司祭の言葉 5/8

復活節第4主日(ヨハネ10章27-30節)

 今日は良き牧者の主日で、世界召命祈願の日となっています。良い牧者キリストの後に続く若者たちの召命のために祈りましょう。

わたしの羊は私の声を聞き分ける・・・
 この「聞く」という言葉は、ヨハネ10章に何度も出てくる言葉です。
 3節「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。
 8節「わたしより前に来た者は皆、盗人(ぬすびと)であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった」。
 16節「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける」。

 8節のように、「聞く」には「聞き従う」の意味もあります。
思えば、私は母の言いつけに、聞き従わない子どもでした。
家の仕事はちっとも手伝わず、・・・特に水くみが私の日課でした・・・
学校から帰ると家には入らず、「ただいま」と言って縁側に鞄を放り出し、
日が暮れるまで遊んでいました。ですから、
しょっちゅう和裁の物差しで叩かれました。

「聞く」時には・・耳を傾け、それを実行に移す・・・そのことが求められます。
ミサの中では、毎回使徒書が読まれますが、
わたしたちはそれをどのように聞いているでしょうか。

たとえば「コリントの教会への手紙」が朗読されるときには、
私たち「春日部教会への手紙」として・・・
宛先を替えて聞かなければならないのです。

 もう一つの、今日の注意すべき言葉は、「知る」と言う言葉です。
ユダヤの民は「知る」と言う言葉を、知識としてではなく、体験として知る・・と言う意味で受け取っていました。

 これも日本語で「○○さんを知っていますか」というときの「知る」に似ています。その人のことを良く分かっていますか、その人と関わりがありますか・・という意味になりますから。

私は、一人のお酒の好きな人、Aさんを知っています。
彼は、はじめは相手の顔を見て、「おい、俺の話を本当にわかっているのか」・・等と
おとなしく話していますが、酔うに従って少しずつ、手が上がってきます。
彼が相手に指をさして物を言うときは、かなりに酩酊しているときです。
そしてその後は、必ずと言っていいほど、トイレに行って便器を抱えて、
そこで眠ってしまいます。いいお酒です。

 相手を解ると言うことは、長いつきあいの中で、普段は見せないような相手の性格や癖も知っていると言うことです。

聖書の中での「知る」も、いつも「かかわりをとおして知ること」を意味しています。

 今でもそこに在るのだろうと思うのですが、土浦市の真鍋小学校の校庭の真ん中には5本の桜が植えてありました。とてもきれいな見事な桜でした。明治40年に植えられた桜ですので、もう115年になります。校庭の隅に植えられた桜でしたが、子どもが増えてくると学校は拡張され、校庭も広げられ隅にあったサクラは校庭の真ん中に来ました。
ここに30年以上前から続く伝統があるそうです。6年生が新入生を負ぶってサクラの周りを回ると言うことです。

 上級生の背中で見た桜は忘れられないと言うことでした。

 「わたしは彼らを知っており、彼らは私に従う」とイエス様はおっしゃいます。

イエス様がわたしたちを知っていてくださるということは、何よりも大きな恵みです。
そのことに感謝しながら、今日のみ言葉を黙想いたしましょう。

司祭の言葉 5/1

復活節第3主日 (ヨハネ21・1-19)

 世界平和のために祈りつつ今日のミサも捧げたいと思います。
 共にお祈りください。

 さて、ヨハネ福音書は本来20章(先週の福音)で終わっていたと考えられますので、21章は後に付け加えられた部分と考えられています。何故つけ加えられたのでしょうか、
 一つには、顕現は幻ではなく確かな事実だったことを強調するためだったと思われます。
 幻想でも、幻影でも、霊でもない。幻が実際に魚のいるところを、ほらほら右の方だ・・などと指示するだろうか、火を起こすだろうか、朝食の準備をするだろうか、という主張がここにあるのです。
 もう一つは、復活したイエス様と出会った弟子たちは、20章21節で「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われていたのに、ここでまた漁師の仕事に戻っているのはちょっと理解できません。イエス様が十字架で死んでしまった後、失望し、故郷に帰り、以前の生活と仕事に戻っていった弟子たちがいたのかもしれませんが、その
子たちへの顕現と、話が重なっているのかも知れません。

 この漁が岸近く90メートルほどしか離れていないところで行われていたことに注目します。 船の漁師には波が光って魚影は見えませんが、岸の方からはよく見えることがあり、岸近くの漁では岸から指図することがよくあるのだそうです。
 153匹も象徴的な意味を持っていると言います。
当時のギリシャ人は魚の総種類を153と考えていたという説明があります。そしてこの魚の数は、全世界から召されて改宗者を示していると言います。

 イエス様が3度ペトロに「わたしを愛しているか」と問いかけたのを聞いてどう感じましたか? しつこいとか、意地が悪い、と感じませんでしたか? そんな風に言われたらいやだなあ・・と。

 別の訳を一つ聞いてください。「小さくされた人々のための福音」本田哲郎訳からです

「皆が食べ終わったとき,イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネのシモン、あなたはこの人たちよりも、わたしを大切にしているか』と言った。『はい、主よ、私があなたを心にかけていることは、あなたが分かっているはずです』と言うと、イエスは『わたしの子羊たちの面倒を見なさい』と言った。」

 違いがお分かりになったでしょうか。「愛する」という言葉が使われていません。

 3回のやり取りの中で「愛する」と訳された言葉は、ギリシア語では「アガパオーagapao」diligisと「フィレオーphileo」amasという2種類の言葉です。一般的に「アガパオー」は、「神の愛」というときに使われる「本当に相手を大切にする愛」であるのに対して、「フィレオー」はどちらかというと「人間的な愛着」を表すときに使う言葉です。

 ここでは最初、イエス様はアガーパス メと「アガパオー」で問いかけますが、ペトロはフィロー セと「フィレオー」で答えます。2回目のやり取りも同じです。イエス様を否認したペトロが「アガパオー」での問い「あなたはわたしを大切に思っているか」に対して、「フィレオー」「わたしはあなたが好きです」という言葉でしか答えることができなかったのです。そして、イエス様は3度目にはフィレイス メと「フィレオー」で問いかけています。
 「あなたを大切に思っています」と言い切ることができず、ただ「あなたのことが好きです」としか言うことのできないペトロを見て、イエス様はペトロのところまで降りてきて、「私を好いているか」とおっしゃったのです。このように考えると、この対話は罪の重荷に苦しむペトロにとって、イエス様の愛とゆるしを受け取る大きな体験だったと言えます。

 そして、主の許しを胸に、人を漁る漁師として、殉教するに至ったのです。

 主は、私たちに許しをもたらすためにこそ、十字架にかかられました。その主の復活を共に喜び祝いましょう

司祭の言葉 4/24

復活節第2主日

 復活節の第2主日はいつもヨハネによる福音の20章19節から31節が朗読されます。
 今日は神の慈しみの主日と副題がついていることにお気づきだと思います。今日の福音には神の慈しみが溢れています。
 イエス様が捕まった時、「イエスと一緒にエルサレムに行って死のう」といったトマスも、「あなたのためなら命も捨てます」といったペトロも、散り散りに逃げ去ってしまいました。一人大祭司の屋敷に入ったペトロも、あなたも弟子のひとりですねと言われると、3度も否定してしまいました。弟子たちは恐怖におびえ、1つの家に閉じこもり、中から鍵をかけて災いが過ぎ去るのを待っていたのです。

 わたしは刑事物が好きです。終わってしまって残念なのですが、特に「相棒」がすきです。非常に知的で、クールでおもしろい。
 いろいろな刑事物でよくあるパターンが、逃亡していた犯人が時効間近で捕まってしまうと言うものです。そんなときいつもあと数日であればどこかの山の中か、地下にでも潜っておればいいのに・・・と思います。アルセーヌルパンなら決して捕まらないのにとか、犯人の方に肩入れしてしまいます。どうして時効間近でのこのこ出てくるのか、あるいはあまりにも長く潜んでいると、我慢が出来なくなってしまうのでしょうか。
 時々夢を見ることがあります。何が理由か解りませんが、ひたすら逃げている自分がいます。身を隠し息を潜めている自分が・・・。
 刑事物のテレビの見過ぎでしょうか。でも、サスペンスは見ないのです。
 小生の心臓はノミの心臓です。はらはらどきどきは、心臓に悪いから・・・。同じ理由でホームドラマも見れませんし、サッカーなどの試合や、フィギアスケートも見れないのです。

 恐怖で固まっている弟子たち、そこへイエス様が来て、弟子たちの集いの「真ん中に」立ち「あなたがたに平和」と言います。どんなにか嬉しかったことでしょう。 弟子たちが求めていたのは自分たちの身の安全でしたが、いくら鍵をかけていても心は恐怖でいっぱいだったのです。本当の平和はイエス様がともにいてくださるところから来ます。

 イエス様を見捨てて逃げてしまった弟子たちは、弟子だという資格はありません。でも、復活したイエス様は、そのことには一言も触れず、弟子として、新たに派遣をしていきます。
「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21節)と。
 私たちなら皮肉や恨みの一言でも言いたくなるところですが、主は慈しみをもって「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。」と、かれらを、許しを宣言するために派遣なさったのです。
 次に続く「だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」という言葉は「許さなければ、その人の上に神の許しが実現しないままになるではないか」「だから許しなさい」・・・という意味でしょう。許すこと・・それがイエス様の弟子としての務めなのです。

 トマスは、最後までイエス様に従うという覚悟(ヨハネ11章16節参照)を果たせなかった自分に失望し、他の弟子たちにも失望して、弟子の集いから離れていたと思われますが、このトマスにイエス様が生きているという知らせが届きます。

 トマスにとって「主を見た」というほかの弟子の言葉は、とても信じられない言葉であったと同時に、信じれば自分の人生のすべてが変わる、という言葉でもありました。
 そして弟子たちの集いに復帰していたトマスのもとに、再び主が現れ、「あなた方に平和があるように」と挨拶なさったのです。この言葉に許しを受けたと感じたトマスは「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を告白します。

 これまでイエス様には多くの称号が使われていました。ダビデの子・メシア・人の子など、主よ、という呼びかけも福音書には出てきますが、それは、先生に近い呼びかけでした。
 ツロ、フェニキアの女も、サマリアの女もイエスを主と呼んでいますが、何れも先生という意味の域を出ていません。
 しかしここで、トマスが「わたしの主、わたしの神よ」と信仰告白したことによって、「主」という言葉に特別な意味が加わったと言えます。神・ヤーウエと同義の言葉としての「主」です。そして「イエス・キリストは主である」という初代教会の信仰告白は、イエス・キリストはヤーウエ、そのお方である・・という信仰告白の意味を持つのです。

 イエス・キリストは主である…という同じ信仰を告白するウクライナとロシアの人々の上に一日も早い平和が訪れるように祈りましょう。

司祭の言葉 4/17

主の復活

 アレルヤ 主の復活、おめでとうございます。
 復活徹夜祭の典礼は、旧約聖書から7つの朗読がなされ次いで使徒書と福音が朗読されます。
  1.万物と人間の創造、
  2.アブラハムへの試練と祝福の基となると言う約束、
  3.エジプト脱出にあたり紅海を渡って救い出された事、
  4.イスラエルを贖い平和の契約についてのイザヤの預言、
  5.私のもとに来るが良いと招きを語るイザヤの預言、
  6.主の輝きに向かって歩めと勧めるバルクの預言
  7.新しい心と新しい霊を約束するエゼキエルの預言・・と旧約の救いの歴史をたどり、続く使徒書は、私たちが洗礼を受けたのはキリストの死と復活の結ばれるためであることを述べています。
 これらの朗読によって、十分に黙想ができるようになっています。

 徹夜祭の朗読は、ルカによる福音のヨハネによる福音の24章1節から12節。お聞きになって、どんなことをお感じになられましたか?

 わたしは安心しました。婦人たちの話を聞いて使徒たちは、「この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」とありますから。
 何度もイエス様自身から聞かされていたにもかかわらず・・・です。 わたしはきいていませんからね。一度も。だから、私にも信じるのは難しい。  
しかしペトロは殉教したのです。主の復活を証言しながら・・・。

 ペトロは十字架に向かおうとするイエス様を止めようとしてサタン退けと言われた男です。
 イエス様が捕まった夜には、あなたもあの男と一緒でしたねと言われて三回も知らないと、しかもそれを誓って言った男ですよ。
でもそのペトロが復活のイエスと出会って変わりました。
十字架を恐れなくなったのです。逆さ十字架にかかったほどに・・・。
 だから信じてみようかなという気になります。

 復活はなかなか信じがたい。 だから、ミサの度に「信仰の神秘」と言い、
私たちの信仰は、何でしたか?   そう質問して思い出させ、確認しているのです。

イエス様のお言葉です。
「二人または三人が、私の名によって集まるところにはわたしもいる」マタイ18の18 
「私は世の終わりまで、いつもあなた方とともにいる」マタイ28の20
「私の兄弟であるこの最も小さいものの一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」マタイ25の40

 復活の主はいつも私たちとともにいます。私たちの周りの小さくされている人々の中に。この方々を意識すると、復活のイエス様に会えるのです。

 もし自分が、まだ復活のイエス様に会えていないと思うなら・・・彼らの中に探してみましょう。
 マザーテレサも、ブラザーロジェも、ジャンバニエも、ありの町のマリアも、そして石川神父も、小さくされている人たちの中にイエス様を感じています。彼らに教えられることが沢山あります。
 きっと素晴らしい模範に出会えると思います。

 未だにウクライナの戦争は終結の兆しがなく、多くの難民を生んでいます。
 復活祭も祝えない彼らのために、主の憐れみを祈りましょう。

皆様の上に主の豊かな祝福がありますように、アレルヤ

司祭の言葉 4/10

受難の主日 (ルカ23章1-49節)

 皆さんおはようございます。ウクライナの戦争はまだ先が見えません。一日も早い終結を願いながら今日のミサを捧げましょう。

 式は、始めにイエス様のエルサレム入場が記念され、ミサの中ではピラトによる裁判の場面とイエス様が十字架にかけられる場面が朗読されます。
 今日黙想すべき最大のポイントは、イエス様に対する群衆の態度です。それは私たちもまた同じであるとの、深い反省を呼び起こします。イエス様を歓呼のうちに迎えた群衆は、その舌の根も乾かぬうちに、イエス様を十字架につけよと叫んでいるのです。エルサレム入場について入祭唱は、過ぎ越し祭の六日前と言っています。聖土曜日が過ぎ越し祭に当たりますから、万歳万歳と言ってイエス様を迎えた5日後には十字架に着けよと叫んでいる事になります。 

 受難の朗読前半では「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」というピラトの宣言が、繰り返されています。4節、14-15節、22節。しかしかれは群衆を恐れ、祭司長の言うがままになってしまうのです。

 十字架の道行きの中に印象深く取り上げられていますが、イエス様のために泣く女性たちの場面があります。 イエス様はご自分のために泣いているエルサレムの女性たちを逆に慰め、これから起こる大きな災いを予告します。 その災いは、子どもがいれば、自分の苦しみだけでなく、自分の子どもについても苦しまなければならないから、子どもがいないほうがましだ、と思わせるほどのものです。それはエルサレム滅亡の時の様子を語っているものと思われますが、今回のロシアによるウクライナ侵攻とも重なり、今の時代にもまさに起こっている問題として、深い憂慮を覚えます。


 次にルカだけが伝える祈りがあります。
 「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです』」
 この箇所は、新共同訳聖書ではでは〔 〕の中に入れられています。その理由は重要な写本に欠落しているからです。
 聖書学者たちはその理由を、写本を書き写した誰かが、「イエスを十字架につけた人々の罪だけは絶対にゆるされない」と考えて省いてしまったため・・と考えています。十字架の上にあってなお、父なる神に許しを願うイエス様がそこにいるのです。

 ルカだけが伝えるもう一つの話は、一緒に十字架につけられた犯罪人のうち、一人が回心してイエス様に救いを願う話・・・です。
 「イエスよ、あなたの御国においでになるときには私を思い出してください」
 この言葉はこの人が、イエス様を神が油注がれた王として認めていることを示しています。
 イエス様はこれにこたえ、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束します。
 イエス様が救いを宣言した唯一の人です。

 ルカが伝えるイエス様の最後の言葉、「父よ、わたしの霊を御手(みて)にゆだねます」
 これもルカ福音書だけが伝える言葉です。

 ルカは、これらのエピソードを記述しながら、イエス様が最後の最後まで人々を愛し続け、神に信頼し続けた姿を伝えようとしています。

 無差別の殺人事件などで、被害者が加害者の死刑を願う厳罰を望む姿がよく放映されます。今回のロシアによるウクライナ侵攻も不条理としか言いようがありません。そのために430万人もの避難民が生み出されているのです。無実の罪で死刑になる、そのような不条理なことがあれば、ただ怒りや憎しみ・恨みに支配されてしまい、絶望して、神を呪い、人を呪うのが普通かもしれません。
 しかし、十字架のイエス様はそうではなかったのです。

 私たちは戦争反対の意思表示をするのをためらっているかも知れません。でも、イエス様はあるとき、私に反対しないものは味方であると言われました。これを今回の戦争に置き換えるなら、ロシアの侵攻に反対しないものはロシアの味方であるということができます。何らかの形で反対の意思表示をしてはいかがでしょうか。
 イエス様を訴える事に反対した議員方もおられたと聖書は述べています。でもその声は小さく、かき消されてしまったのです。

司祭の言葉 4/3

四旬節第5主日

 今日の福音の背景にあるのは、ユダヤ人たちのイエスに対する激しい妬みです。下役たちを逮捕に向かわせましたが、彼らもイエスについて、「いままで、あの人のように話した人はいません」といって、手ぶらで戻ってきました。
 何とかしてイエスをおとしいれ、捕まえようとする彼らは、考えに考えた挙句、このシナリオを作ったのです。
 イエスの前に連れてこられた女は、そのために利用されたのです。姦通の現場を押さえられた女・・という設定のために、女を見張り、ようやくその現場を押さえたというわけです。そして、とうとうイエスを窮地に陥れる時が来たと、意気揚々とイエスの前に女を連れだしたのでしょう。
 石殺しを命じれば、死刑の権限はローマにあるとする、ローマの支配権に反することになりますし、民衆もイエスの答えに失望するでしょう。許すと言えば律法に反することになります。

 今回のロシアによるウクライナ侵攻についても、プーチンはウクライナが化学兵器を作りロシアを攻撃しようとしている、核兵器を作りロシアを攻撃しようとしている・・・そのようなシナリオを作り、フェイクニュースを流し、ロシア侵攻の口実としたとの事

 「罪を犯したことの無いものが、まずこの女に石を投げなさい。」今日の福音は姦通の女に石を投げつけようとする、自らを正しいと信じているものに向かってのイエスの言葉でした。自分は律法を守っていると信じるパリサイ人は、律法を守れない人々に厳しい態度で望みました。
 教会内でも周りの人にきびしい人がいるでしょう。善意がぶつかり合い、軋轢を生みます。聖書は初代の教会内部にも、異邦人にきびしい律法を守らせようとする人達が居て、論争があったことを伝えています。
 わたしたちは皆罪人です。しかし、いつのまにか自分が全く正しいものかのように行動し、人を裁きます。

 そのような、大人たちの偽善に苦悩する若者たちがいます
 時々若者は自分の望むこととは正反対のことをして自分自身を痛めつけることがあります。自分の存在を確かめるために、自己主張のために、自分を本当に愛しているのかどうか・・・ 親の愛情を確かめるために。
 大人たちはいつも試されていると考えるべきです。

 かつて病院に見舞った一人の女性は、スタッフを試そうとして2階から飛び降りて圧迫骨折をしました。下半身麻痺 もう足が動かないと言われていましたが、リハビリで左足が動くようになり、立つ訓練も始めていました。 

 彼女もいつもみんなに振り向いてほしくて 彼女は人が見ているときに二階から飛び降りました。

 愛を求めながら、愛に反する行為に走った少女も居ます。両親はカトリック信者でした。援助交際という名前は、オブラートのようです。それが売春行為であることを感じさせません。中学2年生でした。

 なんのために?・・・理由はわかっています。母親に自分の方をむいて欲しくてでした。お金を貯めて一緒に生活したかったからでした。 

 家庭には一人一人の個性を生かす場所になって欲しいと思います。容積が同じでも、丸い器に四角いものを四角い器に丸いものを入れようと無理に押し込もうとするなら、器は壊れてしまいます。無理をしすぎています。
 大人の考えを押しつけ、望まぬ方に無理矢理曲げようとする・・のではなく、一人一人の個性が花開くように、子供たちの可能性を見つけ、それを引き出してゆくのが教育なのです。
 大人たちは指図し、道をつけすぎます。答えを先に出してしまう。
 施設職員に大切なことはあまり、自分がやりすぎないことです。
 同じことは家庭でも言えます。

御言葉に戻りましょう。

「罪を犯したことの無いものが、まずこの女に石を投げなさい。」今日の福音は姦通の女に石を投げつけようとする、自らを正しいと信じているものに向かってのイエスの言葉でした。
 姦通の女を捕まえた人々が、年長者から始まって、一人また一人と立ち去った後、イエスと女だけが残ります。イエスは罪を犯したことの無い者ですから、女に石を投げつけることが出来る唯一の方です。

 しかし、イエスは許しの言葉を投げかけ、わたしもあなたを罪に定めない。これからは、もう罪をおかしてはならない・・といたわり、励まします。
 自分の弱さを認め、神の義にふれることを望む者を神は許します。みずから造った者を滅ぼすことは神の本意ではなく、神の栄誉を褒め讃えることが出来るようにと、神との生きた関わりに招き入れることこそ神の望みだからです。

司祭の言葉 3/27

四旬節第4主日

 おはようございます。きょうはバラの主日です。司祭はバラ色の祭服をつけます。
 四旬節の犠牲や厳しさの中にも、心はいつも神を思って、喜んでいなければならないのです。
 新型コロナウイルスのパンデミックは私たちの日常を変えました。仕事を失った方も多くおられます。ローンが払えなくなり、家を失い、路上生活者となった方もおられます。ウクライナでの戦争は一か月も続き、たくさんの犠牲者が出ました。避難民は350万人を超えています。現実は厳しく、挫折しそうな時もあります。しかし、神様がともにおられる限り、わたしたちは失望することがありません。
 神がいつも共におられることを意識し、今日は祭壇に花を飾ります。

 今日の福音は放蕩息子の譬えと言われています。でも見て下さい、放蕩息子が帰ってきたところで話が終わるのではありません。お兄さんの話が続いています。
ともに考えてみたいのですが、弟の罪はどこにあるのでしょうか、放蕩三昧の生活だった事だと思いますか? 
 モーセの十戒という、犯してはならない戒律を基準に据えて、それに反することが罪であると考えるならば、そのとおりだといえます。そして、わたしたちは、このお兄さんを正しい人だと判断すると思います。でも、その判断は正しいのでしょうか。

 まず弟を考えてみましょう。
 彼は、遠い国で、天に対してもお父さんに対しても罪を犯しました・・・と、天とお父さんとの関係を破ったことを告白して、息子と呼ばれるのにふさわしくないと考えています。

 しかし、お兄さんはどうでしょうか。
 お父さんの言うことを守っていましたが、我慢して守っていただけなのです。
お父さんとの間の本当の交わりは欠けていた・・・というべきなのです。なぜでしょうか、兄の言葉がそれを明らかにしています。
「何年もあなたに仕えて一度も言いつけに背いたことはなかった」と兄は言いました。
「仕える」とは「奴隷として働く」と言うことです。兄は父の家での生活を奴隷的な屈辱と感じていたのです。従わされていた・・・と。

 ちょっと脇道にそれますが、
 私と一緒に住んでかれこれ12年ほどになる一人の青年が居ます。いまだに就職も難しく生活も落ち着きません。本人の希望は自立なのですが、まだ先が見えません。
何故でしょうか。彼の中には「お父さんお母さんにせウイホームに入れられた」という思いがあり、セウイで仕事をさせられていると感じているので、何をするにも身が入らないからです。
 家族との信頼関係が取り戻せれば、彼も変わってゆくのだろうと思います。

 聖書がわたしたちに教える罪は、神様との関係を破ることです。
弟はそのことに気づいて戻ってきましたが、兄はまだ気づいていません。
 そして、正直ものが馬鹿を見るのは許せないといって、父を責めます。弟は父の財産を損じたのであって、兄に損害を与えたのではありません。兄は弟の罪を口実として、自分に愛の無いことを正当化しようとしていると言えます。ここに正しいと思っている人が陥る偽善や罪があります。

 父を責める兄に対して、「あなたはいつも私と一緒にいるし、また私のものは全部あなたのものだ」という父の言葉は、何ものにもまさって、わたしたちとともにおられることを喜びとされる、神様の心をあらわしています。

 そして今日の福音は、わたしたちにもまた、兄弟と共に生きることを喜びとするように・・・と促しているのです。
 もしかしたら、私たちは義務感で教会に来て、心地よい説教を期待しているのではないでしょうか。 
 私たちはホミリアの助けを借りて、イエスの言葉を黙想しに来ているのです。

 父の慈しみの御顔であるイエスの生き方を見ながら、私たちもまた慈しみのうちに生きたい。イエスの福音を水で薄めずに、イエスの教えそのままに生活したいものです。

 ウクライナに対する支援の輪が広がっています。ともに祈りつつ、私たちにもできることはないか、平和を作り出すために何ができるかを考えてみましょう。
  主の平和がいつも皆さんとともに。

司祭の言葉 3/20

四旬節第3主日 (ルカ13章1‐9節)

 ロシアのウクライナへの侵略はいまだ続いています。もう三週間になり避難を強いられた人々は300万人を超えています。国際社会は、まだこの戦争を終わらせることができないでいます。 幼稚園の園児も、このニュースに心を痛めています。
 昔も今も権力者が力づくで人々をしたがわせようとしますが、人々は自由を求めて戦うことをやめません。話し合いによる解決が待たれます。

 「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」とはどのような事件なのでしょうか。残念ながら資料が乏しく正確にはわからないのだそうです。
 でも、バークレーと言う神学者は事件について次のように書いています。

 「ちょうどこの頃、ピラトは深刻な問題に巻き込まれていた。エルサレムにはもっと水の供給を増大する必要があると彼には思われた。確かにそれは的確な判断だった。彼は水道の建設を提唱し、その費用を賄うために、神殿の金を用いることを要求した。それは称賛されるべき企てで、そのような支出は極めて正当なものであった。
 ところが、そのようなことに神殿の金を使うという考えがそもそも間違っているとしてユダヤ人たちは武装ほう起した。反徒が集合するとピラトは兵士たちに、密かに、そのなかに潜入するように指令した。兵士たちは戦衣の上に外套をかぶって変装していた。彼らは剣ではなく棒を持つように指令されていた。合図により反徒にとびかかり、彼らを逃散させるという手はずになっていた。だが実際になってみると、兵士たちは反徒に対して指令よりもはるかにひどい暴虐を加えたので、相当数の人がそこで殺された。おそらくそこにはガリラヤ人も含まれていたのであろう。」

 シロアムの塔の場合は全く偶然の、不慮の事故と思われますが、これについてもバークレーは、「この説の言外には、この人々がピラトの忌まわしい水道工事中に災難にあった‥ということが示唆されているように思われる」と書いています。

 古代エルサレムには町に水を供給するための地下水道があり、その出口にシロアムの池がありました。(ヨハネ9章7節) その塔が倒れて大勢の人が死んだという大事故があったようです。 忌まわしい工事に手を貸したから罰を受けたというのでしょうか。

 当時は「人の不幸はその人の罪の結果だ」という考えがありました。事件や事故の被害者を見て、「あの人たちが何か罪を犯していたからだ」と決めつけたのです。

 イエス様は、そういう考えを否定します。
 「ほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」
それは、悲惨な出来事を自分たちへの呼びかけ、警告として受け取るように、ということです。
 さまざまな出来事はわたしたちの回心のチャンスなのです。
3.11 東日本大震災から丸11年が経ちました。
この間わたしたちは何をしてきたでしょうか。

災害を最小限の被害に食い止めるための工夫
 被災地の支援 被災者の受け入れ 被災地の人たちの作ったものをできるだけ買ってあげること いろいろなさったと思いますが、・・・今でもその支援は続いているのでしょうか。

 ウクライナ侵攻は、権力者による全くの人災ですから同列に置くことはできませんが、それでも、災難にあっている彼らのために何かしていますか?と、問われていると思います。
 そして6節からは実のならないいちじくの木のたとえ話です。
 このたとえ話の「主人」を「父である神」、「園丁」を「イエス様」と考えるなら、イエス様のとりなしに甘えて、いつまでも実を結ばない私たちを戒めていると考えるべきではないでしょうか。

 第1朗読では、神様は「わたしはあるというものだ」としめされています。神の名ヤーウエはこの「ある」という意味の込められた名前であるといわれています。

 そこには二つの意味があります。神さまは何者にもよらない、存在そのものだという意味と、いつもわたしたちと共にあるといういみです。
 そしてわたしたちと共にあることを示すために、神の第二のペルソナはマリアのうちに宿り、この世においでになりました。  主イエス様を遣わされたのです。

 しかしそのことに甘えて回心を遅らせてはいけないのです。

 今日のたとえ話のポイントは、「来年まで待つ」という言葉です。

 神は忍耐してくださるけれども、今が回心の最後のチャンスだと考えなければならない・・ということが強調されています。

司祭の言葉 3/13

四旬節第2主日C年(ルカ9:28~36)

 幼稚園の警備担当者 かつては銀行に勤めた方ですが、こちらがこそばゆくなるくらい褒めちぎります。 特に服装 花粉除けに40年も前に手に入れたよれよれのレインコートを着ているのですが、すてきだ、このまま銀座に行っても様になるなどと言います。
 本人も、冬はミンクのコートを着て門に立ち、いつもバーバリーの背広やハンカチーフ、傘などを身に着けています。
 卒園式には、私も白いシャツを身に着け一張羅のスーツを着ますから、また褒めちぎるでしょう。 人には変身願望があります。幼稚園の園児も、ブロックを組み立てて銃を作り、ヒーローの真似をします。
 かつて母に、髪を染めないかと言うと一蹴されましたが、私はやってみたい方ですね。神父でなければ・・・。

 四旬節に、「主の変容」の箇所を読むのは、教会の古い伝統です。変身とは違います。
自分以外の何かになるのではなくイエス本来の姿が・・・普段見に見えない神性の輝きがあらわれた出来事です。

 ペトロの信仰告白の後、イエス様は受難の予告をするようになります。そして「私に従いたい人は自分を捨て、日々自分の十字架を背負って従って来なさい」と教えます。そして高い山に登り、そこで御変容の姿が示されるのです。

 この「山」とはどこでしょうか。
  伝統的には、ガリラヤ地方エズレル平原にあるタボル山説がとられてきました。平野の中にお椀を伏せたような形で、標高は558m。そして最近多くの学者によって支持されているのが、「ヘルモン山」説です。こちらは2800m級の山々 完全に人里離れたところです。共観福音書のマタイとマルコでは、この箇所の直前に出てくる地名は「フィリポ・カイサリア地方」で、フィリポ・カイサリアとヘルモン山はそう遠くないのです。

「モーセとエリヤ」
  モーセは律法を代表する人物、エリヤは預言者を代表する人物です。「イエスの受難と復活が、聖書に記された神の計画の中にあることを示しています。

「仮小屋を建てよう」
  この光景のあまりの素晴らしさが消え失せないように、3人の住まいを建ててこの場面を永続化させよう、と願ったからでしょう。しかし、この光景は一瞬にして消え去りました。今はまだ栄光のときではなく、受難に向かうときだからです。

「雲」は「神がそこにおられる」ことのしるし。
  荒れ野の旅の間、雲が神の臨在のシンボルとして民とともにありました(出40・34)。

「これはわたしの愛する子」
  ヨルダン川でイエスが洗礼を受けられたときに天から聞こえた声と同じです(マルコ1・11)。この受難の道も神の愛する子としての道であることが示されるのです。

「これに聞け」
 この言葉によってイエス様はモーセやエリヤを凌駕するものであることが示されています。
 そして、イエス様の変容の姿は受難のイエスに従うよう弟子たち、ペトロ、ヨハネ、ヤコブを励ますものでしたが、弟子たちは結局従うことができませんでした。

 イエスが逮捕されたとき、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(14・50)と、マルコは書いていますし、ペトロは召使の質問に三度もイエスを知らないと答えています。

 受難予告を理解できず、最後までついて行けなかった弟子たちでしたが、ヨハネもペトロもこの出来事を忘れることはありませんでした。

「私たちはこの方の栄光を見た」(ヨハネ1の14)とヨハネは書き、
 「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちはみな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。」(Ⅱペトロ1の16~18)
と、ペトロは書いています。

ところで・・・私たちキリスト者に求められているのはどのような変身でしょうか。

 イエス様は神からの良い知らせ、福音を携え、平和をもたらすために来ましたが、いまだ世界は争いのなかにあり、平和は遠いと言わなくてはなりません。
 世界はキリストの平和ではなく、武力を背景にしたパックスロマーナ(ローマの平和)、武力を背景にしたアメリカの平和をのぞみ、これに反発するロシアは、世界一の核を準備して、ロシアの平和を進めようとしています。そしてロシアではなく、アメリカやナトーの平和を求めようとするウクライナを、力で押さえつけようと戦争を起こしています。
 武力を背景にした平和は、危ういものです。

神の愛が支配する平和、主の平和が世界に行き渡るように祈りましょう。

司祭の言葉 3/6

四旬節第1主日 (ルカ4章1-13節)

 ロシアがウクライナに侵攻して、激しい戦いが続いています。超大国ロシアにあとどのくらい持ちこたえることが出来るのでしょうか。心が痛みます。
 3月2日、幼稚園の送迎バスの中でロシアのウクライナ侵攻のニュースの話が出ました。「大変なことになっているね、何もできないけど早く戦争が終わるといいね」と言う話に、年長の子から「お祈りすることが出来るよ、カトリック幼稚園だもの」と言う声が返ってきたそうです。その場にいた先生が感激して、話してくれました。子供は祈りの力を信じています。
 わたしたちも、今日のミサの中で、ウクライナの皆さんと心を一つにして、一日も早い戦争の平和的な終結を祈りましょう。

 「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。」・・・今日の箇所での誘惑との戦いは、イエス様のこれからの活動、十字架の死に至る活動全体に繰り広げられることになる誘惑との戦い・・の始まりを示しています。
 そのすべての誘惑の中でイエス様は神への信頼と従順を貫きました。  

 神の助けを信頼し、生活に必要な物や、安全を手に入れることを願うことは勿論良いことです。イエス様も実際、5つのパンで大群集を満たし、多くの病人をいやしました。わたしたちにもパンが必要ですし、健康や安全が必要です。また、お金や力もある程度は必要でしょうから、これらすべてを悪の誘惑と決め付けることはできません。日ごとの糧をお与えください・・と祈ることをイエス様は教えたのです。

 苦しみをくださいと祈った女性がいます。  その意味を知らぬままに子供のころの話です。そして彼女は、精神的な病にかかったのはその祈りのせいだと思っていて、後悔しているそぶりを見せます。ですから、その話が出るたびに、私はこう答えます。 「すごいじゃん。願いを聞いてもらえるなんて、感謝しなくちゃ」 すると彼女はころころと笑い出して、その話は終わるのです。
 わたしも、まだもう少し生きさせてくださいと祈ります・・・何のために?
 歯の治療、目の治療、膝の治療をすれば、・・まだ助けを必要とする人のために働けるかもしれませんから・・・

 権力と繁栄の何が問題なのでしょうか?
 問題は、自分のためにだけそれらを求めることです。それらを求めるあまり、神との、隣人との親しい交わりを失ってしまうことだ・・と言ったらよいでしょうか。
 わたしたちの人生も「荒れ野」だと言えるかもしれません。だれもがいろいろな試練に遭遇しますから。 わたしたちはその中でいつも、神とのつながりをどう生きるか、人とのつながりをどう生きるかということを問われています。
 四旬節の初めに当たり教会は、イエス様の受けた試みを黙想させ、具体的に四旬節をどう過ごせばよいのかを考えさせようとしています。
 初代教会から教会が守ってきたこと、それは祈り、断食、愛の業 でした。

 預言者イザヤの次の箇所を、祈り、断食、愛のわざを行うこの季節にあたって、黙想するのが良いと思います。

 「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、しいたげられた人を解放し、軛をことごとく折ること。
 さらに、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。
 そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる。
 あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る。
 あなたが呼べば主は答え、あなたが叫べば『わたしはここにいる』といわれる。
 軛を負わすこと、指をさすこと、呪いのことばをはくことを、あなたの中から取り去るなら、飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる。
 主はつねにあなたを導き、焼けつく地であなたの渇きをいやし、骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる」(イザヤ58・6―11)。

 最後の誘惑で悪魔は「神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる」「あなたの足が石に打ち当たることの無いように、天使たちは手であなたを支える」と、詩編91編の11-12節を引用します。
 この詩編は確かな守りを与えてくださる神への信頼を呼びかける詩編ですが、悪魔はそれを自分のために使うように誘惑するのです。

 試練は無い方が良いのです。私たちは弱い存在ですから。だから主は、私たちを試みに合わせないでくださいと祈るように教えたのです。
 でも与えられたなら、雄々しくそれに立ち向かうことが、求められています。勿論私たちは本当に弱いので自分一人では戦う力がありません。でも主が助けて下さるならできるはずです。
 「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」フィリピ人への手紙4の13・・聖パウロの言葉です。

 四旬節に当たり、全ての試練に於いて、主が助けて下さるように祈りましょう。

 ウクライナに一日も早い平和が訪れますように。アーメン(真実です・・の意)