司祭の言葉 2/19

年間第7主日A年

 今日の福音は有名な個所です。「目には目を歯には歯を」…と言う言葉を私たちはどのように受け止めているのでしょうか。「やられたらやりかえす」と言う意味にとる人も多いようです。
 片方の目をつぶされたら、それはもう大変なことです。障碍者になってしまうのですから。腹が立って腹が立って、相手の両方の目をつぶさないと、怒りが収まらない・・・と言うのが、多くの人の気持ちでしょう。倍返しです。でもそれでは互いに復讐はエスカレートしてゆきます。現在のイスラエルでも、報復の応酬は止まりません。パレスチナのハマスがイスラエルに対してテロを行うと、ガザ地区への報復攻撃が倍返しで行われます。
 ですから、目には目をというのは、同害復讐法と言って、復讐がエスカレートするのを禁じているのです。この同害復讐法は、古くはバビロニアの王ハンムラビ(BC1792-1750)によって制定されたハンムラビ法典の中に見ることが出来ます
 ここに一冊の本があります。ハンムラビ法典の日本語訳です。その中の一文を紹介しましょう。
 ・・・「もしアウイールムがアウイールムの仲間の目を損なったなら、彼らは彼の目を損なわなければならない。もし彼がアウイールムの仲間の骨を折ったなら、彼らは彼の骨を折らなければならない。もし彼がムシュケーヌムの目を損なったか、ムシュケームヌの骨を折ったなら、彼は銀1マナ(約500g)を支払わなければならない。」
 → 貴族、平民、奴隷によって償いは異なっています。

 同じような言葉は旧約聖書の出エジプト記の21章、レビ記の24章、申命記の19章にも出てきます。・・・「命には命をもって償う。人に障害を加えたものはそれと同一の障害を受けなければならない。骨折には骨折を、目には目を歯には歯をもって人に与えたのと同じ障害を受けねばならない。」(レビ24の19-20)-
 → 聖書では貴族平民の別はありません。

 しかしイエス様は言います。「悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」
 「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」
  「誰かが1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい」

 これらを皆さんはどう受け止めてきたのでしょうか。
 「少なくとも我慢する」という受け止め方をしているのではありませんか?

 いつも我慢させられたら、小さな子供だったら地団太踏んで怒ります。
 我慢する・・そのように受け止めているなら、イエス様の教えはいつまでたっても納得できないでしょう。イエス様の教えは水割りにしないでストレートに実行してみましょう。そうすれば納得がゆくはずです。すとんと腑に落ちるのです。

 私の小さな体験ですが、高校三年生の時一人の同級生から図書室の一室に呼び出されました。そして、「お前は生意気だ」と言って殴られました。その時聖書の言葉を思い出し、もう一方の頬を差し出し「こちらもなぐれ」といいました。相手はたじろぎましたが、「いいから殴れ」と言うと、「いいんだな、殴るぞ」と確認をして殴ってきました。ところがその時私はとっさにこぶしをよけてしまったのです。相手はもちろん空振り。私は「すまん、よけてしまった。もう一度やり直してくれ」と言って、次は目をつぶって殴ってもらいました。
 思い切り殴られ、目から火花が飛びました。本当に火花が飛ぶんですね。その時、ふっとつきものが離れるように、怖れと相手に対する怒りが消えたのです。

 もう一方の頬を向ける、強制された以上に歩く、下着を取るものに上着をも与える、それらは強制ではありません。自分の意思で行うことです。そのことによって、強制されたことに対する憎しみが消えるのです。

 勿論イエス様は、社会正義を無視しろと言っているのではありません。社会の不正は正してゆく必要があります。イエス様も律法主義者たちの不正を糾弾したのですから。

「ああ、無情」の一場面を思い出します。教会に泊めてもらったジャンバルジャンが銀の燭台を盗んでジャベール警視につかまり、教会に連れてこられた時、老司祭は「燭台だけではなく他のものもあげたのにどうして持ってゆかなかったのか」と彼をかばい、ほかの銀の食器も彼に与えました。 そしてジャンバルジャンは、愛に打たれ、正しい道を歩み始めます。

 もし私たちがイエスの言葉を理解したいなら、言われたとおりに実行してみることが大切です。
 その上で、不正を正すために立ち上がりましょう。自分に対する不正は受け入れても、他人に対する不正は見逃すべきではないのです。子供に対する虐待やお年寄りに対する虐待を見たら、迷わず、弱い人の味方となって声をあげましょう。
 「あなたがたは地の塩、世の光である」とのイエス様の言葉をいただいたのですから。
 先週のみ言葉は、「私が来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである」というものでした。
 律法の目指すところはキリストだ・・・とパウロは言います。キリストの十字架の愛において律法は完成されたのです。
 神への愛と隣人への愛、イエス様の与えられた新しい掟の中に、律法のすべては含まれているのです。