司祭の言葉 1/17

年間第2主日B年

 さて、今日の福音ですが、一章のヨハネの証の部分から続いています。括弧して〔そのとき〕とありますが、原文では「その翌日」とあります。何の翌日かと言いますと、イエスが洗礼を受けた翌日ヨハネは向こうを往くイエスを見て弟子たちに「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」とのべています。今日の話はその翌日、つまりイエスの洗礼から三日目の話として述べられているのです。この日も歩いているイエスを見て一緒にいた二人の弟子に再び「見よ、神の小羊だ」というのです。そしてこれを聞いた二人の弟子、ヨハネとアンデレはイエスの傍に行くことになります。

 イスラエルの民のエジプト脱出の夜、エジプト中の長子の命が断たれましたが、小羊を屠りその血を家の鴨居に塗ったイスラエルの家では長子の命が保たれました。小羊が身代わりとなったからです。この時以来は毎年過ぎ越し祭で小羊を屠ってこれを記念するとともに、毎日人々の罪の赦しを願って子羊が屠られてきました。洗礼者ヨハネの「神の小羊」と言う言葉には、イエスが生贄となってイスラエルを贖うという思いが込められています。ヨハネは自分の栄光を求めるのではなく弟子たちにイエスを指し示し、イエスのもとに行く様に仕向けたのです。他の弟子たちはイエスのもとに行く人々を見てねたみますが、ヨハネはそれが自分の使命であると語ります。ヨハネは自分の役割を深く自覚していたのです。
 多くの場合人は自分の限界を認めたくなくて、人をねたみます。私も妬み心が人一倍強いと思います。サッカーなどスポーツの試合を落ち着いて見ていられないのも、ハラハラドキドキするのが苦手と言う気の弱さだけではなく、妬み心のせいかもしれません。自分にその能力のないことをまざまざと見せつけられますから。

 さて、この後もいくつかの黙想ポイントがあります。
内気なため正面切ってイエスに近づく事が出来なかったふたりの弟子に、イエスから彼らに歩み寄られっました。 人間の心が真理を求めはじめる時、主はわたしたちの元に来て下さいます。何を求めているのか・・・と。
 ヨハネの弟子達の返答は直接答になっていません。 「どこに滞在しておられますか・・」
 彼らがのぞんでいたのは、イエスと歩きながら話す事だけではなかったのです。それでは、イエスと知り合い、ただ言葉を交わすだけで終わってしまいますから、泊まって、自分達の悩みや問題をイエスに聞いてもらいたいと望んでいたのでしょう。

 38-39節にある3回の「泊まる」はギリシア語では「メノーmeno」という言葉が使れていますが、この言葉はヨハネ福音書の中で大切な使われ方をしているといいます。
 ヨハネ15章には「 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。・・・ わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」とありますが、ここで「つながっている」と訳されているのは「メノー」です。
 「メノー」は父とイエス、イエスとわたしたちの深い結びつきを表す特別な言葉です。「どこに泊まっておられますか」は、単に滞在先をたずねているだけでなく、「あなたはいったいどういう方ですか。神とどのような関係にあるのですか」という問いでもあるのです。

 父なる神にイエスが留まり、そのイエスに弟子達が留まる事によって、かれらのあたらしいあゆみがはじまります。

 思えば神学生の頃 北側の部屋で遅くまで議論し飲み明かしました。司祭となって長江司教さんともよく飲みました。第二バチカン公会議の動向を学びながら夜中まで・・。修道士さんがのぞきに来て司教さんを見てあわてて引っ込んだこともありました。夜を徹して教会の現状について、未来について議論を戦わしました。今でも残る強い印象です。仲間が一人また一人と天に召され、今ではその時のような情熱も根気もなくなってしまっているのが寂しいですね。

「午後四時ごろのことである」という言葉は、日没に近いあかね色の日差しの中でイエスと初めて出会った、忘れ得ない強い感動を伝えようとしているのかもしれません。

司祭の言葉 1/10

主の洗礼

 主の洗礼の祝日が来るといつも思い出す出来事があります。
 ちょうど今から22年前の1月10日も主の洗礼の祝日でした。その4日前6日に、杉戸の施設セウイホームでは一つの洗礼がありました。50歳近くになる女性ですが、4日に酒を飲み過ぎて杉戸の東埼玉病院へ救急車で運ばれる騒ぎがあり、一日おいて6日に会社へ出勤しましたが酒が入っていたので帰されると、途中でまた酒を飲み泥酔、再び救急車の世話になり、酔いが醒めて病院から帰る途中また飲んで、再び同じ救急車の世話になりました。でも病院がどこも拒絶して、越谷警察署がホームへ送り届けてくれました。コートを脱がせようとするが脱ぎません。実はポケットにワンカップを入れていたのです。言うことを聞かないので、風呂場でバケツの水を頭から。続いてもう一杯。そしてもう一杯。
 洗礼は手のひらで三回ですが。彼女はバケツで3杯。しかし、洗礼を受けたいという希望がなかったので、この洗礼は無効です。酒の洗礼なら受けたいと思っていたかもしれません。

 さて今日の福音ですが、イエスは30歳でバプテスマのヨハネの噂を聞き、ヨハネの元に出かけました。そして洗礼を受けたのですが、一つの疑問が生じます。何故罪のないイエスが悔い改めの呼びかけの洗礼を受けたのか・・・ということです。
 神学者たちの答えはこうです。ユダヤ人はこれまでユダヤ教への回心者のためにはその儀式として洗礼を授けたのですが、自分たちが洗礼をうけることはありませんでした。しかしこのとき人々の心は神の介入に対して準備しようとして、回心に動いていました。イエスはその心に同調して洗礼を受けられたと思われます。人々の悲しみを身に負い、共に神を探し求められた主は、そこに神の意志をみたのです。
 洗礼はイエスが人々と心を一つにし、人間とご自分を等しくされるための行いだったと考えられます。そのことを神は正しいと認められ応えられたのが、「あなたは私の愛する子、私の心にかなうもの」という言葉です。
 私たちにはいろいろな色々な出合いがあります。その出合いのなかで、求めるものは神のこたえ(恵)をみつけ、心をとざすものはチャンスを失います。
 イエスはヨハネのもとにゆくことによって「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」という神の応えを得ました。
 私達も今日、神の声をきいたら神に心を閉さ無いようにしましょう。

イエスは群衆の中に身を置こうとしました。神の子はそれほどまでして、私たちと一つになり語りかけたかったのだと思います。イエスの洗礼は、罪の重荷のため悩む私たちの元に身を置くための行為でした。
 イエス様は神様のプレゼントです。  昨日片付けましたが、馬小屋のようなクリスマスの飾りではありません。飾りは、必要なときに出して、普段はしまっておきますが、イエス様はいつも私たちのそばにいることを望まれるのです。
 イエスの洗礼の意味を問いながら、イエスの思いを黙想しましょう。

司祭の言葉 2021/1/3

主の公現 (マタイ2章1-12節)

博士たちの礼拝

 今日は主の公現の祝日です。今週いっぱいキリストの誕生を祝います。本来は1月6日ですが、平日に祝うことの難しい日本では1月2日から8日までの間の主日に祝われます。 「公現」はギリシア語で「エピファネイア」、「輝き出る」と言う意味です。イエスが神の子キリストとしてユダヤ人以外に現されたことを記念します。
 博士たちが贈り物をしたことから、フランスやイタリアまたメキシコなどでは、この日にクリスマスのプレゼントをするそうです。

 「占星術の学者」はギリシア語では「マゴスmagos」です。メディア(今のイラン)の一部族であり、祭司階級だった「マギ」に属する人の意味で、哲学、薬学、自然科学に秀で占いをし 夢を解いていました。マギの見た星については、いろんな説があります、
① BC11年頃 ハレー彗星が長い尾を引て空に現れた。 
② BC7年には、土星と木星が接近して強い光を放った 
③ BC5年には異常な天体現象が見られた・・・などです。
マギが見たのはどれかわかりませんが、天体を見るのを専門としていた人達は、空が明るく光ったのを見て王がこの世に生まれたのを知りました。戸籍調査は14年ごとに行われており、紀元20年から270年までに行われた調査については記録が残っています。シリアでも行われていたとするとこの個所にある調査は紀元前8年に行われていたことになります。このことと照らし合わせますと誕生前の出来事、BC11年のハレー彗星の線が有力になります。
 人々は時にその生涯をかけて真実の探求にのぞみます。ナイルの源流をさぐって未だ発掘されていない王の墓を探し、邪馬台国の場所を求め、考古学者の研究はカッパドキアの地下に一万数千人が生活できる都市が見つけ、クフ王の墓に巨大な隠し部屋があることぉ突き止めています。マギ達は長い間救い主誕生の時を、天体の運行を見ながら待ち望んでいたと思われます。

 ヘロデは紀元前37~前4年、王としてパレスチナを支配しました。ローマ帝国からユダヤの王として認められていたヘロデですが、純粋なユダヤ人ではなくイドマヤ人の血を引いていたので、ユダヤ人からは正当な王と認められていませんでした。そこで「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」の知らせを聞いたときに自分の地位を脅かす存在と感じて不安になったのです。
 学者たちが幼子を訪問したこの出来事は、イエスによってもたらされた救いが民族の壁を越えてすべての人にもたらされる、ということを示しています。
「黄金、乳香、没薬」にそれぞれシンボリックな意味を見ることもできます。
 黄金は王の権力、乳香は神へ捧げもの、没薬は葬りに使われることからイエスの十字架上の詩の暗示・・などです。
 選民の準備は4000年でしたが、公の到来の式は異邦人によって行われました。
 贈り物について、聖アンブロジオは (374年没ミラノ司教)

「神は我々が彼に与えるものよりも、自分のためにとっておいて、捨てきれない物の方に気をつけておられる」・・・といいます。
 私はこの聖アンブロジオの言葉に戦慄します。

司祭の言葉 12/27

聖家族(ルカ2章22-40節)

主の奉献

 わたくしの好きなテレビ番組に「ドクターX」があります。マイペースな大門みち子のセリフが痛快でした。「論文の手伝いいたしません。院長回診のお伴いたしません。医師の免許がなくてもできる仕事は致しません。」
 司祭は何というべきでしょうか。 「司祭の免許がなくてもできる仕事は致しません・・」ですか? そうすると一日中ほとんど何もしないことになります。司祭しかできないことは何か。七つの秘跡のうち、堅信、聖体、ゆるしの秘跡、病者の塗油の4つですね。 叙階は司教様 洗礼と婚姻は司祭に限りませんから。もっとふさわしい方がいらっしゃいますが、それでも、ミサの説教は司祭の仕事ですね。  

 さて今日の福音です。旧約聖書には出産についての規定がありました。
「妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚(けが)れの日数と同じ七日間汚れている。八日目にはその子の包皮に割礼を施す。産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない」(レビ記12章2-4節)。
 ですから、「モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき」とは誕生から40日後ということです。

  このいけにえは本来「一歳の雄羊一匹」と「家鳩または山鳩一羽」です。でも、「産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合」として鳩だけのいけにえが認めていました(12章8節)。この生贄はどのような意味を持つのでしょうか。
 出エジプト記13章11節から16節までに、贖いの規定がありました。これも読んで見ましょう。
 主があなたと先祖に誓われたとおり、カナン人の土地にあなたを導き入れ、それをあなたに与えられるとき、初めに胎を開くものはすべて、主にささげなければならない。あなたの家畜の初子のうち、雄はすべて主のものである。ただし、ろばの初子の場合はすべて、小羊をもって贖わねばならない。もし、贖わない場合は、その首を折らねばならない。あなたの初子のうち、男の子の場合はすべて、贖わねばならない。将来、あなたの子供が、『これにはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『主は、力強い御手をもって我々を奴隷の家、エジプトから導き出された。ファラオがかたくなで、我々を去らせなかったため、主はエジプトの国中の初子を、人の初子から家畜の初子まで、ことごとく撃たれた。それゆえわたしは、初めに胎を開く雄をすべて主に犠牲としてささげ、また、自分の息子のうち初子は、必ず贖うのである。』あなたはこの言葉を腕に付けてしるしとし、額に付けて覚えとしなさい。主が力強い御手をもって、我々をエジプトから導き出されたからである。」
 申命記6章のシェマー同様に「あなたはこの言葉を腕につけてしるしとし、額につけて覚えとしなさい」・・・と、あります。忘れてはならない最重要な事柄なのです。

 最初に胎を開くものはすべて犠牲として主に捧げられるべきものなのです。それを神から買い取る行為が贖いです。鳩を生贄としてあがなわれたイエスは、今度は自分を生贄として私たちを購うことになります。

司祭の言葉 12/20

待降節第四主日B年 2020.12.20

マリアのフィアット

 主の降誕を間近に迎えた今日のみ言葉は、マリアへのお告げです。マリアはこの時喜んだのでしょうか。皆さんはどう思っておられましたか?
 マリアは心底困惑したと思います。フランスの宗教史家ダニエル・ロップス著(1901~1965)「イエス時代の日常生活」はこう記します。「イスラエルは早婚であった。男は18歳が結婚に最適であると考えた。娘は早く結婚させられた。律法によれば12歳半が適齢であった。童貞マリアがキリストを生んだときは、かろうじて14歳の少女であったに違いない。」婚約者によらない妊娠・・それが神の業であっても、ユダヤ人社会の厳しい道徳律がありました。石打の刑です。「姦淫の罪を認められた婚約者は、妻のごとく投石された」とダニエル・ロップスは記しています。
 マリアは(なれかし)と答えました。命の危険を覚悟してのことだと思います。

 信仰が人間を否応なしに困惑する事態に直面させることがあります。人間の弱い心はそれを嘆かずにはおれません。遠藤周作の短編 最後の殉教者に登場する 浦上中野郷の喜助は、象のように大きいからだですが、しかし無類の臆病者です。 蛇をみても飛び上がりますし、悪ガキから一物を見せろと言われても堪忍してつかわさい、堪忍してつかわさいと平謝りするだけです。同じ仲間の伸三郎はそれを見ていて、ゼズスさまを裏切るユダのようになるかもしれないと危惧します。
 1867年の夏 浦上四番崩れで提灯を掲げた取り方が包囲、捕らえられた時、取り方が両手両足 首、胸に縄をかけ、一か所にくくると、「かんにんしてつかわさい 」とくりかえしころびます。しかし、のちに、捉えられた仲間を見て津和野の仲間のもとに戻るのです。その時、甚三郎は「くるしければころんでええんじゃぞ お前がここに戻ってきただけでゼズスさまは喜んでおられる」と叫びます。

 塚という石碑があります。青面金剛と三猿を彫った石で、青面金剛の身は青く、目は赤く身に蛇をまとい足下に二匹の鬼を踏みつけています。肺病を除く鬼で、神道では猿田彦・天孫降臨の道案内です。 鼻が高く神社の祭礼では天狗の面をかぶり矛を持っています。 渡良瀬遊水地の近くにある庚申塚の像は、ミトラのような被り物をかぶり、手に持つ錫杖の上部は十字架になっています。
 庚申講はあやしまれずに集まって祈ることのできるひとときでしたので、隠れキリシタンによって利用されたといいます。この庚申塚を彫ったキリシタンは、どのような思いで石を刻み、それを野辺において祈ったのでしょうか。露見したときのことを思わなかったか、どのように子孫に伝えようとしたか、など考えてみます。

 神を信じることが生命の危険を伴った、神の命をいただくことがこの世の生命と引き替えだった時代がありました。 
 でも、神の力はただ人間を困惑に陥れて終わるのではありません。  窮状を乗り越えさせ「さいわいなるかな」との声を上げさせることが起こるのが、教会なのです。そして、マリアの命がけの(お言葉通りになりますように)によって、かみの言葉は肉となったのです。

司祭の言葉 12/13

待降節第3主日B年(2020/12/13)

喜びの主日

 今日は「喜びの主日」です。今日の入祭唱にガウデーテGaudete in Domino semper:主にあっていつも喜べ。重ねて言う喜べ。主は近づいておられる(フィリピ4:4-6)とあるからです。

 第一朗読のイザヤの預言も「私の魂は私の神にあって喜び躍る」とかたり、答唱詩編はマリアの賛歌「私の心は神の救いに喜び躍る」とうたい、第二朗読はパウロのテサロニケの教会への言葉、「いつもよろこんでいなさい」という言葉を取り上げています。
 教会で降誕日が統一してこの時期に祝われるようになったのは4世紀も半ばのことのようですが、この祝祭への準備期間として、復活祭の前に設けられている「40日」の半分の期間を宛てるようになりました。そして、第三主日に「ばら色」の蝋燭が灯されるのも、受難節の典礼から借りたものです。
 待降節の典礼は、4週の前半を終末の「王なるキリスト」の来臨を待ち望む主日、また後半の2週を「預言の成就」を待ち望む主日となっていて、前半の二週では預言者の声に従って神に立ち返るよう呼びかけ、後半の二週では、預言の成就にたいする期待が述べられてゆきます。

 今日の福音は、ヨハネの証が述べられていますが、洗礼者ヨハネがその到来を予告した救い主が、すぐ近くに来ておられる、という喜びの雰囲気の中でこの主日は祝われるのです。
 20節の「メシア」はヘブライ語ですが、ギリシア語では「クリストス=キリスト」です。どちらも神から「油を注がれた者」「王」「救い主」を意味します。メシアを待ち望んでいた人々に対して、ヨハネは「わたしよりも優れた方」が来ると予告しました。「履物のひもを解く」のはしもべの仕事で、「わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」 自分は、光について証しするために来たもの、荒れ野で叫ぶ声だといいます。
荒れ野は人のいないところです。ヨハネはひとのすくないところで叫んでいたのですが、その声を聴いて多くの人が集まってきたのです。ヨハネの言葉の中に心に響くものがあったため、そこでは真実が語られていたからでしょうか。
 「証しする」という言葉ですが、ある事件の証人とはその出来事を確かに見たり経験したりした人を意味します。自分が「見たこと、経験したことを語る」のが「証言する」ということなのです。洗礼者ヨハネも神から「後から来られる方」を示されたからこそ、その方について証言したのでしょう。

 私たちにとっての証は何でしょうか。私たちが経験した事とは何でしょうか。
 使徒たちが証したものは、キリストの死と復活でした。私たちが受け継ぐ証もまさにここにあると思います。そこに人がいなくても、荒野であっても、見たこと経験したことを、喜びをもって証しすることが求められているのです。いや、証ししないではいられないというべきでしょう。ミサにあずかるということは、最後の晩餐の出来事を体験しているということ、見聞きしているということ、神の恵みの実体験なのですから。

司祭の言葉 12/6

待降節第2主日B年 2020/12/6

回心の呼びかけ

 待降節の第2主日は、メシアの到来に備えて準備しなさいと言う、バプテスマのヨハネの言葉が朗読されています。
 メシアの来る裁きの時は近い、だから、悔い改めてバプテスマを受けなさい。頭まで水に浸かり回心の情を表し、生き方を改めなさい、そう呼びかけました。
 並行カ所のマタイとルカでは、「その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言った後で、「そして、手に箕をもって脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて蔵に入れ、殻を消えることない火で焼き払われる」と言っていますから、洗礼者ヨハネの思っていた洗礼とは、火による神の裁きでした。

 9月になるとセウイのお隣の作業小屋がにぎやかになります。お米を乾燥させ脱穀する音がしばらくの間続きます。小屋から長い太い筒が外に出され、そこから、脱穀されたもみ殻が吐き出されて大きな山を作ります。
 昔は箕と言う道具で脱穀されたコメを放り上げると、風で軽いもみ殻が飛ばされ、重いコメは箕の中に残りますので、これはカメの中に収められます。脇の方に飛ばされたもみ殻はそこに山を作りますが、その山にはあとで火がつけられ、焼かれて炭状になります。そして畑にまかれるのです。車で近くを通りますと車の中までその煙が入ってきて、小生はそこに秋の訪れを感じます。
 洗礼者ヨハネは裁き主としてのメシアの到来を予想していましたが、実際においでになった方は、ご自分を生贄として、人々の罪の赦しを願う仲介者としてのメシアでした。そして、聖霊による洗礼の意味が明らかになったのは、ペンテコステの時でした。それは、私たちが受けた洗礼そのものです。罪を許し、神の子とし、神の命に与らせるものです。

 待降節の今、私たちに求められる悔い改めとは、何でしょうか。それは回心、自己中心の生活から、イエス中心の生活に向きを変えることです。それは、イエスの目で周りの人たちに目を向ける事、イエスが愛したように互いに愛し合うことではないでしょうか。
 例えば、11月30日のさいたま新聞の記事ですが、世界の飢餓状態にある人たちに支援が届きにくくなっているそうです。コロナのために人の行き来や物質の行き来が制限され、必要な支援が届かないため、年末までに一日12000人の餓死者が出る恐れがあるそうです。一日は1440分ですから、12000を1440で割ると、8.3.今こうして話をしている間にも、一分間に8人ずつが死んでゆく計算になります。
 一昨日のニュースでは、女性の雇用危機が深刻だと述べていました。看護師やパート労働者、業務委託の方が仕事を失い、休業手当も受けられないそうです。それは休業者の25%に及び、休業者の38.5%の女性は再就職ができていないといいます。男性の24%に比べると、女性の方が苦しいところに置かれています。この方がシングルマザーでしたら、子供たちも飢えることになります。

 先日教会にポスターが届いていましたが、さいたま教区では毎年待降節の金曜日、イエスを食卓に招く、イエスの食卓献金が行われています。ご存知だったでしょうか。
 コロナ下の世界では厳しい現実があります。イエスならどうするのでしょうか、祈り且つ行動することが求められているのではないでしょうか。 私がアフリカで生まれていたなら、支援を受ける立場で、何もできないでしょう。でも日本に生まれています。イエスが私に何を求めているか、それを考えてみたいと思います。

司祭の言葉 11/29

待降節第一主日マルコ13の33から37 (2020/11/29)

 目を覚ましていなさい。車を運転していると目をしっかり開けていたつもりがハッとすることがあります。昨日も加須に行く途中そうでした。あわてて珉珉打破を飲みました。眠気覚ましのドリンクです。一本300円ですが、50本の大量買いで222円で手に入れました。目を覚ましているつもりでも眠ってしまうことは多々あります。

 今年はコロナに対する警戒が2月ごろから絶え間なく続いています。でも気を許すとすぐさま感染者が増えてしまいます。営業時間の短縮、ゴーツ トラベル、ゴーツ イートの見直しが図られることになりました。
 先日ある通夜では、歌を3曲、答唱詩編が3回、しかも3番4番まで皆さんが歌い、その中にはマスクを外して歌う人も。司教さんの注意も忘れてしまうのでしょうね。 葬儀では奏楽にして、歌わないようにお願いしました。ずーっと目覚めていると言うのは本当に難しいです。
 今パンデミックを引き起こしている新型コロナウイルス出現は、クローン人間を作り神になったかのように錯覚している人類への警告にも思えます。この目に見えないウイルスに、全人類がほんろうされています。ここに、時のしるしを見るべきだろうと思います。
 いかなる時にも、イエスと面と向かい合って顔を合わせられるように、今なすべきことを確認し、備えをするということが大切であると思います。

ところで、何故キリスト誕生を待ち望む待降節の最初の主日に、終末に備える朗読があるのでしょうか。
 聖書学者ヨアヒム・エレミアスは、今日のカ所も本来は「天の王国の鍵を持っている」と主張する人々に対して語られた、と言うのがもっともありうる話だと言います。律法学者たちに対して、最後の決定的な時間を迎えた時、眠っているのを見られないように注意しなさい・・と。
 ユダヤ人たちは長い間、メシアの到来を待ち望んでいました。でも彼らは先駆者として送られたバプテスマのヨハネをうけいれることもできませんでしたし、イエスをも受け入れることが出来ませんでした。目が有っても見えず、耳があっても聞こえなかったのです。
 教会は待降節の第一主日にこの朗読を置いて、ユダヤ人の轍を踏まないようにと、注意を促しているのです。

司祭の言葉 11/22

王であるキリスト マタイ25章31-46節 2020/11/22

有罪の理由

 今日の王の裁きの譬えは、5人の賢い乙女と5人の愚かな乙女の譬え、タラントンの譬えに続く話となっています。用意の無かった油とは何か、土に埋めたタラントンとは何か、今日の箇所がその説明になっていると神学者たちは考えています。

 昨日の新型コロナウイルスの新規感染者は東京都で543名となりこれまでで最大となりました。全国で見ますと19日現在で感染者は122966名となり死者は1922名。戦後、これほど毎日死と向かい合うことになった年なかったと思います。人類はほとんどの病気や災害に対して克服できたと有頂天になっていました。今回のパンデミックはそのような人類への大きな試練です。
 今日の福音は私たちが神の前に立つときに、何をもって裁かれるかを示しています。
疑問の余地はありません。隣人愛です。 「この最も小さい者」とは、実際にわたしたちの目の前にいて、助けを必要としているすべての人を指しています。

 油の用意の無かった乙女たちも、タラントンを土に埋めた僕も同じです。善い行いを怠った乙女たち、善い行いを土中に埋もれさせていた僕なのです。 しかも、イエスはそれ以上のことを言います。「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と。そのため「キリスト信者が苦しむ人を助けるのは、相手のためではなく、キリストのためなの? 結局自分が最後の裁きで有利になるためなの?それが本当の愛と言えるの?」・・と疑問を呈する人がいます。決して、そうではないと思います。
 イエスのためではなく、そこにいるその人を大切にして注がれる愛、それだけで良いのです。裁きではキリスト者であるかどうかも問われていませんし、神のためにしたかどうかも問われてはいないのです。
 正しいものは、どのような助けを施したかについて意識した事もなく、貧しい人や疲れ果てた人を介して、隠れたメシアがその人に出会っているという考えもないのです。

 「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」とイエスがおっしゃったのはなぜでしょうか。
 イエスご自身が、ゴルゴタの丘への歩みの中で、彼らと同じになったのです。エルサレムの町に入ったとき、イエスは「飢え」ていましたし(マルコ11章12節参照)、十字架の上では渇くと呻き(ヨハネ19章28節)。イエスの公生活は旅の連続でした。逮捕されたイエスは一晩、大祭司の屋敷の「牢」にも入っています。十字架にかけられるとき、イエスは衣を脱がされて「裸」となり、十字架の道では何度も倒れ、弱り果て、鞭うたれ、命まで奪われまたのは病気以上の苦しい出来事でした。
 イエスの十字架への歩みは、苦しむすべての人と一つになる道だったのです。だからこそ、イエスはその小さくされた人たちを「わたしの兄弟」と呼び、彼らとご自分が一つであると語られたのです。

神の目から見て何が決定的に大切なのか、旧約聖書にも記述があります。「私が喜ぶのは愛であって生贄ではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」(ホセア6の6)

司祭の言葉 11/15

年間33主日 2020.11.15

タラントンのたとえ

 かつて教区会計をしていた身としては、今日の話はいつも引っかかるんですよ。5タラントン2タラントンを預かって商売をしてそれぞれ倍に増やした話でしょう。それと比べれば、確かに銀行に預けてはいるのですが、さいたま教区の会計を預かる司祭たちも、あまり役に立たない僕だなあと思うのです。増やすこともできず、減らす一方ですから。専門外だから仕方がないといえばそうですが。
 さいたま教区の持っているお金は、せいぜい6億円ほど、10タラントンです。でも、この主人は大金持ちですよ。5タラントン(3億円)をわずかなものというのですから。この主人が神様なら、何タラントンでも、何十タラントンでも僅かなお金でしょうね。

 今日の福音は何を言いたいのでしょうか、お金儲けの話でないことは確かです。
1タラントンは6000デナリオンと説明されています。1デナリオンは労働者の一日の賃金ですから、仮に1万円としますと6000万円。それを埋めておいたことが非難されているのです。そして役に立たない僕と言われています。ルカによる福音書ではミナの例えとして、10人の僕それぞれに1ミナずつ預けられています。1ミナは100デナリオンで非難された僕は布に包んで持っていましたから、土に埋めていたマタイの僕のほうが安全に保管していたといえます。でも非難されたのはなぜでしょうか。

 まず、イエス様は誰に向かって、何を言おうとしてこのたとえを語られたのでしょうか。そこが問題です。実は、この怠惰な僕こそイスラエルの指導者、特に律法学者とパリサイ人を指しているのです。彼らは律法を授かったのですが、その細かい規則を作り、人々に重荷として背負わせ、それを守ることにきゅうきゅうとして、律法の真髄、神様への愛と隣人への愛、神の寛大さについては語りませんでした。神を独占して、祝福の基とならなかったこと、宣教に力を尽くさなかったこと、そこが非難されているのです。埋めておいたのはまさにそのような神のたまものでした。

 そしてマタイの教会はこのお話を自分たちに当てはめて考えました。イエス様のイスラエルの指導者に対しての非難は、私たちにとっても他人事ではないと。自分のこととして読まねばならないのです。そして、反省しなければならないのです。果たしてわたしは自分のタラントンをうまく活用しているだろうか・・・と。運用するのが面倒だと言って、穴を掘ってうずめてしまってはいないかと。
 わたしたちはみな神様からお預かりしているタラントン(能力)があります。
神様はその力を使って、ご自分のみ業に協力するよう招いておられるのです。

 譬えが難しいのは、持っている物まで取り上げられると言うことですが、持っている物まで取り上げられるのは、なんでしょうか? 神の国の相続人と言う特権から外されること、と考えられませんか?

 あるいは、タラントンは、愛の業を指しているとも考えられます。この後に続くすべての民族の裁きで問われているのは、自分のタラントンを生かしていますかという、まさに隣人愛の実践ですから。役に立たない僕と言われたくないでしょう?
 今日のみ言葉をそれぞれ、自分に向けられた神様の声として考えてみたいと思います。