司祭の言葉 6/6

キリストの聖体B年(マルコ14章12-16, 22-26節)

 司祭になって間もない40数年前、箱根の強羅温泉でベテル聖書研究会という、講師養成講座に参加しました。カトリックとプロテスタント両方が参加したエキュメニカルな研修でした。
 一週間の研修が終わって帰るバスの中で、隣に座ったプロテスタンド教会の牧師が話しかけてきて、しみじみと、カトリック教会はご聖体があるからうらやましいといいます。いつもキリストの現存を感じることができる。プロテスタントは最後の晩餐の記念はするが、終われば何も残らない。カトリックは神の恵みのしるしとしてのご聖体がいつも聖堂に安置されているので、いつもそこで神の現存を感じることができる・・・とも。

 お寺さんに行くと、本堂には仏像が置かれ礼拝の対象となっています。ご本尊と言うこともありますね。ご本尊と言う言葉を調べると、「ご本尊と言うのは寺院や仏壇の中で中央に安置している、信仰の大切な対象となるものです。同じ仏教でもそれぞれの宗派やお寺によって、ご本尊は異なります。例えば浄土宗ではあみださまのほか「南無阿弥陀仏」の名号をご本尊とすることもあります。日蓮宗では「南無妙法蓮華経」を中心とした曼荼羅を安置します」とあります。

 ところで私たちの信仰の対象であるご聖体は「ご本尊」でしょうか?
 どう思われます?
 所沢教会は今小手指と言うところにありますが、かつては、今のNTTのある「星の宮」と言うところにありました。今から47年前の話です。当時の岡神父さんはNTTに請求する移転費用の中に、ご本尊の移動のお金も入れました。私たちの信仰の対象ですから。
 NTTはカトリック中央協議会のほうに、「ご聖体はご本尊かどうか」という問い合わせをしました。返事は、「ご本尊ではない」というものでした。そして移転費用は出ませんでした。
 ご本尊かどうかは別として、ご聖体は私たちの信仰の根幹にかかわるものです。

 申16章には過ぎ越し祭の記述があります。
 「アビブの月を守り、あなたの神、主の過越祭を祝いなさい。アビブの月のある夜、あなたの神、主があなたをエジプトから導き出されたからである。あなたは、主がその名を置くために選ばれる場所で、羊あるいは牛を過越のいけにえとして、あなたの神主に屠りなさい。その際酵母入りのパンを食べてはならない。七日間酵母を入れない苦しみのパンを食べなさい。」 (青穂の月 カナン人の暦の古い呼び名 バビロン歴では1月 ニサンの月 太陽暦の3-4月) 

 今日の福音は、イエスと弟子たちとの最後の晩さんが「過越の食事」であったとはっきり述べています。新約聖書は、イエスの受難を過越祭と結びつけ、イエスの死が人々を罪の支配から解放し、神との和解をもたらす「新しい過越」の生贄であると考えています。

  「パンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えた」 
 イエスはここで特別なことを言いました。「これはわたしの体である」 ・・「これはわたしだ」という意味です。これを食べることは、イエスと一つに結ばれることなのです。

 また、「契約の血」は今日の第一朗読、出エジプト記24章8節にある言葉です。
 「これは・・・わたしの血」、ここには「多くの人のために流される」という言葉が加えられています。「多くの人」はヘブライ語的な表現で、意味としては「すべての人」ということで、イエスは自分の死を、すべての人の救いのための死であるとおっしゃっているのです。

 古い契約は十戒と言う10の掟を定めました。 そして新しい契約は「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」というただ一つの掟を私たちに示しています。

 私たちはご聖体をいただき、イエスと一つに結ばれることによって、この掟を守ることが可能となるといってもよいでしょう。イエスのように愛する・・・並大抵のことではありませんから。

 「新しい契約」はイエスによって実現しました。 しかし、最終的にわたしたちが神と完全に一つに結ばれるのはまだずっと先のことです。そこに向かって歩むための糧として、ご聖体が与えられている事を感謝し、おそれずに主に近づきたいと思います。

司祭の言葉 5/30

三位一体の主日B年

 復活、主の昇天、聖霊降臨と祝日は続いて、今日は三位一体の祝日となります。

 福島市の桜本寺の住職 佐藤老師に一枚の系図を見せていただいたことがあります。
 悟りを開いたものにそのしるしとして印可と言う証明書が与えられますが、その印可が、達磨禅師から何代目の弟子によって与えられたものかを示す、悟りの系図です。
 それはまた、老師として次の弟子を指導してもよいと言うしるしにもなります。

 しかし、キリスト教では、悟ったものにだけ洗礼を授け、弟子にするのではありません。
司祭職も、按手によって与えられるもので、悟りを求めるものでもありません。

 今日の福音の、「しかし疑う者もいた」・・と訳されている部分ですが、原文は、「しかし彼らは疑った」です。
 日本語的には・・「みんなが疑った」と言う意味になるでしょう。

 教会は、弟子たちのように疑っていても、イエスの復活を信じイエスに従いたい、イエスのように愛に生きたいと思うもの、疑いは有っても信じたいと思うものには、洗礼を授け弟子にしています。

 この洗礼は父と子と聖霊の名によって授けられます。
 救いの歴史は父と子と聖霊の共同作業なのです。

 それを如実に示しているのが、第4奉献文です。 
 今日は第4奉献文でミサを捧げたいと思います。

 その叙唱では、
 あなたは溢れる愛、命の泉、万物の作り主・・と、創造者としての神を称え、

 奉献文の中では、
 人が神に背いてからも、慈しみの手を差し伸べ、人とたびたび契約を結び、救いを待ち望むように励まし、

 時が満ちると、ひとり子を遣わしたこと。
 ひとり子は聖霊によって人となり、父の計画を実現するために死に身をゆだね、復活して死を滅ぼしたこと。 

 そして、信じるものに聖霊を遣わし、聖霊はイエスが天に昇られた後、世にあってその技を全うし、全てを聖なるものになさいます・・・と、称えています。

 ここには、救いは三位一体のなせる業であることが、示されているのです。

司祭の言葉 5/23

聖霊降臨の主日B年

 今好んで見ている番組があります。  イチケイノカラス  検事もの、刑事もの、弁護士ものなど、いろいろありますが、裁判官ものと言うのはあまりなかったように思います。弁護士物はたくさん作られています。依頼者が途中で投げ出し放棄しようとしても、熱心な弁護士が依頼者を説得し裁判に勝利する・・など。

 きょうの福音の箇所は、最後の晩さんの席でイエスが語られた弁護者を送ると言う約束です。「弁護者」はギリシア語で「パラクレートスparakletos」です。
 「パラpara」は「そばに」、「クレートス」は「カレオーkaleo(呼ぶ)」という動詞から来ていて「そばに呼ばれた者」の意味です。
 ヨハネの第一の手紙2章1節には「御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」という言葉があります。

 システィーナ礼拝堂正面壁画には、ミケランジェロの最後の審判の絵が描かれています。そこにはイエスが審判をしている様子が描かれていますので、審判者としてのイエスのイメージが強いかもしれませんが、イエスはご自分の血をもって私たちのために執り成しをしてくださったのですから、イエスこそは第一の弁護者なのです。
 そこで、今日の福音書では、イエスの約束として、聖霊について「別のパラクレートス」という言葉が使われています。
 教会が祈るときにいつもイエスの名によって祈るのは、イエスこそが第一の弁護者、とりなすお方だからです。

 ペンテコステに始まる教会の誕生は、大きな試練の始まりでもありました。試練に立つ教会は弁護者の助けを必要としていました。
 イエスは迫害の予告をしてから、弁護者としての聖霊を約束しています。そして言うべきことは聖霊が教えてくださると勇気づけます。

 弁護者である聖霊は、現代に生きる私たちにも派遣されています。私たちがどの様に歩むべきかを迷い途方にくれたときに、聖霊は「助け手」となって、真理を悟らせます。神は聖霊を遣わしてイエスが語られた言葉をわたしたちにも思い起こさせます。そのような体験は無いでしょうか。

 キリストを信じるものは、天と地の両方に「弁護者」を持ち、父と子と一緒に住むことを許されていると言うことを、忘れないようにしましょう。

司祭の言葉 5/16

主の昇天

 現在はロケットで頻繁に宇宙に飛び出す時代です。今の子供たちはこのご昇天をどのようにとらえるのでしょうか。いや皆さんはどうでしょうか。

 ソ連の宇宙飛行士ガガーリンは、人類初の有人宇宙飛行士として、1961年ボストーク1号に乗りました。 その言葉として知られる「地球は青かった」は、1961年4月13日付けのイズベスチヤに掲載された言葉によるものです。
 ガガーリンの地球周回中の言葉として報道され、有名になったものとして「ここに神は見当たらない」というものがありますが、記録にはその種の発言は一切残されていないそうです。

 ビデオのルカによる福音では、イエスの目から見て地上がぐんぐん小さくなってゆきやがて雲が周りを覆う映像でイエスの焦点が表現されています。
 使徒言行録は、イエスが雲に覆われて彼らの目から見えなくなったと表現しています。
 神の 栄光 のうちに入られたことを、雲という言葉で示しているのです。 天は場所ではありません。 だから何故天を見つめて立っているのかと言われたのです。

 栄光は ヘブライ語もギリシャ語も 「重い」が本来の意味で荘重 威厳 卓越性を意味するようになり、聖書で言う 神の栄光は、神の卓越性を意味しています。
 イエスはご自分の十字架によって神の卓越性を示しました。
 神の栄光とは 一人子を与えるほどの神の愛そのものです 

 旧約において、神の栄光はエジプト脱出の時 もえる芝の中とにあらわれ、シナイのもえる炎の中にあらわれましたが、新約において、その栄光はキリスト誕生と十字架 復活を通して現れ、その昇天を持って完成するのです。

 フィリッピ人への手紙は(2の6~11)次のように言います。

キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしくして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。

 このことから教会の典礼では、昔からの伝統的では、栄光の賛歌のときに、イエスの名がてくると式長は司祭の方を向いてレベレンチアといい、皆頭を下げます。

 神と人との隔ての幕を取り去られた主は、天にのぼられ、わたしたちの中に住まわれます。キャンドルの火は消され、私たちの心のうちに復活の火を移します。
一人一人はそれぞれ聖なる宮を携えているのですが、多くの人はその宮に入ることを忘れているのです。

司祭の言葉 5/9

復活節第6主日B年        

 今日のみ言葉は、「わたしがあなた方を愛したように互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」と言うものです。主が最後の晩餐の食卓で語られた遺言です。マタイマルコルカは聖体の制定を最重要な出来事として伝えていますが、ヨハネは3人の書き残さなかった別れの言葉を詳細に伝えています。

 私はジャズを聴きながら、ショットバーの隅っこでパイプの香りを楽しみながら、ウイスキーを飲むのが好きです。ジャズがわかるわけではありませんが、その雰囲気が好きなのです。でもコロナで、春日部に来てからは一度も出かけていません。
 ウイスキーを飲むときには先ずはストレートです。ウイスキーの味の違いがよくわかりますから。水割りもおいしいし、何杯も飲めますが、ストレートを頼むと必ず水も出てきます。水を飲んでリセットして別なウイスキーを飲む、味を比べて楽しみます。
 もちろん日本酒でも違いが分かって面白いと思います。中村神父は日本酒の利き酒の会に入っていました。でも私は日本酒ですと悪酔いしてダメなので、もっぱら洋酒です。

 なぜこんな話をしたかと言うと、私たちはイエス様の話をいつも水割りで聞いているのではないかと思ったからです。水割りは美味しいんですよ、何杯でも飲めるんです、軽いから。でも、いつも水割りでは本当の味がわからない。ストレートを飲んでみなくては。

イエス様が言葉と行いで説いた愛は 当時のユダヤ社会にとって革命的新しさをもっていました。挨拶をくれないひとに挨拶しなさい。 お返しの出来ない人を宴会に招きなさい。 上着をほしがる人には下着も与えなさい。 敵をゆるし迫害者のためにいのりなさい。・・・これらのどれかをそのまま実行してみたことはあるのでしょうか。
 旧約でも神と隣人への愛は重要な掟でした・・・しかし、それは自分の不利益を犠牲にするほどの隣人愛ではありませんでした。良きサマリア人のたとえの、祭司とレビ人のとった行動にそれをみることができます。

 イエス様の掟は「互いに愛し合いなさい」ですが、「私があなた方を愛したように」と条件があるのです。 ここが難しいところです。命を与えるほどに愛したのですから。

 私たちは命がけで隣人を愛しているのでしょうか。まず自分を安全圏に置いてから愛しているのに気づかされます。 それでは命がけとは言えません。

イエス様は、旧約の掟でどの掟が大事か聞かれたとき、第一の掟として「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という申命記6の5をとりあげ、次に第二の掟として「自分自身を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」というレビ記19の18をとりあげています。ですから、まずしっかり自分を大切にしなければいけないのです。 それから、自分のように他の人を愛することになります。

 イエス様のお言葉通りに、ストレートにとれば、自分の10分の1とか、半分とかではないのです。
 わたしたちは週の一日でも、食べるものの無い人に、自分の食べるものの半分を分かち与える努力をしているのでしょうか。
 この原稿を書いている最中、国境なき医師団からSOS 「感染力は新型コロナの10倍近く 、はしかの再流行で子どもたちの命が危機に」と言うニュースが飛び込んできました。 そこには、「2018年から2020年にかけて、コンゴは史上最悪のはしかの流行に見舞われた。わずか2年で46万人余りの子どもがこの病気にかかり、8000人近くが死亡。その4分の3は5歳未満だった。」とありました。 困窮する兄弟たちの声に耳を傾けてみませんか。

 強制されてすることではありません。イエスの勧告に従って、私たちが選ぶことですが、一度くらい徹底的に、イエスの言葉通りにしてみてはどうでしょうか。そうすればイエスの言葉が腑に落ちます。 

司祭の言葉 5/2

復活節第5主日B年

 イエスはわたしにつながっていなさいと言われます。
・・・ぶら下がってじゃないことに感謝します。子供大はぶら下がるのが大好きです。幼稚園。の子供たちは、お猿さんみたいに庭の雲梯というアーチ形の鉄棒を渡って行きます。私も小学生のころには好んでこの雲梯で遊びましたが、今はもう無理です。腕の力がなさすぎますから。最近久しぶりにぶら下がり健康器にぶら下がってみたら15秒ほどでダウン。その点スポーツクライミングする人にはただ驚くばかりです。

 イエス様は私につながっていなさいといわれますが、ただつながっているだけではだめなんです。そこのところがポイントなんですね。
 まず、枯れ枝ではだめですね。当たり前ですけど。
 そして実のならない枝もダメなんですね。「私につながっていながら実を結ばない枝は父が取り除かれる」とあります。

 イスラエル民族が、今のパレスチナ、かつてカナンと呼ばれていた土地にエジプトを脱出してやってきたときに、乳と蜜の流れる良く肥えた土地であることを示すために、斥候はそこのブドウの一房を担いできました。巨峰よりも大きな実がたわわになっていたといたといいます。
 ブドウはイスラエルにとって神の恵のシンボルでした。マカバイ王朝の紋章はブドウの木でしたし、神殿の栄光の一つは聖所の前面にある大きな黄金のブドウの木だったと言います。  イエス様がよく話されたカペナウムの会堂の門には、ダビデの星、ソロモンの星とともに、一房のブドウが刻み込まれていました。

 旧約聖書にはブドウの木のたとえが沢山出てきます。でもいずれも、預言者を通じて、神の嘆きの対象として出てくるのです。 
 「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑、主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁きを待っておられたのに見よ、流血。正義を待っておられたのに見よ、叫喚。」(イザヤ5の7)
 わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる確かな種として植えたのにどうして、わたしに背いて悪い野ぶどうに変わり果てたのか。(エレミヤ2の21)

「イスラエルは伸びほうだいのぶどうの木。実もそれに等しい。実を結ぶにつれて、祭壇を増し、国が豊かになるにつれて、聖なる柱を飾り立てた。(ホセア10の1)

 イエス様は良い実を付けないイスラエルに代わって「真のブドウの木」となります。  このブドウの木の実りは、父である農夫の働きによってもたらされます。
 農夫は実りのために心を砕いて枝に手入れをします。この農夫の働きに身をゆだねるとき、枝はよい豊かな実を付けることが出来ます。そして、父と人を結ぶ絆は「わたし」すなわちイエスなのです。

 でも実をつけない枝は切り取られてしまいます。切り取られた枝は何の役にも立ちません。神殿ではある時期、生贄を焼くための薪になる木を持って行くことになっていましたが、ブドウの枝は持ってきてならないと定められていたということです。何故でしょうか。火力が弱すぎるからです。

私の部屋の前には、アケビの棚があります.樹勢が強くどんどん伸びますから剪定をします。春先のはだめですが、秋の枝は丈夫でよくしなりますので、かごなどを編むのに使うことができます。でもぶどうのつるは折れやすく弱いのでそのような役にも立ちません。ただ集めて焼かれるだけです。
 
 さて、イエス様の驚くべき言葉は、イエス様も私達につながっているという約束です。「私はブドウの木」ということばの、その中央の、3~4節には「わたし」の働きが語られています。 「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」 イエスの言葉には、弟子達を清くする力があります。それはイエスが神にとどまっているからです。

 2節「手入れをなさる」は原文では、3節の「清くなっている(カタロスkatharos)」という形容詞から派生した動詞で、「清くする」が普通の意味ですが、「枝を清くする」というのは「刈り込む」「剪定(せんてい)する」ことを表しているそうです。

「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」も「イエスの言葉によって刈り込まれる」というイメージなのでしょう。 イエスの言葉は、わたしたちにとって時として厳しく、痛いことがありますが、それが自分にとって大きな成長のチャンスでもあった、そんな経験があるのではないでしょうか。
 そして、キリスト者はイエスの言葉によって「すでに清くなっており」、そのようなものとしてイエスにとどまり続け、うちにもそとにも、その実を示すのです。

 もう一度思い起こしましょう。実のならない枝は、刈り取られるのです。この実を結ぶとはどういうことか、考えてみましょう。花芽の無い、葉だけ茂らせる枝は刈り取られるのです。

司祭の言葉 4/24

復活節第4主日 (ヨハネ10章11-18節)

 よき牧者のたとえです。イエスは弟子たちに私の羊を牧しなさい・・・と言われました。
 司祭に叙階されるとき3つの職務をいただきます。教職・祭職・牧職・・・司祭は秘跡としてこの三つの職務を特別に受けます。信者さんは一般祭司職と言われますが、信者さんも洗礼を受けるとき司祭とは別な形でこの三つの職務を受けると教会は教えています。

 皆さんは聖書を朗読するとき祭壇に上ります。そのとき司祭の前に来てお辞儀をします。
 其れは司祭への挨拶ではありません。御言葉を伝えるために派遣されるという役目を、今お引き受けいたします・・・という意味でのお辞儀なのです。司祭もよろしくお願いしますという意味でお辞儀を返します。この時皆さんは司祭を見ますが、信仰のなかでイエスに挨拶をしているのです。皆さんはイエスによって派遣されているのですから。神父じゃない。これが教職(預言職)です。典礼にはいろいろな約束があるのです
 そして祭職は、特に司祭と共にミサを捧げる(教会法906)とき、また日々の祈りの中で親族恩人友人、祈りを必要としている人のために祈るときに、その役割を果たしているのです。
 そして牧職、 牧職は羊を飼う職務・・・羊飼いとしての職務です。 病気の信者さんを見舞うとき、お年寄りを教会に連れてくるとき、その職務を果たしています。 イエスは「私には、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かねばならない」といいます。囲いは教会と考えれば、教会の外にも羊がいる・・・ということです。
 幼稚園の仕事も囲いの外の仕事です。教誨師の仕事も ホームレスの方がたに声をかけるのも、受刑者に手紙を書くのも、子供食堂に携わるのも牧職です。

 ところで話を今日の福音に戻しますが、ヨハネ10章のイエスの言葉は、9章の終わり(41節)から続いています。9章は「生まれながらの盲人のいやし」の物語でした。
 安息日について旧約の律法の中では、「それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる」(出エジプト記31章14節)と言われていましたが、その安息日にもかかわらず、イエスは泥をこねてその人の目に塗り、その人をいやしました。 このことは、言わばいのちがけの行為でした。
 このイエスの行動が背景にあって、羊と羊飼いのたとえが語られ、「わたしは良い羊飼いである」(10章11節)と宣言されるのです。
 イエスはここでよい羊飼いである自分の使命を明らかにします。使命という言葉は命の使い方を表します。どのように命を使うかそれが使命です。イエスの使命、それは自分の命を羊のために使うことでした。羊のために命を使うだけでなく命を捨てること、それがイエスの使命でした。命を与え尽くすのがイエスの使命でした。
 彼はこの自分の使命を全うした。その結果は何であったか。復活です。

 今日の福音から読みとれるメッセージはイエスが単に「良い羊飼い」と言うことだけではなく、別のメッセージがあります。それは羊のために命を捨てたイエスが復活させられたと言うことです。人のために命を使うと、たとえそれを失ってもまたいただくことができる。

 わたしたちの信仰、それはあのナザレのイエスがイエスキリストであると言うことを信じることです。  そのイエスの何を信じるのか。キリストのなにをしんじるのか。

 イエスが私たちの救いのために死に、復活させられたことを信じることです。

 イエスは復活の初穂です。初めて父なる神によって復活させられた方です。
 そしてわたしたちも復活させられるのです、人のために命を使えば・・・。

 人のために命を使う人は永遠に生かされる。どんな小さな愛の行いもそれが愛であるかぎり永遠の価値をもつのです。

 さて、自問してみましょう。「わたしは人々への愛のために命を使っているだろうか」と。

司祭の言葉 4/18

復活節第三主日 (ルカ24章35-48節)

 小生の勤める精神障害者のグループホームセウイでは、時々みんなに配るお菓子が人数分以上あって、少し余ったりします。そんなときは何とかして、できるだけみんなに配り切ります。残っていると、誘惑に弱い私が食べる羽目になり、あとで後悔することになりますから。
 ところでセウイでは何も隠し事ができません。お菓子などが少し残ったとき、その時そこにいるメンバーたちにだけ「よし特別だ、みんなには黙っていて下さいね」そう言って配っても、ぽろっと「さっきのお菓子おいしかった」と言ってしまう。
 「黙っていてと言ったでしょう」・・と言うと、「あ、そうか」との反応。誰も秘密を守りません。楽しかったこと、おいしかったこと、嬉しかったことはみんなに言いたいのです。

 復活は単なる信仰箇条ではありません。キリスト者になるために受け入れなければならない事柄、あるいは命題というよりも、何よりもまずそれは、喜びに満ちた報告なのです。
 「私たちは、主に出会った」「主は生きておられる」 包み隠しておくことのできない、体験の披瀝、体験話なのです。 それは抽象的な知識の伝達ではなく、具体的な体験に基づいているのです。 「わたしたちは主に出会った。」・・この体験の報告が持ち寄られ、分かち合いの中で教会の共有の信仰になり、伝えられ、分配されるようになったのです。

 今日私たちは復活の証言の言葉を聞き、教会の復活信仰を分かち与えられています。その私たちの信仰が、生き生きとした活力を得るためには、私たちの中で、今も、生きて働いておられる復活の主との具体的な出会いをそれぞれが経験し、その体験の報告に耳を傾けて受け止める必要があります。

 エマオの宿で主に出会った二人の弟子は、仲間たちに自分たちの体験伝えようとエルサレムにとって返します。彼らの報告に耳を傾けていた弟子たちの中に、静かなしかし期待を秘めた興奮が高まっていったに違いありません。二人の弟子の心の高まりが、他の弟子たちにも伝わって行き、「実はシモンにも、主はお現われになったんだ」と言うような報告が、主は生きておられるという報告が、あちらからもこちらからも寄せられてきたのです。互いの信仰体験の分かち合いです。そして集まっていた彼らの語り合いの中に、主は現れて下さったのです。
 イエスは聖書を悟らせるために、彼らの心の目を開いて言われます。
 「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する・・』旧約聖書のある箇所の引用ではなく、それが旧約聖書全体をとおして告げられていた神の計画だということです。
 「これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」(44節)・・そう言われて「婦人たちはイエスの言葉を思い出し」ました。(24章8節)

 わたしたちも、イエスのおっしゃるとおりだった・・と、イエスの言葉を思い出すという体験をしたとき、イエスの言葉がわたしたちの中で実現していると感じたときに、イエスはほんとうに今も生きている・・・と、感じることができるはずです。
 復活の主はいつも私たちの傍におられるのですから。

司祭の言葉 4/11

復活節第2主日

「その日、週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」・・とあります。想像してみて下さい。イエスを裏切って逃げてしまった弟子たち、イエスを否定したペトロ、どんなにか自己嫌悪に陥っていたことでしょう。そして「ユダヤ人を恐れて自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」のです。イエスを捕まえ、あの凄惨なむち打ちを受けたイエスを十字架につけろと叫んでいたユダヤ人たちが、今度は自分たちを捕まえに来る・・ 恐怖のため外の足音に耳をそばだて、息を殺していた弟子たち。
 そこに現れたイエスは「あなた方に平和」と挨拶します。心の平和などなく、ただただおびえていた弟子たち。彼等に傷跡を見せ自分であることを示し、「あなた方に平和」と、おっしゃったのです。弟子たちは赦されていると実感し、心に喜びが戻ってきたことでしょう。イエスとともにいた時の平和と誇らしさが、再び満ち溢れました。
 仲間とともにいる事さえ疎ましく、一人自分の殻にこもっていたトマスはそこにいませんでした。
 弟子たちの裏切りについて一言も触れず、ただ「あなた方に平和」と言われた主は、その言葉で弟子たちのすべてを許していたのです。
 ですからイエスは弟子たちに、あなた方も赦しなさいとおっしゃったのです。許さなければ、相手はいつまでたっても平和を得ることが出来ません。イエスが無条件で赦したように、私たちも赦すべきなのです。
 そしてそこにいなかったトマスは見るまで信じないと言います。トマスはイエスの復活だけではなく、イエスの赦しの言葉が、「あなた方に平和」と言ったということが、信じられなかったのです。

 赦しのための派遣、ここは十分注意を要する言葉です。  誰も他人の罪を許す権限はありません。イエスだけが持っています。パリサイ人たちはイエスが『子よ、あなたの罪は赦された』といったときに激怒しましたが「人の子が地上で罪を赦す力を持っていることを知らせるために・・」といって、「起きなさい、床を取って帰りなさい」と仰いました。
マタイ9の2「中風の人のいやし」

 ここで一つ確かなことは、今日の出現が人間に対する神の赦しの事実とその宣言だということです。そして、十字架による神の赦しと、福音を伝えることは教会の大いなる特権というべきなのです。

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(mt9:13)と言われたイエスは、最後の晩餐の折、葡萄酒の満ちた杯をとって「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」と言われ、翌日十字架の上に血を流しました。(同26:28)

 そして、復活されたイエスは弟子たちの罪を赦し、罪を赦すことを、弟子たちの使命とすることによって、教会をお建てになったのです。
 だから、教会はイエスによって罪を赦されたことを自覚する者たちの集いなのです。そして「主の平和」と言う挨拶は、互いに罪を赦しあう言葉でもある・・わたしはそう信じます。

司祭の言葉 4/4

主の復活

 主の復活おめでとうございます。この季節が大好きです。花粉には悩まされますが、自然界は花盛り、レンギョウ、モクレン、梨、桃、菜の花、タンポポ、そして桜。
 この時期になると思うのですが、何と桜の木の多いこと・・。なぜ桜の木がこんなにも愛されるのでしょうか? まず、散り際が美しい。水面の上に落ちると筏のように列を作り花筏になります。下流ではヘドロにならないようにすくい上げています。
 この散り際のよさから、その潔さを強調し、戦時中には軍歌「同期の桜」のような歌詞がつくられました。「咲いた花なら散るのは覚悟、見事散りましょ国のため」
 その散り際は散華ということばで美化され、多くの若者が死に急ぎました。
 しかし今はその桜の満開の見事さが喜ばれています。桜のよさは散り際だけではありません。桜前線はいつ来るのかと期待を持たせます。また来年同じように美しい花を咲かせてくれることを皆が信じています。
 私はそこに復活の期待を持ちます。秋にはすっかり葉を落とし寂しげですが、そこにはすでに花芽を持っているのです。私たちに満開の花を見せるために、その準備として眠りにつくのです。寒い冬の日々があってこそ、美しい花をつけます。

 死は全ての人に訪れますが、そこで終わりではなく、復活の日がやってきます。
 イエスの復活こそはその証なのです。しかしイエスの死はなぜあのような死でなければならなかったのでしょうか、なぜ釈迦の涅槃のような死でなかったのでしょうか。十字架上の死がなぜ必要だったのでしょうか。イエスの死はエルサレム入場のわずか4日後のことでした。すべての人に捨てられた思いの中で、イエスは鞭打たれ十字架を背負い、罵声の中で息絶えました。

イザヤ書53章はその予言を通して、神のしもべの死にざまを予告しています。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

 でもイエスは信じていたのです。自分のことが記念されてゆくと。弟子に裏切られる絶望に近い苦悩の中で、弟子たちを、人間を信じていたのです。私には信じがたい出来事です。

 ゴキブリは共食いをします。その共食いをやめさせるために、あなたはゴキブリになれますか?我々は神の目から見ればゴキブリ以下です。二つの大戦を経験して、戦争がいかに愚かしいことかを見てきたのに、何も学んでいません。

 今年の2月、中国は海警局に武器の使用を許可したとのニュースが流れ、世界の耳目が集まりました。ミャンマーでは内戦が起きるのではないかと危惧されています。
 また、日本では、福島の原子炉が大津波のためにすべての電源を失い、制御不能となって水素爆発を起こして放射をあたり一面にまきちらしました。10年たった今、なお避難を余儀なくされている人が数万人もいるのに、すでにそのことを忘れてしまっているかのようです。安全のための確たる対策も取られないまま、原子炉は再稼働を始めています。
 大量破壊兵器、核弾頭をつけたミサイルがつくられ、今まさに第三次世界大戦の勃発が危惧されています。私たちが排出した炭酸ガスは地球温暖化を招き、今のまま行けば30年後には地球は滅亡への道を歩み始めると言われていますが、夫々のエゴがぶつかり合って平和の道は遠のくばかりです。そんな人間はゴキブリ以下ではないでしょうか。

 その人間のために神は人となり、十字架上の死をもってその罪を贖い、復活の命を約束して下さいました。
 今こそ、私たちはその贖いにふさわしい実を結ばねばならないと思います。
 イエスが愛したように、自分を大切にし、隣の人も同じように大切にする・・・その生きかたを実行してゆかなければならないのだと思います。
 今日はイエスの復活の出来事を記念しながら、イエスに付き従う決意を新たにし、そのための勇気を与えられるように、祈りたいと思います。