司祭の言葉 3/19

四旬節第4主日  ヨハネ9・1-41

 1966年6月30日に静岡県清水市で発生した強盗殺人放火事件から57年を経て、3月13日、東京高等裁判所が袴田死刑囚の差し戻し審で、再審開始を認める決定をしました。袴田死刑囚は逮捕以来一貫して無実を主張してきました。死刑確定から40年後の2014年に、「拘置をこれ以上継続することは、耐え難いほど正義に反する」として仮釈放が認められました。それからすでに9年。袴田死刑囚は30歳で逮捕されてから45年以上にわたり東京拘置所に拘留され、その拘置期間の長さはギネスブックにも載るほどでした。考えてみましょう。無実の罪であるとすれば、彼の失われた人生をどう償えるというのでしょうか。

 イエス様は通りすがりに生まれつき目の見えない人をみかけます。すると弟子たちが訪ねます。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」・・と。
 弟子たちがこの男のことをよく知っていますので、この男は人々からよく知られていたとおもわれます。
 イエス様の時代、子供が両親の罪の結果を受け継ぐという…旧約思想がありました。
 詩篇109の14には「主が彼の父祖の悪をお忘れにならぬように、母の罪も消されることのないように」という言葉があります。また、イザヤ65章6-7節には「私は黙すことなく、必ず報いる。彼らの悪も、先祖の悪もともに・・と主は言われる」そう書き記されています。出20の5には「私を否む者には、父祖の罪を子孫に、三代、四代までも問う」との言葉もあります。そのため、ユダヤ人たちは躊躇なく苦難と罪とを関連させました。

 あるものは出生前の罪という奇妙な考えを持っていたと言います。人間はまだ母の胎にいるときから罪を犯すことができると信じていたのです。
また、イエス様の時代にはプラトンやギリシャ哲学の影響で、ユダヤ人は魂の先住を信じていました。そして彼らは、すべての魂は、世界が創造される前からエデンの園に存在していたと信じていたのです。ギリシャ人たちはそれらの魂は良いものであって、体に入ったために堕落したと考えたのですが、あるユダヤ人たちはそれらの魂にはすでに善いものと悪いものとがあると考えました。
 ソロモンの知恵8の19「わたしは気立てのよい若者で善良な魂を恵まれていた」

 しかし、イエス様は個々の人の罪とその人の病気や障害の関係をはっきり否定していいます。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」「神の業がこの人に現れるためである」そうおっしゃって、癒しの業を行います。
 「今、神はこの人に何をなさろうとしておられるか、自分はこの人に何をすることができるか、どう関わるべきか」というところがイエス様の思いです。そして安息日であるにも関わらず病人を癒しました。それがご自分の命を縮めることを知りながら。

 私たちの目の前に苦しんでいる人がいるとき、その苦しみについて自分が傍観者のままでいるのか、それとも、この目の前の人にかかわり、その苦しみを共に担おうとするのか、わたしたちも今日、イエス様から問われているのだとおもいます。