司祭の言葉 5/17

※5月17日(日)復活節第6主日A年(ヨハネ14章15-21節)

司祭  鈴木 國弘

 主の平和!! 皆さんいかがお過ごしでしょうか? 三密にならないようにするために、小さいお子さんをお持ちのご家庭は、とくにご苦労なさっていることと思います。14日さいたま教区の中で、茨城、栃木、群馬は新型コロナウイルス感染予防のための緊急事態宣言が解除されましたが、埼玉県はいまだその最中にあります。

先週間違って31日までと書いてしまったのですが、教区が公開ミサを禁止しているのは5月30日までです。間違いをお詫びします。緊急事態宣言がそれまでに埼玉県も解除されれば、公開ミサ禁止の延長はなくなり、31日には聖霊降臨のミサが出来るかもしれません。その時には密にならないような工夫が必要になるでしょう。特に春日部教会は信徒数が多いので、ミサに集中しないようにするためには分散しなければなりません。小生は、そのためにはもう一回ミサを増やすしかないと考えています。皆さんのお知恵を拝借したいと思います。

2011年、東日本大震災の後川越少年刑務所へ行きましたときに、受刑者たちの中から「神様がいるなら、どうして今回の大震災と大津波のような出来事がおこるのですか・・・」と言う質問がありました。 「なぜ?」・・その疑問に対する答えはすぐには見つかりません。今回の新型コロナウイルスの世界的流行もそうですが、きっとわたしたちがこの困難を克服したときに、答えが見えてくるのではないでしょうか。

今回のコロナウイルスによる被害は世界中を震撼させています。テレビには、街から人影の消えた世界中の様子が日々放映され、その恐ろしさを共有していますが、でも心強いのは、世界中が知恵を尽くし、この未曽有の災害を克服すべく立ち上がっていることです。行政もそうですが、特にお医者さんや看護師、医療関係者の皆さんは、死と隣り合わせの中で命を守るために懸命に戦っています。

わたしたちはこの世界をどのように感じているでしょうか。 わたしたちは自分の人生の中で、愛に反する現実をたくさん経験してきています。暴力、裏切り、無関心などなど。しかし、わたしたちの人生はそれらに覆い尽くされているわけではありません。愛の体験も必ずあるはずです。今回の新型コロナウイルスのパンデミックを通じても、見えてくるものがたくさんあると思います。企業も自営業の方々も、自粛の要請に応え、倒産失業の恐怖に耐えながら、感染者を広げないために、命を守るために、ぎりぎりのところで頑張っています。多くのボランティアもその愛のすばらしさを見せています。

 さて、今日の福音の中心にあるのは「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」(18節)という力強い約束です。そして、別の弁護者が約束されています。

神の名は YHWH(わたしはある)と言う名でモーセに示されましたが、ここに

三位一体の神の役割分担が見えます。「わたしはある」・・と言われた神は、私たちを創造し、あがない、永遠にともにおられる・・のです。

聖霊は「別の弁護者」と呼ばれています。ヨハネの第一の手紙2章1節ではイエス様ご自身を「弁護者」と言っていますから、聖霊を「別の弁護者」と呼んでいるのです。 ヨハネ福音書が書かれた1世紀末、キリスト者は完全にユダヤ教から排斥され、ローマ帝国はキリスト教を激しく迫害していました。イエス様のこの約束の言葉が、人々を勇気づけていたことと思います。そして、ヨハネ3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という言葉はとても深く心に響いたことと思います。イエス様と聖霊がともに弁護者として私たちを助けて下さるのですから、フィリッピの信徒へ宛てた聖パウロの言葉を思い起こしながら、勇気をもって共に困難に立ち向かってゆきましょう。

「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリッピ人への手紙4章13節) 

皆様の上に神様の祝福がありますように。

司祭の言葉 5/24

※2020年5月24日(日)復活第7主日A年

主の昇天    司祭 鈴木 國弘

 春日部教会の皆さんお変わりありませんか? さいたま教区では司教様が次の対策を準備中です。25日に政府の発表がありますから、そのあとになると思いますが、発表され次第皆さんの手元にお届けいたします。ミサが開始されたらどのようにクラスター対策をするか、教会で考えをまとめておくことが大切です。どうぞ役員の皆さんにご意見をお寄せください。

24日は主の昇天の祝日です。

 NHKの番組ぽつんと一軒家では、空中から地球を眺め、森などの中にポツンと見える一軒家を尋ねてゆきますが、カメラはぐんぐん地表に近くなり、その家や周りの外観をとらえて、その場所を探しにゆきます。

ご昇天のイエス様の目から見ればその逆で弟子たちの姿はだんだん小さくなってゆくのでしょう。でも私たちの目から見るイエス様はどうなのでしょう。

皆さんは空を見上げるのはどのような時ですか?子供のころ縁日などで買ってもらったゴム風船が、大切に持っていたはずなのに、突然スーッと手を離れて空の方に登って言った経験。それをあーっと手を伸ばしても、ぐんぐん上の方に登って行ってしまったのを、ただ残念に思いながら見送った経験はありませんか?

 空を見上げていた弟子たちも、大切なものが傍を離れて行ってしまって、手が届かなくなり、ただ見送っていたと言う感じなのかもしれません。

ひとむらの雲がイエスを隠したとあるのは、神の「栄光」のうちに入られたことを雲という言葉で示しています。旧約聖書では神の栄光は雲の中に表現されています。そして、 天は「場所」ではないのです。だからでしょうね、「何故天を見つめて立っているのか」と言われたのは。聖書では 神の栄光・・・それは神の卓越性を示しています。

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。
わたしたちはその栄光を見た。

大切なのはイエスが去られたことではなく、イエスが神の栄光を示されたことです。そして神もまたイエスに栄光を与えたのです。その、神の栄光とは、神の愛そのもの。 

 神の栄光はエジプト脱出の時、もえる芝の中にあらわれ、シナイ山では、もえる炎の中から律法を書き記した板を頂きました。その火は神の栄光であり、その栄光は神のご自分の民に対する途方もなく大きな愛でした。そして、その愛は、新約に於いて、キリストの誕生と、十字架、復活を通して現れ、その昇天を持って完成するのです。
 その天に昇られた主は、わたしたちの中に住まわれます。教会だけが祈りの場所ではありません。一人一人はそれぞれ聖なる宮を携えているのです。わたしたちはそのことを、その宮に入ることを忘れてはいませんか? 今日はそのことをもう一度思い起こす日です。

司祭の言葉 5/31

※2020年5月31日(日)聖霊降臨の祝日

罪を赦すこと    司祭 鈴木 國弘

 聖霊降臨の祝日 おめでとうございます。 先日埼玉県の非常事態宣言も解除され、今日の祝日を皆さんとともにミサを捧げて祝うことが出来るかと期待しておりましたが、司教様のお手紙では、まだしばらく公開ミサの禁止は継続するとのことでした。とても残念ですが、まだ新型コロナウイルスの脅威が無くなったわけではありませんので、クラスター発生をさけるためには解除後のミサをどうするか、対策を考えながら自粛を続けましょう。

 このたびのパンデミックの発生について、米国では沢山の死者が出て、その責任は中国にあると厳しい論調で避難しています。また医療関係者は献身的に、自己の感染のリスクを顧みず、日夜頑張ってくださっているにもかかわらず、彼らに対する差別的な言動があるとも報道されています。とても悲しいことです。

 今日の福音は、ヨハネによる福音書の20章21節から23節。復活のイエスによる弟子たちの派遣と、罪の許しの言葉です。
「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
 これはイエスの派遣の命令、聖霊を与えられた者に対する指示です。聖霊を受けた者の使命は「罪を赦すこと」なのです。ここに「赦す」と訳された言葉には「放棄する」という意味もあるそうですから、相手の罪、失敗、道を踏み誤ってしまったことを赦す、そのことによって生じる自分の権利、債権を放棄するということも含んでいます。

 この部分、ほかの訳文では
あなたたちがこだわるなら、こだわるまま残る。【本田】
 あなた方が留め置くなら、留め置かれたままである。【岩波】
 あなた方が持ち続ければ、罪は残る(保たれる)【New King James Version】
などとも訳されています。 

 主が教えてくださった祈りでは、「私たちが人を許すように、わたしたちの罪をお許しください」と祈ります。

 人を罪人だと決め付けて、罪人扱いにしたり、相手がたとえ自分に対して何か害を加えることがあって、自分が相手に対する請求権を持っていたとしても、そのように扱わない・・ということでしょうか。

 聖霊を受けた私たちの使命は、イエスの許しの言葉を伝えることにある。そのことを考えてみたいと思います。

司祭の言葉 6/7

※2020年6月7日(日)三位一体の主日A年 

わたしは有る    司祭 鈴木 三蛙  

 アレルヤ! 皆様お変わりございませんか? 今日は三位一体の祝日です。

三位一体・・・私たちの信仰の奥義です。おうぎ・・今は神秘と言っていますね。聖書には三位一体という言葉はありません。イエス様のお言葉の中から導きだされた結論です。神様は唯一ですが、その神さまの中に、父と子と聖霊と言ういわば独立した人格があって、それぞれがいつもわたしたちに寄り添い、救いの御業がなされたことをかんしゃします。私たちを救うと言う主の御業は、父と子と聖霊の共同作業だったからです。

 モーセを通して示された神の名は「わたしは有ると言う者だ」と言うことでした。その神は天地万物を創造し、支え続けています。手のひらに本を載せて宙に浮かせ、手を退ければ、本は下に落ちてしまいます。私たちは常に神の手によって支えられているから、ここに存在するのです。神が支えることを止めればすべては消滅してしまいます。
 
神様は救いの歴史の中で預言者を通してご自分を紹介してきました。「群盲象を評す」というインド発祥の寓話があります。象のお腹やしっぽ、鼻、牙、耳、足を触って、それぞれが象について語るのです。象は壁のようだ、むちのようだ、ホースの様だ、すべすべしてとがったものだ、うちわの様だ、木の幹の様だなどとです。それは象の一面でウソではありませんが、象の全体を示してはいません。預言者たちの語った神の姿も同じだと言えます。

 そこで神ご自身が、この世に肉体をとっておいでになりご自分について語りました。

 前者が他己紹介だとすれば、後者は神ご自身による自己紹介。私たちの傍においでになり、私たちとともにある神の姿を示されました。そして十字架とその死を通して神が愛そのものであることを示されました。

 テレビドラマなどを見ているとき、刑事をしている父親が張り込みなどでその場を離れることが出来ず、奥さんの死に目に間に合えないことを、子供から非難される場面があります。どうしてでしょうか。子供にとっては、いくら仕事のためとはいえ、どうして母のそばにいてくれなかったのか、母の寂しさを想うと薄情な父が許せない・・と言うことでしょう。何をしてあげることが、人を愛することでしょうか。どんなプレゼントよりも、「その人と一緒にいて共に時間を過ごすことが最高の愛」だと感じたことが、わたしたちの体験の中にもあるのではないでかとおもいます。それは「モノではなく、自分自身を与えること」だからです。神はまさにそのような仕方でご自分の愛を示されたと言えます。

 そして天に昇られた主は、世の終わりまで私たちとともにいるといわれ、さらに聖霊が「別の弁護者」として、世の終わりまでわたしたちとともにおられることが示されたのです。

「わたしは有る」と言われた主は、「いつも私たちとともに在る」というその本質を、救いの歴史を通して示してくださいました。

 今日はそのことを黙想し、賛美と感謝の祈りを捧げたいと思います。いちにちも早く新型ウイルスの脅威が去り、ともに感謝の集いのできることを待ち望みながら。

司祭の言葉 6/14

※2020年6月14日(日)A年

ご聖体の主日      司祭 鈴木 三蛙

わたしは天から下った命のかて。このパンを食べるものは永遠に生きる。
アレルヤ 春日部教会の皆様、ご聖体の祝日・・おめでとうございます。

 カトリック教会は聖堂の中心に、最後の晩餐の記念を行う主の食卓・祭壇を置き、病気の人にいつでも届けることが出来るように、聖櫃を備え、ご聖体をリザーブしています。そのしるしとして聖体ランプをともしています。それほど皆さんはご聖体に対する尊敬を持ち、旅路の糧として大切にしていますのに、その祝日を祝うことが出来ない現実がここにあります。今日はその黙想をしながら、それぞれの場で祝日を祝うことにしましょう。

 ところで、「御聖体をかんでいただいてよいのでしょうか。どのような気持ちでいただけばよいでよいでしょうか。」と質問されることがよくあります。結論からいましょう。良いのです。

 まず、まことの食べ物です。 ユダヤ人たちはイエスが、「わたしは天から下ってきたパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始めます。(ヨハネ6の41)「どうしてこの人は自分の肉をわれわれに食べさせることが出来るのか」そのとき主イエスは言われました。 「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければあなたたちのうちに命は無い。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものは、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」(6の53)そして最後の晩餐のときに御聖体を制定なさるのです。ミサの総則には噛んでよいとも悪いとも書いてありません。

 ユダヤ人にとってショックだったのは「血を飲む」と言う言葉でした。レビ記には、「イスラエルの家の者であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、血を食べる者があるならば、わたしは血を食べる者にわたしの顔を向けて、民の中から必ず彼を断つ。生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。」とありましたから。 だから、イエスの血は、新しい契約の生贄となったのです。そしてイエスはパンと葡萄酒の形で、その肉と血をわたしたちにお与えになりました。私たちの信仰はミサの中で聖別された葡萄酒は、すでにキリストの血であるとしてこれを大切に扱うのです。 ミサの総則239には次のようにある通りです。「御血をこぼしたときは水で洗い、その水をサクラリウムに流す。」 同じ理由で、カリスを拭いたプリフィカトリウムを洗った水も、同じようにサクラリウムに流す・・のです。決して下水には流しません。

   そして聖別されたパンはキリストの体、聖なる体です。だから礼拝の対象になるのです。かつては祭壇の前には聖体拝領台呼ばれるものがあり、そこに並んでひざまづき、口で聖体を受けました。いまでも聖公会の教会ではそのようなところがあり、驚いたことでした。 たしか清里の教会だったように記憶しています。今ではあまり行われなくなりましたが、キリストの体は礼拝の対象でもありますから、時には聖体賛美式が行われることもあるのです。

 クラスターを発生させることなく、ともに充分に注意しながら、心を合わせて主を賛美いたしましょう。

司祭の言葉 6/21

※2020年6月21日(日)年間第12主日A年

     春日部の雀      司祭  鈴木 三蛙

 春日部教会の司祭館から庭を眺め、まず目に入ったのが芝生に遊ぶ雀の姿でした。とても懐かしくうれしく感じました。前に春日部に赴任していた20年以上前は、教会の三階に寝起きしていたのですが、朝になると窓のところにいつも雀がやってきました。屋根の上に米粒をまくと、毎朝起こしに来てくれます。お米をおいてないと窓カラスをこつこつとたたいて催促?もするのです。

 昔はあれほどいたのに、最近はめっきり雀の姿を見なくなりました。雀が巣を作ることの出来る瓦屋根の家が少なくなったからです。雀は瓦屋根の下の隙間に巣を作るのです。昔から雀はとても身近な存在でした。米の実った秋の田んぼには雀が群れ集います。農家の方々は、カーバイトをつかってドカンと音を出す鹿威し(ししおどし)という仕掛けを作って、雀を追い払う工夫をしていました。そんな光景も見られなくなって久しくなります。
 今でもあるのでしょうか、上野公園の一角に野鳥料理の店があって、かつては雀の丸焼きを食べさせていました。雀は安いタンパク源でもあったわけです。

 マタイ福音書には「2羽の雀は1アサリオンで売られているではないか」とありますが、ルカ福音書では「5羽の雀は2アサリオンで売られているではないか」とあります。価値が低くて1羽では売り物にならない、あるいは1羽はおまけになっているほどの雀。そのような雀であっても、神の許し無くして地に落ちることはない・・・のです。そして私たちは比較にならないほど遙かに勝っているものなのだから、すべてを主に任せ、過度に恐れないようにしようではないか・・・そう語っているのです。

 新型コロナウイルスの世界的広がりは、世界経済を麻痺させ、人々から仕事を奪い、多くの死者をもたらしました。人々の間に恐れが広がり、教会活動もストップし、不安が蔓延しています。それでも主に信頼し、希望を持つようにと主は言われるのです。ようやく中止になっていたミサが21日から再開されることになりました。勿論まだ昔日のように全面的再開とは行かず、段階的に、まずは主日に一つのミサを再開する・・というところから始まるのですが、ともに十分に気をつけながら、三密にならないように、社会的距離を保ちながらの再開となります。
 でも、過度に恐れることなく、パンデミックの収束に力を尽くしてくださった方々に感謝しながら、主に信頼してともに進んで行きましょう。

※2020.06.21 12th Sunday in Ordinary Time (A)
          Sparrows in Kasukabe
                        Rev. Fr. Suzuki, Michael Kunihiro
I viewed across the garden from the window of the parsonage to find a couple of sparrows playing on the lawn. The picture touched my heart in memories of sweet old days. They used to come in every morning at the window of the top room in our three-storied church building while I was stationing in Kasukabe until two decades ago. I would lay some grains of rice by the window and they would come to wake me up in the next morning. They would even plead me for their meal with their heads knocking at the windowpanes when I missed serving.

Though they were many in the past, things are different now. The tile-roofed houses that keep their nests is getting lesser. Sparrows build their nests in the narrow ditch under the roofs. This is why.

They had been always around us for a long time. In the harvest season, they flock together at rice fields. Farmers tried every means such as a Shisiodoshi, a loud noise sending device made up with carbines to scare and drive them away. It has been long now since they all had gone.

I wonder if the wild-life restaurant at a corner of Ueno Park still serves their customers the dishes of a whole roasted sparrow. A sparrow once was the cheap source of protein. 

In the Gospel according to Matthew, Jesus says, “Are not two sparrows sold for a penny?”. In Luke, “Are not five sparrows sold for two pennies?”

A sparrow might have been of so little value that only a single sparrow cannot be enough for sale. Or else, it is no more than a gift to come along with other articles. Even that little creature does not fall to the ground without Divine Will. The point is that as we mean much to God far beyond comparison with the sparrows, why not give ourselves up to the Lord and why be afraid. 

The outbreaks of novel coronavirus across the globe froze the world economy, stolen jobs, and killed many. Fears are between the citizens, Christian churches stand still, worry runs over on us. At this moment, the Lord says, “Trust in Me and never lose hope”.

Mass is coming back after a long rest on the 21st this month. Without wonder it will not be wide open enough. Starting from once in a Lord’s Day, mass will grow step by step by the time they return to normal. In the church we are asked to care for each other to stay away from “closed spaces, crowded places, and close contact with people”.

Trust in the Lord and never be afraid. Let us go and give our thanks to those working on bringing the pandemic to an end.

(Translation: TK)

司祭の言葉 6/28

※2020年6月28日春日部年間第13主日A年 

愛の掟と「父母を敬え」     司祭 鈴木 三蛙

 ようやくミサが始まりましたが、教会の中もウイルス対策として大きく間をとってのミサ。参加人数も限られます。ミサに出ることの出来ない方は、愛のために、まだしばらくの我慢です。     

 今日の福音には私たちを驚かせるものがあります。モーセの十戒には第4戒として、「あなたの父母を敬え」とありますが、イエスを愛することはその上を行かねばならないのです。「私よりも」という言葉を、「神よりも」という言葉に直してみると、納得がいくかもしれません。十戒でも最初の三つの戒めは、。神について語られています。主なる神を唯一の神として礼拝すること。主の名をみだりに唱えてはならないこと。主の日を聖とすること。そしてその後に父母を敬えとあるのです。
 では具体的にはどうすればよいのでしょうか。「今日は主の日で10時からミサがある。でも父が病気になって助けを必要としている、どうしようか」・・・迷わず家にとどまってください。
 イエスは新しい掟をくださいました。「私があなた方を愛したように互いに愛し合いなさい」
 愛の掟が優先します。教会は新型コロナウイルスの世界的流行を受けて、ミサを中止しました。ウイルスの蔓延を防ぐためです。それは人々への愛のために・・といってもよいと思います。
 イエスのくださった愛の掟を守ることは、イエスへの愛につながります。
 どのようなときに神を愛することと父母を愛することが対立するのでしょうか。父母が子供に罪を犯させようとするときなどです。神の愛に反して、罪を犯させようとするときは、従ってはいけないのです。また神への愛を捨てさせようとするときなどは、従ってはいけないのです。
 でも遠藤周作は神の掟を守ることと隣人を愛することとの葛藤を、「沈黙」という小説で描いています。キリシタン迫害の中、捕らわれ、どのような迫害を受けても信仰を守り通す司祭。自分が信仰を守り「転ぶ」と言わないばかりに、逆さ穴吊りになってうめいているキリシタンの存在を知ったとき、彼らを苦しみから救うために「転ぶ」と言うべきかどうか苦悩する司祭の話です。いくら祈っても神は応えず「沈黙」しています。十字架ならいくらでも背負うと決心していた司祭ですが、自分のその信仰がほかのものを苦しめている。そのことを知ったとき、彼は隣人への愛のために転ぶのですが、あなたならどのような答えを出すのでしょうか。

※2020.06.28  13th Sunday in Ordinary Time(A)
  Commandment of love and ‘Love your parents’                              by Rev. Fr. Suzuki Michael Kunihiro 
At length Sunday Mass has  been reopened, but with a long distance from each other person in the church, too. The number of participating people must be restricted. For some time, people who are not allowed to join the mass are desired to endure for love’s sake.

In today’s gospel, we find something surprising us. In the Ten Commandments we find, as the Fourth Commandment, “Honour your father and your mother,…” But, to love Jesus must be made more of it. If you change the phrase ‘to me’ to ‘to God’, you may be satisfied. In the Ten Commandments, too, the first three are talked about God, i.e. to praise only God as the Lord, not to make wrong use of the name of the Lord, to keep the Day of the Lord holy, and after that , to honour the father and the mother. 

Then, concrtely, what are we required to do? “Today is the day of the lord, and the mass will be celebrated beginning at 10 o’clock. But my father is sick and needs help. What shall I do?” ……Stay at home without hesitating!

Jesus gave us the new commandment, “Love each other as I loved you.”

Commandment of love has priority. Meeting with the worldwide epidemic of the new type corona virus, the church called off masses, in order to prevent spread of the virus. It can be said, ‘for the sake of the love for the people’.

Observing the commandment given by Jesus leads up to loving Jesus. 

In what cases loving God and loving one’s parents are conflicting with each other? For example, in the case that parents are making children commit sins. In case of being made commit a sin against the love of God, you should not obey. In case of being made put off the love for God, you should not obey.

But, Shusaku Endou decribes, in his novel titled “Silence”, conflicts between observing the God’s commandment and loving neighbors. It is a story of a priest who was captured in the persecution of Christians [under the Tokugawa-Government] and tortured in various ways, but was keeping his belief in God. However, when he knew about Christians hanged upside down in a hole and groaning because he was keeping his belief without saying “I give it up”, he was in anguish over whether he must tell “I give it up” in order to save them from pains. However much he prayed, God didn’t reply and kept “silence”. The priest had made a resolution to bear whatever cross. Nevertheless, when he knew that the faith of his was torturing other people, he gave up his faith for sake of his love for neighbours. 

What would you reply?

(Translated from Japanese by N.F.)

司祭の言葉 7/5

※2020年07月05日春日部年間第14主日A年

わたしは柔和で謙遜なもの      司祭 鈴木 三蛙

「わたしは柔和で謙遜なものだから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい」マタイ11の29 この言葉の背景にあるものは詩篇37の11「しかし柔和なものは国を継ぎ、ゆたかな繁栄を楽しむことが出来る 」日本聖書協会訳・・ということばなのですが、訳によって柔和の意味が違っています。聖書協会訳は「しかし、柔和なものは国を継ぎ」バルバロ訳は「だが、小さな人々は地を継ぎ」共同訳では「貧しい人は地を継ぎ・・・・と、なっています。

 詩篇は本来ヘブライ語ですから、各国語ではヘブライ語のニュアンスを生かしながら 柔和なもの、小さな人々、貧しい人と訳しています。このヘブライ語の柔和「anaw」ということばは、もともと、身をかがめ小さくなっている人の様子を表すそうです。経済的に圧迫されていたり、あるいは他から虐げられて苦しんでいる人の意味で「貧しい人」と訳されることが多いのだそうです。 イエスは詩篇37を念頭に置いて語っていると思われますので、「柔和」には、ヘブライ語の持っている「小さな人々」「貧しい人」というニュアンスが含まれていると見るのがよいとおもいます。

 また、どうにもしっくり来ないのが、共同訳の「わたしは柔和で謙遜なものだから」という訳です。この言葉にはいつも引っかかっていました。 勿論、イエスは謙遜でありへりくだった方です。神の身分でありながら人となられたのですから。 でも自分から謙遜と言うと、違和感があるのです。自ら謙遜だというとき、傲慢に聞こえるからです。 この謙遜という言葉は、ギリシャ語ではタペイノス「へりくだった、身を低くした」といういみです。岩波訳は「なぜなら私は柔和で心が低く、あなたたちは自分の心に安らぎを見出すであろうから」と訳していますし、聖書協会訳は「わたしは柔和で心のへりくだったものであるから」 バルバロ訳は「わたしは心の柔和でへりくだったものであるから」などと訳しています。イエスは自ら身を低くされたお方です。そのニュアンスが出るような訳がほしいと思っています。

 イエスの言葉は、「わたしは実際に貧しく身分が低い・・律法学者のように律法教師の資格や地位があるわけではない」と言ってもいるのです。だから、貧しく身分の低い人も安心してイエスに近づくことが出来るのです。イエスの時代。ラビの弟子になるのは難しいことでしたが、イエスの弟子になるのには何の資格も学力も授業料もいらないのです。安心して、主のそばに近づきましょう。

※2020.07.05 14th Sunday in Ordinary Time (A)
         For I am meek and humble of heart
                        Rev. Fr. Suzuki, Michael Kunihiro
“Take my yoke upon you and learn from me, for I am meek and humble of heart; and you will find rest for yourselves (Mat11:29). “Behind it is Psalm 37:11,”But the meek shall inherit the earth, and shall delight themselves in the abundance of peace (Japan Bible Society translation).” Every translation has its word for “the meek”. JBS translates “the meek shall inherit the earth”, while Barbaro translation says, “the small will inherit the earth” and The New Interconfessional Translation, “the poor will inherit the earth”.

The Psalm is originally written in Hebrew. Each translation has “the meek”, “the small”, and “the poor” for the word in the original text, carefully trying to convey its true meaning. The original Hebrew word for it, “anaw” is said to describe a person who crouches and became short”. They say that the word means the people who is oppressed economically or suffering from abuse by others and that it is often translated into “the poor people”. As the Lord Jesus had Psalm 37 in his mind, it is good to say that “anaw” has both meaning “the small people” and “the poor people”.

Next, I cannot feel uncomfortable with “I am meek and humble of heart”. The word is not fine with me every time I read it. Jesus truly IS meek and humble. Although He was in the form of God, He emptied himself, coming in human likeness. Nevertheless, the phrase “meek and humble”, when spoken about oneself, gives us a wrong impression and sounds “stuck-up”. They are from a Greek word “tapeinos” and means “to be modest or to take down”. Iwanami translation says, “as I am meek and lowly in heart, you will find peace in your mind”. Barbaro translates “I am meek and humble in heart.” The Lord lowered himself of His own free will. I want a translation that clearly expresses His will.

Here, Jesus also says “In fact, I am poor and mean. I do not have anything like a qualification nor the position of Rabbi.” That is why the poor and the mean can come to Jesus without fear. In the days of Jesus, an entry into apprenticeship needed a great cost. However, no title, talent, nor money is needed to be a disciple of Jesus. Do not worry. And let us come to Jesus.

(Translation: TK)

司祭の言葉 7/12

※2020年7月12日春日部加須 年間第15主日A年

種蒔く人 司祭 鈴木 三蛙

今世界中の人が異常気象に悩まされています。日本では続く長雨。線状降水帯が形成され、九州豪雨では1時間で50ミリ60ミリあるいは70ミリという驚くべき雨量。大分県日田市では72時間で862ミリの雨が降りました。各地で引き起こされる河川の氾濫、崖崩れ、鉄砲水。今世界で何が起きているのでしょうか。

 他方、アフリカやアメリカでは干ばつの被害、山火事。昨年12月ジンバブエとザンビアの国境に位置する世界遺産ビクトリアの滝は乾いた岩肌をさらけ出したというニュース。干ばつで、世界で小麦の栽培面積の75%がトウモロコシは82%米62%大豆91%が被害を受けている由。時の印を見極め、今私たちに出来ることを考えたちと思います。すべてにおいて人類の助け合いが期待されています。

 さて今日のみ言葉は種まきのたとえです。パレスチナも乾燥した土地が多いところです。そのようなところで種をまきます。まず不思議に思うのは、この農夫のやり方です。日本の農民なら決してこんな種の蒔き方をしないでしょう。畑をきちんと耕して「良い土地」にしてから、種が無駄にならないように、注意深く蒔くに決まっているのです。耕した土地に小さな穴を開け、そこに種を落として、上から土をかぶせるのが普通のやり方でしょう。

 パレスチナではイエスの時代、まず種をまきそれから耕したようです。耕す前に、土地一面に種を蒔いてしまい、その土地を掘り起こすように耕していきます。蒔くときに多少石ころがあろうと、茨が生えていようと、どうせ後で掘り起こすので問題はないのです。なぜこのようにするかと言えば、パレスチナでは日差しが強く、種を地中深くに入れなければすぐに干上がってしまうからだそうです。確かにこのような種まきは一見、無駄の多いやり方です。しかし、このように蒔くことによって最終的には豊かな実りがもたらされるのです。

 だとすると、ここが大切なところなのですが、このたとえ話のポイントは、蒔かれた土地が良い土地かどうかではなく、むしろ、大きな収穫に信頼し、希望を持って、忍耐して種蒔く人のほうにあると言えるのではないか・・・そのような見方ができるということです。

 無学な人、貧しい人、罪人と思われていた人、病人や障害を持った人々を相手にしているイエスに対して「何故あなたはもっと効率的な宣教方法をとらないのか」と批判する人たちがいた。そのような状況の中でこのたとえが語られたとするなら、このたとえ話のメッセージは次のようになると神学者エレミアスは言います。「彼らのやり方は一見無駄に見える。しかしそのような仕方でこそ、大きな実りがもたらされるのだ。私のやり方も同じことだ」

 そしてイエス様が弟子たちに説明するくだりは、イエスのたとえ話を弟子たちへの教訓として受け取った初代教会が、説明として付け加えた部分・・とも考えられています。

※2020.07.12 15th Sunday in Ordinary Time(A)
             The sower
                   by Rev. Fr. Suzuki, Michael Kunihiro
Abnormal weather is striking all the world. In Japan, training meteorology which is formed is causing the long rain which we still have. In Kyushu they had an extraordinarily high rainfall that reached to 70 millimeters per hour. Hita city in Oita prefecture had rainfall of 862 mm in 72 hours.
Overflow of rivers, landslides, and flash floods are caused everywhere. What on earth is happening all over the world? 

In Africa and America, on the other hand, the damages done by the drought and forest fires are reported. Another news was that Victoria Fall which sits on the border between Zimbabwe and Zambia has dried up and exposed its bedrock. Seventy five percent of wheat field, 82 percent of corn field, 62 percent of rice field, and 91 percent of soybean field of the world are said to be affected by droughts. What are these sings hinting at? The answer is our mutual support as human which is needed in all the thing.

Today’s words are parables of planting seeds. Palestine has many dry lands where they sow seeds. What is peculiar is the way this farmer does. In Japan, we would sow seeds in different way. We plow fields first to make “good soil” before carefully seeding not to waste even a single grain. That is the way Japanese do. We ordinarily dig a small hole on the plowed field, drop a seed, and fill it.

In Palestine in the days of Jesus they seeded first, and then plow up. They seed all over the land and then start to dig it up. They do not care stones, nor thorns when they seed because they will be dug up later. It is because in Palestine strong sunlight dries up the seeds if they were not laid deep in the soil. Seemingly this way wastes a lot of grains, but this brings a good harvest eventually.

Accordingly, from another aspect we can say that the point of this parable is not if the soil is good or not but if the farmer can keep trusting, hoping, and bearing before they have a large harvest.

Suppose it is the story of Jesus who takes care of the illiterate, the poor, the sinners, the sick, and the disabled when some criticized him for his evangelism, then the message from Jesus, according to Jeremias, a theologist, is “Their way may waste much time; however, it is the only way which brings a large harvest just like the way I teach.

The explanation of the parable Jesus made to the disciples is thought to be one of the parts which Early Christianity added later for their good lesson.

(Translation: TK)

司祭の言葉 7/19

※2020年7月19日 年間第16主日 A年 

毒麦のたとえ(マタイ13章24-43節)       司祭 鈴木 三蛙

 今年は長雨が続いていますが、ようやく晴天の予報も入ってきました。今回の集中豪雨では各地の田畑が水に浸かる被害を受けましたが、作物を作る方は、長雨でも晴天続きでも困りますので、心配は尽きません。イエスの時代にも同じだったのだろうと思います。種をまいてから深く耕すのもその対策の一つでした。

加えて、イエスの時代に、敵対者が毒麦をまいて作物の収穫を妨害することも実際にあったのでしょう。それも、撒いた毒麦は半端な量ではない。非常にたくさん撒いたので、根が絡み合い毒麦だけを抜き取るのは不可能なほどです。

 このたとえはどうして語られたのでしょうか。ドイツの聖書学者、ヨアヒム・エレミヤスの見解は次の様です。

イエスに付き従う人たちの中には、ファリサイ派の基準だけではなくイエス自身の基準からみても、神の前に立つにはふさわしくない人々がいました。そこに生じたのが「なぜあなたは罪びとを神の国の共同体に招いているのか」、あるいは、「弟子にしておくのか」というような批判です。そして、その弁明が今日の箇所だと考えられています。つまりイエスが譬えを語った時の直接の相手は、イエスを批判する人たちだったと言うことです。

家の主人は、「毒麦はそのままにしておかなければならない」という考えです。その理由は、毒麦の量が非常に多いからです。収穫期には刈り取り専門の人が別に雇われます。その人たちに刈り取るときに毒麦と良い麦を分け、良い麦を倉に入れ、毒麦は束にするように言いつけます。

ここで質問ですがなぜ束にするのでしょう。日本人的に考えれば束にせず、山にしておいて燃やしてしまうかもしれません。でも、パレスチナは木が少なく燃料が不足しているからです。ただ焼いてしまうなど無駄なことはできません。束にするのはそれを乾燥させて燃料にするためです。

なぜ毒麦を抜かないのか。理由は二つ語られています。

 生育の初期段階では毒麦と麦が外見上とても良く似ているように、「神の民」も偽信者の間に、秘密として隠されています。それでも選別しようとすると、間違いなく誤った判断をして、毒麦と一緒に良い麦を抜いてしまうでしょう。

 さらには、神が選別の時を定めているからです。種は必ず収穫の時を迎えます。植物の話なら、毒麦はいつまでたっても毒麦ですが、「毒麦」が「罪びとのレッテルを貼られていた人」の意味ならば、「毒麦が良い麦に変わる可能性」、悔い改めの最後の機会がまだなくなってはいないのです。

振り返って私たちの教会はどうでしょうか。教会の中から異質のものを排除しようとする誘惑はないでしょうか。私たちがパリサイ人の立場でものをいうことはないでしょうか。