司祭の言葉 1/22

年間第3主日A年

 イエスはなぜガリラヤから宣教を始めたのでしょうか
 ガリラヤの語源を見ますと、ガリルという言葉とハ・ゴイムという言葉からなっています。ガリルは輪という意味です。山本七平の聖書の常識では、ガリラヤ湖を囲んで輪のように山があったのでそのように呼ばれたのだろうということです。
 他方、聖書学者のバークレーは、この地方の正式な呼び名は異邦人のガリラヤで、ガリラヤが異邦人に囲まれているところからきている・・と言います。西にはフェニキア人、北と東にはシリア人が住み、南はサマリア地方になっていたからだ、と言います。
 またこの地方は、ダマスコのベネハダデに攻略されたり(列上15の18)
 アッシリアのテグラテピレセル(列下15の29)、バビロニア、ペルシャ、マケドニア、エジプト、シリアに相次いで征服された歴史をもっています。
 住民は捕虜として連れ去られ、色々な民族が移住してきましたので、正統ユダヤ人からは 異教にケガされた不浄の地という意味で、異邦人のガリラヤと言われたともいいます。

 福音史家のマルコも、ヨハネが捕らえられたのち、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を述べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。・・そう書き記しています。
 田川健三という聖書学者は、これをマルコのガリラヤ志向と述べていますが、イエスの活動はその本質において、ガリラヤを場としたものである・・そう断言します。ガリラヤの民衆に根付いて活動したものとして描くことがマルコの意図だったと。
 エルサレムの中央性、権威性、伝統性、支配者的性格のどに対して、ガリラヤは、地方性、民衆性を意味している。このようなガリラヤ制を代表することのできる人物として、イエスが存在し活動していた・・そのことを強調しているのだと言うのです。

 1世紀当時、領主ヘロデ・アンティパスの統治下にあったガリラヤは、ユダヤと違い直接ローマ帝国の支配を受けることはなかったのですが、すべてのユダヤ人と同じに、エルサレム神殿から多額の神殿税や献納物を徴収されていました。
 ローマの支配下にあるとはいえ、ユダヤの内政は、大司祭を頂点としたエルサレムの最高法院(サンヘドリン)が取り仕切っていました。神殿貴族たちは莫大な神殿税や献納物で肥え太り、同時に大土地所有者でもありました。そして彼らの下に律法学者たちが位置し、法と教育でもって民衆の生活の隅々まで縛りつけていたのです。つまり当時のユダヤ教とは、社会支配体制そのものでした。

 イエスの育ったナザレは、どのようなところだったのでしょうか。
 聖書学者バークレーの描くナザレの様子を見てみましょう。

 ナザレはガリラヤの南方の丘地のくぼみに位置して、丘を登ればすぐ足元に世界の半ばが眺められた。西を見れば遠方に地中海があおい水をたたえ、洋上を船が地の果て指して進んでいる。海辺の平野に目をやれば、今立つ丘のふもとをめぐって世界で一番重要な道路の一つが走っていた。この道路はだダマスコからエジプトに通じ、アフリカへの陸の懸け橋になっていた。
 この道は南方の道とか海の道とか呼ばれていた。道路はこのほかにもあった。それは当方の道で、ローマ帝国の東の境界線に届いていた。ここにも隊商の列があり、絹、香料が運ばれていた。ナザレは決して人里離れた村ではなかったのである。

 これらの地理的条件や、歴史の中での位置などによって、ガリラヤの人たちの気風が形作られてきました。ガリラヤはダマスコ、ティルス、シドン、プトレマイオス、カイサリア、サマリア、デカポリスと言った大きな商業の中心地である外国の都市に囲まれていましたので、ガリラヤのユダヤ人たちは南のユダヤ人たちよりももっと外国人接していました。イエスの時代にガリラヤの人々は700年以上も他の国の人々と生活を共にしてきましたから、南のユダヤ人たちよりももっと開放的、エクメニカルで、新しいものに対しても拒絶反応はありませんでした。イエスの福音を受け入れることのできる素地が作られていたのです。

 ユダヤ教の公式見解では、来るはずのキリストがガリラヤと関係あるとは思われていませんでした。
 「よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者のでない事が判る」ヨハネ7の52

しかし、マタイはイザヤ(今日の第一朗読)を引用 大いに関係あることを示しています。

 イエスは「悔い改めよ、神の国は近づいた」と説きました。
 これは、律法に縛られていた人々に、律法によって義とされるのではないこと、律法の根底にあるものは神への愛と人々への愛であることに気づかせる宣教の始まり、神との新しい関係の幕開けを宣言する言葉でした。