司祭の言葉 5/9

復活節第6主日B年        

 今日のみ言葉は、「わたしがあなた方を愛したように互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」と言うものです。主が最後の晩餐の食卓で語られた遺言です。マタイマルコルカは聖体の制定を最重要な出来事として伝えていますが、ヨハネは3人の書き残さなかった別れの言葉を詳細に伝えています。

 私はジャズを聴きながら、ショットバーの隅っこでパイプの香りを楽しみながら、ウイスキーを飲むのが好きです。ジャズがわかるわけではありませんが、その雰囲気が好きなのです。でもコロナで、春日部に来てからは一度も出かけていません。
 ウイスキーを飲むときには先ずはストレートです。ウイスキーの味の違いがよくわかりますから。水割りもおいしいし、何杯も飲めますが、ストレートを頼むと必ず水も出てきます。水を飲んでリセットして別なウイスキーを飲む、味を比べて楽しみます。
 もちろん日本酒でも違いが分かって面白いと思います。中村神父は日本酒の利き酒の会に入っていました。でも私は日本酒ですと悪酔いしてダメなので、もっぱら洋酒です。

 なぜこんな話をしたかと言うと、私たちはイエス様の話をいつも水割りで聞いているのではないかと思ったからです。水割りは美味しいんですよ、何杯でも飲めるんです、軽いから。でも、いつも水割りでは本当の味がわからない。ストレートを飲んでみなくては。

イエス様が言葉と行いで説いた愛は 当時のユダヤ社会にとって革命的新しさをもっていました。挨拶をくれないひとに挨拶しなさい。 お返しの出来ない人を宴会に招きなさい。 上着をほしがる人には下着も与えなさい。 敵をゆるし迫害者のためにいのりなさい。・・・これらのどれかをそのまま実行してみたことはあるのでしょうか。
 旧約でも神と隣人への愛は重要な掟でした・・・しかし、それは自分の不利益を犠牲にするほどの隣人愛ではありませんでした。良きサマリア人のたとえの、祭司とレビ人のとった行動にそれをみることができます。

 イエス様の掟は「互いに愛し合いなさい」ですが、「私があなた方を愛したように」と条件があるのです。 ここが難しいところです。命を与えるほどに愛したのですから。

 私たちは命がけで隣人を愛しているのでしょうか。まず自分を安全圏に置いてから愛しているのに気づかされます。 それでは命がけとは言えません。

イエス様は、旧約の掟でどの掟が大事か聞かれたとき、第一の掟として「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という申命記6の5をとりあげ、次に第二の掟として「自分自身を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」というレビ記19の18をとりあげています。ですから、まずしっかり自分を大切にしなければいけないのです。 それから、自分のように他の人を愛することになります。

 イエス様のお言葉通りに、ストレートにとれば、自分の10分の1とか、半分とかではないのです。
 わたしたちは週の一日でも、食べるものの無い人に、自分の食べるものの半分を分かち与える努力をしているのでしょうか。
 この原稿を書いている最中、国境なき医師団からSOS 「感染力は新型コロナの10倍近く 、はしかの再流行で子どもたちの命が危機に」と言うニュースが飛び込んできました。 そこには、「2018年から2020年にかけて、コンゴは史上最悪のはしかの流行に見舞われた。わずか2年で46万人余りの子どもがこの病気にかかり、8000人近くが死亡。その4分の3は5歳未満だった。」とありました。 困窮する兄弟たちの声に耳を傾けてみませんか。

 強制されてすることではありません。イエスの勧告に従って、私たちが選ぶことですが、一度くらい徹底的に、イエスの言葉通りにしてみてはどうでしょうか。そうすればイエスの言葉が腑に落ちます。 

司祭の言葉 5/2

復活節第5主日B年

 イエスはわたしにつながっていなさいと言われます。
・・・ぶら下がってじゃないことに感謝します。子供大はぶら下がるのが大好きです。幼稚園。の子供たちは、お猿さんみたいに庭の雲梯というアーチ形の鉄棒を渡って行きます。私も小学生のころには好んでこの雲梯で遊びましたが、今はもう無理です。腕の力がなさすぎますから。最近久しぶりにぶら下がり健康器にぶら下がってみたら15秒ほどでダウン。その点スポーツクライミングする人にはただ驚くばかりです。

 イエス様は私につながっていなさいといわれますが、ただつながっているだけではだめなんです。そこのところがポイントなんですね。
 まず、枯れ枝ではだめですね。当たり前ですけど。
 そして実のならない枝もダメなんですね。「私につながっていながら実を結ばない枝は父が取り除かれる」とあります。

 イスラエル民族が、今のパレスチナ、かつてカナンと呼ばれていた土地にエジプトを脱出してやってきたときに、乳と蜜の流れる良く肥えた土地であることを示すために、斥候はそこのブドウの一房を担いできました。巨峰よりも大きな実がたわわになっていたといたといいます。
 ブドウはイスラエルにとって神の恵のシンボルでした。マカバイ王朝の紋章はブドウの木でしたし、神殿の栄光の一つは聖所の前面にある大きな黄金のブドウの木だったと言います。  イエス様がよく話されたカペナウムの会堂の門には、ダビデの星、ソロモンの星とともに、一房のブドウが刻み込まれていました。

 旧約聖書にはブドウの木のたとえが沢山出てきます。でもいずれも、預言者を通じて、神の嘆きの対象として出てくるのです。 
 「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑、主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁きを待っておられたのに見よ、流血。正義を待っておられたのに見よ、叫喚。」(イザヤ5の7)
 わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる確かな種として植えたのにどうして、わたしに背いて悪い野ぶどうに変わり果てたのか。(エレミヤ2の21)

「イスラエルは伸びほうだいのぶどうの木。実もそれに等しい。実を結ぶにつれて、祭壇を増し、国が豊かになるにつれて、聖なる柱を飾り立てた。(ホセア10の1)

 イエス様は良い実を付けないイスラエルに代わって「真のブドウの木」となります。  このブドウの木の実りは、父である農夫の働きによってもたらされます。
 農夫は実りのために心を砕いて枝に手入れをします。この農夫の働きに身をゆだねるとき、枝はよい豊かな実を付けることが出来ます。そして、父と人を結ぶ絆は「わたし」すなわちイエスなのです。

 でも実をつけない枝は切り取られてしまいます。切り取られた枝は何の役にも立ちません。神殿ではある時期、生贄を焼くための薪になる木を持って行くことになっていましたが、ブドウの枝は持ってきてならないと定められていたということです。何故でしょうか。火力が弱すぎるからです。

私の部屋の前には、アケビの棚があります.樹勢が強くどんどん伸びますから剪定をします。春先のはだめですが、秋の枝は丈夫でよくしなりますので、かごなどを編むのに使うことができます。でもぶどうのつるは折れやすく弱いのでそのような役にも立ちません。ただ集めて焼かれるだけです。
 
 さて、イエス様の驚くべき言葉は、イエス様も私達につながっているという約束です。「私はブドウの木」ということばの、その中央の、3~4節には「わたし」の働きが語られています。 「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」 イエスの言葉には、弟子達を清くする力があります。それはイエスが神にとどまっているからです。

 2節「手入れをなさる」は原文では、3節の「清くなっている(カタロスkatharos)」という形容詞から派生した動詞で、「清くする」が普通の意味ですが、「枝を清くする」というのは「刈り込む」「剪定(せんてい)する」ことを表しているそうです。

「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」も「イエスの言葉によって刈り込まれる」というイメージなのでしょう。 イエスの言葉は、わたしたちにとって時として厳しく、痛いことがありますが、それが自分にとって大きな成長のチャンスでもあった、そんな経験があるのではないでしょうか。
 そして、キリスト者はイエスの言葉によって「すでに清くなっており」、そのようなものとしてイエスにとどまり続け、うちにもそとにも、その実を示すのです。

 もう一度思い起こしましょう。実のならない枝は、刈り取られるのです。この実を結ぶとはどういうことか、考えてみましょう。花芽の無い、葉だけ茂らせる枝は刈り取られるのです。

司祭の言葉 4/24

復活節第4主日 (ヨハネ10章11-18節)

 よき牧者のたとえです。イエスは弟子たちに私の羊を牧しなさい・・・と言われました。
 司祭に叙階されるとき3つの職務をいただきます。教職・祭職・牧職・・・司祭は秘跡としてこの三つの職務を特別に受けます。信者さんは一般祭司職と言われますが、信者さんも洗礼を受けるとき司祭とは別な形でこの三つの職務を受けると教会は教えています。

 皆さんは聖書を朗読するとき祭壇に上ります。そのとき司祭の前に来てお辞儀をします。
 其れは司祭への挨拶ではありません。御言葉を伝えるために派遣されるという役目を、今お引き受けいたします・・・という意味でのお辞儀なのです。司祭もよろしくお願いしますという意味でお辞儀を返します。この時皆さんは司祭を見ますが、信仰のなかでイエスに挨拶をしているのです。皆さんはイエスによって派遣されているのですから。神父じゃない。これが教職(預言職)です。典礼にはいろいろな約束があるのです
 そして祭職は、特に司祭と共にミサを捧げる(教会法906)とき、また日々の祈りの中で親族恩人友人、祈りを必要としている人のために祈るときに、その役割を果たしているのです。
 そして牧職、 牧職は羊を飼う職務・・・羊飼いとしての職務です。 病気の信者さんを見舞うとき、お年寄りを教会に連れてくるとき、その職務を果たしています。 イエスは「私には、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かねばならない」といいます。囲いは教会と考えれば、教会の外にも羊がいる・・・ということです。
 幼稚園の仕事も囲いの外の仕事です。教誨師の仕事も ホームレスの方がたに声をかけるのも、受刑者に手紙を書くのも、子供食堂に携わるのも牧職です。

 ところで話を今日の福音に戻しますが、ヨハネ10章のイエスの言葉は、9章の終わり(41節)から続いています。9章は「生まれながらの盲人のいやし」の物語でした。
 安息日について旧約の律法の中では、「それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる」(出エジプト記31章14節)と言われていましたが、その安息日にもかかわらず、イエスは泥をこねてその人の目に塗り、その人をいやしました。 このことは、言わばいのちがけの行為でした。
 このイエスの行動が背景にあって、羊と羊飼いのたとえが語られ、「わたしは良い羊飼いである」(10章11節)と宣言されるのです。
 イエスはここでよい羊飼いである自分の使命を明らかにします。使命という言葉は命の使い方を表します。どのように命を使うかそれが使命です。イエスの使命、それは自分の命を羊のために使うことでした。羊のために命を使うだけでなく命を捨てること、それがイエスの使命でした。命を与え尽くすのがイエスの使命でした。
 彼はこの自分の使命を全うした。その結果は何であったか。復活です。

 今日の福音から読みとれるメッセージはイエスが単に「良い羊飼い」と言うことだけではなく、別のメッセージがあります。それは羊のために命を捨てたイエスが復活させられたと言うことです。人のために命を使うと、たとえそれを失ってもまたいただくことができる。

 わたしたちの信仰、それはあのナザレのイエスがイエスキリストであると言うことを信じることです。  そのイエスの何を信じるのか。キリストのなにをしんじるのか。

 イエスが私たちの救いのために死に、復活させられたことを信じることです。

 イエスは復活の初穂です。初めて父なる神によって復活させられた方です。
 そしてわたしたちも復活させられるのです、人のために命を使えば・・・。

 人のために命を使う人は永遠に生かされる。どんな小さな愛の行いもそれが愛であるかぎり永遠の価値をもつのです。

 さて、自問してみましょう。「わたしは人々への愛のために命を使っているだろうか」と。

司祭の言葉 4/18

復活節第三主日 (ルカ24章35-48節)

 小生の勤める精神障害者のグループホームセウイでは、時々みんなに配るお菓子が人数分以上あって、少し余ったりします。そんなときは何とかして、できるだけみんなに配り切ります。残っていると、誘惑に弱い私が食べる羽目になり、あとで後悔することになりますから。
 ところでセウイでは何も隠し事ができません。お菓子などが少し残ったとき、その時そこにいるメンバーたちにだけ「よし特別だ、みんなには黙っていて下さいね」そう言って配っても、ぽろっと「さっきのお菓子おいしかった」と言ってしまう。
 「黙っていてと言ったでしょう」・・と言うと、「あ、そうか」との反応。誰も秘密を守りません。楽しかったこと、おいしかったこと、嬉しかったことはみんなに言いたいのです。

 復活は単なる信仰箇条ではありません。キリスト者になるために受け入れなければならない事柄、あるいは命題というよりも、何よりもまずそれは、喜びに満ちた報告なのです。
 「私たちは、主に出会った」「主は生きておられる」 包み隠しておくことのできない、体験の披瀝、体験話なのです。 それは抽象的な知識の伝達ではなく、具体的な体験に基づいているのです。 「わたしたちは主に出会った。」・・この体験の報告が持ち寄られ、分かち合いの中で教会の共有の信仰になり、伝えられ、分配されるようになったのです。

 今日私たちは復活の証言の言葉を聞き、教会の復活信仰を分かち与えられています。その私たちの信仰が、生き生きとした活力を得るためには、私たちの中で、今も、生きて働いておられる復活の主との具体的な出会いをそれぞれが経験し、その体験の報告に耳を傾けて受け止める必要があります。

 エマオの宿で主に出会った二人の弟子は、仲間たちに自分たちの体験伝えようとエルサレムにとって返します。彼らの報告に耳を傾けていた弟子たちの中に、静かなしかし期待を秘めた興奮が高まっていったに違いありません。二人の弟子の心の高まりが、他の弟子たちにも伝わって行き、「実はシモンにも、主はお現われになったんだ」と言うような報告が、主は生きておられるという報告が、あちらからもこちらからも寄せられてきたのです。互いの信仰体験の分かち合いです。そして集まっていた彼らの語り合いの中に、主は現れて下さったのです。
 イエスは聖書を悟らせるために、彼らの心の目を開いて言われます。
 「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する・・』旧約聖書のある箇所の引用ではなく、それが旧約聖書全体をとおして告げられていた神の計画だということです。
 「これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」(44節)・・そう言われて「婦人たちはイエスの言葉を思い出し」ました。(24章8節)

 わたしたちも、イエスのおっしゃるとおりだった・・と、イエスの言葉を思い出すという体験をしたとき、イエスの言葉がわたしたちの中で実現していると感じたときに、イエスはほんとうに今も生きている・・・と、感じることができるはずです。
 復活の主はいつも私たちの傍におられるのですから。

司祭の言葉 4/11

復活節第2主日

「その日、週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」・・とあります。想像してみて下さい。イエスを裏切って逃げてしまった弟子たち、イエスを否定したペトロ、どんなにか自己嫌悪に陥っていたことでしょう。そして「ユダヤ人を恐れて自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」のです。イエスを捕まえ、あの凄惨なむち打ちを受けたイエスを十字架につけろと叫んでいたユダヤ人たちが、今度は自分たちを捕まえに来る・・ 恐怖のため外の足音に耳をそばだて、息を殺していた弟子たち。
 そこに現れたイエスは「あなた方に平和」と挨拶します。心の平和などなく、ただただおびえていた弟子たち。彼等に傷跡を見せ自分であることを示し、「あなた方に平和」と、おっしゃったのです。弟子たちは赦されていると実感し、心に喜びが戻ってきたことでしょう。イエスとともにいた時の平和と誇らしさが、再び満ち溢れました。
 仲間とともにいる事さえ疎ましく、一人自分の殻にこもっていたトマスはそこにいませんでした。
 弟子たちの裏切りについて一言も触れず、ただ「あなた方に平和」と言われた主は、その言葉で弟子たちのすべてを許していたのです。
 ですからイエスは弟子たちに、あなた方も赦しなさいとおっしゃったのです。許さなければ、相手はいつまでたっても平和を得ることが出来ません。イエスが無条件で赦したように、私たちも赦すべきなのです。
 そしてそこにいなかったトマスは見るまで信じないと言います。トマスはイエスの復活だけではなく、イエスの赦しの言葉が、「あなた方に平和」と言ったということが、信じられなかったのです。

 赦しのための派遣、ここは十分注意を要する言葉です。  誰も他人の罪を許す権限はありません。イエスだけが持っています。パリサイ人たちはイエスが『子よ、あなたの罪は赦された』といったときに激怒しましたが「人の子が地上で罪を赦す力を持っていることを知らせるために・・」といって、「起きなさい、床を取って帰りなさい」と仰いました。
マタイ9の2「中風の人のいやし」

 ここで一つ確かなことは、今日の出現が人間に対する神の赦しの事実とその宣言だということです。そして、十字架による神の赦しと、福音を伝えることは教会の大いなる特権というべきなのです。

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(mt9:13)と言われたイエスは、最後の晩餐の折、葡萄酒の満ちた杯をとって「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」と言われ、翌日十字架の上に血を流しました。(同26:28)

 そして、復活されたイエスは弟子たちの罪を赦し、罪を赦すことを、弟子たちの使命とすることによって、教会をお建てになったのです。
 だから、教会はイエスによって罪を赦されたことを自覚する者たちの集いなのです。そして「主の平和」と言う挨拶は、互いに罪を赦しあう言葉でもある・・わたしはそう信じます。

司祭の言葉 4/4

主の復活

 主の復活おめでとうございます。この季節が大好きです。花粉には悩まされますが、自然界は花盛り、レンギョウ、モクレン、梨、桃、菜の花、タンポポ、そして桜。
 この時期になると思うのですが、何と桜の木の多いこと・・。なぜ桜の木がこんなにも愛されるのでしょうか? まず、散り際が美しい。水面の上に落ちると筏のように列を作り花筏になります。下流ではヘドロにならないようにすくい上げています。
 この散り際のよさから、その潔さを強調し、戦時中には軍歌「同期の桜」のような歌詞がつくられました。「咲いた花なら散るのは覚悟、見事散りましょ国のため」
 その散り際は散華ということばで美化され、多くの若者が死に急ぎました。
 しかし今はその桜の満開の見事さが喜ばれています。桜のよさは散り際だけではありません。桜前線はいつ来るのかと期待を持たせます。また来年同じように美しい花を咲かせてくれることを皆が信じています。
 私はそこに復活の期待を持ちます。秋にはすっかり葉を落とし寂しげですが、そこにはすでに花芽を持っているのです。私たちに満開の花を見せるために、その準備として眠りにつくのです。寒い冬の日々があってこそ、美しい花をつけます。

 死は全ての人に訪れますが、そこで終わりではなく、復活の日がやってきます。
 イエスの復活こそはその証なのです。しかしイエスの死はなぜあのような死でなければならなかったのでしょうか、なぜ釈迦の涅槃のような死でなかったのでしょうか。十字架上の死がなぜ必要だったのでしょうか。イエスの死はエルサレム入場のわずか4日後のことでした。すべての人に捨てられた思いの中で、イエスは鞭打たれ十字架を背負い、罵声の中で息絶えました。

イザヤ書53章はその予言を通して、神のしもべの死にざまを予告しています。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

 でもイエスは信じていたのです。自分のことが記念されてゆくと。弟子に裏切られる絶望に近い苦悩の中で、弟子たちを、人間を信じていたのです。私には信じがたい出来事です。

 ゴキブリは共食いをします。その共食いをやめさせるために、あなたはゴキブリになれますか?我々は神の目から見ればゴキブリ以下です。二つの大戦を経験して、戦争がいかに愚かしいことかを見てきたのに、何も学んでいません。

 今年の2月、中国は海警局に武器の使用を許可したとのニュースが流れ、世界の耳目が集まりました。ミャンマーでは内戦が起きるのではないかと危惧されています。
 また、日本では、福島の原子炉が大津波のためにすべての電源を失い、制御不能となって水素爆発を起こして放射をあたり一面にまきちらしました。10年たった今、なお避難を余儀なくされている人が数万人もいるのに、すでにそのことを忘れてしまっているかのようです。安全のための確たる対策も取られないまま、原子炉は再稼働を始めています。
 大量破壊兵器、核弾頭をつけたミサイルがつくられ、今まさに第三次世界大戦の勃発が危惧されています。私たちが排出した炭酸ガスは地球温暖化を招き、今のまま行けば30年後には地球は滅亡への道を歩み始めると言われていますが、夫々のエゴがぶつかり合って平和の道は遠のくばかりです。そんな人間はゴキブリ以下ではないでしょうか。

 その人間のために神は人となり、十字架上の死をもってその罪を贖い、復活の命を約束して下さいました。
 今こそ、私たちはその贖いにふさわしい実を結ばねばならないと思います。
 イエスが愛したように、自分を大切にし、隣の人も同じように大切にする・・・その生きかたを実行してゆかなければならないのだと思います。
 今日はイエスの復活の出来事を記念しながら、イエスに付き従う決意を新たにし、そのための勇気を与えられるように、祈りたいと思います。

司祭の言葉 3/28

受難の主日B年

 皆さんおはようございます。今日から聖週間が始まります。この聖週間の間にイエスの受難のカ所が2回朗読されています。まず今日が一回目、A年はマタイから、B年はマルコ、C年はルカから、そして聖金曜日はヨハネからです。受難の主日は枝の主日とも呼ばれ、ミサの初めに枝を祝福し、イエスのエルサレム入城の場面が朗読されます。これも4福音書に記述がありますので、A年B年C年それぞれ、マタイマルコルカからとられますが、B年はヨハネを選んでもよいことになっています。それで今日はヨハネから選びました。

 ところで、どうして受難の朗読が2回もあるのでしょうか、不思議に思ったことはありませんか? 今日は福音書が2カ所読まれるのですがそれも疑問ではありませんか?
 今日私たちはミサ前に、枝を打ち振ってイエスを迎えた民衆の役割を演じました。そして受難の朗読では、イエスを十字架につけろと叫ぶ民衆の役割をも演じました。何故でしょうか。実際にエルサレムの民衆がイエスに対してとった態度を再現し、そのとき何が起こったのかを、私たちに思い起こさせるためです。

 その経過をしっかりと辿って見せているのが、ヨハネです。
 過ぎ越し祭の六日前イエスはベタニアに行き、よみがえったラザロと食事を共にします。このときマリアは、300デナリオンもする高価なナルドの香油を持ってきてイエスの足に塗ります。「その翌日」とありますから、イエスがエルサレムに入城したのは過ぎ越で、翌日が「用意日」と言われていますから過ぎ越し祭の二日前、木曜日ということになりますが、イエスは弟子たちの足を洗い、新しい掟を与え、ゲッセマネの園に行き、ここで捕らえられ、即日裁判にかけられるのです。

 この時、三日前にイエスを歓呼の声で迎えた同じ群衆が、「イエスを十字架につけろ」と叫んでいますので、ホザンナと言ってイエスを迎えた三日後、舌の根も乾かないうちにイエスから離反していることがわかります。

何と激しい変わり身でしょうか、しかし、万歳と歓呼して迎えた者と、十字架にかけろと叫んだものは別人ではない、同じ人たちなのです。まさに、それが私であり、それがあなたの姿なのですよ・・と語り掛けているのです。激しい叫びに付和雷同する群衆はまさに私の姿。あるいは付和雷同していないとしても、拱手傍観している私の姿がそこにあるのです。

 わたしたちがいまなお回心していないとすれば、イエスの愛の掟を無視しているとすれば、十字架につけろと叫んでいる群衆となんら変わるところがないのです。
 ところで、自分自身に問いかけてみましょう。

この四旬節の間、愛の献金は実行してきましたか?
苦しむ隣人に想いを馳せ何か具体的に行動しましたか?
拱手傍観している自分がいましたか? 

今日持ち帰る枝は、私自身の忘恩の想起と回心の実行を迫るものでありたいですね。

司祭の言葉 3/21

四旬節第5主日B年 (ヨハネ12章20-33節)

  過越祭のときで、ギリシア語を話す異邦人がイエスに会いたいとやってきます。頼まれたフィリポは、アンデレと一緒にイエスのところに行ってそれを伝えました。するとイエスは「人の子が栄光を受ける時が来た・・・」とおっしゃったとあります。この個所はイエス誕生の時に東方の博士たちがやってきたことを想起させます。
 イエスのエルサレム入城に出会い、人々がメシアだと叫んでいるのを聞いた彼らは、真理を求めていた人たちなのでしょう。ギリシャ人は古代からソクラテス、プラトン、アリストテレスなどの哲学者を輩出し真理を探究していました。会いに来た彼らも、イエスに真理とはなにか尋ねたかったのかもしれません。
 イエスは彼らの到来に「時が来た」ことを感じ取ります。カナの婚礼の時ブドウ酒がつきたことを知らせた母に向かってイエスは「わたしの時は未だ来ていません」(2の4)と語り、イエスの兄弟達が仮庵の祭りが近づいているからエルサレムに行ってあなたの力ある業を公に示したらどうかとそそのかしたときにも同じ言葉で答えたイエスは(7の6)

・・今、「人の子が栄光を受ける時が来た」と明確に告知します。それは十字架の時です。

 そしてイエスは一粒の麦の話をします。
そろそろジャガイモの植時です。今植えれば夏には収穫を迎えます。
畑でジャガイモ掘りをした時沢山の子芋にまじって茎のところに変色した種芋の姿がありました。触るとくしゃっとつぶれてしいます。全ての養分を与えて役目を終えた芋姿です・・。
多くの母親は子どもに全てを与え尽くし、小さくなって行きます。

   たはむれに 母を背負いて そのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず 石川啄木

 今、杉戸近辺の麦畑には青々とした緑が広がっています。その根元には役目を終えた種もみの殻があるに違いありません。そして5月末には豊かな収穫の時を迎えるはずです。
 イエスのいのちはまさにそのような命でした。
 イエスは生かすために命を与え、父なる神に豊かな実りをもたらす・・・そのような命であったことを示しています。
 最近のニュースは自分の主張を通すために、他人の命を奪って平然としている人たちの多いことに慄然とします。ミャンマーでも軍部が自分たちの主張を通すためにクーデターを起こし、多くの市民の命が犠牲になっています。1995年3月20日に起きた地下鉄サリン事件から26年になりますが、この事件でも多くの人の命が奪われ、今なお後遺症で苦しんでいる人たちがいます。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(1ヨハネ4章9節)
とヨハネは語ります。イエスの十字架の時は、イエスが究極の愛を示すことによって、「神が愛である」ことを完全に現す時なのです。 ヨハネは十字架のみじめさや悲惨さには目を止めません。ヨハネが私たちに指し示したいのは、そこに現れる「神の愛」なのです。
 こうしてイエスは神の栄光をあらわしました。私たちもまたこのイエスに従ってゆくとき、共に神の栄光をあらわすことになります。

司祭の言葉 3/14

四旬節第4主日(ヨハネ3章14節-21節)

 今日はバラの主日です。今日の入祭唱は、「神の民よ、喜べ。悲しみに沈んでいたものよ、喜べ。」「神は豊かな慰めで、あなた方を満たしてくださる」(イザヤ書66の10.11)と謳います。皆さん十分に疲れていますよね、コロナコロナで一年になりますから。でもこのままいけば、今年は復活祭を祝うことができそうですね、そして復活祭には、春日部教会で一人のご婦人の洗礼式も予定されています。大きな喜びです。

 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された・・・イエス様はそう述べています。ですから勇気をもって進みましょう。

 ところで、皆さんは蛇を毛嫌いしていませんか? 何故嫌いなのでしょう、地べたを体をくねらせながら這いずり回っているからでしょうか。もしかしたら、楽園物語の中で、人間の誘惑者として描かれているからでしょうか。
 今日の福音はそのような先入観を打ち砕くものです。なぜなら、木に挙げられた蛇は十字架のキリストのシンボル、救いのシンボルなのですから、蛇はもっとみんなに愛されてもいいのではないかと思います。
 蛇のペンダントを首に下げるなどと言うのはどうでしょうか、だってみなさんが首に掛けている十字架は死刑の道具なのですよ。

 民数記の21章に燃える蛇の話があります。あまりにも身勝手あまりにも恩知らずなイスラエルの民を懲らしめるために、神は砂漠で燃える蛇を遣わしました。人々はこの蛇にかまれると体が燃えるような痛みを感じ苦しんで死んだといいます。
 民が回心の情をあらわしモーセを通じて許しを願うと、神は青銅の蛇をつくり、旗竿の上に掲げて、これを仰ぎ見るようにさせます。そしてこれを仰ぎ見るものは癒されたのです。イエスご自身が述べられていることから、この蛇こそは十字架のキリストのシンボルであることが解ります。蛇は脱皮をすることから復活のシンボルでもあるともいわれています。

 イエスはニコデモに、「神はその一人子をお与えになったほどに世を愛された」と述べています。
 今日のみ言葉では、大切な点が三つあります。
 まず、神様が「世を愛している」こと、「独り子をお与えになった」ということ、そして「一人も滅びないで」ということ。ここに神の愛が余すことなく表されています。神様は、たとえそれが神様に逆らい、神様に背いてばかりいるような人であっても、滅んでほしくはないと思っておられるのです。

 イエス様は 「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者か皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」とおっしゃっています。
 神がわたしたちを滅びから救うためにイエスを遣わされ、このイエスによって罪の許しを得た・・ということを信じて十字架を仰ぎ見るものはすくわれる・・・信じる者には命が与えられるということです。
 言い換えれば、「信じる者は滅びることはない」と約束されます。

 私たちは時には罪を犯してしまったり、失敗をしてしまったり、不信仰になってしまったりします。しかしそんなときでも「御子を信じる者は、十字架の愛を信じるものは滅びることはない」のです。

 ここが大切なのですが、「私たちの行ないに依るのではなく、神様の愛が無限の愛か注がれているから、私たちは決して滅びることはない」のです。

 それは、私たちか駄目になってしまわないように、神様の愛がいつも支えていてくださるということではないでしょうか。

 さあ、迷わず、神の愛を信じて前に進みましょう。バラ色の希望をもって、今日はバラの主日です。

司祭の言葉 3/7

四旬節第3主日 (ヨハネ2章13-25節)

 今日の福音は、イエスの宮きよめの出来事です。この場面だけ見ると第一印象としてはイエスの激しさに驚かされます。
 セウイホームでは入所したてのころ、食堂のテーブルをひっくり返した女の子がいます。
 ロッカーを倒し蹴り破った男の子もいます。
 神学生の時監督をしていた上級生の中には、怒りっぽくやたら机の脚を蹴り飛ばす人が居ました。イタリア人で面白くない事があるとマケーと叫んで机の脚をけるのです。サッカーも上手な人でしたけれど。
 小生も、部屋中の物をたたき壊したい衝動に駆られた事があります。でもそのあとそれを片づける自分を考えるとバカらしくなって思いとどまります。

 いろいろな怒りがあります。しかしながら、正当な当然といえる怒りがあります。
 まもなく11年3月11日の大地震から丸10年になります。大地震や津波は天災です。これを止めることは出来ません。しかし、福島原発の大事故それはまさに人災でした。ヨーロッパでは1999年、フランスの原発が洪水で外部電源を一部喪失したのをきっかけに、アメリカでは2001年の同時多発テロ事件をきっかけに原発の電源喪失対策が強化されたのに対して、日本はこうした対策を怠ったといいます。
 今ミャンマーでは、軍部によるクーデターに対して、正当に選挙で選ばれた代表を開放せよと、3週間以上も市民の抗議が続いています。

 イエス様の怒りは何だったのでしょうか。両替も売られていた動物たちも、神殿にささげられるために必要なものだったのです。

 まず両替を見てみましょう。パレスチナでは普通の用途のためには、ローマ ギリシャ エジプト ツロ シドンなどの、全ての種類の貨幣が使われました。しかしながら、当時神殿に納めるお金は ガリラヤのシケルか神殿のシケルでなければなりませんでした。
 宮の納入金は 半シケルでした。1シケルの半分ですが、2デナリに相当しました。
神学者のバークレーによれば、ある人が2シケルの価値のある銅貨を半シケル4枚に両替してもらおうとすると半シケルの半分 1デナリほどの手数料をとられたといいます。労働者の一日の賃金分です。

 また、律法によれば犠牲に供せられる動物はみな完全で傷が無く汚れない物でなければなりませんでした。 神殿当局は犠牲に供せられる動物を調べるために検査官を任命しました。礼拝者が動物を宮の外で買ったとすると、その動物が傷の無い相応しいものであるかどうか検査されますが、ほとんど例外なく不合格になったといいます。

 そして問題は、鳩は宮の外では一つがい500円ほどであったとすれば、宮の中ではその20倍ほど1万円もしたと言うことです。神殿側が暴利をむさぼっていたのです。

 さらに、商売が行われた場所にも問題があります。商売は異邦人の庭で行われていました。ユダヤ教徒に改宗したものであっても、異邦人の礼拝できる場所はここだけでした。それより奥には入れなかったのです。唯一礼拝できる場所が、牛や羊やハトを売る人々の声と動物たちの鳴き声で、静かに祈ることのできる雰囲気はありませんでした。

 そしてさらに、イエスは次の言葉を思い浮かべていたと思われます。ゼカリヤ書の結びのことばです。
 「その日には、(中略)エルサレムとユダの鍋もすべて万軍の主に聖別されたものとなり、いけにえをささげようとする者は皆やって来て、それを取り、それで肉を煮る。その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる。」(14の21)

「鍋」は日常生活の象徴ですから、その日(救いの完成の日)には、日常生活のすべてが聖化されるので、もはやエルサレムの神殿で行なわれる生贄の儀式は不必要になる、だから生贄の動物を売る商人もいなくなる。つまり日々の生活が神との出会いの場になる。礼拝が神殿ではなく、どこででも行われるようになる・・・と宣言したのです。

 いま私たちはそれぞれの地域で集まり感謝の祭儀をしています。新型コロナウイルスの緊急事態宣言が解除されるまで、ミサに参加することはできませんが、自宅でもみ言葉に触れ、神に出会うことが出来ます。祈ることが出来ます。
 イエスはそのような思いを胸に、宮の清めを行ったのかもしれません。