」にわたしたちの「命」が掛かっています。「道」である主にわたしたちの一切を委ね切る。それしかわたしたちに生きる術はありません。

主イエスはこのことばを、十二人の弟子たちとの最後の晩餐の席でお語りになりました。主は、弟子たちとの過ぎ越しの晩餐と、続く十字架と復活において、ご自分が成し遂げられることをすでにご存知でした。弟子たちにとって、いのちである父なる神に至る道がご自身以外にないことを、主はご存知でした。

最後の晩餐の時には、弟子たちは主イエスのおことばを十分に理解することはできなかったと思います。しかし、主は、そのような弟子たちに、最期の晩餐に続く十字架において、ご自身の御からだとご自分の御血、つまりご自身の命を捧げて、彼らのために、父なる神に至る「道」、さらに「真理」となってくださいました。事実、「わたしは道であり、命である」と仰せの主は、加えて「わたしは真理である」と仰せになっておられます。ただし、「真理」とは何でしょうか。

「真理」とは、「閉ざされているものを開く」ことを意味する言葉です。主イエスは、わたしたちに「閉ざされていたものを開かれる」。それが、主が「真理」であるということです。ただし、何がわたしたちに閉ざされていたのでしょうか。それは「天」です。わたしたちの罪ゆえに「天」が閉ざされていたのです。主が、その「閉ざされていた天」を「開いて」くださった時、わたしたちに「真理の霊」である「聖霊」が降ります。神の在ます「天」は、「聖霊のご聖櫃(せいひつ)に他ならないからです。

「真理」には、したがって、「隠されていたものが現れる」と言う意味もあります。わたしたちに天から「聖霊」が与えられる時、罪ゆえにわたしたちに隠されていた真実が現わされます。それは、わたしたちに主なる神から、元来与えられていた「命の真実」です。ご復活のキリストの使徒パウロは語ります。「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロサイ3:3-4)

良い羊飼いである主イエスは、ご自身を「道」としてわたしたちを「神の命」の内に導き入れてくださいます。ご自身の十字架と復活を通し、「真理の霊」によって。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

司祭の言葉 4/30

復活節第4主日(A年・2023年4月30日) ヨハネ10:1-10


父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」

主イエスがわたしたちに約束される「豊かないのち」とは、主ご自身のいのちです。今日の福音で、主は、自分の命に代えて羊を大切に養い守る「羊飼い」と、羊たちを自分のために食い物にする「盗人」とを比べて、ご自身の使命を明らかにされました。今日の福音に続けて、主はご自身について更に次のように明言されます。

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10:11)

思い出すことがあります。主イエスは、宣教のご生涯の始めに、「町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」と、マタイによる福音は伝えていました(マタイ9:35)。しかし、主が行き廻られた町や村で、主が見出されたわたしたちの現実とは、どのようであったといわれていたのでしょうか。マタイによる福音は、続けていました。

「イエスは、群衆が牧者のいない羊の群れのように疲れ果て、倒れているのを見て、憐れに思われた。」(マタイ9:36「フランシスコ会訳」)

『聖書』の言葉では、「復活する」とは、元来、倒れている人を抱き起こす、さらには傷ついた人を介抱する、という意味の言葉です。そうであれば、「牧者のいない羊の群れ」とは、ご復活の主イエス・キリストに見出され、抱き起こされ、介抱されるべき、わたしたち自身の現実の姿、ではなかったでしょうか。

そのわたしたちに、主イエスは繰りかえし、「わたしは良い羊飼いである」と仰せです。しかも主は、このことばに加えて「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のためにいのちを捨てる」(ヨハネ10:14,15)と仰せです。

御父と御子が互いを知る。それは御父と御子が一つであるということです。同様に羊飼いである主イエスがわたしたち羊を知ってくださる。それは父なる神と御子が一つであるように、主はわたしたちとご自身とを堅く一つに結びつけてくださるということです。かつては「牧者のいない羊」のようであったわたしたち。それは、唯一人の牧者である神から、罪ゆえに離れてしまっていたわたしたちの現実の姿でした。そのような惨めなわたしたちとご自身をもう一度堅く結びつけ、わたしたちをご自身と一つにし、わたしたちを愛してくださる主イエス。ヨハネは語り継ぎます。

「こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」(ヨハネ10:16)「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠のいのちを与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」(ヨハネ10:27-28)

実は、主イエスは、このことばを、次のさらに驚くべきことばによって結ばれます。

「わたしの父がわたしにくださったものは、全てのものより偉大であり、誰も父の手から奪うことはできない。わたしと父は一つである。」(ヨハネ10:29,30)

「父がわたしにくださったもの」とは、父なる神が御子キリストに託し与えられた者たち、つまりわたしたちのことです。そのわたしたちを主は、「全てのものより偉大である」(フランシスコ会訳では、「他の何ものよりも価値がある」)と仰せです。そしてそれゆえ、主は、わたしたちを「だれからも決して奪わせない」と仰せです。すなわち、主は、わたしたちをご自身のいのちに代えても守り抜いてくださると言うことです。

実に驚くべき主イエスのみことばです。わたしたちは、到底、主ご自身のいのちを賭してまで大切に守られるに値する者ではありません。しかし、「わたしと父は一つである」と仰せの御子キリストは、ご自身と一つなる父なる神のみ旨に忠実に、たとえご自身のいのちを犠牲にしてでもわたしたちを守り抜いてくださる。事実、主は、後にご自身の十字架と復活において、このおことばの通りにしてくださいました。

ここに神の愛があります。御子とわたしたちを堅く一つに結びつけてくださる父なる神の愛。その神の愛は、わたしたちのために御子に十字架と復活を求める愛です。

「わたしが来たのは、羊がいのちを受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てる。」(ヨハネ10:10,11)

その「良い羊飼い」・十字架と復活の主は、必ず皆さんとともにいてくださいます。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 4/23

説教:復活節第3主日(A年・2023年4月23日)

ルカ24:13-35

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」

主イエス・キリストのご復活のその日のこと。主の弟子の内の二人が、エルサレムを離れてエマオと言う村に向かっていました。二人は、その日の朝早く、十字架の主イエスのおからだが納められた墓を訪ねた婦人たちから、「主は生きておられる」と聞かされていました。しかし、二人はそのことを信じることができませんでした。

エルサレムから離れて行くこの二人に、ご復活の主イエスが寄り添い、二人とともに歩き始めてくださいました。しかし、二人は最初、この方を主とは気付きませんでした。「二人の目は遮られていた」と、聖書は伝えています。一体何が、「二人の目を遮っていた」のでしょうか。

彼らの主イエスに対する人間的な思い、この世的な願いや期待、したがって主の十字架の死ゆえの失望と落胆。しかし、それらに「目を遮られていた」二人には、実は、最初から見えていなかった真実があったのではないでしょうか。それは、彼らが主イエスに呼ばれた時から、主の十字架の死、さらに主のご復活の今に至るまで、一時も休むことなく、主イエスにおいて父なる神が彼らになさっておられた恵みのみ業の事実です。しかし、この神の恵みの真実に、二人の目が開かれる時が来ます。

二人、否、三人が共に歩み続けて夕方になりました。二人の弟子たちは、この見知らぬ方を夕べの食卓に招きました。この方は二人とともに家に入られ、一緒に食事の席に着かれました。その時、この方は「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて二人にお渡しになった。すると二人の目が開け、イエスだと分かった。」

十字架を前にした最後の晩餐の時と同じ主イエスが、しかし、今や紛れもなくご復活の主が、彼らとの食卓で、再び彼らのために、ご自分の御からだを裂き、ご自分の御血を注いでくださっておられる。「主は生きておられる。」主イエス・キリストと二人の弟子たちを堅く結びつけていた絆。それは、二人の主に対する人間的な願いや期待では無かったのです。そうではなく、最初からそれは、主イエスにおいて二人にご自身のいのちを与え続けてくださっておられた、神の恵みの真実です。

その神の恵みの真実は、主イエスの十字架の死に、終わりません。それは、主の十字架を経て主のご復活においてこそ完成し、輝きを放ち、力を現わす恵みの真実です。神の恵みの真実とは、御子キリストにおいて、ご自身をわたしたちに与え尽くすことによって、わたしたちにご自身のいのちをお与えくださる神の愛だからです。

「神はそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」。神のわたしたちに対する愛は、御子キリストを十字架にさえお渡しになるほどに、さらに十字架の主イエスを復活させるほどに、強く激しい神の愛です。「それは」と、ヨハネによる福音は続けます。「ひとり子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」主イエスにおける、この神の愛が、二人の「遮れていた目」を開いたのです。

ある方が、友人の勧めで四国のお遍路さんに加わり、弘法大師縁(ゆかり)の地を訪ねて回られた時、お遍路さんが「同行二人」と書かれた編み笠を被り、「もし一人行くなら二人と思え。その一人をわたしと思え」との弘法大師の言葉を胸に、大師を偲びひたすら巡礼の歩みを進めて行く姿に感動したと話してくださいました。それは、今日の福音のエマオに向かう主イエスの弟子たちの物語を想い起こさせます。

ただし、同じではありません。エマオに向かう二人は、目に見えない主イエスのおことばを胸に、主を偲ぶ巡礼の旅を続けたのではありません。そうではありません。ご復活の主イエスご自身が、事実二人と共に歩いてくださったのです。そして、二人の遮られた目を、主ご自身が開いてくださったのです。ご自身の十字架をさえ厭わず、さらに復活して二人を愛し抜いてくださる主イエスご自身の愛によって。この主の燃える愛は、二人の心を燃え上がらせずにはおきません。

「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」

そして今、彼らとともにわたしたちも知っています。主イエスによって、わたしたちの心の内に燃えているのは、聖霊の炎であることを。そして聖霊の炎は、わたしたちの内に燃えて、神を疑う氷のように頑なな疑いの心を溶かし、わたしたちを神の愛の温もりの内に包み込み、わたしたちを平安の内に主にお委ねさせてくださいます聖霊の炎は、さらにわたしたちの内から働いて、わたしたちを主の似姿にさえ変えてくださる、神の愛の力です。そして、この聖霊の炎は、わたしたちの内にいつまでも燃え続けて、決して燃え尽きることはありません。

「主は、生きておられる」。 父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 4/16

説教:復活節第2主日(A年・2023年4月16日)
(神のいつくしみの主日) ヨハネ20:19-31

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「わたしの主、わたしの神よ。」

主イエスの十二使徒の一人トマスが、ご復活の主日から八日目の当に今日、彼を訪れてくださったご復活の主イエス・キリストご自身に、深い懺悔、そして畏れと感謝をもって告白した、彼の信仰のことばです。彼のこの信仰のことばは、今に至るまで、すべての時代、全世界のキリスト者の信仰告白のことばであり続けています。

聖トマスは、「わが主よ、わが神よ」との彼の信仰のことばとともに、二千年の教会の歴史を通して記憶されてきました。しかし、トマスは最初から信仰者の模範というべき人であったという訳ではなかったようです。最初はむしろ逆であったともいえます。トマスは、弟子たちの間で、「ディディモ」と呼ばれていました。これには「双子」に加えて、「疑い深い」と言う意味もあるのです。それには、理由があります。

わたしたちは、先の主日を、主イエス・キリストの復活の主日としてお祝いいたしました。主は十字架におつきになられる前に、弟子たちに三度、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、殺され、三日目に復活する」と仰せになっておられました。このおことば通り、主は十字架に死に、そして三日目に復活されました。

その復活の主日後、昨日までの一週間、わたしたちは毎日のごミサで、ご復活の主キリストが、最初にマグダラのマリアに、続けて十字架の許にまで主に従い続けた婦人たちに、さらにペトロたち主の弟子たち一人ひとりにお会いくださった次第を、喜びと感動、そして畏れをもって、福音からていねいにお聞きし続けて参りました。

ただし、ご復活の主イエス・キリストは、今日までトマスにだけはお会いなっておられませんでした。なぜでしょうか。今日の福音が伝えているように、ご復活の日の夕方、主が他の弟子たちをお訪ねになられた時、トマスは、そして彼一人だけが、彼らと一緒にいなかったからです。トマスは、主イエスのご復活を疑っていたからです。

ペトロがトマスに、「わたしたちは、週の始めの日に、確かに主に、ご復活の主にお目に掛かった」と熱く語った時も、トマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」とさえ応えていました。

さて、ご復活の日から丁度一週間後の今日、ペトロ始め主イエスの弟子たちは再び集まりました。トマスも今日は一緒でした。ご復活の主日と同様に、主は八日目の今日再び、弟子たちを訪ねてくださいました。ご復活の主・キリストは、今日はとくにトマスにお会いくださるために来てくださいました。主はトマスに仰せになりました。

「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

ご復活の主・キリストのこのおことばに応えて、トマスの心の底から絞り出されるようにして語りだされた言葉こそ「わたしの主、わたしの神よ」でした。確かに、疑い深いトマスでした。主のご復活の約束を、さらにその事実をも疑っていました。しかし、トマスは、最早これ以上疑い続ける訳にはゆきませんご復活の主・キリストご自身が、今、弟子たちのただ中に、そしてトマス自身の目の前に立っておられるからです。

その時、トマスは主のみ前に悔い崩折れる他無かったと思います。今日まで疑いの内に自らを閉ざしていたトマス、主の十字架の許に蹲り続けていたトマスを、主イエスは大切に抱きしめ、抱き起こしてくださいました。十字架の釘跡の残る主の両の御腕で。槍で刺し貫かれた傷跡の残る主のみ胸の内に。それが、主のご復活です。

「ディディモ」と呼ばれたトマスのように、主イエスを「疑う」こと、神の遣わされた主を信じ切ることができないことを、聖書では罪と言います。この罪の帰結は死以外にはありません。神を疑い続ける限り、人は真実に生きることはできないからです。神を疑う者は、結局は自分自身も疑い、誰をも信じることはできず、したがって、誰とも信頼しあい、愛しあい、望みをもって生きることはできないからです。すなわち、神を疑う者は、神と人とに対して死んだ者である他ないのです。

しかし疑うトマスを、主イエスはそのままにしてはおかれません。ご復活の主イエス・キリストは、彼を、神と人との前に決して死んだままにしてはおかれません。トマスだけではありません。実は、二度もご復活の主のご訪問を受けながら、なお主のご復活を疑ったペトロ始め主の弟子たちを、ご復活の主・キリストは忍耐強く、「三度」訪ねてくださいました。わたしたちすべてが、最早二度と、主のご復活を疑い得なくされるまで、十字架の許に蹲っていたわたしたちすべてが、主に抱き起こされ、主とともに主のご復活のいのちに歩み始める者とされるまで、主は忍耐強くわたしたちを訪ね続けてくださいます。それが今日の福音です。

「わたしの主、わたしの神よ」。 ご復活の主・キリストが、皆さんとともに。アーメン。

司祭の言葉(鈴木神父) 2023/1月〜4/9まで

司祭の言葉 4/9

主の復活

 主の復活、おめでとうございます。 今年の復活祭もコロナウイルス対応のミサを継続しておりますので、春日部教会の信徒が一堂に会することはまだできておりません。お許しください。もう少しの辛抱です。
 思えば、3年前春日部教会に赴任し時は新型コロナウイルス蔓延のさなかで、世界中がパンデミックに慄いていました。3年たった今も、いまだにコロナ対応が続いている中で小生は春日部を離れることになります。高齢者の方の中には一度もお会いすること出来なかった方々がいらっしゃいます。大変心苦しく申し訳ない気持でいっぱいです。
 最初の復活節は、司祭は一人で自室でミサをささげることが求められ、信徒を参加させることは許されませんでした。しかしながらこの春は、ふたつのグループに分かれていますが、皆さんと共に復活祭をむかえることが出来ています。感謝です。
 小生もこんなに早く春日部から移動になるとは、つゆほどにも考えていませんでした。神様は小生の執着をご覧になり、バッサリとそれを断ち切られたのだと思っています。本当に皆様から良くしていただき、春日部教会に甘えておりましたから。

 ところで私たちの信仰は、すべてがこの、主の復活という出来事にかかっています。

 マタイ福音書の12章に、律法学者とファリサイ人がイエスのもとにきて、「先生,しるしを見せてください」という場面があります。
 同じ章ではイエスが手の萎えた人を癒す場面や中風の人の癒しが語られていますし、またその前の章では二人の盲人の癒し、不治の病であったライ病を患っている人の癒しも語られています。それでも人々はなおしるしを求めたのです。

 彼らに応えてイエスは「、預言者ヨナの徴以外は与えられない」と答えています。

 預言者ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩大地の中にいることになる・・・そうお答えになりました。それは死んで葬られ三日目によみがえるというしるし、復活という出来事の予言でした。まさにイエスが神からのものであるというしるしであり、十字架による贖いの業が万人のためになされた・・・主の十字架によってすべての人は救われている・・・ということの証明なのです。

 復活祭がキリスト者にとって最大の、信仰の祝日であることのゆえんです。
 私たちはみな主の贖いによって救われています。

 私たちはただ、主よ、罪深い私を憐れんでください・・そうり頼めば、主は私たちをその懐に迎えてくださるのです。
 今日は大いに喜び、ともに感謝の祭りを続けましょう。喜びましょう。主はまさに復活されたのです。そして私たちもいつの日か、主のように復活することが約束されているのです。

 聖パウロは「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。」と、コリントの信者たちに向かって語っています。
 初穂は稲刈りの時に最初に刈られたもので、神への感謝の捧げものでした。

 そしてさらにパウロは「自然の命の体がまかれて、霊の体が復活するのです」と語ります。

 私たちは死すべき肉の体ではなく、永遠に生きる霊の体をいただいて復活するのです

 私たち人間社会では、大量破壊兵器、核弾頭をつけたミサイルがつくられ、いたるところで戦争が継続し、多くの難民が生まれています。今まさに第三次世界大戦の勃発が危惧されています。殺し合い憎しみ会う人間たち、そんな人間は、神の目から見れば、互いに殺しあって絶滅しても仕方がないような存在ではないかと思います。

 その人間のために神は人となり、十字架上の死をもって、その命で私たち贖い、復活の命を約束しました。私たちは主によって贖われ、奴隷状態から解放されたものなのです。主によって買い取られたものですから、その贖いにふさわしい実を結ばねばならないと思います。
 主の贖いに感謝し、イエスが愛したように、自分を大切にし、隣の人も同じように大切にする・・・今こそ、その生き方を見つけねばならないのだと思います。

司祭の言葉 4/2

受難の主日

 今日はマタイ福音書から二つの場面が朗読されました。エルサレム入城とピラトの裁判そして処刑という主の受難の個所です。
 教会がこの二つの朗読をもって私たちに示そうとするのは、何でしょうか。
 私たちはこの二つの場面を追体験していますが、それによって何を感じ取ることが出来たのでしょうか。
 皆さんは今日イエス様に向かって、二つの言葉を口にしました。
 ホザンナ、万歳という言葉と十字架にかけろという、相反する言葉です。
 教会はこの二つの言葉を口にして、私たちに考えてほしいと思っているのです。
 この二つの言葉は同じ群衆が、五日ほどの間をおいてイエス様に向かって発した言葉だということをです。

 エルサレム入城のこの日、ついにイエス様は勝利の道に突き進んだかに見えました。
 この時から30年後の数字ですが、過ぎ越し祭りで、エルサレムで屠られた羊の数は25万頭という数字があるそうです。一頭当たり10人ほどの人がこれを食したとすれば、250万人という数になります。20人としても125万人となります。過ぎ越し祭りには、いかに多くの人がエルサレムに集まっていたかがわかります。
 人々の胸には宗教的な思いがあふれていました。そのような時、祭りへの熱が最高潮に達していた時に、イエス様は歓呼の声につつまれてエルサレムに入城したのです。人々は道に自分たちのマントを敷き、棕櫚の枝を振ってホザンナホザンナと叫びながらイエス様を迎えました。
 弟子たちも誇らしげに、頬を紅潮させて同じくホザンナホザンナと叫んだことでしょう。メシアだ、メシアが来たのだと。

 過ぎ越し祭りは、エジプトの奴隷状態からの解放を記念する祭りです。
 イエス様のエルサレム入城は、メシアによる民族解放への期待となって、熱烈に歓迎されました。もしこれらの民衆がイエス様を担ぎ上げ、ローマに反旗を翻す力となって暴動が起これば、ローマは黙っているはずがない。近くの駐屯地から、直ちに戦車を繰り出し鎮圧に乗り出し、エルサレムは火の海となる。
 祭司長やエルサレムの指導者たちは、妬みと同時に、大きな恐れを抱きました。自分たちの地位を脅かす存在として、大事に至る前に早急に事を進めなければならない。一刻も早くイエス様を捉え処刑しなければならない・・と、そう考えたのです。

 マタイ福音書では、エルサレムに入ったイエス様の足取りについて次のように記します。
 神殿から商人たちを追い出し、その権威を問う祭司たちとの問答し、ブドウ園に行くように頼まれた二人の息子たちの譬え、ブドウ園と農夫の譬え、王子の婚宴への招きの譬え、皇帝への税金の問答、レビラート婚と復活についての問答、最も重要な掟、ダヴィデの子についての問答、律法学者とファリサイ派の人々の非難、神殿の崩壊の予告、人の子によるすべての民族の裁き、べタニアで香油を注がれる・・・等 
 そしてユダの裏切りの企てが語られ、過ぎ越しの食事と最後の晩餐、ゲッセマネでの祈り、ユダの裏切りとイエス様の逮捕、最高法院での裁判、ピラトへの引き渡し・・・となったのです。

 ピラトは、バラバと言われるイエス様とメシアと言われるイエス様、どちらを釈放してほしいかと尋ねますが、祭司長達や長老たちはバラバを釈放してイエス様を死刑に処してもらうようにと群衆を説得します。

 そして五日前にホザンナホザンナと叫んだ同じ群衆は、その舌の根も乾かないうちに、「イエス様を十字架につけろ」と叫びます。
 自ら考えることもせず、祭司たちの言うがままになって・・・。
 ここに語られるのは人々の、忘恩です。

 今日、枝の行列の後受難の朗読がなされたのは
そのことを黙想するためです。イエス様がユダヤの王となってくれると思った群衆が万歳と叫び、同じ群衆が金曜日には十字架につけよと叫んだ

 同じように私たちは、イエス様の弟子となりながら、イエス様を裏切っていないのか
 聖金曜日を前に、枝の行列と受難の朗読をすることの理由がここにあります。

司祭の言葉 3/19

四旬節第4主日  ヨハネ9・1-41

 1966年6月30日に静岡県清水市で発生した強盗殺人放火事件から57年を経て、3月13日、東京高等裁判所が袴田死刑囚の差し戻し審で、再審開始を認める決定をしました。袴田死刑囚は逮捕以来一貫して無実を主張してきました。死刑確定から40年後の2014年に、「拘置をこれ以上継続することは、耐え難いほど正義に反する」として仮釈放が認められました。それからすでに9年。袴田死刑囚は30歳で逮捕されてから45年以上にわたり東京拘置所に拘留され、その拘置期間の長さはギネスブックにも載るほどでした。考えてみましょう。無実の罪であるとすれば、彼の失われた人生をどう償えるというのでしょうか。

 イエス様は通りすがりに生まれつき目の見えない人をみかけます。すると弟子たちが訪ねます。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」・・と。
 弟子たちがこの男のことをよく知っていますので、この男は人々からよく知られていたとおもわれます。
 イエス様の時代、子供が両親の罪の結果を受け継ぐという…旧約思想がありました。
 詩篇109の14には「主が彼の父祖の悪をお忘れにならぬように、母の罪も消されることのないように」という言葉があります。また、イザヤ65章6-7節には「私は黙すことなく、必ず報いる。彼らの悪も、先祖の悪もともに・・と主は言われる」そう書き記されています。出20の5には「私を否む者には、父祖の罪を子孫に、三代、四代までも問う」との言葉もあります。そのため、ユダヤ人たちは躊躇なく苦難と罪とを関連させました。

 あるものは出生前の罪という奇妙な考えを持っていたと言います。人間はまだ母の胎にいるときから罪を犯すことができると信じていたのです。
また、イエス様の時代にはプラトンやギリシャ哲学の影響で、ユダヤ人は魂の先住を信じていました。そして彼らは、すべての魂は、世界が創造される前からエデンの園に存在していたと信じていたのです。ギリシャ人たちはそれらの魂は良いものであって、体に入ったために堕落したと考えたのですが、あるユダヤ人たちはそれらの魂にはすでに善いものと悪いものとがあると考えました。
 ソロモンの知恵8の19「わたしは気立てのよい若者で善良な魂を恵まれていた」

 しかし、イエス様は個々の人の罪とその人の病気や障害の関係をはっきり否定していいます。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」「神の業がこの人に現れるためである」そうおっしゃって、癒しの業を行います。
 「今、神はこの人に何をなさろうとしておられるか、自分はこの人に何をすることができるか、どう関わるべきか」というところがイエス様の思いです。そして安息日であるにも関わらず病人を癒しました。それがご自分の命を縮めることを知りながら。

 私たちの目の前に苦しんでいる人がいるとき、その苦しみについて自分が傍観者のままでいるのか、それとも、この目の前の人にかかわり、その苦しみを共に担おうとするのか、わたしたちも今日、イエス様から問われているのだとおもいます。 

司祭の言葉 3/5

四旬節第2主日A年(mt17の1-9)

 今日のみ言葉は主の変容です。三人の福音記者はともに、この出来事を記録しています。衝撃的な出来事だったのだろうと思います。いずれも変容を最初の受難予告の直後に置いています。そこに変容の持っている意味が読み取れます。
 イエスの受難の予告は ペトロの強い抗議を呼びました。凱旋するメシアを思い描いていた弟子たちにとって、苦しむメシアは受け入れ難かったのです。他の使徒たちも同様でした。そしてペトロはイエスの前に立ちはだかってイエスをいさめ、サタン下がれと叱られました。

 変容は視覚に訴える出来事です。マルコは、仮小屋を建てましょう・・と言う言葉のあとに「ペトロはどういえばよいか判らなかった」という言葉を記しています。驚くだけで出来事を理解できなかった弟子たちの姿が描かれています。
 しかしマタイはそれを割愛し、マルコが書かなかった事を描いています。雲からの声をきいた弟子がひれ伏した事、無理解のまま終わるのではない事です。
 イエスの変容によって、栄光の姿を垣間見せ、弟子たちを勇気づけたのです。

 話は変わりますが、私の関わった統合失調症の青年の中に、「自分が人を不幸にしている」、そう信じている青年がいました。統合失調症は生きづらさで、病気というよりも障害です。彼は、いつもうつむき加減、声も小さく、人の目を見ることができません。いつもカックンと首を落として暗い顔をしていました。1年後あたりから少しずつ自信を取り戻し、その後介護の資格を取り、さらには精神障害者のピアカウンセラーになりました。

 先月、大宮のみどり幼稚園で、スプリングフェスティバルという催しがありました。年少は歌とリズム遊戯、年中になると歌と音楽劇に挑戦します。小さい子なのでいろいろハプニングもありますが、幼稚園の子供たちはフェスティバル後、大きな自信を得て大きく成長します。

 変容の出来事から私たちが受け取るべきもう一つの教えは、私たちもまた変わることを求められているということです。どのような変容でしょうか。イエスを理解し、イエスのように生きることです。

 国境なき医師団の報告会に参加したことがありますが、その時は いのちを守るために・・と支援者90人ほどが集まっていました。
中にはキリスト者がいたかもしれませんが、ほとんどがキリスト者ではないと思います。

 日本赤十字社の標語をご存じですか? 「人間を救うのは人間だ」・・というものです。 神不在ともとれる言葉ですが、・・・まず自分たちから動くことが大切だ‥と言うことではないでしょうか。「天は自ら助くる者を助く」・・という言葉に通じるものだと思います。   
 祈るとき、神頼みに終始していたりしませんか? 忘れてはいけないのは、神の子であるとしても、「生身の人間イエスが、私たちを救った」・・という事実です。究極の愛で。   

  回心が求められています。苦しむ隣人の声に耳を傾けているでしょうか、そして、使徒ヤコブの言葉を思い起こします。 「行いを欠く信仰は死んだものだ」・・という。
 四旬節にあたり、私たち自身の「変容」が求められていると思います。