司祭の言葉 6/12

三位一体の主日C年

 わたしたちは父と子と聖霊の名によって洗礼を受けます。今日はその三位一体の唯一の神を記念する祝日です。
 でも、今日の説教は一番説明するのが難しい。誰か、代わりに説明してくれる人いませんかね? 出来たらお願いしたいのですが。
 でもホミリアは司祭の務めです。何とか説明を試みましょう。

 まず、三位一体という言葉は聖書の中にはありません。でも暗示をする言葉はあります。
「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け(マタイ28の19)」 や、
「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。(Ⅱコリント13の13)」・・・などです。

 今日の福音でイエス様は神を父と呼び、父が持っておられるものはすべて私のものだといいます。そして来るべき真理の霊は、私のものを受けてあなた方に告げる・・・といいます。父と子と聖霊は救いの歴史の中に介入し、それぞれ固有の役割を果たしたということが出来ると思います。
 この神秘は神様の、内面の秘密です。理性では知ることができなかったのです。
 神様が人となりナザレのイエスとしておいでになるまで、イスラエルの民の信仰によっても知ることのできなかった神秘です。
 この真理はイエス様によってはじめて明らかになったものなのです。

 神様はただ一人しかおられない。でもその中に父と子と聖霊という三つの人格があるなんて、わかりませんよね。いくら説明されても、へーそうなんだ・・・としか答えようがない。

 今が旬の鮎を特徴づけるのは、強い縄張り意識を持つその性質と、味と、香りでしょうか。どれが欠けても私たちの知る鮎ではなくなる。
 祭壇のろうそくは、明るさと、炎と、熱を持っています。どれが欠けても私たちの知る火ではありません。

 そんな譬えをもって説明しようとしても、説明にはなりません。

 それは神の特徴や働きを示しても、なぜ三位一体なのかは分かることができません。

 イスラム教の創始者ムハンマドはどうしてもこの神秘を受け入れることができなかったのでしょう、そこでイエスは預言者であったが、その弟子たちはイエスを神として礼拝するようになってしまった・・と、その預言者としての使命は失敗に終わったと理解し、新しいイスラム教を起こしたのです。キリスト者はイエスを神にして偶像崇拝に陥ってしまった。あなた方はひたすら唯一の神アッラーに帰依しなさいと。イスラムは絶対帰依という意味で、その信者をムスリムと言いますが、帰依者と言う意味です。

 三位一体の一つの説明として、救いの歴史の中に神様の愛の働きの役割分担のようなものを見ることが出来ます。創造と贖いと恵みの分配という役割です。
 神によって創造された人は罪を犯し、神の恵み(命の水)が受けられなくなった。そこでイエス様は贖いの業を通して神と私たちの間に恵みの水道管を引いた。蛇口は家の中にある。でもそのままでは水は出ません。水道局に行って契約をしなくてはいけないのです。本管とつないでいただき初めて水が出るのですから。イエス様が水道管を引いてくださったと信じることがその契約にあたり、その水道局が恵みの分配者としての聖霊の役割で、世の終わりまで私たちとともにいるのですと、説明できるかもしれません。

しかし、わたくしの一番大好きな説明は、神様は愛・・だと言うことからの説明です。
 愛は他動詞ですら、愛の対象を求めます。何々を愛する・・と言う風に。でも、神は限りないお方ですから、どのような被造物もその愛の全てをを受け入れることはできません。受け入れることのできるものは無限の大きさを持たなければならないからです。それは神以外にはありえません。それを子と呼びましょう。無限に与えようとする愛=父、それに無限に答えようとする愛=子。そしてそこから生ずる限りない相互愛=聖霊。神は唯一ですから、愛の三つの形と言うべきかもしれません。それらは神の中における三つの人格(神ですから神格)として唯一の神の中に存在する・・・そう考えると、なんとなく納得いくような気がします。

 でも、やはり祈りつつ悟らせていただく、信仰の神秘なのです。
 イエス様がおっしゃったから信じるのです。  その・・、イエス様の言葉が真実であることは、復活によって証明されているので、これを信じるのです。信仰の神秘というゆえんです。

 今、この同じ信仰を持つウクライナとロシアが戦争をしています。主によってあがなわれた者同士が、ともに同じ主に祈りながらも戦っている現実をどう考えればよいのでしょうか。教会が砲弾によって破壊されているニュースを見るにつけ、割り切れない思いでいっぱいです。今わたしたちは、キリストを再び十字架にかけているのではないでしょうか。

 主に許しを願いつつ、一日も早い戦争の終結を祈りましょう。