司祭の言葉 4/2

受難の主日

 今日はマタイ福音書から二つの場面が朗読されました。エルサレム入城とピラトの裁判そして処刑という主の受難の個所です。
 教会がこの二つの朗読をもって私たちに示そうとするのは、何でしょうか。
 私たちはこの二つの場面を追体験していますが、それによって何を感じ取ることが出来たのでしょうか。
 皆さんは今日イエス様に向かって、二つの言葉を口にしました。
 ホザンナ、万歳という言葉と十字架にかけろという、相反する言葉です。
 教会はこの二つの言葉を口にして、私たちに考えてほしいと思っているのです。
 この二つの言葉は同じ群衆が、五日ほどの間をおいてイエス様に向かって発した言葉だということをです。

 エルサレム入城のこの日、ついにイエス様は勝利の道に突き進んだかに見えました。
 この時から30年後の数字ですが、過ぎ越し祭りで、エルサレムで屠られた羊の数は25万頭という数字があるそうです。一頭当たり10人ほどの人がこれを食したとすれば、250万人という数になります。20人としても125万人となります。過ぎ越し祭りには、いかに多くの人がエルサレムに集まっていたかがわかります。
 人々の胸には宗教的な思いがあふれていました。そのような時、祭りへの熱が最高潮に達していた時に、イエス様は歓呼の声につつまれてエルサレムに入城したのです。人々は道に自分たちのマントを敷き、棕櫚の枝を振ってホザンナホザンナと叫びながらイエス様を迎えました。
 弟子たちも誇らしげに、頬を紅潮させて同じくホザンナホザンナと叫んだことでしょう。メシアだ、メシアが来たのだと。

 過ぎ越し祭りは、エジプトの奴隷状態からの解放を記念する祭りです。
 イエス様のエルサレム入城は、メシアによる民族解放への期待となって、熱烈に歓迎されました。もしこれらの民衆がイエス様を担ぎ上げ、ローマに反旗を翻す力となって暴動が起これば、ローマは黙っているはずがない。近くの駐屯地から、直ちに戦車を繰り出し鎮圧に乗り出し、エルサレムは火の海となる。
 祭司長やエルサレムの指導者たちは、妬みと同時に、大きな恐れを抱きました。自分たちの地位を脅かす存在として、大事に至る前に早急に事を進めなければならない。一刻も早くイエス様を捉え処刑しなければならない・・と、そう考えたのです。

 マタイ福音書では、エルサレムに入ったイエス様の足取りについて次のように記します。
 神殿から商人たちを追い出し、その権威を問う祭司たちとの問答し、ブドウ園に行くように頼まれた二人の息子たちの譬え、ブドウ園と農夫の譬え、王子の婚宴への招きの譬え、皇帝への税金の問答、レビラート婚と復活についての問答、最も重要な掟、ダヴィデの子についての問答、律法学者とファリサイ派の人々の非難、神殿の崩壊の予告、人の子によるすべての民族の裁き、べタニアで香油を注がれる・・・等 
 そしてユダの裏切りの企てが語られ、過ぎ越しの食事と最後の晩餐、ゲッセマネでの祈り、ユダの裏切りとイエス様の逮捕、最高法院での裁判、ピラトへの引き渡し・・・となったのです。

 ピラトは、バラバと言われるイエス様とメシアと言われるイエス様、どちらを釈放してほしいかと尋ねますが、祭司長達や長老たちはバラバを釈放してイエス様を死刑に処してもらうようにと群衆を説得します。

 そして五日前にホザンナホザンナと叫んだ同じ群衆は、その舌の根も乾かないうちに、「イエス様を十字架につけろ」と叫びます。
 自ら考えることもせず、祭司たちの言うがままになって・・・。
 ここに語られるのは人々の、忘恩です。

 今日、枝の行列の後受難の朗読がなされたのは
そのことを黙想するためです。イエス様がユダヤの王となってくれると思った群衆が万歳と叫び、同じ群衆が金曜日には十字架につけよと叫んだ

 同じように私たちは、イエス様の弟子となりながら、イエス様を裏切っていないのか
 聖金曜日を前に、枝の行列と受難の朗読をすることの理由がここにあります。