司祭の言葉 4/16

説教:復活節第2主日(A年・2023年4月16日)
(神のいつくしみの主日) ヨハネ20:19-31

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「わたしの主、わたしの神よ。」

主イエスの十二使徒の一人トマスが、ご復活の主日から八日目の当に今日、彼を訪れてくださったご復活の主イエス・キリストご自身に、深い懺悔、そして畏れと感謝をもって告白した、彼の信仰のことばです。彼のこの信仰のことばは、今に至るまで、すべての時代、全世界のキリスト者の信仰告白のことばであり続けています。

聖トマスは、「わが主よ、わが神よ」との彼の信仰のことばとともに、二千年の教会の歴史を通して記憶されてきました。しかし、トマスは最初から信仰者の模範というべき人であったという訳ではなかったようです。最初はむしろ逆であったともいえます。トマスは、弟子たちの間で、「ディディモ」と呼ばれていました。これには「双子」に加えて、「疑い深い」と言う意味もあるのです。それには、理由があります。

わたしたちは、先の主日を、主イエス・キリストの復活の主日としてお祝いいたしました。主は十字架におつきになられる前に、弟子たちに三度、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、殺され、三日目に復活する」と仰せになっておられました。このおことば通り、主は十字架に死に、そして三日目に復活されました。

その復活の主日後、昨日までの一週間、わたしたちは毎日のごミサで、ご復活の主キリストが、最初にマグダラのマリアに、続けて十字架の許にまで主に従い続けた婦人たちに、さらにペトロたち主の弟子たち一人ひとりにお会いくださった次第を、喜びと感動、そして畏れをもって、福音からていねいにお聞きし続けて参りました。

ただし、ご復活の主イエス・キリストは、今日までトマスにだけはお会いなっておられませんでした。なぜでしょうか。今日の福音が伝えているように、ご復活の日の夕方、主が他の弟子たちをお訪ねになられた時、トマスは、そして彼一人だけが、彼らと一緒にいなかったからです。トマスは、主イエスのご復活を疑っていたからです。

ペトロがトマスに、「わたしたちは、週の始めの日に、確かに主に、ご復活の主にお目に掛かった」と熱く語った時も、トマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」とさえ応えていました。

さて、ご復活の日から丁度一週間後の今日、ペトロ始め主イエスの弟子たちは再び集まりました。トマスも今日は一緒でした。ご復活の主日と同様に、主は八日目の今日再び、弟子たちを訪ねてくださいました。ご復活の主・キリストは、今日はとくにトマスにお会いくださるために来てくださいました。主はトマスに仰せになりました。

「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

ご復活の主・キリストのこのおことばに応えて、トマスの心の底から絞り出されるようにして語りだされた言葉こそ「わたしの主、わたしの神よ」でした。確かに、疑い深いトマスでした。主のご復活の約束を、さらにその事実をも疑っていました。しかし、トマスは、最早これ以上疑い続ける訳にはゆきませんご復活の主・キリストご自身が、今、弟子たちのただ中に、そしてトマス自身の目の前に立っておられるからです。

その時、トマスは主のみ前に悔い崩折れる他無かったと思います。今日まで疑いの内に自らを閉ざしていたトマス、主の十字架の許に蹲り続けていたトマスを、主イエスは大切に抱きしめ、抱き起こしてくださいました。十字架の釘跡の残る主の両の御腕で。槍で刺し貫かれた傷跡の残る主のみ胸の内に。それが、主のご復活です。

「ディディモ」と呼ばれたトマスのように、主イエスを「疑う」こと、神の遣わされた主を信じ切ることができないことを、聖書では罪と言います。この罪の帰結は死以外にはありません。神を疑い続ける限り、人は真実に生きることはできないからです。神を疑う者は、結局は自分自身も疑い、誰をも信じることはできず、したがって、誰とも信頼しあい、愛しあい、望みをもって生きることはできないからです。すなわち、神を疑う者は、神と人とに対して死んだ者である他ないのです。

しかし疑うトマスを、主イエスはそのままにしてはおかれません。ご復活の主イエス・キリストは、彼を、神と人との前に決して死んだままにしてはおかれません。トマスだけではありません。実は、二度もご復活の主のご訪問を受けながら、なお主のご復活を疑ったペトロ始め主の弟子たちを、ご復活の主・キリストは忍耐強く、「三度」訪ねてくださいました。わたしたちすべてが、最早二度と、主のご復活を疑い得なくされるまで、十字架の許に蹲っていたわたしたちすべてが、主に抱き起こされ、主とともに主のご復活のいのちに歩み始める者とされるまで、主は忍耐強くわたしたちを訪ね続けてくださいます。それが今日の福音です。

「わたしの主、わたしの神よ」。 ご復活の主・キリストが、皆さんとともに。アーメン。

司祭の言葉(鈴木神父) 2023/1月〜4/9まで

司祭の言葉 4/9

主の復活

 主の復活、おめでとうございます。 今年の復活祭もコロナウイルス対応のミサを継続しておりますので、春日部教会の信徒が一堂に会することはまだできておりません。お許しください。もう少しの辛抱です。
 思えば、3年前春日部教会に赴任し時は新型コロナウイルス蔓延のさなかで、世界中がパンデミックに慄いていました。3年たった今も、いまだにコロナ対応が続いている中で小生は春日部を離れることになります。高齢者の方の中には一度もお会いすること出来なかった方々がいらっしゃいます。大変心苦しく申し訳ない気持でいっぱいです。
 最初の復活節は、司祭は一人で自室でミサをささげることが求められ、信徒を参加させることは許されませんでした。しかしながらこの春は、ふたつのグループに分かれていますが、皆さんと共に復活祭をむかえることが出来ています。感謝です。
 小生もこんなに早く春日部から移動になるとは、つゆほどにも考えていませんでした。神様は小生の執着をご覧になり、バッサリとそれを断ち切られたのだと思っています。本当に皆様から良くしていただき、春日部教会に甘えておりましたから。

 ところで私たちの信仰は、すべてがこの、主の復活という出来事にかかっています。

 マタイ福音書の12章に、律法学者とファリサイ人がイエスのもとにきて、「先生,しるしを見せてください」という場面があります。
 同じ章ではイエスが手の萎えた人を癒す場面や中風の人の癒しが語られていますし、またその前の章では二人の盲人の癒し、不治の病であったライ病を患っている人の癒しも語られています。それでも人々はなおしるしを求めたのです。

 彼らに応えてイエスは「、預言者ヨナの徴以外は与えられない」と答えています。

 預言者ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩大地の中にいることになる・・・そうお答えになりました。それは死んで葬られ三日目によみがえるというしるし、復活という出来事の予言でした。まさにイエスが神からのものであるというしるしであり、十字架による贖いの業が万人のためになされた・・・主の十字架によってすべての人は救われている・・・ということの証明なのです。

 復活祭がキリスト者にとって最大の、信仰の祝日であることのゆえんです。
 私たちはみな主の贖いによって救われています。

 私たちはただ、主よ、罪深い私を憐れんでください・・そうり頼めば、主は私たちをその懐に迎えてくださるのです。
 今日は大いに喜び、ともに感謝の祭りを続けましょう。喜びましょう。主はまさに復活されたのです。そして私たちもいつの日か、主のように復活することが約束されているのです。

 聖パウロは「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。」と、コリントの信者たちに向かって語っています。
 初穂は稲刈りの時に最初に刈られたもので、神への感謝の捧げものでした。

 そしてさらにパウロは「自然の命の体がまかれて、霊の体が復活するのです」と語ります。

 私たちは死すべき肉の体ではなく、永遠に生きる霊の体をいただいて復活するのです

 私たち人間社会では、大量破壊兵器、核弾頭をつけたミサイルがつくられ、いたるところで戦争が継続し、多くの難民が生まれています。今まさに第三次世界大戦の勃発が危惧されています。殺し合い憎しみ会う人間たち、そんな人間は、神の目から見れば、互いに殺しあって絶滅しても仕方がないような存在ではないかと思います。

 その人間のために神は人となり、十字架上の死をもって、その命で私たち贖い、復活の命を約束しました。私たちは主によって贖われ、奴隷状態から解放されたものなのです。主によって買い取られたものですから、その贖いにふさわしい実を結ばねばならないと思います。
 主の贖いに感謝し、イエスが愛したように、自分を大切にし、隣の人も同じように大切にする・・・今こそ、その生き方を見つけねばならないのだと思います。

司祭の言葉 4/2

受難の主日

 今日はマタイ福音書から二つの場面が朗読されました。エルサレム入城とピラトの裁判そして処刑という主の受難の個所です。
 教会がこの二つの朗読をもって私たちに示そうとするのは、何でしょうか。
 私たちはこの二つの場面を追体験していますが、それによって何を感じ取ることが出来たのでしょうか。
 皆さんは今日イエス様に向かって、二つの言葉を口にしました。
 ホザンナ、万歳という言葉と十字架にかけろという、相反する言葉です。
 教会はこの二つの言葉を口にして、私たちに考えてほしいと思っているのです。
 この二つの言葉は同じ群衆が、五日ほどの間をおいてイエス様に向かって発した言葉だということをです。

 エルサレム入城のこの日、ついにイエス様は勝利の道に突き進んだかに見えました。
 この時から30年後の数字ですが、過ぎ越し祭りで、エルサレムで屠られた羊の数は25万頭という数字があるそうです。一頭当たり10人ほどの人がこれを食したとすれば、250万人という数になります。20人としても125万人となります。過ぎ越し祭りには、いかに多くの人がエルサレムに集まっていたかがわかります。
 人々の胸には宗教的な思いがあふれていました。そのような時、祭りへの熱が最高潮に達していた時に、イエス様は歓呼の声につつまれてエルサレムに入城したのです。人々は道に自分たちのマントを敷き、棕櫚の枝を振ってホザンナホザンナと叫びながらイエス様を迎えました。
 弟子たちも誇らしげに、頬を紅潮させて同じくホザンナホザンナと叫んだことでしょう。メシアだ、メシアが来たのだと。

 過ぎ越し祭りは、エジプトの奴隷状態からの解放を記念する祭りです。
 イエス様のエルサレム入城は、メシアによる民族解放への期待となって、熱烈に歓迎されました。もしこれらの民衆がイエス様を担ぎ上げ、ローマに反旗を翻す力となって暴動が起これば、ローマは黙っているはずがない。近くの駐屯地から、直ちに戦車を繰り出し鎮圧に乗り出し、エルサレムは火の海となる。
 祭司長やエルサレムの指導者たちは、妬みと同時に、大きな恐れを抱きました。自分たちの地位を脅かす存在として、大事に至る前に早急に事を進めなければならない。一刻も早くイエス様を捉え処刑しなければならない・・と、そう考えたのです。

 マタイ福音書では、エルサレムに入ったイエス様の足取りについて次のように記します。
 神殿から商人たちを追い出し、その権威を問う祭司たちとの問答し、ブドウ園に行くように頼まれた二人の息子たちの譬え、ブドウ園と農夫の譬え、王子の婚宴への招きの譬え、皇帝への税金の問答、レビラート婚と復活についての問答、最も重要な掟、ダヴィデの子についての問答、律法学者とファリサイ派の人々の非難、神殿の崩壊の予告、人の子によるすべての民族の裁き、べタニアで香油を注がれる・・・等 
 そしてユダの裏切りの企てが語られ、過ぎ越しの食事と最後の晩餐、ゲッセマネでの祈り、ユダの裏切りとイエス様の逮捕、最高法院での裁判、ピラトへの引き渡し・・・となったのです。

 ピラトは、バラバと言われるイエス様とメシアと言われるイエス様、どちらを釈放してほしいかと尋ねますが、祭司長達や長老たちはバラバを釈放してイエス様を死刑に処してもらうようにと群衆を説得します。

 そして五日前にホザンナホザンナと叫んだ同じ群衆は、その舌の根も乾かないうちに、「イエス様を十字架につけろ」と叫びます。
 自ら考えることもせず、祭司たちの言うがままになって・・・。
 ここに語られるのは人々の、忘恩です。

 今日、枝の行列の後受難の朗読がなされたのは
そのことを黙想するためです。イエス様がユダヤの王となってくれると思った群衆が万歳と叫び、同じ群衆が金曜日には十字架につけよと叫んだ

 同じように私たちは、イエス様の弟子となりながら、イエス様を裏切っていないのか
 聖金曜日を前に、枝の行列と受難の朗読をすることの理由がここにあります。

司祭の言葉 3/19

四旬節第4主日  ヨハネ9・1-41

 1966年6月30日に静岡県清水市で発生した強盗殺人放火事件から57年を経て、3月13日、東京高等裁判所が袴田死刑囚の差し戻し審で、再審開始を認める決定をしました。袴田死刑囚は逮捕以来一貫して無実を主張してきました。死刑確定から40年後の2014年に、「拘置をこれ以上継続することは、耐え難いほど正義に反する」として仮釈放が認められました。それからすでに9年。袴田死刑囚は30歳で逮捕されてから45年以上にわたり東京拘置所に拘留され、その拘置期間の長さはギネスブックにも載るほどでした。考えてみましょう。無実の罪であるとすれば、彼の失われた人生をどう償えるというのでしょうか。

 イエス様は通りすがりに生まれつき目の見えない人をみかけます。すると弟子たちが訪ねます。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」・・と。
 弟子たちがこの男のことをよく知っていますので、この男は人々からよく知られていたとおもわれます。
 イエス様の時代、子供が両親の罪の結果を受け継ぐという…旧約思想がありました。
 詩篇109の14には「主が彼の父祖の悪をお忘れにならぬように、母の罪も消されることのないように」という言葉があります。また、イザヤ65章6-7節には「私は黙すことなく、必ず報いる。彼らの悪も、先祖の悪もともに・・と主は言われる」そう書き記されています。出20の5には「私を否む者には、父祖の罪を子孫に、三代、四代までも問う」との言葉もあります。そのため、ユダヤ人たちは躊躇なく苦難と罪とを関連させました。

 あるものは出生前の罪という奇妙な考えを持っていたと言います。人間はまだ母の胎にいるときから罪を犯すことができると信じていたのです。
また、イエス様の時代にはプラトンやギリシャ哲学の影響で、ユダヤ人は魂の先住を信じていました。そして彼らは、すべての魂は、世界が創造される前からエデンの園に存在していたと信じていたのです。ギリシャ人たちはそれらの魂は良いものであって、体に入ったために堕落したと考えたのですが、あるユダヤ人たちはそれらの魂にはすでに善いものと悪いものとがあると考えました。
 ソロモンの知恵8の19「わたしは気立てのよい若者で善良な魂を恵まれていた」

 しかし、イエス様は個々の人の罪とその人の病気や障害の関係をはっきり否定していいます。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」「神の業がこの人に現れるためである」そうおっしゃって、癒しの業を行います。
 「今、神はこの人に何をなさろうとしておられるか、自分はこの人に何をすることができるか、どう関わるべきか」というところがイエス様の思いです。そして安息日であるにも関わらず病人を癒しました。それがご自分の命を縮めることを知りながら。

 私たちの目の前に苦しんでいる人がいるとき、その苦しみについて自分が傍観者のままでいるのか、それとも、この目の前の人にかかわり、その苦しみを共に担おうとするのか、わたしたちも今日、イエス様から問われているのだとおもいます。 

司祭の言葉 3/5

四旬節第2主日A年(mt17の1-9)

 今日のみ言葉は主の変容です。三人の福音記者はともに、この出来事を記録しています。衝撃的な出来事だったのだろうと思います。いずれも変容を最初の受難予告の直後に置いています。そこに変容の持っている意味が読み取れます。
 イエスの受難の予告は ペトロの強い抗議を呼びました。凱旋するメシアを思い描いていた弟子たちにとって、苦しむメシアは受け入れ難かったのです。他の使徒たちも同様でした。そしてペトロはイエスの前に立ちはだかってイエスをいさめ、サタン下がれと叱られました。

 変容は視覚に訴える出来事です。マルコは、仮小屋を建てましょう・・と言う言葉のあとに「ペトロはどういえばよいか判らなかった」という言葉を記しています。驚くだけで出来事を理解できなかった弟子たちの姿が描かれています。
 しかしマタイはそれを割愛し、マルコが書かなかった事を描いています。雲からの声をきいた弟子がひれ伏した事、無理解のまま終わるのではない事です。
 イエスの変容によって、栄光の姿を垣間見せ、弟子たちを勇気づけたのです。

 話は変わりますが、私の関わった統合失調症の青年の中に、「自分が人を不幸にしている」、そう信じている青年がいました。統合失調症は生きづらさで、病気というよりも障害です。彼は、いつもうつむき加減、声も小さく、人の目を見ることができません。いつもカックンと首を落として暗い顔をしていました。1年後あたりから少しずつ自信を取り戻し、その後介護の資格を取り、さらには精神障害者のピアカウンセラーになりました。

 先月、大宮のみどり幼稚園で、スプリングフェスティバルという催しがありました。年少は歌とリズム遊戯、年中になると歌と音楽劇に挑戦します。小さい子なのでいろいろハプニングもありますが、幼稚園の子供たちはフェスティバル後、大きな自信を得て大きく成長します。

 変容の出来事から私たちが受け取るべきもう一つの教えは、私たちもまた変わることを求められているということです。どのような変容でしょうか。イエスを理解し、イエスのように生きることです。

 国境なき医師団の報告会に参加したことがありますが、その時は いのちを守るために・・と支援者90人ほどが集まっていました。
中にはキリスト者がいたかもしれませんが、ほとんどがキリスト者ではないと思います。

 日本赤十字社の標語をご存じですか? 「人間を救うのは人間だ」・・というものです。 神不在ともとれる言葉ですが、・・・まず自分たちから動くことが大切だ‥と言うことではないでしょうか。「天は自ら助くる者を助く」・・という言葉に通じるものだと思います。   
 祈るとき、神頼みに終始していたりしませんか? 忘れてはいけないのは、神の子であるとしても、「生身の人間イエスが、私たちを救った」・・という事実です。究極の愛で。   

  回心が求められています。苦しむ隣人の声に耳を傾けているでしょうか、そして、使徒ヤコブの言葉を思い起こします。 「行いを欠く信仰は死んだものだ」・・という。
 四旬節にあたり、私たち自身の「変容」が求められていると思います。

司祭の言葉 2/26

四旬節第1主日A年 (マタイ4章1-11節)


 イエスの荒れ野での誘惑の場面です。四旬節の原点となる出来事です。
 40という数は聖書の中では、長い苦しみや試練の時を現す数字となっています。まず思い出されるのは、エジプトを脱出したイスラエルの民がさまよった「40年間の荒れ野の旅」です。

 荒れ野は砂漠に似て水や食べ物を得るのが難しい、生きるのに厳しい場所ですが、神はここで岩から水を湧き出させ、天から「マナ」と呼ばれる不思議な食べ物を降らせて民を養い導きました。ですからそこはまた、後から考えれば、互いに乏しいものを分け合った恵みの場所であった・・・ということも出きる場所です。

 ヨルダン川でバプテスマを受け、神の声を聴いてゆくべき道を示されたイエス様は、悪魔から誘惑を受けるため霊に導かれて荒野に行きました。
 どういう意味でしょうか。日本語で誘惑というとよい意味では使われませんから。
 同じ個所を、ほかの聖書はどの様に訳しているかを見てみましょう
講談社のバルバロ訳は、「悪魔に試みられようとして」
新改訳は、「悪魔の試みを受けるため」
日本聖書協会訳は、「悪魔に試みられるため」・・・と訳しています。

 原文のギリシャ語での「誘惑」という言葉は、ペイラステーナイという言葉が使われていて、試みる、試す、罪に誘惑する・・・などの意味がある言葉です。
 神様が罪に誘惑することはありませんから、しかも「霊」に導かれてとありますので、試み‥という訳のほうが私にはしっくりきます。

 「石をパンにしてみろ」は物質的なものによって満たされようとする誘惑、あるいは自分の力を自分の欲望を満たすために使う誘惑‥かも知れません。
 人々のためにパンを与えるためとすれば、違うかもしれませんが、パンによって群衆を自分のところに引き寄せるとすれば、それは、買収といえるかもしれませんし、イエス様が人々を招かれたのは、究極的には十字架の愛、与えるものとなるために招かれることでしたから、イエス様の思いとは相いれないことでした。
 さらにそれは、病気を治さずに、症状だけを取り除こうとするのに似ています。
 人々の飢えの原因となっているものをこそ、取り除かなければならないのです。
 人間が自分のことだけを考え、他者を思いやらない独善主義と無関心・・・これを取りのぞかない限り、貧困はなくならないのですから。

「神殿の屋根から飛び降りよ」は自分の身の安全を確保しようとする誘惑、あるいは己の力を試そうとする誘惑、ひいては神を試そうとする誘惑でした。

「国と繁栄を与える」は、この世の富と権力を手に入れようとする誘惑です。世界をも渡せる山などはありませんし、人工衛星の上から見ても、繁栄ぶりは見えないでしょう。

 これらは全て、イエス様が経験なさった内的な葛藤であろうと神学者は考えます。イエス様ご自身が、この霊的な経験を語っておられるのですから、私たちは厳粛な思い出襟を正して聞く必要がある・・・と。

 「サタン、引き下がれ」は受難を予告したイエス様をとがめたペトロに向かって言われた言葉(マタイ16章23節)と同じです。


 ただし、モノや安全を手に入れようとすることのすべてが悪の誘惑ではありません。イエス様も5つのパンでおおぜいの群集を満たし、多くの病人をいやしました。わたしたちにもパンが必要ですし、健康や安全も必要です。富や力もある程度は必要でしょう。そういう意味では、これらを悪と決め付けることはできません。
 しかし、今回のウクライナ侵攻とこの一年の戦争が示す通り、権力は諸刃の剣です。
神の名のもとにその権力を行使し、戦争を引き起こし、世界中に不幸をまき散らすことにもなります。神の望みだと言って今回の戦争は続けられていています。神にとってはいい迷惑です。
 問題はそれらを求めるあまり、神と隣人との親しい交わりを失ってしまうことだと言えるかもしれません。

 イエス様の悪魔への答えは、すべて申命記の引用です。申命記とは重ねて命ずる・・という意味で、荒れ野の旅の終わりに、約束の地を目前にして、モーセが民に遺言のように語る「告別説教」といわれるものです。

 「人はパンだけでなく・・・」は申命記8章3節の引用です。
 「あなたの神である主を試してはならない」は申命記6章16節の引用です。
 「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」は申命記6章13節の引用です。

 イエス様は一回の対決で悪魔を撃退し、再び攻撃を受けなかったのではありません。
 ルカでは「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が車でイエスを離れた」とあります。
 ペトロが十字架に向かうイエス様を引きとめようとしたとき「サタンよ、引き下がれ」と一喝しました。これはイエス様が荒野で悪魔に言われたのと同じ言葉です。そしてもっとも激烈な悪魔との対決はゲッセマネにおいてでありました。

 四旬節の時を過ごす心構えは、どうすればよいのでしょうか。

 自分を「荒れ野」に置いてみることです。そこからもう一度、神とのつながり、人とのつながりを見つめなおしてみるのです。
 生きるのに苦しい、ぎりぎりのところだからこそ、この自分を生かしてくださる神を思い、同時に苦しい状況の中で生きている兄弟たちとの連帯を思うことができます。
 今回のトルコ大地震はまさにすべてを破壊し、被災地を荒野と変えました。
 5万人近い人が亡くなり、数百万の人々が家を失い、荒れ地となった大地に放りだされました。私たちを、このがれきの中において考えてみましょう。
 このたびの大地震を思うとき、彼らとの連帯の中で、わたしたちには何が出来るでしょうか。
 四旬節に勧められている「祈り、節制、愛の行い」という回心の行為が目指していることは、すべて彼らとの連帯を求めるものです。
 彼らの環境に自分を置いて考えれば、「荒れ野」は遠くにではなく、実はわたしたちの身近なところにある・・ということに気づくことができるのではないでしょうか。

司祭の言葉 2/19

年間第7主日A年

 今日の福音は有名な個所です。「目には目を歯には歯を」…と言う言葉を私たちはどのように受け止めているのでしょうか。「やられたらやりかえす」と言う意味にとる人も多いようです。
 片方の目をつぶされたら、それはもう大変なことです。障碍者になってしまうのですから。腹が立って腹が立って、相手の両方の目をつぶさないと、怒りが収まらない・・・と言うのが、多くの人の気持ちでしょう。倍返しです。でもそれでは互いに復讐はエスカレートしてゆきます。現在のイスラエルでも、報復の応酬は止まりません。パレスチナのハマスがイスラエルに対してテロを行うと、ガザ地区への報復攻撃が倍返しで行われます。
 ですから、目には目をというのは、同害復讐法と言って、復讐がエスカレートするのを禁じているのです。この同害復讐法は、古くはバビロニアの王ハンムラビ(BC1792-1750)によって制定されたハンムラビ法典の中に見ることが出来ます
 ここに一冊の本があります。ハンムラビ法典の日本語訳です。その中の一文を紹介しましょう。
 ・・・「もしアウイールムがアウイールムの仲間の目を損なったなら、彼らは彼の目を損なわなければならない。もし彼がアウイールムの仲間の骨を折ったなら、彼らは彼の骨を折らなければならない。もし彼がムシュケーヌムの目を損なったか、ムシュケームヌの骨を折ったなら、彼は銀1マナ(約500g)を支払わなければならない。」
 → 貴族、平民、奴隷によって償いは異なっています。

 同じような言葉は旧約聖書の出エジプト記の21章、レビ記の24章、申命記の19章にも出てきます。・・・「命には命をもって償う。人に障害を加えたものはそれと同一の障害を受けなければならない。骨折には骨折を、目には目を歯には歯をもって人に与えたのと同じ障害を受けねばならない。」(レビ24の19-20)-
 → 聖書では貴族平民の別はありません。

 しかしイエス様は言います。「悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」
 「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」
  「誰かが1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい」

 これらを皆さんはどう受け止めてきたのでしょうか。
 「少なくとも我慢する」という受け止め方をしているのではありませんか?

 いつも我慢させられたら、小さな子供だったら地団太踏んで怒ります。
 我慢する・・そのように受け止めているなら、イエス様の教えはいつまでたっても納得できないでしょう。イエス様の教えは水割りにしないでストレートに実行してみましょう。そうすれば納得がゆくはずです。すとんと腑に落ちるのです。

 私の小さな体験ですが、高校三年生の時一人の同級生から図書室の一室に呼び出されました。そして、「お前は生意気だ」と言って殴られました。その時聖書の言葉を思い出し、もう一方の頬を差し出し「こちらもなぐれ」といいました。相手はたじろぎましたが、「いいから殴れ」と言うと、「いいんだな、殴るぞ」と確認をして殴ってきました。ところがその時私はとっさにこぶしをよけてしまったのです。相手はもちろん空振り。私は「すまん、よけてしまった。もう一度やり直してくれ」と言って、次は目をつぶって殴ってもらいました。
 思い切り殴られ、目から火花が飛びました。本当に火花が飛ぶんですね。その時、ふっとつきものが離れるように、怖れと相手に対する怒りが消えたのです。

 もう一方の頬を向ける、強制された以上に歩く、下着を取るものに上着をも与える、それらは強制ではありません。自分の意思で行うことです。そのことによって、強制されたことに対する憎しみが消えるのです。

 勿論イエス様は、社会正義を無視しろと言っているのではありません。社会の不正は正してゆく必要があります。イエス様も律法主義者たちの不正を糾弾したのですから。

「ああ、無情」の一場面を思い出します。教会に泊めてもらったジャンバルジャンが銀の燭台を盗んでジャベール警視につかまり、教会に連れてこられた時、老司祭は「燭台だけではなく他のものもあげたのにどうして持ってゆかなかったのか」と彼をかばい、ほかの銀の食器も彼に与えました。 そしてジャンバルジャンは、愛に打たれ、正しい道を歩み始めます。

 もし私たちがイエスの言葉を理解したいなら、言われたとおりに実行してみることが大切です。
 その上で、不正を正すために立ち上がりましょう。自分に対する不正は受け入れても、他人に対する不正は見逃すべきではないのです。子供に対する虐待やお年寄りに対する虐待を見たら、迷わず、弱い人の味方となって声をあげましょう。
 「あなたがたは地の塩、世の光である」とのイエス様の言葉をいただいたのですから。
 先週のみ言葉は、「私が来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである」というものでした。
 律法の目指すところはキリストだ・・・とパウロは言います。キリストの十字架の愛において律法は完成されたのです。
 神への愛と隣人への愛、イエス様の与えられた新しい掟の中に、律法のすべては含まれているのです。

司祭の言葉 2/12

年間第6主日A年

 「わたしがきたのは律法や預言者を廃止するためではない。
 天地が消えうせるまで律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」

 イエス様のこの言葉を聞いて疑問に感じる方がおられたなら、チコちゃんに叱られないで済むかもしれません。なぜならイエス様は律法を大切にしない、安息日のおきてを守らない不敬な人物・・・として糾弾され、パリサイ人たちや律法学者たちから攻撃を受けていたのですから。

 律法・・この言葉はいくつかの意味があります。
 まず、モーセの律法、十戒を意味します。神がモーセに示された10の掟です。覚えておられる方がいらっしゃいますかね。忘れた・・なら、OKです。
一度は覚えたということですから。
知らない・・・それは勉強不足です。カトリック要理を勉強しなおしましょう。
 次に律法は、旧約聖書の最初の五つの書物、モーセ五書、これも言えますか?もちろん忘れたならOKです。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記を指します。
 そして、律法と預言者 このことばで聖書全体を現しています。
 最後に口伝律法、祖先からの言い伝え、律法を解釈したもので、律法学者やパリサイ人は法則と規定の作成に心血を注いだのです。それらは3世紀に法典としてまとめられミシュナと呼ばれました。英語の本にすると800ページほどになるそうです。
 後世のユダヤ教の学者たちはミシュナの注解書を書き、それがタルムードと呼ばれています。

 イエス様の時代、律法学者やファリサイ人にとって、数千の法則規定を守ることが信仰でありました。そしてイエス様は彼らの言い伝え、法則、規定をたびたび破られましたから、イエス様が律法といわれたのは、これらの掟ではないことは確かです。

 あるとき、イエス様に律法の中でどの掟が大切かと尋ねた律法の専門家に、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、」これが最も重要な第一の掟である。
 第二もこれと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい」律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている」といわれました。
 神に対する愛と隣人に対する愛、神に対する畏敬の心と、隣人に対する尊敬の心・・・これらが律法の背景、十戒の背景になければならないのです。
 殺すなという掟の裏には、隣人を愛する、大切にする心があるのです。隣人の命、人の命を大切に思うなら殺してはいけないのです。ほかの掟も同様です。

 そしてローマ人の手紙の10章の4節でパウロは「キリストは律法の終わりとなられた」と述べています。(Finis enim legis Christus ad iusutitiam omni credenti) 新共同訳は「キリストは律法の目標であります」と訳しています。イエス様が下さった新しい掟に従い、「イエス様が私たちを愛したように、私たちも互いに愛し合う」 それが律法の目指すところだ・・ということではないでしょうか。
 イエス様の十字架の愛のうちに、律法の教えは完結しているのです。

司祭の言葉 2/5

年間第5主日

 ここに一本のロザリオがあります。祈りに使うと湿気の多い日本ではすぐに擦り減ってしまうので一度も使ったことがありません。塩でできています。
 ポーランドの世界遺産ヴィエリチカ岩塩抗 世界最初の世界遺産で、700年もの間掘り続けられポーランドの国家経済を支え続けました。中には小聖堂も作られており、聖人たちの岩塩の彫像もたっています。そこのおみやげです。

 さて、今日のみ言葉を見てみましょう。
「あなた方は地の塩である。だが塩に塩気が亡くなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう。もはや何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」

 塩気が無くなればと訳されている言葉ですが、原文ではモランテェ 馬鹿になる という言葉が使われています。ラテン語ではエヴァヌエリト 力を失う と訳されています。
 役に立たなくなる・・・という意味でしょうか。

1.ユダヤの神殿では一日中犠牲として塩を捧げられていました。 
  レビ2の13には次のようにあります。
 「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。
  献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。」

  さらに民18の19では、次のように述べられています。

 「イスラエルの人々が主にささげる聖なる献納物はすべて、あなたとあなたと共にいる
  息子たち、娘たちに与える。これは不変の定めである。これは、主の御前にあって、
  あなたとあなたと共にいるあなたの子孫に対する永遠の塩の契約である。」  
  塩は神からの神聖な贈り物でした。

2.また、古代社会では塩は最もよく使われた腐敗を防止する防腐剤でもありました。 

3.さらに、パレスチナでは竈の下に瓦を敷き、その下に塩を厚く敷きました。
  保温のためです。でも、古くなると効果が薄れるため、新しいものと取り換えました。
  塩もその効果を失うことがあったのです。

「塩気が無くなれば」と訳されている言葉ですが、原文ではモランテェ 馬鹿になる という言葉が使われています。ラテン語ではエヴァヌエリト 力を失う と訳されています。 役に立たなくなる・・・という意味でしょうか。

 年を取ると同じことを繰り返し言って、また同じことを言っているよ・・といわれてしまうことが度々です。私もいつの間にかそのような年寄りに一人になりましたので、自分でもまた同じことを繰り返しているな・・と思うのですが、谷司教から聞いたこの話も、何回も繰り返し言っているように思います。

 彼は神学生になる前に社会人として働いていましたが、研究所にいたそうです。イースト菌の研究をしていたのでしょうか、彼は、或る時パンを焼くことになったそうです。何十キロもの粉を仕込んでパンを焼くことになり、大きな窯でそれを焼き上げました。焼き上がりはとてもうまくいって、さすがは谷君、うまく焼けたね、素晴らしい焼き上がりだ・・・と皆は彼を称賛しました。さあみんなで試食しようと皆がそれを食べたとたん、みんなの顔から微笑みが消えました。彼も食べてしまったと思ったそうです。塩を入れるのを忘れたということでした。売り物にならないので一窯分のパンが廃棄されたそうです。ご飯を炊くときは塩を入れませんが、パンを焼くときは必ず塩を入れます。

 ものに味を付ける ・・・のは、塩の、最大の最も特色ある性質です。
 → キリスト者は、人生に味をつけるものでなければならないのです。

 もう一つ、イエス様は「あなたがたは世の光である」・・・ともおっしゃいます。

 ご記憶にあると思いますが、東日本大震災の後、しばらくは計画停電が行われ、乾電池もロウソクもみな店頭から姿を消しました。
 セウイではロウソクを作っています。でも買った人は、「とてもきれいなロウソクですね、もったいないから家庭祭壇に飾っているんですよと」言います。でもどんなにきれいでもロウソクはともさなければ意味がありません。
 計画停電の時、家の中に飾られていたロウソクは、ようやく使ってもらえました。
そして、部屋を照らすためには、それはできるだけ高い所に置くのです。

 地の塩の話も世の光の話もともに弟子たちに語られていますが、注意すべきは、地の塩になりなさいといっていない、世の光となりなさいとも言っていないということです。
 イエスの後に従うことによって、今あるがままで、すでに私たちは地の塩であり世の光であるからそれをおもてにだしなさいというのです。それは信仰を隠さないこと、恥じないということではないでしょうか。

 イエス様は、あなた方はすでに、地の塩であり世の光である・・・そういわれました。そのことをこの一週間黙想してみましょう。