司祭の言葉 8/16

※2020年8月16日 年間第20主日A年
(→English)

カナンの女と子犬


                   司祭  鈴木 三蛙
 今日のみ言葉は、カナンの女のおはなしです。イエスがティルスとシドンの地方に行ったとき、女はイエスが来たと知ると、「ダビデの子よ、私を憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめいられています。」と叫びます。でも、「イエスは何もお答えにならなかった」とあります。「何で?」と思いませんか? そして弟子たちはと言えば、うるさいからと追い払おうとするのです。これまた薄情だと思いますよね。さらに引っかかるのは「子供たちのパンをとって子犬にやってはいけない」ということば。犬呼ばわりですよ。これがイエス様の言葉・?と思ってしましませんか。
 まず、カナンに来たいきさつから見てみましょう。今日の個所は21節からですが、15章の初めには、エルサレムから来たパリサイ人と律法学士たちが、イエスの弟子たちが先祖からの言い伝えを守らないことについて、論争を仕掛けています。その前の章ではパンの奇跡と、休むために対岸に行かせたが嵐にあったというお話でした。
 イエスの弟子たちもイエスもかなり疲れていて、本当に休みが必要で、パリサイ人、律法学者たちの偽善に辟易して、足の塵を払うような形で、ユダヤから離れたところでした。
既成宗教に対して足の塵を払ったイエスは、私たちの教会に対しても、もし辟易したら、足の塵を払われるかもしれません。
 ここで一つの言葉に注目したいと思います。「子犬」です。相手を犬呼ばわりするときには、そこに強い侮蔑の意味がこめられます。でも、この子犬という言葉には優しさと愛情が含まれているのです。
 指小辞(ししょうじ)‥という言葉をご存知でしょうか。ある言葉につけて、小さい、かわいい、という意味をあらわす言葉です。今、セウイの台所のわきに野良猫が子猫を生んでいて、時々姿を見つけるそうです。かつて、やはり物置に野良猫が子供を産んだことがありますが、子猫はすばしっこく、決してつかまりませんでした。犬も野良犬は恐ろしいし、その子犬も歯をむき出して威嚇してくるでしょう。人間を犬と呼ぶのは致命的な侮辱でした。そのような犬呼ばわりは、犬はごみをあさる不潔な動物という印象でしたが、ここに出てくるのは、そのような犬ではないのです。ギリシャ語で犬はキュノスですが、ここではこの指小辞が使われていて、キュナリオンなっています。飼い主のところに愛情込めて飼われている子犬という感じです。イエス様は、いわば、愛情込めて「子犬ちゃん」と呼んでいるいうところでしょうか。
 訪れた異邦人の地、あるいはそこに信仰を見出そうとしたのでしょうか。イエスはカナンの女の信仰を試します。イエスの厳しい言葉にも彼女は耐え、娘をいやすことのできる方はこの方を置いてはいない・・その確信をもって、「子犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです」とこたえます。
 カナンの女は、はじめイエスをダビデの子と呼んでいます。世俗的な呼びかけですが、あとからは信仰をもって「主よ」と呼び掛けています。
そしてイエスは彼女の信仰に応え、娘の病気をいやしたのです。

※2020.08.16 20th Sunday in Ordinary Time(A)
      Canaan woman and puppy
                     by Rev. Fr. Suzuki, Michael Kunihiro
Today’s scripture is the story of a Canaan woman. When Jesus went to the provinces of Tyre and Sidon, the woman found that Jesus had come and shouted, “Children of David, have mercy on me. My daughter is terribly suffering from evil spirits.” But, “Jesus did not answer anything.” Don’t you think “Why?” The disciples even try to get rid of her because she asked much. Isn’t it merciless? There is another part that catch our attention. “Don’t take children’s bread and give it to a puppy.” A puppy? Is this the word of Jesus? 

First, let us look at how He came to Canaan. Today’s story starts from chapter 15, verse 21, but at the beginning of chapter 15, the Pharisees and teachers of the law from Jerusalem challenged that Jesus did not keep the traditions of their ancestors. In the previous chapter, I told you about the miracle of bread and that He was sent to the opposite bank to take a rest, but there was a storm.

Both Jesus’ disciples and Jesus were very tired, they really needed a break, and were away from Judah. Because they were so sick of the hypocrisy of the Pharisees and the scribes that they dust their feet.

Jesus, who dusted and left the established religion, might do so our church if he was tired of us. Anyway,I would like to focus on one word here. “Puppy”. When you call your opponent a dog, there is a strong sense of contempt. But the word puppy includes kindness and affection.
Do you know the word syshoji diminutive suffix? This is a word attached to a word to mean small and cute. Stray cats lay beside Sewi’s kitchen, and we sometimes find them around. In the past, a stray cat had given birth to a child in the storeroom, but the kitten was quick and never caught. Dogs and stray dogs might be terrifying, and the puppies would be barking and threatening. It was a fatal insult to call a human a dog. It gives me the impression that a dog is a dirty animal that scavenges garbage, but it is not such a dog I told now. In Greek, the dog is Kynos, but this sishoji is used here to become a Kunarion. That sounds like a puppy who is loved by the owner. Jesus is lovingly calling him “puppy” isn’t it?

Did He try to find faith in the land of the Gentiles He visited? Jesus tests the faith of the Canaan woman. She endures Jesus’ harsh words, and no one can heal her daughter… With that assurance, “a puppy will eat breadcrumbs falling from her master’s table,” she replied.

The woman of Canaan first called Jesus the Son of David. It is a secular way of calling, but afterwards she called Him “Lord” with faith.

And in response to her faith, Jesus healed her daughter’s illness.

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「今月のお知らせ」2020年

1・2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月

12月のお知らせ

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12月の予定

11月のお知らせ

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11月の予定

10月のお知らせ

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10月の予定

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9月の予定

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8月の予定

7月のお知らせ

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7月の予定

6月のお知らせ

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6月の予定

5月のお知らせ


ミサ予定 
コロナウイルス対策のため、5月24日(日)までのすべてのミサはお休み(おやすみ)します。

For the outobreak of new coronavirus,all public Mass will be suspended until May 24th
Về sự lây lan hiện tại của nhiễm trùng
Do thông báo từ giám mục, đại chúng vào tháng Năm sẽ bị hủy cho đến ngày 24.
Lịch trình sau ngày 30 sẽ được đăng sau.
Hãy chăm sóc bản thân tốt



4月20日(月)より電話番号が変わりました。
新しい番号は、電話が:048- 627-1042
       FAX専用が:048- 877-4527  となります。

またホームページのアドレス(URL)も5月1日より変わりました。
plalaよりsakuraweb.comに変更しました。

★教会のHPのURLが5月1日よりPLALAからSAKURAに変更になりました。下記参照。カトリック春日部教会で検索しURLが正しければそのページを見る。またはさいたま教区のHPに行き春日部教会のWEBを見てください。メールアドレスの変更はありません。

4月のお知らせ

4月のミサ・典礼予定 (2020年3月26日変更)

新型コロナ対策のため、4月26日(日)復活節第3主日までミサはお休みになりました。
4月 3日(金) 初金ミサ 10:00
4月 5日(日) 受難の主日 ミサ 10:00 ベトナム語ミサ 14:00
4月 9日(木) 聖木曜日 主の晩餐 19:00
4月10日(金) 聖金曜日 主の受難 19:00
4月11日(土) 聖土曜日 復活徹夜祭 19:00
4月12日(日) 復活の主日 10:00
4月19日(日) 復活節第2主日 10:00
4月26日(日) 復活節第3主日 10:00 英語ミサ 14:00
※教区からの特別の指示があれば変わります。


[行事予定]
※第1回教会委員会 4月5日(日) ミサ後。
※ひつじ食堂 4月11日(土) 12:00~
※薫神父の信仰講座(最終回・予定) 第1土曜日(4/4) 10:00~12:00 

於: 多目的ホール
※教会史に親しむ会(予定) 第1・4土曜日 (4/4, 4/25) 13:00~14:30
於: 事務室
※「智も手も」第382号編集・印刷4月19日(日)、ミサ後。
原稿は4月12日(日)までに。(※ 中止・変更の可能性あり。)

3月のお知らせ

3月のミサ予定
3月 1日(日) 四旬節第1主日 10:00 (洗礼志願式・赦しの秘跡)ベトナム語ミサ 14:00
3月 6日(金) 初金ミサ 10:00
3月 8日(日) 四旬節第2主日 10:00 (四旬節黙想会)
3月15日(日) 四旬節第3主日 10:00 (赦しの秘跡)
3月19日(木) 聖ヨセフ(祭日) 10:00
3月22日(日) 四旬節第4主日 10:00 英語ミサ 15:00
3月25日(水) 神のお告げ(祭日) 10:00
3月29日(日) 四旬節第5主日 10:00

1・2月のお知らせ

1月・2月のミサ予定
1月 1日(水) 神の母聖マリア 0:00 11:00
――(初金ミサは休み)――

1月 5日(日) 主の公現 10:00 ベトナム語ミサ 14:00
1月12日(日) 主の洗礼 10:00
1月19日(日) 年間第2主日 10:00
1月26日(日) 年間第3主日 10:00 英語ミサ 15:00
2月 2日(日) 主の奉献 10:00 べトナム語ミサ 14:00
2月 7日(金) 初金ミサ 10:00
2月 9日(日) 年間第5主日 10:00
2月16日(日) 年間第6主日 10:00
2月23日(日) 年間第7主日 10:00 英語ミサ 15:00
2月26日(水) 灰の水曜日 19:00

[行事予定]
※新年ティー・パーティ 1月1日(水) 11時のミサ後。

※福音化年学習会 (自分の言葉で福音を語ろう)
✦1月12日(日) 12:00~13:00
✦2月2日(日) 12:00~13:00

※ひつじ食堂
 ✦1月11日(土) 12:00~
 ✦2月8日(土)  12:00~

※藤田薫神父の信仰講座
(1月) 第4土曜日(1/25)
(2月) 第1・5土曜日(2/1, 2/29)
10:00~12:00 於: 多目的ホール

※教会史に親しむ会
(1月) 休み
(2月) 第1・3・5土曜日
(2/1, 2/15, 2/29)
13:00~14:30 於: 事務室

※「智も手も」第380号編集・印刷
2月16日(日) ミサ後
原稿は2月9日(日)までに。

司祭の言葉 8/9

※2020年8月09日 年間第19主日A年

「私だ エゴ、エイミ」

                     司祭  鈴木 三蛙
 ウイズコロナと言われている今日、三密を避け、何とかミサを行っていますが、お年寄りは教会にもこれません。命を守る行動が求められていて、お盆の帰省の時期ですがお年寄りに移さないように、帰省も控えねばなりません。心細い今こそ子供たちにそばに来てほしいと思いますし、お孫さんたちもじいじ、ばあばのところへ遊びに行きたいとおもっている。だから、孫を連れて行って喜ぶ親の顔が見たいけど、万が一うつしてしまったら・・そう思うと帰省できないとの決断をします。今年はどれほど多くの人がそのような決断をしたことでしょう。

 今日の福音をお聞きになって、どこが一番気になるでしょうか。イエス様が水の上を歩いたことでしょうか?そしてどのような現象なのだろうと考えたりしませんか?今の時代はすべてを科学的に分析して、納得いく答えを見つけようとします。未知のものに出会うと、それをとことん研究して、納得して、安心するのです。そのような試みは、水の上を歩くイエスについて、いくつかの答えを出しています。でも今日は、イエス様の一つの言葉に注意を向けたいと思います。

 今日取り上げたいのは、「私だ」という言葉です。弟子たちはイエスに促されて対岸を目指し、湖に漕ぎ出しました。でも、この湖特有の突風にいなってそのような弟子たちのところへイエスが近づき、いるはずのないイエスの姿を湖上に見つけ幽霊だとおびえます。
 そのときイエスは「私だ」といい、弟子たちは胸をなでおろすのです。この言葉は、出エジプト記の芝の章で、モーセにご自分をあらわされた主が、その御名の啓示として言われた言葉と同じ言葉です。その時主は「わたしは在るというものだ」とおっしゃったのですが、それはギリシャ語で「エゴ、エイミ」ということばです。そこには二つの意味があって、私は誰からも創られず存在する・・という意味と、私はいつもあなたたちと共に在る・・という二つの意味があるのです。神の救いの歴史はまさに、「私はあなたたちと共に在る」ということを具体的に示してきた歴史でした。そして今恐れおののく弟子たちに、「私だ」といったとき、主が語られた言葉は「エゴ、エイミ」でした。「私はあなたとともに在る、恐れるな」と語りかけたのです。
 いま私たちは弟子たちのように、得体のしれないコロナによる恐れのただなかにいるのではないでしょうか。コロナは目に見えず、薬も治験の途中でまだ出来上がっていません。でも、恐れる私たちにも主は「私だ」私はあなたと共に在る・・とおっしゃって下さるのです。
 エゴ、エイミ この言葉を心にとめ、この難局を乗り切ってゆきましょう。共に主を大きな声で賛美できる日を待ち望みながら。

司祭の言葉 5/10

※5月10日(日)復活節第5主日

私は道 司祭 鈴木 國弘 

 福音はヨハネによる福音の14章1節から12節。イエスが弟子たちに「あなた方のために場所を用意しに行く、その道をあなた方は知っている」と言い、トマスが「どうしてその道を知ることが出来るでしょうか」尋ねる箇所です。このときイエスは「私は道だ」とおっしゃいます。

教会にいると時々、教会までの道順を尋ねられることがあります。

春日部駅からですと、西口に出て駅を背にして藤通りをまっすぐに歩いて、右手にジョナサン、左手に歯医者さんのある信号のない十字路を左折。そのまままっすぐ歩いてくると左手に「たいらや」と言うスーパーが見えたら、その手前右側が教会です。そう説明すればたどり着けるでしょう。

 しかし、「道を聞いてそのとおり歩いたけど目的地にたどり着けなかった」と言う経験もおありだとおもいます。

 皆さんの中に歩いているときに道を聞かれ、ただ教えるだけではなく道案内をして連れて行ってあげたことのある人はおられますか?

 最近は家電売り場など大きな店が多くなりました。どこに何があるのか探すのに苦労しますが、でも、場所を聞いたときに、その場所まで案内してくれる店も多くなりました。そんな時はとてもうれしいですね。

 もし道を尋ねられた人が「わたしがご案内いたしましょう」と言うなら、その場合案内をしてくれる人はわたしにとって道であり、わたしが道に迷うことはありえません。これが、イエスがわたしたちにしてくださったことなのです。

 イエスは単にわたしたちに助言や、指示や、忠告を与えるのではありません。イエスは手ずからわたしたちを導き、わたしたちと主にあゆみ、そしてわたしたちを個人的に日ごとに強めてくださるのです。イエスは道について語りはしない。イエス自身が道なのです。私たちも同じようにできたらいいですね。

 皆様の上に、主の祝福がありますように。アーメン、アレルヤ

司祭の言葉 5/17

※5月17日(日)復活節第6主日A年(ヨハネ14章15-21節)

司祭  鈴木 國弘

 主の平和!! 皆さんいかがお過ごしでしょうか? 三密にならないようにするために、小さいお子さんをお持ちのご家庭は、とくにご苦労なさっていることと思います。14日さいたま教区の中で、茨城、栃木、群馬は新型コロナウイルス感染予防のための緊急事態宣言が解除されましたが、埼玉県はいまだその最中にあります。

先週間違って31日までと書いてしまったのですが、教区が公開ミサを禁止しているのは5月30日までです。間違いをお詫びします。緊急事態宣言がそれまでに埼玉県も解除されれば、公開ミサ禁止の延長はなくなり、31日には聖霊降臨のミサが出来るかもしれません。その時には密にならないような工夫が必要になるでしょう。特に春日部教会は信徒数が多いので、ミサに集中しないようにするためには分散しなければなりません。小生は、そのためにはもう一回ミサを増やすしかないと考えています。皆さんのお知恵を拝借したいと思います。

2011年、東日本大震災の後川越少年刑務所へ行きましたときに、受刑者たちの中から「神様がいるなら、どうして今回の大震災と大津波のような出来事がおこるのですか・・・」と言う質問がありました。 「なぜ?」・・その疑問に対する答えはすぐには見つかりません。今回の新型コロナウイルスの世界的流行もそうですが、きっとわたしたちがこの困難を克服したときに、答えが見えてくるのではないでしょうか。

今回のコロナウイルスによる被害は世界中を震撼させています。テレビには、街から人影の消えた世界中の様子が日々放映され、その恐ろしさを共有していますが、でも心強いのは、世界中が知恵を尽くし、この未曽有の災害を克服すべく立ち上がっていることです。行政もそうですが、特にお医者さんや看護師、医療関係者の皆さんは、死と隣り合わせの中で命を守るために懸命に戦っています。

わたしたちはこの世界をどのように感じているでしょうか。 わたしたちは自分の人生の中で、愛に反する現実をたくさん経験してきています。暴力、裏切り、無関心などなど。しかし、わたしたちの人生はそれらに覆い尽くされているわけではありません。愛の体験も必ずあるはずです。今回の新型コロナウイルスのパンデミックを通じても、見えてくるものがたくさんあると思います。企業も自営業の方々も、自粛の要請に応え、倒産失業の恐怖に耐えながら、感染者を広げないために、命を守るために、ぎりぎりのところで頑張っています。多くのボランティアもその愛のすばらしさを見せています。

 さて、今日の福音の中心にあるのは「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」(18節)という力強い約束です。そして、別の弁護者が約束されています。

神の名は YHWH(わたしはある)と言う名でモーセに示されましたが、ここに

三位一体の神の役割分担が見えます。「わたしはある」・・と言われた神は、私たちを創造し、あがない、永遠にともにおられる・・のです。

聖霊は「別の弁護者」と呼ばれています。ヨハネの第一の手紙2章1節ではイエス様ご自身を「弁護者」と言っていますから、聖霊を「別の弁護者」と呼んでいるのです。 ヨハネ福音書が書かれた1世紀末、キリスト者は完全にユダヤ教から排斥され、ローマ帝国はキリスト教を激しく迫害していました。イエス様のこの約束の言葉が、人々を勇気づけていたことと思います。そして、ヨハネ3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という言葉はとても深く心に響いたことと思います。イエス様と聖霊がともに弁護者として私たちを助けて下さるのですから、フィリッピの信徒へ宛てた聖パウロの言葉を思い起こしながら、勇気をもって共に困難に立ち向かってゆきましょう。

「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリッピ人への手紙4章13節) 

皆様の上に神様の祝福がありますように。