司祭の言葉 3/5

四旬節第2主日A年(mt17の1-9)

 今日のみ言葉は主の変容です。三人の福音記者はともに、この出来事を記録しています。衝撃的な出来事だったのだろうと思います。いずれも変容を最初の受難予告の直後に置いています。そこに変容の持っている意味が読み取れます。
 イエスの受難の予告は ペトロの強い抗議を呼びました。凱旋するメシアを思い描いていた弟子たちにとって、苦しむメシアは受け入れ難かったのです。他の使徒たちも同様でした。そしてペトロはイエスの前に立ちはだかってイエスをいさめ、サタン下がれと叱られました。

 変容は視覚に訴える出来事です。マルコは、仮小屋を建てましょう・・と言う言葉のあとに「ペトロはどういえばよいか判らなかった」という言葉を記しています。驚くだけで出来事を理解できなかった弟子たちの姿が描かれています。
 しかしマタイはそれを割愛し、マルコが書かなかった事を描いています。雲からの声をきいた弟子がひれ伏した事、無理解のまま終わるのではない事です。
 イエスの変容によって、栄光の姿を垣間見せ、弟子たちを勇気づけたのです。

 話は変わりますが、私の関わった統合失調症の青年の中に、「自分が人を不幸にしている」、そう信じている青年がいました。統合失調症は生きづらさで、病気というよりも障害です。彼は、いつもうつむき加減、声も小さく、人の目を見ることができません。いつもカックンと首を落として暗い顔をしていました。1年後あたりから少しずつ自信を取り戻し、その後介護の資格を取り、さらには精神障害者のピアカウンセラーになりました。

 先月、大宮のみどり幼稚園で、スプリングフェスティバルという催しがありました。年少は歌とリズム遊戯、年中になると歌と音楽劇に挑戦します。小さい子なのでいろいろハプニングもありますが、幼稚園の子供たちはフェスティバル後、大きな自信を得て大きく成長します。

 変容の出来事から私たちが受け取るべきもう一つの教えは、私たちもまた変わることを求められているということです。どのような変容でしょうか。イエスを理解し、イエスのように生きることです。

 国境なき医師団の報告会に参加したことがありますが、その時は いのちを守るために・・と支援者90人ほどが集まっていました。
中にはキリスト者がいたかもしれませんが、ほとんどがキリスト者ではないと思います。

 日本赤十字社の標語をご存じですか? 「人間を救うのは人間だ」・・というものです。 神不在ともとれる言葉ですが、・・・まず自分たちから動くことが大切だ‥と言うことではないでしょうか。「天は自ら助くる者を助く」・・という言葉に通じるものだと思います。   
 祈るとき、神頼みに終始していたりしませんか? 忘れてはいけないのは、神の子であるとしても、「生身の人間イエスが、私たちを救った」・・という事実です。究極の愛で。   

  回心が求められています。苦しむ隣人の声に耳を傾けているでしょうか、そして、使徒ヤコブの言葉を思い起こします。 「行いを欠く信仰は死んだものだ」・・という。
 四旬節にあたり、私たち自身の「変容」が求められていると思います。