司祭の言葉 7/10

年間第15主日 C年 (ルカ10章25-37節)

 皆さんおはようございます。また少し新型コロナウイルスの感染者数が増えてきましたね。BA5という新型の株に置き換わりつつあるとか、心配です。特に医療従事者の方々は本当に休む暇もありません。 一日も早い終息をお祈りください。

 今日の福音に登場するエリコの町は、エルサレムから東北東22キロ、海面下250メートルの町です。途中は荒野で、強盗も出没するところだったようです。

 登場人物の律法の専門家は、律法を人々に教え、律法によって民衆を指導していた人々でした。律法学者が引用する「神を愛し、隣人を愛する」ことは、申命記6章5節とレビ記19章18節に記された律法の言葉で、イエス様と律法学者との間に意見の違いはありませんでした。 
 しかし、何が大切な掟かという点でイエス様と同意見でも、隣人愛の掟の受け止め方は大きく異なりました。律法学者は『隣人』とは『近くにいる人』の意味でとらえ、どの範囲までが隣人なのかを定義しようとしました。 律法学者がこのように考えたのも、律法を忠実に守ろうとし、この隣人愛の掟を間違いなく実行したいと考えたからなのだと、思われます。

 律法学者たちが考えたのは、隣人を愛するためにはまず「隣人とは誰か、どの範囲までなのか」を定義する・・ということでした。 この律法学者の考えでは「罪びとや異邦人は遠ざけるべきもの、排除すべきも」と思いこそすれ、隣人愛の掟の対象になるとは、考えもしなかったのだろうと思います。

 今世紀に入って、世界中で日本人が巻き込まれたテロ事件はどのくらいあると思われますか? 調査庁の資料によりますと41件もあります。

 そのうち2016年7月1日に起きた事件は、武装集団がバングラディシュ・ダッカのレストランを襲撃し、日本人を含む20人が殺害され多くの人が負傷しました。
 このとき一人の日本人が、「私は日本人だ撃たないでくれと」言ったと伝えられています。バングラデシュは親日の国として知られていました。だからそこに期待したのかもしれません。 しかし「かれらにとっての友人の基準」は別にありました。コーランを読ませて、読めないものは殺されたという事でした。私もアラビア語は読めませんから助かりませんね。

 今日のたとえ話の「祭司とレビ人」は、両方とも神殿に仕えている人であり、真っ先に律法を実行するはずの人でした。でも、彼らは道端に倒れている人を「見ると、道の向こう側を通って行った」とあります。なぜでしょうか。まだ強盗が近くにいると思ったからなのでしょうか、危険を避けるためだったのでしょうか。
 神学者たちは、彼らは神殿での務めのために、死体に触れて汚れることを避けようとしたのであろうと考えています。
 人々が待ちわびている尊い聖務のまえには、一人の人間の救援は、少なくとも最優先事では無かったのだと言えると思います。何が優先されるか・・私たちも時々迷います。家に病人がいるけどどうしよう、日曜日だから教会に行くべきか、それとも家に残るべきか・・など。

 一方で、三番目に登場した、律法学者の考えの中では、自分たちの「隣人」の範疇には入らないサマリア人は、「見て憐れに思い、近寄って」手厚く介抱します。この違いはどこにあるのでしょうか。

 聖書学者は「憐れに思い」と訳されている言葉に注目します。「スプランクナsplankna(はらわた)」を動詞化した「スプランクニゾマイsplanknizomai」でという言葉です。「はらわたが痛む」「はらわたがゆさぶられる」ことを意味する言葉で、はらわたする と訳する聖書学者もいます。      
 このサマリア人は、「この人は隣人だから」という理由ではなく、「はらわたがゆさぶられた」から助けたのです。

 イエス様にもはらわたが揺さぶられるようなことがありました。 (マルコ6の34) 「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ・・・」5000人を前にしてパンの奇跡を行ったときですが、この時の「深く憐れみ」という言葉もスプランクニゾマイという動詞です。

 そしてもっとも大切なことは、「誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」というイエス様の問いかけの言葉にあります。
 「わたしの隣人とはだれですか」という問いに、イエス様は「だれが隣人になったと思うか」と問い返されるのです。

大切なのは、わたしにとっての隣人ではなく、相手にとっての隣人という視点です。

 春日部教会の有志が子ども食堂を開いていますが、ここに来る子供たちにとって、ひつじ食堂のスタッフが隣人になっていることは確かでしょう。
 同じような視点で、わたしも、いろいろな場面で、自分が相手にとって隣人になっていたかどうか、自分の行動を振り返ってみたいと思います。

春日部教会での感染症対策について

新型コロナの最新に状況に基づき、教区から新たな指針が発表されました。
これを受けて春日部教会では主日の対応を以下のように変更します。

1. 従来3グループに従分けていた参加規制を以下の2グループに変更します。
 これにより信者は2週間に1回(これまでは3週間に一回)主日のミサに参加できるようになります。

新Aグループ:越谷・大袋、せんげん台、武里、備後大枝
新Bグループ:一ノ割・牛島、粕壁、豊春・岩槻、庄和・野田、杉戸・幸手

2.この変更は来月8月から適用されます。(7月中は従来通り3分割です)
 新グループ分けによる主日のミサは8月7日からスタートします。(ミサ開始時刻は10時で変更ありません)
8月7日はBグループです。14日はAグループ、以下21日はBグループ、28日はAグループとなります。

3.会議や講座などの人数制限は今まで通り継続し、原則禁止です。
(ただし、神父の許可があれば可とします)

4.8月15日(月)の被昇天のミサ(ラテン語ミサ)は10時からで、全員参加可能です。

5.金曜日、土曜日のミサは従来通りで全員参加可能です。

ただし、7月8日(金)のミサは中止となります。

ミサ開始時刻は基本10時からで変更はありません

司祭の言葉 7/3

年間第14主日C年

 猛暑が続いていますが、皆さんお元気でしょうか。 今日の福音は72人の派遣です。
 ご自分が行くつもりのすべての町や村に弟子達を二人ずつつかわされた・・とありま。
 今日のみ言葉が私たちに教えるのは、イエス様が人々に会うための準備として、私達は遣わされている・・ということです。
 イエス様の教え、その愛、その考えを持ってゆく・・ということです。
 今イエス様がここにおられるならどう行動なさるのか、虐げられる人が居たら  泣いている人が居たら  人権を無視されている人が居たら・・・イエス様はどうなさるのか・・・そのような視点をもって派遣される必要があります。
 カトリック中央協議会の社会司教委員会、難民移住移動者委員会、カリタスジャパン、正義と平和協議会、部落問題委員会・・などはそのような視点に立って組織されています。

 二人ずつ・・というのは、一人の証言は不確かだけれども、二人の証言はたしかである・・・という当時の社会の考え方、さらには、互いに助け合い愛し合う姿をとおしてイエスの弟子であることを人々が知るため・・・ということでしょうか。

 収穫は多いが働き手が少ない、だから収穫のために働き手を送って下さるように願いなさい・・・この願いはもちろん私も働くことが前提なのです。
 「収穫は多いが、働き手は少ない」(2節)と言われるイエス様は、多くの人が神の国の呼びかけに応えるということを期待し、信じています。そして、その呼びかけに応える人々を「収穫」にたとえています。
 派遣される人自身ももちろん「収穫のための働き手」ですから、彼らが祈るのは「自分たち以外の誰かが働き手になりますように」ではなく、「自分たちだけでは足りないから、一緒に働いてくれる人を与えてください」という祈りであるはずです。

 知的障害者と一緒に仕事をするときに、彼らだけに任せておいては思うような仕事ができません。自分自身での判断を求められると、どうしたらよいかわからなくなってしまうからです。でも一緒に仕事をすれば、彼らも大きな力になります。
 かつて、お父さんが大工さんだった青年が一緒に生活していました。一人では気が大きくなって、スナックに行き、社長と呼ばれて、気を大きくして飲んだまでは良いのですが、結局はつけ馬を連れて戻ってきました。加減がわからなくて、お金が足らなくなってしまったのです。
 そんな彼一人に任せて畑にトイレをつくらせたところ、四隅に四寸角の柱を使った豪華なものを作り上げました。でも求めていたのはそのような立派なトイレではありませんでした。場違いなものが出来上がりました。
 浦和教会の聖堂内の物置も彼が作りました。また、教会外回りの三段ほどのブロックの塀も彼が作りました。これらはボランティアの建築士さんが共に働き、指導しましたので、良いものができました。

 召命を求める祈りは、共に働きますから一緒に働く人を与えてください・・と、いつもそういう祈りであるはずです。

司祭の言葉 6/26

年間第13主日C年 (ルカ9章51-62節) 

 幼稚園に一本の電話がかかってきました。 2時の迎えの時間行けないので休ませようとした。迎えが遅くなるとお母さんがなおも説得・・、3歳児の子供は「絶対に行く、これはおれの仕事だ」と。
 翌日件の子供はどうした?帰りは…?と聞いたところ、2時になってみんなが帰るとき自分も帰ると言って泣きながら外に出てきた・・、「これは君の仕事ではないのか?」と言ったところ、踵を返して部屋に戻ったそうです。
 3歳にして自分のなすべきことを理解している・・・。

 今日の福音は弟子たる者の心構えを示したものと言えます。
 イエスの弟子となった以上、イエスに倣う事だけを考えなさいという事です。
 日本では亡くなられた方々を、心を込めてお送りする伝統があります。
 死者を大切にするそのような伝統の中で、今日のイエスの言葉は理解の難しい言葉の一つです。
 「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」この言葉に戸惑い、この後に続く言葉をマタイが付け加えたと考える学者もいます。
 マタイの23章に次のような言葉があります。
 「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。
 こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。」

 ここに語られているイエスの論理によれば、彼らは預言者の墓を建てる、まさにそのことによって預言者殺しに加担していると言うことになります。
 「死人を葬ることは死人に任せろ」とイエスは言いました。 

 旧約の預言者のことが気になるのなら、あなたたち自身も預言者と同じように生きればいいんだよ。何も預言者の墓をかざりたてることは無い。ということでしょうか。

 この論理に寄れば、わたしたちが十字かを飾れば、そのことによって、イエスを殺した者に加担するのだと言うことになります。私たちに求められるのは、イエスの十字架をかざりたてるのではなく、私たちもイエスと同じように生きることです。

 ではイエスはどのように生きたのか、何故十字架にかけられることになったのか、
 底の底までえぐる鋭い社会批判、宗教批判、その教え、奇跡、信仰に乗った熱狂的人気・・・それが時の為政者の、また宗教指導者の危機感をあおったのでしょう。

 イエスに聞けば、宣教師も、司祭も、手に鋤を持ってから後ろを振り返る人が多すぎると言われるかもしれません。私も反省します。

司祭の言葉 6/19

聖体の祝日

 パン・・・懐かしい響きです。コッペパン 高校生の時 毎朝食べました。
 朝の6時 パン屋さんで焼きあがるのを待って、フランスでは軽自動車のタイヤ位もあるパンが荷台に転がされ、配達されていました。
 労働者はジャンボン フランスパンのサンドイッチとブドー酒
 映画ブラザー・サン シスター・ムーン ではフランシスコがもらったパンを小さくちぎり分け合う姿が描かれています。
 イスラエルのパンはどのようなものだったのでしょうか。当時のパンは薄くて丸いものだったようです。家長がパンをとり感謝の祈りを捧げてそれを割きみんなに配りました。

 福音書に記されている奇跡は30以上もあります。ところが4つの福音書全部に書かれている奇跡は一つだけです。それは5000人を養なわれた物語です。ですから、この奇跡が、主の行ったどの奇跡よりも人々に印象深いものであったことは疑いありません。

 イエスと弟子たちは疲れていました。イエスは弟子たちにしばらく離れて休むように指示したのでした。物語によれば大勢の群集が後を追ってきたとあります。どんな人でもくつろいだり、休んだりする機会がなければ神経質になったり、いらいらしたりするものです。私たちの主は世界を獲得するために働かれましたが休養のときを持たなければならないことも知っていました。

 今日のように生活が込み入って騒がしくなるずっと以前に、すでに神は人間が七日に一日は礼拝と魂のリクリエイション(再創造)の時を取るように命じられたのでした。わたしたちはその戒めを放り出してしまう危険があります。

 今日の物語で、群集が飢えたとき弟子たちに考えることが出来たことといえば、彼らを解散させることだけでした。しかしキリストは失望のうちに悩んでいた弟子たちに、パンはいくつあるかといわれたのです。それは、放棄してしまう前にあなたがた自身のたくわえを用いなさい、最後まで希望を持ちなさいといういみで、教訓を読み取ることもできます。

 16節「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」。
 最後の晩さんのときの動作とよく似ています。「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』」(ルカ22章19節)

 今日の福音の、5000人の群衆にパンを与えて食べさせた奇跡は、ご聖体の不思議を悟らせるための準備となる大変重要な出来事でした。わずか5つのパンを祝福して分け与えると5000人の人が食べたにもかかわらず、かごの中には多くのパンが残っていたのです。

 イエス様が残した最後の晩餐の記念のパン・ご聖体は、2000年にわたってどれほどたくさんの人に分けられてきたのでしょうか。毎日曜ごミサのときに春日部教会だけでも祝福されるパンは120枚ほどです。イエス様のお体であるご聖体は教会のはじまりから今に至るまで、実に多くの人によって永遠の命に至る旅路の糧として食べられてきたのです。このご聖体の奇跡を理解することが出来るように、その手助けとしてご聖体のパンの奇跡が行われたと教会は理解しています。

わたしたちは日々の疲れの中で休息し、パンを食べることによって力をとりもどします。
 同じように霊的にも主のみ前に休息し、霊的なパンを食べることによって信仰が養われるのです。主はこのために霊的なパンの奇跡を今も続けておられるのです。

 この奇跡がどのように行われたかはわかりません。ただそこにいた皆が飢えをしのぐことが出来たのです。

 イエス様が40日の断食の後最初に受けた誘惑は石をパンにすることでした。その時イエスは人はパンだけで生きるのではない・・と応えます。
 しかし肉体の飢えが耐えがたいものであることをご存じでした。だから群衆を養ったとも言えます。
 それは私たちイエス様の後に続くものに課せられた使命です。聖体に養われながら、世界中の人々のパンにも心を向けること、主はそれを望んでおられると思います。

 今世界の飢餓人口は8億1100万人 10人に一人が飢餓に瀕していると言われます。
食べ物が足りないから世はありません。その原因のほとんどは私たちが作り出していると言うべきなのです。

今回のウクライナ戦争によって、その30パーセントを両国の穀物に頼っていた中東アフリカの50カ国では、命を失う危険にある人は今の五倍に増えると予想されています。

 聖体によって養われている私たちは、イエス様が5000人の群衆を気遣ったように、世界の飢餓問題にも目を向ける必要があると思います。

司祭の言葉 6/12

三位一体の主日C年

 わたしたちは父と子と聖霊の名によって洗礼を受けます。今日はその三位一体の唯一の神を記念する祝日です。
 でも、今日の説教は一番説明するのが難しい。誰か、代わりに説明してくれる人いませんかね? 出来たらお願いしたいのですが。
 でもホミリアは司祭の務めです。何とか説明を試みましょう。

 まず、三位一体という言葉は聖書の中にはありません。でも暗示をする言葉はあります。
「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け(マタイ28の19)」 や、
「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。(Ⅱコリント13の13)」・・・などです。

 今日の福音でイエス様は神を父と呼び、父が持っておられるものはすべて私のものだといいます。そして来るべき真理の霊は、私のものを受けてあなた方に告げる・・・といいます。父と子と聖霊は救いの歴史の中に介入し、それぞれ固有の役割を果たしたということが出来ると思います。
 この神秘は神様の、内面の秘密です。理性では知ることができなかったのです。
 神様が人となりナザレのイエスとしておいでになるまで、イスラエルの民の信仰によっても知ることのできなかった神秘です。
 この真理はイエス様によってはじめて明らかになったものなのです。

 神様はただ一人しかおられない。でもその中に父と子と聖霊という三つの人格があるなんて、わかりませんよね。いくら説明されても、へーそうなんだ・・・としか答えようがない。

 今が旬の鮎を特徴づけるのは、強い縄張り意識を持つその性質と、味と、香りでしょうか。どれが欠けても私たちの知る鮎ではなくなる。
 祭壇のろうそくは、明るさと、炎と、熱を持っています。どれが欠けても私たちの知る火ではありません。

 そんな譬えをもって説明しようとしても、説明にはなりません。

 それは神の特徴や働きを示しても、なぜ三位一体なのかは分かることができません。

 イスラム教の創始者ムハンマドはどうしてもこの神秘を受け入れることができなかったのでしょう、そこでイエスは預言者であったが、その弟子たちはイエスを神として礼拝するようになってしまった・・と、その預言者としての使命は失敗に終わったと理解し、新しいイスラム教を起こしたのです。キリスト者はイエスを神にして偶像崇拝に陥ってしまった。あなた方はひたすら唯一の神アッラーに帰依しなさいと。イスラムは絶対帰依という意味で、その信者をムスリムと言いますが、帰依者と言う意味です。

 三位一体の一つの説明として、救いの歴史の中に神様の愛の働きの役割分担のようなものを見ることが出来ます。創造と贖いと恵みの分配という役割です。
 神によって創造された人は罪を犯し、神の恵み(命の水)が受けられなくなった。そこでイエス様は贖いの業を通して神と私たちの間に恵みの水道管を引いた。蛇口は家の中にある。でもそのままでは水は出ません。水道局に行って契約をしなくてはいけないのです。本管とつないでいただき初めて水が出るのですから。イエス様が水道管を引いてくださったと信じることがその契約にあたり、その水道局が恵みの分配者としての聖霊の役割で、世の終わりまで私たちとともにいるのですと、説明できるかもしれません。

しかし、わたくしの一番大好きな説明は、神様は愛・・だと言うことからの説明です。
 愛は他動詞ですら、愛の対象を求めます。何々を愛する・・と言う風に。でも、神は限りないお方ですから、どのような被造物もその愛の全てをを受け入れることはできません。受け入れることのできるものは無限の大きさを持たなければならないからです。それは神以外にはありえません。それを子と呼びましょう。無限に与えようとする愛=父、それに無限に答えようとする愛=子。そしてそこから生ずる限りない相互愛=聖霊。神は唯一ですから、愛の三つの形と言うべきかもしれません。それらは神の中における三つの人格(神ですから神格)として唯一の神の中に存在する・・・そう考えると、なんとなく納得いくような気がします。

 でも、やはり祈りつつ悟らせていただく、信仰の神秘なのです。
 イエス様がおっしゃったから信じるのです。  その・・、イエス様の言葉が真実であることは、復活によって証明されているので、これを信じるのです。信仰の神秘というゆえんです。

 今、この同じ信仰を持つウクライナとロシアが戦争をしています。主によってあがなわれた者同士が、ともに同じ主に祈りながらも戦っている現実をどう考えればよいのでしょうか。教会が砲弾によって破壊されているニュースを見るにつけ、割り切れない思いでいっぱいです。今わたしたちは、キリストを再び十字架にかけているのではないでしょうか。

 主に許しを願いつつ、一日も早い戦争の終結を祈りましょう。

司祭の言葉 6/4

聖霊降臨の主日

 聖霊降臨の主日おめでとうございます。主が十字架につけられてから戦々恐々としていた弟子たち、彼らは復活の主に出会ったのち、この聖霊降臨によって強められ、何物も恐れず宣教に旅立つことになるのです。

 きょうの福音では、弁護者を送ると言う約束の言葉がが語られています。最後の晩餐の席でのことです。
 ギリシア語では「パラクレートスparakletos」と言う言葉は、二つの言葉からできています。「パラpara」は「そばに」、「クレートス」は「呼ばれた者」と言う意味です。カレオーkaleo(呼ぶ)」という動詞から来ています。
 パラクレートスは裁判のときにそばにいて弁護してくれる人のことなので、朗読聖書の新共同訳聖書は「弁護者」と訳しています。

 かつて春日部教会で主任司祭をしていた中村神父は、当時神学生養成担当者をしていました。彼は神学生にとってのパラクレートスだったと思います。いつも神学生に寄り添い、教区の役員会などではいつも神学生を弁護していました。
 彼自身が神学生成担当者に守られた体験を持っています。
 時は70年安保のころ。 大学では学生運動が活発化 連日デモが繰り広げられました。
 上智大学も学生運動に対抗し学生を学校から締め出すロックアウトを行いました。
 教育の放棄でした。
 神学校でも締め付けがありました。 神学生は改革が必要だと感じ、学生会が結成され神学校側と交渉 教区司祭の司祭養成担当者(モデラトーレス)や院長を要求しました。・・・・自分たちは教区司祭となるのだから、修道会の司祭ではなく、教区司祭としての霊性を身に着けたいと。
 神学校側もこの要求を認め、修道会の司祭中心の司祭養成担当者から教区司祭の養成担当者に変わり、院長も教区司祭となりました。
 中村神父様も、この学生会の中心にいて、中心にいた神学生の何人かは教授たちににらまれ面接試験でいくつかの単位を落としたと聞いています。それを救ったのが教区の養成担当者でした。
 犬飼神父が朝霞教会で補講を行い、みな単位をとり卒業することができたのです。中村神父様は、司祭となり教区の神学生担当者に任命されると、とことん神学生のパラクレートスになりました。
 ヨハネの第一の手紙2章1節には「御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」という言葉があります。この弁護者は復活して神のもとに上げられたイエス様のことですので、イエス様こそが第一の「パラクレートス」であるということができます。
 そこで、ヨハネ福音書14章16節では、聖霊について「別のパラクレートス」という言葉が使われているのです。

 イエス様は「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と言われ、23節では続けて「わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」と約束されています。  
 ここに驚くべき約束があると思いませんか?聖霊が弟子たちに与えられるということと、父とイエス様が弟子たちと共に住む、ということが述べられているのです。
 弁護者である聖霊は、現代に生きる私たちにも派遣されています。私たちがどの様に歩むべきかを迷い途方にくれたときに、聖霊は「助け手」となって、真理を悟らせます。

 神は聖霊を遣わしてイエス様が語られた言葉をわたしたちにも思い起こさせて下さるのです。そのような体験は無いでしょうか。

 キリストを信じるものは、天と地の両方に「弁護者」を持ち、父と子と一緒に住むことを許されていると言うことが約束されているのです。
 ですから、恐れることなく自分の信仰を表明し、主の十字架と復活の証人として、愛の掟を守ってゆきましょう。
 そしてウクライナの戦争が一日も早く終わりますように、平和のために祈りましょう。

皆様の上に聖霊の賜物が豊かに与えられますように・・・アーメン。

司祭の言葉 5/29

主の昇天

20220529春日部

 主の昇天、おめでとうございます。
 ちょっぴり感染者数が少なくなってきましたね。共にミサに参加できる日を待ち望みながら、今日のミサの中で皆様の上に主の恵みを祈ります。

 山に行き、ゴンドラに乗った時、窓から見える景色はだんだん小さくなってゆきます。下から見ればだんだん小さくなって行くのはゴンドラです。
もし地上を離れて空に浮かぶ体験がしたければ、パラグライダーに乗れば体験できます。 空中に浮かび地上が遠ざかってゆく体験は感動的です。

 御昇天とはどのような出来事でしょうか。

聖書は雲に覆われて彼らの目から見えなくなったと表現しています。
 この表現に躓く人もいます。人間が宇宙に飛び出す時代ですから。
 今では誰も神の国が大空の彼方の、ある場所だ等とは考えません。
 神の国はわたしたちが神から永遠に離れることのない,祝福された状態にあることだと考えます。
 しかしここに書かれていることはほとんど2000年も前に起こったのです。当時の人は誰でも賢者でさえ、地球は平らであり大空の向こうには天国と呼ばれる場所があると考えていました。

天は場所ではないのです。・・、だから
 「なぜ天を見つめて立っているのか」と言われたのでしょう
 福音は、雲という言葉で、神の栄光に入られたという事を示しています。

 旧約において、神の栄光はエジプト脱出の時 もえる芝の中にあらわれ、シナイ山では、もえる炎の中から律法を書き記した板を頂きました。
 その栄光とは神のご自分の民に対する途方もなく大きな「愛の炎」であったのです

 新約において、その栄光はキリスト誕生と十字架 復活を通して現れ、その昇天 をもって完成します。

聖書のこの表現は、現在の人々にとっては躓きになりえます。でも、この表現は、地上を平らな面として理解していた時代の表現なのです。

ご昇天はいつも神秘として残ります → 言葉と叙述を超えるものを言い表そうとしているのです。  

ご昇天の出来事は必要だったのでしょうか。
 必要だったのです。今日の第一朗読がそのことを示しています。
 使徒たちが集まってイエスに尋ねています。
 「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか?」

 イエスがそばにいることによって弟子たちに強い依存心が生まれました。

 みどり幼稚園では、お母さんたちにお願いしていることがあります。
 入り口で子供を手渡したらすぐに立ち去るということです。
 お母さんの中には、門のところでしがみつく子供を抱いて、子供と一緒に泣いてしまうお母さんもいますから。

忘れてならないのは別離の日がなければならなかったということです。
神学者バークレーは、ご昇天は明らかに三つのことを意味しているといいます。

  1. それは終わりでした。 一つの舞台が過ぎ、次が始まったのです。血肉を備えたイエス様信じていた時代は終わり、永遠に時間と空間から自由になったイエス様につながれたのです。
  2. 同時にそれは始まりでした。 弟子たちは意気消沈してその場を去ったのではありません。 非常な喜びをもってそこを去ったのです。 何故でしょうか? もはや何物も自分たちからイエス様を引き離すことができないことを知ったからです。

パウロは言います(ロマ8の38~39)
 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

  1. さらにご昇天は弟子たちに、自分たちには地上にだけでなく天にも友人がいるという確信を与えました。 地上のイエス様と同じイエス様が天で我々を待っていてくれるという確信です。 

中村神父が病床にあった時、司教様が見舞いに行くと「早く召されるように祈って欲しい」と言いました。次に教区会計の事務をしている黒木さんが行くと、「まだ召されない。司教の祈りは効き目がないな」・・と言ったそうです。中村神父は天に帰る日を待ち望んでいました。

そして彼らはエルサレムに戻り絶えず宮にいて神をほめたたえ、間もなく舞台は、ルカ福音書から、使徒言行録に移ってゆきます。

復活のロウソクの火は消されました。しかしその光は、今から私たちの中に灯されねばならない・・・そのことを心に刻みましょう。

主の祝福が皆様の上にありますように。

司祭、鈴木三蛙

司祭の言葉 5/22

復活節第6主日C年

 火曜日の夜はお宝鑑定団の番組が長く続いています。根強い人気があります。

 私も一つの お宝? を持っています。セウイの庭に転がっていた石なのですが、誰かが削り磨いたのでしょうか、平らになっている面があります。
 あるとき気がつきました。よく見ると中に揺れているものがあるようなのです。多分水ではないかと思うのですが、水の閉じ込められている石。何石というのでしょうね。
 鑑定に出す人は、自分の持っている宝物がどのくらいの値打ちのものであるか知りたいと思っています。あわよくば高値で売れないものか・・そんな野心も透けて見えます。それが買値にはるかに及ばぬ偽物だったりすると、「だから欲をかいては遺憾のだよ・・」と、ほっとしたりします。

 1947年死海の北西、死海沿岸のクムランというところで、急な崖を駆け上って洞窟の中に姿を消してしまった迷子のヤギを追って、三人の牧童が死海沿岸を探し回っていました。崖の中腹にある洞窟に入ると、牧童はいくつかの大きな壷を見つけました。壷は壊れたものもありましたが無傷のものもあり、中にはヘブライ語で書かれた巻物が入っていました。
 それらの正体も価値も知らずに、牧童はゆったりとした衣服のポケットに入る限りの巻物を詰め込み、後日、ベトレヘムの商人に二束三文で売ってしまいました。
 それらはのちに死海文書であることが証明されてセンセーションを巻き起こし、値段のつけられないほどの価値のあることが分かりました。牧童は自分の持ち込んだものがそれほどの宝であるとは、全く考えもしなかったのです。

 多くのキリスト者は自分の持っているものが値踏みの仕様の無い宝であることに気づいていません。もし主ご自身が今日の福音にあるような、易しい言葉で語ってくれなかったとしたら、誰もそれを信じなかったでしょう。

 「私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む。」・・・凄いことではないですか。主がともにおられるということを知る平和。

 しかも、事あるときには弁護者を遣わすと言ってくださる。パラクレートス 傍に立つもの・・・わたしが子供のころは姉がそうでした。意地を張る私の代わりにいつも姉が、「もうしませんから」と謝ってくれました。

 神が私たちのうちに住まわれる・・・と言うことは、一人一人のキリスト者のうちに秘められた、大きな力です。ほとんどのキリスト者は、その宝にすがるしかないような苦難に出会っていないため、その真価を正しく認めずにいます。

 自分が運んだ宝の真の価値を知らずにいた、あの牧童のように、キリスト者でさえ、その大多数は神のことを、はるか天上の神殿で玉座についている存在と考えており、自分の内にある素晴らしい宝に気づいていないのです。

 しかし、わたしたちの主は、今日の福音で、本当に主を愛し、福音を生きようと努力する人のために、無限の神、聖なる三位一体の父と子と聖霊は、私たちのうちに住まいを構えるとおっしゃっているのです。
 この神秘を悟らせてくださるように祈りましょう。

 そしてまた、世界の平和のためにも祈りましょう。軍事力を背景にしたかりそめの平和ではなく、主が与えてくださる平和こそが誠の平和であることを覚えて。

司祭の言葉 5/15

復活節第5主日C年

 結婚式の時、新郎新婦の経歴と出会いが紹介されたのち、それぞれの両親に花束が手渡される場面があります。両親にとっては、長年の苦労が報われる時、栄光の時です。
 オリンピックの競技などでメダルを取った選手が、両親の首にこのメダルをかけてあげたいと感謝の言葉を口にする場面、両親にとって誇らしい栄光の時でしょう。
 今月30日の月曜日、浦和教区カテドラル教会で叙階式があり安神父が誕生します。コロナ下で式は司祭助祭のみで行われ、信徒の参加は認められず、ご両親もリモートでの参加と聞いていますが、それでもご両親にとっては大きな喜び、栄光の時であると思います。

今日のみ言葉はヨハネ13章の31節から35節、イエス様と神様の栄光について語られています。

 13章の冒頭では「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。」と弟子たちの足を洗ったことが語られます。聖木曜日の洗足式の原型となる出来事です。

 そして今日の朗読は、ユダが出てゆくところから始まっています。
ユダが出てゆくとイエス様は「今や人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」と語り始めます。何故でしょうか?

 ユダが裏切りを実行するために出て行ったことによって、ご受難の幕が開いたのです。
 イエス様にとっての栄光は、十字架です。父の聖心への完全な従順を示すことによって、全人類の罪を購い、アダムの不従順によって失われた全宇宙の調和を取り戻し、神に栄光を帰したのです。
 イエス様の十字架は、私たちを愛しぬいて・・・愛しぬいて受ける事を決意したものでした。
 その愛を、新しい掟として、イエス様の後に続くものにも求めます。
 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ヨハネ13章34節

 この新しい掟が、私たちのための唯一の掟なのです。
 イエス様が愛したように、私たちも互いに愛し合うことを望みながら、イエス様は父なる神に栄光を帰するために、十字架に向かいました。
 わたしたちもまたこの掟を大切にすることによってイエス様に栄光を帰することができ、その結果としてイエス様は私たちに栄光をくださるのです。

 イエス様によって購われた世界ですが、人々はいまだに争いを重ね、許すことを知りません。せめて私たちキリスト者は、イエス様が愛したように、愛することを努力するものでありたいと思います。

 今年の待降節から始まる新しい典礼の、復活節の祝福の言葉を送ります。

ひとり子の復活によって皆さんをあがない
ご自分の子としてくださった神が
皆さんを祝福し、喜びで満たしてくださいますように。 アーメン。