司祭の言葉 7/10

年間第15主日 C年 (ルカ10章25-37節)

 皆さんおはようございます。また少し新型コロナウイルスの感染者数が増えてきましたね。BA5という新型の株に置き換わりつつあるとか、心配です。特に医療従事者の方々は本当に休む暇もありません。 一日も早い終息をお祈りください。

 今日の福音に登場するエリコの町は、エルサレムから東北東22キロ、海面下250メートルの町です。途中は荒野で、強盗も出没するところだったようです。

 登場人物の律法の専門家は、律法を人々に教え、律法によって民衆を指導していた人々でした。律法学者が引用する「神を愛し、隣人を愛する」ことは、申命記6章5節とレビ記19章18節に記された律法の言葉で、イエス様と律法学者との間に意見の違いはありませんでした。 
 しかし、何が大切な掟かという点でイエス様と同意見でも、隣人愛の掟の受け止め方は大きく異なりました。律法学者は『隣人』とは『近くにいる人』の意味でとらえ、どの範囲までが隣人なのかを定義しようとしました。 律法学者がこのように考えたのも、律法を忠実に守ろうとし、この隣人愛の掟を間違いなく実行したいと考えたからなのだと、思われます。

 律法学者たちが考えたのは、隣人を愛するためにはまず「隣人とは誰か、どの範囲までなのか」を定義する・・ということでした。 この律法学者の考えでは「罪びとや異邦人は遠ざけるべきもの、排除すべきも」と思いこそすれ、隣人愛の掟の対象になるとは、考えもしなかったのだろうと思います。

 今世紀に入って、世界中で日本人が巻き込まれたテロ事件はどのくらいあると思われますか? 調査庁の資料によりますと41件もあります。

 そのうち2016年7月1日に起きた事件は、武装集団がバングラディシュ・ダッカのレストランを襲撃し、日本人を含む20人が殺害され多くの人が負傷しました。
 このとき一人の日本人が、「私は日本人だ撃たないでくれと」言ったと伝えられています。バングラデシュは親日の国として知られていました。だからそこに期待したのかもしれません。 しかし「かれらにとっての友人の基準」は別にありました。コーランを読ませて、読めないものは殺されたという事でした。私もアラビア語は読めませんから助かりませんね。

 今日のたとえ話の「祭司とレビ人」は、両方とも神殿に仕えている人であり、真っ先に律法を実行するはずの人でした。でも、彼らは道端に倒れている人を「見ると、道の向こう側を通って行った」とあります。なぜでしょうか。まだ強盗が近くにいると思ったからなのでしょうか、危険を避けるためだったのでしょうか。
 神学者たちは、彼らは神殿での務めのために、死体に触れて汚れることを避けようとしたのであろうと考えています。
 人々が待ちわびている尊い聖務のまえには、一人の人間の救援は、少なくとも最優先事では無かったのだと言えると思います。何が優先されるか・・私たちも時々迷います。家に病人がいるけどどうしよう、日曜日だから教会に行くべきか、それとも家に残るべきか・・など。

 一方で、三番目に登場した、律法学者の考えの中では、自分たちの「隣人」の範疇には入らないサマリア人は、「見て憐れに思い、近寄って」手厚く介抱します。この違いはどこにあるのでしょうか。

 聖書学者は「憐れに思い」と訳されている言葉に注目します。「スプランクナsplankna(はらわた)」を動詞化した「スプランクニゾマイsplanknizomai」でという言葉です。「はらわたが痛む」「はらわたがゆさぶられる」ことを意味する言葉で、はらわたする と訳する聖書学者もいます。      
 このサマリア人は、「この人は隣人だから」という理由ではなく、「はらわたがゆさぶられた」から助けたのです。

 イエス様にもはらわたが揺さぶられるようなことがありました。 (マルコ6の34) 「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ・・・」5000人を前にしてパンの奇跡を行ったときですが、この時の「深く憐れみ」という言葉もスプランクニゾマイという動詞です。

 そしてもっとも大切なことは、「誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」というイエス様の問いかけの言葉にあります。
 「わたしの隣人とはだれですか」という問いに、イエス様は「だれが隣人になったと思うか」と問い返されるのです。

大切なのは、わたしにとっての隣人ではなく、相手にとっての隣人という視点です。

 春日部教会の有志が子ども食堂を開いていますが、ここに来る子供たちにとって、ひつじ食堂のスタッフが隣人になっていることは確かでしょう。
 同じような視点で、わたしも、いろいろな場面で、自分が相手にとって隣人になっていたかどうか、自分の行動を振り返ってみたいと思います。