司祭の言葉 6/19

聖体の祝日

 パン・・・懐かしい響きです。コッペパン 高校生の時 毎朝食べました。
 朝の6時 パン屋さんで焼きあがるのを待って、フランスでは軽自動車のタイヤ位もあるパンが荷台に転がされ、配達されていました。
 労働者はジャンボン フランスパンのサンドイッチとブドー酒
 映画ブラザー・サン シスター・ムーン ではフランシスコがもらったパンを小さくちぎり分け合う姿が描かれています。
 イスラエルのパンはどのようなものだったのでしょうか。当時のパンは薄くて丸いものだったようです。家長がパンをとり感謝の祈りを捧げてそれを割きみんなに配りました。

 福音書に記されている奇跡は30以上もあります。ところが4つの福音書全部に書かれている奇跡は一つだけです。それは5000人を養なわれた物語です。ですから、この奇跡が、主の行ったどの奇跡よりも人々に印象深いものであったことは疑いありません。

 イエスと弟子たちは疲れていました。イエスは弟子たちにしばらく離れて休むように指示したのでした。物語によれば大勢の群集が後を追ってきたとあります。どんな人でもくつろいだり、休んだりする機会がなければ神経質になったり、いらいらしたりするものです。私たちの主は世界を獲得するために働かれましたが休養のときを持たなければならないことも知っていました。

 今日のように生活が込み入って騒がしくなるずっと以前に、すでに神は人間が七日に一日は礼拝と魂のリクリエイション(再創造)の時を取るように命じられたのでした。わたしたちはその戒めを放り出してしまう危険があります。

 今日の物語で、群集が飢えたとき弟子たちに考えることが出来たことといえば、彼らを解散させることだけでした。しかしキリストは失望のうちに悩んでいた弟子たちに、パンはいくつあるかといわれたのです。それは、放棄してしまう前にあなたがた自身のたくわえを用いなさい、最後まで希望を持ちなさいといういみで、教訓を読み取ることもできます。

 16節「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」。
 最後の晩さんのときの動作とよく似ています。「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』」(ルカ22章19節)

 今日の福音の、5000人の群衆にパンを与えて食べさせた奇跡は、ご聖体の不思議を悟らせるための準備となる大変重要な出来事でした。わずか5つのパンを祝福して分け与えると5000人の人が食べたにもかかわらず、かごの中には多くのパンが残っていたのです。

 イエス様が残した最後の晩餐の記念のパン・ご聖体は、2000年にわたってどれほどたくさんの人に分けられてきたのでしょうか。毎日曜ごミサのときに春日部教会だけでも祝福されるパンは120枚ほどです。イエス様のお体であるご聖体は教会のはじまりから今に至るまで、実に多くの人によって永遠の命に至る旅路の糧として食べられてきたのです。このご聖体の奇跡を理解することが出来るように、その手助けとしてご聖体のパンの奇跡が行われたと教会は理解しています。

わたしたちは日々の疲れの中で休息し、パンを食べることによって力をとりもどします。
 同じように霊的にも主のみ前に休息し、霊的なパンを食べることによって信仰が養われるのです。主はこのために霊的なパンの奇跡を今も続けておられるのです。

 この奇跡がどのように行われたかはわかりません。ただそこにいた皆が飢えをしのぐことが出来たのです。

 イエス様が40日の断食の後最初に受けた誘惑は石をパンにすることでした。その時イエスは人はパンだけで生きるのではない・・と応えます。
 しかし肉体の飢えが耐えがたいものであることをご存じでした。だから群衆を養ったとも言えます。
 それは私たちイエス様の後に続くものに課せられた使命です。聖体に養われながら、世界中の人々のパンにも心を向けること、主はそれを望んでおられると思います。

 今世界の飢餓人口は8億1100万人 10人に一人が飢餓に瀕していると言われます。
食べ物が足りないから世はありません。その原因のほとんどは私たちが作り出していると言うべきなのです。

今回のウクライナ戦争によって、その30パーセントを両国の穀物に頼っていた中東アフリカの50カ国では、命を失う危険にある人は今の五倍に増えると予想されています。

 聖体によって養われている私たちは、イエス様が5000人の群衆を気遣ったように、世界の飢餓問題にも目を向ける必要があると思います。