司祭の言葉 2/26

四旬節第1主日A年 (マタイ4章1-11節)


 イエスの荒れ野での誘惑の場面です。四旬節の原点となる出来事です。
 40という数は聖書の中では、長い苦しみや試練の時を現す数字となっています。まず思い出されるのは、エジプトを脱出したイスラエルの民がさまよった「40年間の荒れ野の旅」です。

 荒れ野は砂漠に似て水や食べ物を得るのが難しい、生きるのに厳しい場所ですが、神はここで岩から水を湧き出させ、天から「マナ」と呼ばれる不思議な食べ物を降らせて民を養い導きました。ですからそこはまた、後から考えれば、互いに乏しいものを分け合った恵みの場所であった・・・ということも出きる場所です。

 ヨルダン川でバプテスマを受け、神の声を聴いてゆくべき道を示されたイエス様は、悪魔から誘惑を受けるため霊に導かれて荒野に行きました。
 どういう意味でしょうか。日本語で誘惑というとよい意味では使われませんから。
 同じ個所を、ほかの聖書はどの様に訳しているかを見てみましょう
講談社のバルバロ訳は、「悪魔に試みられようとして」
新改訳は、「悪魔の試みを受けるため」
日本聖書協会訳は、「悪魔に試みられるため」・・・と訳しています。

 原文のギリシャ語での「誘惑」という言葉は、ペイラステーナイという言葉が使われていて、試みる、試す、罪に誘惑する・・・などの意味がある言葉です。
 神様が罪に誘惑することはありませんから、しかも「霊」に導かれてとありますので、試み‥という訳のほうが私にはしっくりきます。

 「石をパンにしてみろ」は物質的なものによって満たされようとする誘惑、あるいは自分の力を自分の欲望を満たすために使う誘惑‥かも知れません。
 人々のためにパンを与えるためとすれば、違うかもしれませんが、パンによって群衆を自分のところに引き寄せるとすれば、それは、買収といえるかもしれませんし、イエス様が人々を招かれたのは、究極的には十字架の愛、与えるものとなるために招かれることでしたから、イエス様の思いとは相いれないことでした。
 さらにそれは、病気を治さずに、症状だけを取り除こうとするのに似ています。
 人々の飢えの原因となっているものをこそ、取り除かなければならないのです。
 人間が自分のことだけを考え、他者を思いやらない独善主義と無関心・・・これを取りのぞかない限り、貧困はなくならないのですから。

「神殿の屋根から飛び降りよ」は自分の身の安全を確保しようとする誘惑、あるいは己の力を試そうとする誘惑、ひいては神を試そうとする誘惑でした。

「国と繁栄を与える」は、この世の富と権力を手に入れようとする誘惑です。世界をも渡せる山などはありませんし、人工衛星の上から見ても、繁栄ぶりは見えないでしょう。

 これらは全て、イエス様が経験なさった内的な葛藤であろうと神学者は考えます。イエス様ご自身が、この霊的な経験を語っておられるのですから、私たちは厳粛な思い出襟を正して聞く必要がある・・・と。

 「サタン、引き下がれ」は受難を予告したイエス様をとがめたペトロに向かって言われた言葉(マタイ16章23節)と同じです。


 ただし、モノや安全を手に入れようとすることのすべてが悪の誘惑ではありません。イエス様も5つのパンでおおぜいの群集を満たし、多くの病人をいやしました。わたしたちにもパンが必要ですし、健康や安全も必要です。富や力もある程度は必要でしょう。そういう意味では、これらを悪と決め付けることはできません。
 しかし、今回のウクライナ侵攻とこの一年の戦争が示す通り、権力は諸刃の剣です。
神の名のもとにその権力を行使し、戦争を引き起こし、世界中に不幸をまき散らすことにもなります。神の望みだと言って今回の戦争は続けられていています。神にとってはいい迷惑です。
 問題はそれらを求めるあまり、神と隣人との親しい交わりを失ってしまうことだと言えるかもしれません。

 イエス様の悪魔への答えは、すべて申命記の引用です。申命記とは重ねて命ずる・・という意味で、荒れ野の旅の終わりに、約束の地を目前にして、モーセが民に遺言のように語る「告別説教」といわれるものです。

 「人はパンだけでなく・・・」は申命記8章3節の引用です。
 「あなたの神である主を試してはならない」は申命記6章16節の引用です。
 「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」は申命記6章13節の引用です。

 イエス様は一回の対決で悪魔を撃退し、再び攻撃を受けなかったのではありません。
 ルカでは「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が車でイエスを離れた」とあります。
 ペトロが十字架に向かうイエス様を引きとめようとしたとき「サタンよ、引き下がれ」と一喝しました。これはイエス様が荒野で悪魔に言われたのと同じ言葉です。そしてもっとも激烈な悪魔との対決はゲッセマネにおいてでありました。

 四旬節の時を過ごす心構えは、どうすればよいのでしょうか。

 自分を「荒れ野」に置いてみることです。そこからもう一度、神とのつながり、人とのつながりを見つめなおしてみるのです。
 生きるのに苦しい、ぎりぎりのところだからこそ、この自分を生かしてくださる神を思い、同時に苦しい状況の中で生きている兄弟たちとの連帯を思うことができます。
 今回のトルコ大地震はまさにすべてを破壊し、被災地を荒野と変えました。
 5万人近い人が亡くなり、数百万の人々が家を失い、荒れ地となった大地に放りだされました。私たちを、このがれきの中において考えてみましょう。
 このたびの大地震を思うとき、彼らとの連帯の中で、わたしたちには何が出来るでしょうか。
 四旬節に勧められている「祈り、節制、愛の行い」という回心の行為が目指していることは、すべて彼らとの連帯を求めるものです。
 彼らの環境に自分を置いて考えれば、「荒れ野」は遠くにではなく、実はわたしたちの身近なところにある・・ということに気づくことができるのではないでしょうか。