司祭の言葉 4/30

復活節第4主日(A年・2023年4月30日) ヨハネ10:1-10


父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」

主イエスがわたしたちに約束される「豊かないのち」とは、主ご自身のいのちです。今日の福音で、主は、自分の命に代えて羊を大切に養い守る「羊飼い」と、羊たちを自分のために食い物にする「盗人」とを比べて、ご自身の使命を明らかにされました。今日の福音に続けて、主はご自身について更に次のように明言されます。

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10:11)

思い出すことがあります。主イエスは、宣教のご生涯の始めに、「町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」と、マタイによる福音は伝えていました(マタイ9:35)。しかし、主が行き廻られた町や村で、主が見出されたわたしたちの現実とは、どのようであったといわれていたのでしょうか。マタイによる福音は、続けていました。

「イエスは、群衆が牧者のいない羊の群れのように疲れ果て、倒れているのを見て、憐れに思われた。」(マタイ9:36「フランシスコ会訳」)

『聖書』の言葉では、「復活する」とは、元来、倒れている人を抱き起こす、さらには傷ついた人を介抱する、という意味の言葉です。そうであれば、「牧者のいない羊の群れ」とは、ご復活の主イエス・キリストに見出され、抱き起こされ、介抱されるべき、わたしたち自身の現実の姿、ではなかったでしょうか。

そのわたしたちに、主イエスは繰りかえし、「わたしは良い羊飼いである」と仰せです。しかも主は、このことばに加えて「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のためにいのちを捨てる」(ヨハネ10:14,15)と仰せです。

御父と御子が互いを知る。それは御父と御子が一つであるということです。同様に羊飼いである主イエスがわたしたち羊を知ってくださる。それは父なる神と御子が一つであるように、主はわたしたちとご自身とを堅く一つに結びつけてくださるということです。かつては「牧者のいない羊」のようであったわたしたち。それは、唯一人の牧者である神から、罪ゆえに離れてしまっていたわたしたちの現実の姿でした。そのような惨めなわたしたちとご自身をもう一度堅く結びつけ、わたしたちをご自身と一つにし、わたしたちを愛してくださる主イエス。ヨハネは語り継ぎます。

「こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」(ヨハネ10:16)「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠のいのちを与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」(ヨハネ10:27-28)

実は、主イエスは、このことばを、次のさらに驚くべきことばによって結ばれます。

「わたしの父がわたしにくださったものは、全てのものより偉大であり、誰も父の手から奪うことはできない。わたしと父は一つである。」(ヨハネ10:29,30)

「父がわたしにくださったもの」とは、父なる神が御子キリストに託し与えられた者たち、つまりわたしたちのことです。そのわたしたちを主は、「全てのものより偉大である」(フランシスコ会訳では、「他の何ものよりも価値がある」)と仰せです。そしてそれゆえ、主は、わたしたちを「だれからも決して奪わせない」と仰せです。すなわち、主は、わたしたちをご自身のいのちに代えても守り抜いてくださると言うことです。

実に驚くべき主イエスのみことばです。わたしたちは、到底、主ご自身のいのちを賭してまで大切に守られるに値する者ではありません。しかし、「わたしと父は一つである」と仰せの御子キリストは、ご自身と一つなる父なる神のみ旨に忠実に、たとえご自身のいのちを犠牲にしてでもわたしたちを守り抜いてくださる。事実、主は、後にご自身の十字架と復活において、このおことばの通りにしてくださいました。

ここに神の愛があります。御子とわたしたちを堅く一つに結びつけてくださる父なる神の愛。その神の愛は、わたしたちのために御子に十字架と復活を求める愛です。

「わたしが来たのは、羊がいのちを受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てる。」(ヨハネ10:10,11)

その「良い羊飼い」・十字架と復活の主は、必ず皆さんとともにいてくださいます。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 4/23

説教:復活節第3主日(A年・2023年4月23日)

ルカ24:13-35

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」

主イエス・キリストのご復活のその日のこと。主の弟子の内の二人が、エルサレムを離れてエマオと言う村に向かっていました。二人は、その日の朝早く、十字架の主イエスのおからだが納められた墓を訪ねた婦人たちから、「主は生きておられる」と聞かされていました。しかし、二人はそのことを信じることができませんでした。

エルサレムから離れて行くこの二人に、ご復活の主イエスが寄り添い、二人とともに歩き始めてくださいました。しかし、二人は最初、この方を主とは気付きませんでした。「二人の目は遮られていた」と、聖書は伝えています。一体何が、「二人の目を遮っていた」のでしょうか。

彼らの主イエスに対する人間的な思い、この世的な願いや期待、したがって主の十字架の死ゆえの失望と落胆。しかし、それらに「目を遮られていた」二人には、実は、最初から見えていなかった真実があったのではないでしょうか。それは、彼らが主イエスに呼ばれた時から、主の十字架の死、さらに主のご復活の今に至るまで、一時も休むことなく、主イエスにおいて父なる神が彼らになさっておられた恵みのみ業の事実です。しかし、この神の恵みの真実に、二人の目が開かれる時が来ます。

二人、否、三人が共に歩み続けて夕方になりました。二人の弟子たちは、この見知らぬ方を夕べの食卓に招きました。この方は二人とともに家に入られ、一緒に食事の席に着かれました。その時、この方は「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて二人にお渡しになった。すると二人の目が開け、イエスだと分かった。」

十字架を前にした最後の晩餐の時と同じ主イエスが、しかし、今や紛れもなくご復活の主が、彼らとの食卓で、再び彼らのために、ご自分の御からだを裂き、ご自分の御血を注いでくださっておられる。「主は生きておられる。」主イエス・キリストと二人の弟子たちを堅く結びつけていた絆。それは、二人の主に対する人間的な願いや期待では無かったのです。そうではなく、最初からそれは、主イエスにおいて二人にご自身のいのちを与え続けてくださっておられた、神の恵みの真実です。

その神の恵みの真実は、主イエスの十字架の死に、終わりません。それは、主の十字架を経て主のご復活においてこそ完成し、輝きを放ち、力を現わす恵みの真実です。神の恵みの真実とは、御子キリストにおいて、ご自身をわたしたちに与え尽くすことによって、わたしたちにご自身のいのちをお与えくださる神の愛だからです。

「神はそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」。神のわたしたちに対する愛は、御子キリストを十字架にさえお渡しになるほどに、さらに十字架の主イエスを復活させるほどに、強く激しい神の愛です。「それは」と、ヨハネによる福音は続けます。「ひとり子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」主イエスにおける、この神の愛が、二人の「遮れていた目」を開いたのです。

ある方が、友人の勧めで四国のお遍路さんに加わり、弘法大師縁(ゆかり)の地を訪ねて回られた時、お遍路さんが「同行二人」と書かれた編み笠を被り、「もし一人行くなら二人と思え。その一人をわたしと思え」との弘法大師の言葉を胸に、大師を偲びひたすら巡礼の歩みを進めて行く姿に感動したと話してくださいました。それは、今日の福音のエマオに向かう主イエスの弟子たちの物語を想い起こさせます。

ただし、同じではありません。エマオに向かう二人は、目に見えない主イエスのおことばを胸に、主を偲ぶ巡礼の旅を続けたのではありません。そうではありません。ご復活の主イエスご自身が、事実二人と共に歩いてくださったのです。そして、二人の遮られた目を、主ご自身が開いてくださったのです。ご自身の十字架をさえ厭わず、さらに復活して二人を愛し抜いてくださる主イエスご自身の愛によって。この主の燃える愛は、二人の心を燃え上がらせずにはおきません。

「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」

そして今、彼らとともにわたしたちも知っています。主イエスによって、わたしたちの心の内に燃えているのは、聖霊の炎であることを。そして聖霊の炎は、わたしたちの内に燃えて、神を疑う氷のように頑なな疑いの心を溶かし、わたしたちを神の愛の温もりの内に包み込み、わたしたちを平安の内に主にお委ねさせてくださいます聖霊の炎は、さらにわたしたちの内から働いて、わたしたちを主の似姿にさえ変えてくださる、神の愛の力です。そして、この聖霊の炎は、わたしたちの内にいつまでも燃え続けて、決して燃え尽きることはありません。

「主は、生きておられる」。 父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 4/16

説教:復活節第2主日(A年・2023年4月16日)
(神のいつくしみの主日) ヨハネ20:19-31

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「わたしの主、わたしの神よ。」

主イエスの十二使徒の一人トマスが、ご復活の主日から八日目の当に今日、彼を訪れてくださったご復活の主イエス・キリストご自身に、深い懺悔、そして畏れと感謝をもって告白した、彼の信仰のことばです。彼のこの信仰のことばは、今に至るまで、すべての時代、全世界のキリスト者の信仰告白のことばであり続けています。

聖トマスは、「わが主よ、わが神よ」との彼の信仰のことばとともに、二千年の教会の歴史を通して記憶されてきました。しかし、トマスは最初から信仰者の模範というべき人であったという訳ではなかったようです。最初はむしろ逆であったともいえます。トマスは、弟子たちの間で、「ディディモ」と呼ばれていました。これには「双子」に加えて、「疑い深い」と言う意味もあるのです。それには、理由があります。

わたしたちは、先の主日を、主イエス・キリストの復活の主日としてお祝いいたしました。主は十字架におつきになられる前に、弟子たちに三度、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、殺され、三日目に復活する」と仰せになっておられました。このおことば通り、主は十字架に死に、そして三日目に復活されました。

その復活の主日後、昨日までの一週間、わたしたちは毎日のごミサで、ご復活の主キリストが、最初にマグダラのマリアに、続けて十字架の許にまで主に従い続けた婦人たちに、さらにペトロたち主の弟子たち一人ひとりにお会いくださった次第を、喜びと感動、そして畏れをもって、福音からていねいにお聞きし続けて参りました。

ただし、ご復活の主イエス・キリストは、今日までトマスにだけはお会いなっておられませんでした。なぜでしょうか。今日の福音が伝えているように、ご復活の日の夕方、主が他の弟子たちをお訪ねになられた時、トマスは、そして彼一人だけが、彼らと一緒にいなかったからです。トマスは、主イエスのご復活を疑っていたからです。

ペトロがトマスに、「わたしたちは、週の始めの日に、確かに主に、ご復活の主にお目に掛かった」と熱く語った時も、トマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」とさえ応えていました。

さて、ご復活の日から丁度一週間後の今日、ペトロ始め主イエスの弟子たちは再び集まりました。トマスも今日は一緒でした。ご復活の主日と同様に、主は八日目の今日再び、弟子たちを訪ねてくださいました。ご復活の主・キリストは、今日はとくにトマスにお会いくださるために来てくださいました。主はトマスに仰せになりました。

「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

ご復活の主・キリストのこのおことばに応えて、トマスの心の底から絞り出されるようにして語りだされた言葉こそ「わたしの主、わたしの神よ」でした。確かに、疑い深いトマスでした。主のご復活の約束を、さらにその事実をも疑っていました。しかし、トマスは、最早これ以上疑い続ける訳にはゆきませんご復活の主・キリストご自身が、今、弟子たちのただ中に、そしてトマス自身の目の前に立っておられるからです。

その時、トマスは主のみ前に悔い崩折れる他無かったと思います。今日まで疑いの内に自らを閉ざしていたトマス、主の十字架の許に蹲り続けていたトマスを、主イエスは大切に抱きしめ、抱き起こしてくださいました。十字架の釘跡の残る主の両の御腕で。槍で刺し貫かれた傷跡の残る主のみ胸の内に。それが、主のご復活です。

「ディディモ」と呼ばれたトマスのように、主イエスを「疑う」こと、神の遣わされた主を信じ切ることができないことを、聖書では罪と言います。この罪の帰結は死以外にはありません。神を疑い続ける限り、人は真実に生きることはできないからです。神を疑う者は、結局は自分自身も疑い、誰をも信じることはできず、したがって、誰とも信頼しあい、愛しあい、望みをもって生きることはできないからです。すなわち、神を疑う者は、神と人とに対して死んだ者である他ないのです。

しかし疑うトマスを、主イエスはそのままにしてはおかれません。ご復活の主イエス・キリストは、彼を、神と人との前に決して死んだままにしてはおかれません。トマスだけではありません。実は、二度もご復活の主のご訪問を受けながら、なお主のご復活を疑ったペトロ始め主の弟子たちを、ご復活の主・キリストは忍耐強く、「三度」訪ねてくださいました。わたしたちすべてが、最早二度と、主のご復活を疑い得なくされるまで、十字架の許に蹲っていたわたしたちすべてが、主に抱き起こされ、主とともに主のご復活のいのちに歩み始める者とされるまで、主は忍耐強くわたしたちを訪ね続けてくださいます。それが今日の福音です。

「わたしの主、わたしの神よ」。 ご復活の主・キリストが、皆さんとともに。アーメン。

司祭の言葉(鈴木神父) 2023/1月〜4/9まで

司祭の言葉 4/9

主の復活

 主の復活、おめでとうございます。 今年の復活祭もコロナウイルス対応のミサを継続しておりますので、春日部教会の信徒が一堂に会することはまだできておりません。お許しください。もう少しの辛抱です。
 思えば、3年前春日部教会に赴任し時は新型コロナウイルス蔓延のさなかで、世界中がパンデミックに慄いていました。3年たった今も、いまだにコロナ対応が続いている中で小生は春日部を離れることになります。高齢者の方の中には一度もお会いすること出来なかった方々がいらっしゃいます。大変心苦しく申し訳ない気持でいっぱいです。
 最初の復活節は、司祭は一人で自室でミサをささげることが求められ、信徒を参加させることは許されませんでした。しかしながらこの春は、ふたつのグループに分かれていますが、皆さんと共に復活祭をむかえることが出来ています。感謝です。
 小生もこんなに早く春日部から移動になるとは、つゆほどにも考えていませんでした。神様は小生の執着をご覧になり、バッサリとそれを断ち切られたのだと思っています。本当に皆様から良くしていただき、春日部教会に甘えておりましたから。

 ところで私たちの信仰は、すべてがこの、主の復活という出来事にかかっています。

 マタイ福音書の12章に、律法学者とファリサイ人がイエスのもとにきて、「先生,しるしを見せてください」という場面があります。
 同じ章ではイエスが手の萎えた人を癒す場面や中風の人の癒しが語られていますし、またその前の章では二人の盲人の癒し、不治の病であったライ病を患っている人の癒しも語られています。それでも人々はなおしるしを求めたのです。

 彼らに応えてイエスは「、預言者ヨナの徴以外は与えられない」と答えています。

 預言者ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩大地の中にいることになる・・・そうお答えになりました。それは死んで葬られ三日目によみがえるというしるし、復活という出来事の予言でした。まさにイエスが神からのものであるというしるしであり、十字架による贖いの業が万人のためになされた・・・主の十字架によってすべての人は救われている・・・ということの証明なのです。

 復活祭がキリスト者にとって最大の、信仰の祝日であることのゆえんです。
 私たちはみな主の贖いによって救われています。

 私たちはただ、主よ、罪深い私を憐れんでください・・そうり頼めば、主は私たちをその懐に迎えてくださるのです。
 今日は大いに喜び、ともに感謝の祭りを続けましょう。喜びましょう。主はまさに復活されたのです。そして私たちもいつの日か、主のように復活することが約束されているのです。

 聖パウロは「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。」と、コリントの信者たちに向かって語っています。
 初穂は稲刈りの時に最初に刈られたもので、神への感謝の捧げものでした。

 そしてさらにパウロは「自然の命の体がまかれて、霊の体が復活するのです」と語ります。

 私たちは死すべき肉の体ではなく、永遠に生きる霊の体をいただいて復活するのです

 私たち人間社会では、大量破壊兵器、核弾頭をつけたミサイルがつくられ、いたるところで戦争が継続し、多くの難民が生まれています。今まさに第三次世界大戦の勃発が危惧されています。殺し合い憎しみ会う人間たち、そんな人間は、神の目から見れば、互いに殺しあって絶滅しても仕方がないような存在ではないかと思います。

 その人間のために神は人となり、十字架上の死をもって、その命で私たち贖い、復活の命を約束しました。私たちは主によって贖われ、奴隷状態から解放されたものなのです。主によって買い取られたものですから、その贖いにふさわしい実を結ばねばならないと思います。
 主の贖いに感謝し、イエスが愛したように、自分を大切にし、隣の人も同じように大切にする・・・今こそ、その生き方を見つけねばならないのだと思います。

司祭の言葉 4/2

受難の主日

 今日はマタイ福音書から二つの場面が朗読されました。エルサレム入城とピラトの裁判そして処刑という主の受難の個所です。
 教会がこの二つの朗読をもって私たちに示そうとするのは、何でしょうか。
 私たちはこの二つの場面を追体験していますが、それによって何を感じ取ることが出来たのでしょうか。
 皆さんは今日イエス様に向かって、二つの言葉を口にしました。
 ホザンナ、万歳という言葉と十字架にかけろという、相反する言葉です。
 教会はこの二つの言葉を口にして、私たちに考えてほしいと思っているのです。
 この二つの言葉は同じ群衆が、五日ほどの間をおいてイエス様に向かって発した言葉だということをです。

 エルサレム入城のこの日、ついにイエス様は勝利の道に突き進んだかに見えました。
 この時から30年後の数字ですが、過ぎ越し祭りで、エルサレムで屠られた羊の数は25万頭という数字があるそうです。一頭当たり10人ほどの人がこれを食したとすれば、250万人という数になります。20人としても125万人となります。過ぎ越し祭りには、いかに多くの人がエルサレムに集まっていたかがわかります。
 人々の胸には宗教的な思いがあふれていました。そのような時、祭りへの熱が最高潮に達していた時に、イエス様は歓呼の声につつまれてエルサレムに入城したのです。人々は道に自分たちのマントを敷き、棕櫚の枝を振ってホザンナホザンナと叫びながらイエス様を迎えました。
 弟子たちも誇らしげに、頬を紅潮させて同じくホザンナホザンナと叫んだことでしょう。メシアだ、メシアが来たのだと。

 過ぎ越し祭りは、エジプトの奴隷状態からの解放を記念する祭りです。
 イエス様のエルサレム入城は、メシアによる民族解放への期待となって、熱烈に歓迎されました。もしこれらの民衆がイエス様を担ぎ上げ、ローマに反旗を翻す力となって暴動が起これば、ローマは黙っているはずがない。近くの駐屯地から、直ちに戦車を繰り出し鎮圧に乗り出し、エルサレムは火の海となる。
 祭司長やエルサレムの指導者たちは、妬みと同時に、大きな恐れを抱きました。自分たちの地位を脅かす存在として、大事に至る前に早急に事を進めなければならない。一刻も早くイエス様を捉え処刑しなければならない・・と、そう考えたのです。

 マタイ福音書では、エルサレムに入ったイエス様の足取りについて次のように記します。
 神殿から商人たちを追い出し、その権威を問う祭司たちとの問答し、ブドウ園に行くように頼まれた二人の息子たちの譬え、ブドウ園と農夫の譬え、王子の婚宴への招きの譬え、皇帝への税金の問答、レビラート婚と復活についての問答、最も重要な掟、ダヴィデの子についての問答、律法学者とファリサイ派の人々の非難、神殿の崩壊の予告、人の子によるすべての民族の裁き、べタニアで香油を注がれる・・・等 
 そしてユダの裏切りの企てが語られ、過ぎ越しの食事と最後の晩餐、ゲッセマネでの祈り、ユダの裏切りとイエス様の逮捕、最高法院での裁判、ピラトへの引き渡し・・・となったのです。

 ピラトは、バラバと言われるイエス様とメシアと言われるイエス様、どちらを釈放してほしいかと尋ねますが、祭司長達や長老たちはバラバを釈放してイエス様を死刑に処してもらうようにと群衆を説得します。

 そして五日前にホザンナホザンナと叫んだ同じ群衆は、その舌の根も乾かないうちに、「イエス様を十字架につけろ」と叫びます。
 自ら考えることもせず、祭司たちの言うがままになって・・・。
 ここに語られるのは人々の、忘恩です。

 今日、枝の行列の後受難の朗読がなされたのは
そのことを黙想するためです。イエス様がユダヤの王となってくれると思った群衆が万歳と叫び、同じ群衆が金曜日には十字架につけよと叫んだ

 同じように私たちは、イエス様の弟子となりながら、イエス様を裏切っていないのか
 聖金曜日を前に、枝の行列と受難の朗読をすることの理由がここにあります。