司祭の言葉 3/28

受難の主日B年

 皆さんおはようございます。今日から聖週間が始まります。この聖週間の間にイエスの受難のカ所が2回朗読されています。まず今日が一回目、A年はマタイから、B年はマルコ、C年はルカから、そして聖金曜日はヨハネからです。受難の主日は枝の主日とも呼ばれ、ミサの初めに枝を祝福し、イエスのエルサレム入城の場面が朗読されます。これも4福音書に記述がありますので、A年B年C年それぞれ、マタイマルコルカからとられますが、B年はヨハネを選んでもよいことになっています。それで今日はヨハネから選びました。

 ところで、どうして受難の朗読が2回もあるのでしょうか、不思議に思ったことはありませんか? 今日は福音書が2カ所読まれるのですがそれも疑問ではありませんか?
 今日私たちはミサ前に、枝を打ち振ってイエスを迎えた民衆の役割を演じました。そして受難の朗読では、イエスを十字架につけろと叫ぶ民衆の役割をも演じました。何故でしょうか。実際にエルサレムの民衆がイエスに対してとった態度を再現し、そのとき何が起こったのかを、私たちに思い起こさせるためです。

 その経過をしっかりと辿って見せているのが、ヨハネです。
 過ぎ越し祭の六日前イエスはベタニアに行き、よみがえったラザロと食事を共にします。このときマリアは、300デナリオンもする高価なナルドの香油を持ってきてイエスの足に塗ります。「その翌日」とありますから、イエスがエルサレムに入城したのは過ぎ越で、翌日が「用意日」と言われていますから過ぎ越し祭の二日前、木曜日ということになりますが、イエスは弟子たちの足を洗い、新しい掟を与え、ゲッセマネの園に行き、ここで捕らえられ、即日裁判にかけられるのです。

 この時、三日前にイエスを歓呼の声で迎えた同じ群衆が、「イエスを十字架につけろ」と叫んでいますので、ホザンナと言ってイエスを迎えた三日後、舌の根も乾かないうちにイエスから離反していることがわかります。

何と激しい変わり身でしょうか、しかし、万歳と歓呼して迎えた者と、十字架にかけろと叫んだものは別人ではない、同じ人たちなのです。まさに、それが私であり、それがあなたの姿なのですよ・・と語り掛けているのです。激しい叫びに付和雷同する群衆はまさに私の姿。あるいは付和雷同していないとしても、拱手傍観している私の姿がそこにあるのです。

 わたしたちがいまなお回心していないとすれば、イエスの愛の掟を無視しているとすれば、十字架につけろと叫んでいる群衆となんら変わるところがないのです。
 ところで、自分自身に問いかけてみましょう。

この四旬節の間、愛の献金は実行してきましたか?
苦しむ隣人に想いを馳せ何か具体的に行動しましたか?
拱手傍観している自分がいましたか? 

今日持ち帰る枝は、私自身の忘恩の想起と回心の実行を迫るものでありたいですね。

司祭の言葉 3/21

四旬節第5主日B年 (ヨハネ12章20-33節)

  過越祭のときで、ギリシア語を話す異邦人がイエスに会いたいとやってきます。頼まれたフィリポは、アンデレと一緒にイエスのところに行ってそれを伝えました。するとイエスは「人の子が栄光を受ける時が来た・・・」とおっしゃったとあります。この個所はイエス誕生の時に東方の博士たちがやってきたことを想起させます。
 イエスのエルサレム入城に出会い、人々がメシアだと叫んでいるのを聞いた彼らは、真理を求めていた人たちなのでしょう。ギリシャ人は古代からソクラテス、プラトン、アリストテレスなどの哲学者を輩出し真理を探究していました。会いに来た彼らも、イエスに真理とはなにか尋ねたかったのかもしれません。
 イエスは彼らの到来に「時が来た」ことを感じ取ります。カナの婚礼の時ブドウ酒がつきたことを知らせた母に向かってイエスは「わたしの時は未だ来ていません」(2の4)と語り、イエスの兄弟達が仮庵の祭りが近づいているからエルサレムに行ってあなたの力ある業を公に示したらどうかとそそのかしたときにも同じ言葉で答えたイエスは(7の6)

・・今、「人の子が栄光を受ける時が来た」と明確に告知します。それは十字架の時です。

 そしてイエスは一粒の麦の話をします。
そろそろジャガイモの植時です。今植えれば夏には収穫を迎えます。
畑でジャガイモ掘りをした時沢山の子芋にまじって茎のところに変色した種芋の姿がありました。触るとくしゃっとつぶれてしいます。全ての養分を与えて役目を終えた芋姿です・・。
多くの母親は子どもに全てを与え尽くし、小さくなって行きます。

   たはむれに 母を背負いて そのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず 石川啄木

 今、杉戸近辺の麦畑には青々とした緑が広がっています。その根元には役目を終えた種もみの殻があるに違いありません。そして5月末には豊かな収穫の時を迎えるはずです。
 イエスのいのちはまさにそのような命でした。
 イエスは生かすために命を与え、父なる神に豊かな実りをもたらす・・・そのような命であったことを示しています。
 最近のニュースは自分の主張を通すために、他人の命を奪って平然としている人たちの多いことに慄然とします。ミャンマーでも軍部が自分たちの主張を通すためにクーデターを起こし、多くの市民の命が犠牲になっています。1995年3月20日に起きた地下鉄サリン事件から26年になりますが、この事件でも多くの人の命が奪われ、今なお後遺症で苦しんでいる人たちがいます。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(1ヨハネ4章9節)
とヨハネは語ります。イエスの十字架の時は、イエスが究極の愛を示すことによって、「神が愛である」ことを完全に現す時なのです。 ヨハネは十字架のみじめさや悲惨さには目を止めません。ヨハネが私たちに指し示したいのは、そこに現れる「神の愛」なのです。
 こうしてイエスは神の栄光をあらわしました。私たちもまたこのイエスに従ってゆくとき、共に神の栄光をあらわすことになります。

司祭の言葉 3/14

四旬節第4主日(ヨハネ3章14節-21節)

 今日はバラの主日です。今日の入祭唱は、「神の民よ、喜べ。悲しみに沈んでいたものよ、喜べ。」「神は豊かな慰めで、あなた方を満たしてくださる」(イザヤ書66の10.11)と謳います。皆さん十分に疲れていますよね、コロナコロナで一年になりますから。でもこのままいけば、今年は復活祭を祝うことができそうですね、そして復活祭には、春日部教会で一人のご婦人の洗礼式も予定されています。大きな喜びです。

 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された・・・イエス様はそう述べています。ですから勇気をもって進みましょう。

 ところで、皆さんは蛇を毛嫌いしていませんか? 何故嫌いなのでしょう、地べたを体をくねらせながら這いずり回っているからでしょうか。もしかしたら、楽園物語の中で、人間の誘惑者として描かれているからでしょうか。
 今日の福音はそのような先入観を打ち砕くものです。なぜなら、木に挙げられた蛇は十字架のキリストのシンボル、救いのシンボルなのですから、蛇はもっとみんなに愛されてもいいのではないかと思います。
 蛇のペンダントを首に下げるなどと言うのはどうでしょうか、だってみなさんが首に掛けている十字架は死刑の道具なのですよ。

 民数記の21章に燃える蛇の話があります。あまりにも身勝手あまりにも恩知らずなイスラエルの民を懲らしめるために、神は砂漠で燃える蛇を遣わしました。人々はこの蛇にかまれると体が燃えるような痛みを感じ苦しんで死んだといいます。
 民が回心の情をあらわしモーセを通じて許しを願うと、神は青銅の蛇をつくり、旗竿の上に掲げて、これを仰ぎ見るようにさせます。そしてこれを仰ぎ見るものは癒されたのです。イエスご自身が述べられていることから、この蛇こそは十字架のキリストのシンボルであることが解ります。蛇は脱皮をすることから復活のシンボルでもあるともいわれています。

 イエスはニコデモに、「神はその一人子をお与えになったほどに世を愛された」と述べています。
 今日のみ言葉では、大切な点が三つあります。
 まず、神様が「世を愛している」こと、「独り子をお与えになった」ということ、そして「一人も滅びないで」ということ。ここに神の愛が余すことなく表されています。神様は、たとえそれが神様に逆らい、神様に背いてばかりいるような人であっても、滅んでほしくはないと思っておられるのです。

 イエス様は 「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者か皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」とおっしゃっています。
 神がわたしたちを滅びから救うためにイエスを遣わされ、このイエスによって罪の許しを得た・・ということを信じて十字架を仰ぎ見るものはすくわれる・・・信じる者には命が与えられるということです。
 言い換えれば、「信じる者は滅びることはない」と約束されます。

 私たちは時には罪を犯してしまったり、失敗をしてしまったり、不信仰になってしまったりします。しかしそんなときでも「御子を信じる者は、十字架の愛を信じるものは滅びることはない」のです。

 ここが大切なのですが、「私たちの行ないに依るのではなく、神様の愛が無限の愛か注がれているから、私たちは決して滅びることはない」のです。

 それは、私たちか駄目になってしまわないように、神様の愛がいつも支えていてくださるということではないでしょうか。

 さあ、迷わず、神の愛を信じて前に進みましょう。バラ色の希望をもって、今日はバラの主日です。

司祭の言葉 3/7

四旬節第3主日 (ヨハネ2章13-25節)

 今日の福音は、イエスの宮きよめの出来事です。この場面だけ見ると第一印象としてはイエスの激しさに驚かされます。
 セウイホームでは入所したてのころ、食堂のテーブルをひっくり返した女の子がいます。
 ロッカーを倒し蹴り破った男の子もいます。
 神学生の時監督をしていた上級生の中には、怒りっぽくやたら机の脚を蹴り飛ばす人が居ました。イタリア人で面白くない事があるとマケーと叫んで机の脚をけるのです。サッカーも上手な人でしたけれど。
 小生も、部屋中の物をたたき壊したい衝動に駆られた事があります。でもそのあとそれを片づける自分を考えるとバカらしくなって思いとどまります。

 いろいろな怒りがあります。しかしながら、正当な当然といえる怒りがあります。
 まもなく11年3月11日の大地震から丸10年になります。大地震や津波は天災です。これを止めることは出来ません。しかし、福島原発の大事故それはまさに人災でした。ヨーロッパでは1999年、フランスの原発が洪水で外部電源を一部喪失したのをきっかけに、アメリカでは2001年の同時多発テロ事件をきっかけに原発の電源喪失対策が強化されたのに対して、日本はこうした対策を怠ったといいます。
 今ミャンマーでは、軍部によるクーデターに対して、正当に選挙で選ばれた代表を開放せよと、3週間以上も市民の抗議が続いています。

 イエス様の怒りは何だったのでしょうか。両替も売られていた動物たちも、神殿にささげられるために必要なものだったのです。

 まず両替を見てみましょう。パレスチナでは普通の用途のためには、ローマ ギリシャ エジプト ツロ シドンなどの、全ての種類の貨幣が使われました。しかしながら、当時神殿に納めるお金は ガリラヤのシケルか神殿のシケルでなければなりませんでした。
 宮の納入金は 半シケルでした。1シケルの半分ですが、2デナリに相当しました。
神学者のバークレーによれば、ある人が2シケルの価値のある銅貨を半シケル4枚に両替してもらおうとすると半シケルの半分 1デナリほどの手数料をとられたといいます。労働者の一日の賃金分です。

 また、律法によれば犠牲に供せられる動物はみな完全で傷が無く汚れない物でなければなりませんでした。 神殿当局は犠牲に供せられる動物を調べるために検査官を任命しました。礼拝者が動物を宮の外で買ったとすると、その動物が傷の無い相応しいものであるかどうか検査されますが、ほとんど例外なく不合格になったといいます。

 そして問題は、鳩は宮の外では一つがい500円ほどであったとすれば、宮の中ではその20倍ほど1万円もしたと言うことです。神殿側が暴利をむさぼっていたのです。

 さらに、商売が行われた場所にも問題があります。商売は異邦人の庭で行われていました。ユダヤ教徒に改宗したものであっても、異邦人の礼拝できる場所はここだけでした。それより奥には入れなかったのです。唯一礼拝できる場所が、牛や羊やハトを売る人々の声と動物たちの鳴き声で、静かに祈ることのできる雰囲気はありませんでした。

 そしてさらに、イエスは次の言葉を思い浮かべていたと思われます。ゼカリヤ書の結びのことばです。
 「その日には、(中略)エルサレムとユダの鍋もすべて万軍の主に聖別されたものとなり、いけにえをささげようとする者は皆やって来て、それを取り、それで肉を煮る。その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる。」(14の21)

「鍋」は日常生活の象徴ですから、その日(救いの完成の日)には、日常生活のすべてが聖化されるので、もはやエルサレムの神殿で行なわれる生贄の儀式は不必要になる、だから生贄の動物を売る商人もいなくなる。つまり日々の生活が神との出会いの場になる。礼拝が神殿ではなく、どこででも行われるようになる・・・と宣言したのです。

 いま私たちはそれぞれの地域で集まり感謝の祭儀をしています。新型コロナウイルスの緊急事態宣言が解除されるまで、ミサに参加することはできませんが、自宅でもみ言葉に触れ、神に出会うことが出来ます。祈ることが出来ます。
 イエスはそのような思いを胸に、宮の清めを行ったのかもしれません。

司祭の言葉 2/28

四旬節第2主日 (マルコ9・2-10)

 皆さんおはようございます。今日のみ言葉は主の変容です。変容は変身とは違います。
変身願望は多くの方が持っていると思います。いつもとは違う自分を演出する。演劇などはそのいい例です。みどり幼稚園の子供は年長組になると聖劇をしますが、男の子はヘロデ王になりたがります。腕組みして家来に命じるところがかっこよく映るのでしょう。
 宮代町にあるの進修館という市の建物は蔦の絡まる洋館風、それで若者たちが月に一度コスプレをして、写真を撮るために集まっています。まんがの主人になりきっているようです。昨年はコロナでできなかったのですがハローウィンには多くの仮装した人たちが集まっています。今幼稚園の子供たちは多くの子が、鬼滅の刃の主人公たちの衣装のチェック柄や絞り柄のマスクをしてきます。いつの時代でも・・変身願望は、大人にも子どもにもあります。自分の性格を変えたいと思うのでしょうか。それもまたストレス解消のための一つの手段となるようですから、試してみるのもよいと思います。

 変身は外観が別なものに代わるのですが、ご変容は自分以外の何かになるのではなく、イエスの内心の輝きが表に現れたものです。この来事を通して神はイエスと弟子たちにメッセージを送りました。
 直前の箇所は、8章のペトロの信仰告白と最初の受難予告です。 マルコ福音書は3回の受難予告を伝えていますが、いつも弟子たちはそれを理解できず、見当はずれのことを考えています。弟子たちさえ理解できないことを、世の人々は理解するのか、サタンは「無駄死にになる、むしろこの世の力を使ったらどうだ」と、イエスにささやきかけます。

 モーセは神と直接対話をし神から律法を授けられたお方、エリヤは最初の預言者、それも偉大な預言者でした。旧約聖書の「神の言葉」はモーセ五書と言われる創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記に記され、さらには預言者に与えられましたので、モーセとエリヤは旧約聖書を代表する人物なのです。その二人がイエスに現れたことは、神がイエスの決断を正しいと認めたということであり、イエスの受難と復活が聖書に記された神の計画の中にあることを示しています。

 イエスの洗礼の時に下った同じ神の言葉が再びイエスの上に響きわたり、イエスの決断が神の望みであると示され、イエスの迷いはなくなりました。他方、弟子たちは、イエスがエルサレムに行くのは死ぬためだと聞いて衝撃を受けていました。彼らが理解していたメシア像とは全く異なるものだったからです。彼らにはイエスの言葉が理解できず、当惑していました。
 彼らはこの山の経験によって、理解はできなかったものの、イエスに付き従ってゆくための何かを得たのです。
神学者バークレーは、「十字架があるにしてもないにしても、彼らはイエスをご自分の子と認める神の声を聴いた」と述べて、「彼らはイエスの栄光の証人となった」と述べています。

  イエスの変容の姿は受難のイエスに従うように弟子たちを励ますものでした。しかし弟子たちは、結局従うことができませんでした。イエスが逮捕されたとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまったのです。果たして私たちはどうでしょうか。

司祭の言葉 2/21

四旬節第1主日 (マルコ1章12-15節)

2021.2.21春日部加須

 皆さんおはようございます。体調にお変わりございませんか? 司祭は今日も担当する教会の皆さんのために、一人でミサを捧げさせていただきます。
 先週の灰の水曜日から教会は四旬節に入りました。断食の季節です。昨年から二年続けて灰の式を行うことが出来ませんでした。聖週間の典礼も出来るかどうか予断を許しません。でも私たちは夫々自宅に居ながらも自分たちで、聖週間の務めを果たしましょう。灰の式を受けることが出来ませんでしたがもっと大事なことは金曜日の第一朗読の、イザヤの預言の言葉です。
 「葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと/それを、お前は断食と呼び/主に喜ばれる日と呼ぶのか。わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。あなたが呼べば主は答え/あなたが叫べば/「わたしはここにいる」と言われる。」(イザヤ58章5-9)

今世界中が新型コロナウイルスの脅威にさらされていますが、そのワクチンを貧しい人にもすべての人に届けようとの声が上がっています。金持ちだけが接種してもコロナを抑え込むことはできないからです。かつてこのような声の上がったことがあるでしょうか。今ようやく全人類が一体であることに世界は気付き始めています。
 四旬節には愛の献金が呼びかけられます。それは形を変えた断食です。教会に行けなくても忘れないようにしましょう。さて、福音のホミリア(解説)に入ります。

 12節で霊はイエスを力ずくで「荒れ野」に「送り出し」ます。・洗礼のとき以来、神の霊はいつもイエスの行動を導いています。 「送り出す」の原語は、「追い出す」と言う動詞です(エクバッロー)イエスが悪霊を「追い出す」時にも使われる言葉で「力ずくで追い出す」といった強い意味を含んでいます。
 「荒れ野」は水や食べ物が欠乏している場所で、生きるのに厳しい場所です。しかし、イスラエルの民は40年間に及ぶ荒れ野の旅の中で、神はモーセに命じて岩から水を湧き出させ、天からは「マナ」(これはなんだの意)と呼ばれる不思議な食べ物を降らせて、民を養い導き続けました。そこは試練の場所でしたが、その荒れ野の中には、神との親しい交わりがあったのです。

 イエスはどうしてこの荒れ野に導かれたのでしょうか
「40日間留まり・・と野獣と一緒におられたが」  その間にあるのが
「サタンから誘惑を受けられた」という言葉で・・ここに重点が置かれています。

 イエスを守ろうとする天使と、イエスを滅ぼそうとするサタンの戦いの激しさを、この構成が如実に示しています。イエスはサタンの試みを受ける事によって、神とのかかわりを確認し、その使命を自覚します。・・・そして福音の宣教に入ります。
 ジーザスというイエスの生涯を描いたビデオのなかでサタンの誘惑の場面があります。  その中でサタンはイエスの名において戦争をする十字軍の場面や、十字を切りながら戦う兵士、イエスの名を呼びながら死んでゆく兵士たちの姿を描きます。そして、十字架にかかっても戦争はなくならない、無駄死にだ。平和は権力を握れば実現できる・・といいます。またスラムに生活する人たちの姿を映し出しながら、自分を礼拝すればこの世の富を与える、そうすれば彼らにパンを与えることができる、自分の力をつかえ、これらの意思をパンにしろとも迫ります。
 イエスの苦しみは、人々は十字架の意味を理解し、神に立ち返るのか、

 イエスの十字架によって人々はその生き方を変えるのか、
 罪の許しを信じ、互いに愛し合うようになるのか、無駄死にではないのかというものです。

イエスの十字架を信じる者は、このイエスの苦しみに対して、無駄死にではなかったと証明することが求められるのです。   国際情勢を見れば、問題山積です。
 福音を信じるとは、平和をつくることです。愛を信じることなのです。

「天使たちが仕えていた」  
 エリシャと従者のいる町がアラムの兵馬に取り囲まれたとき、おののく従者のためにエリシャが主に祈ると、主が従者の目を開かれます。その時従者は、火の馬と戦車がエリシャを囲んで、山に満ちているのを目にします。(列王記下6の17)
 イエスが戦っているとき天使たちが傍にいたように、私たちの試練の時も、主は私たちの傍に天使を送っていて下さる・・自分一人ではない、そう信じて頑張りたいと思います。

司祭の言葉 2/14

年間第6主日 マルコ1章40-45節

 「重い皮膚病」は、以前は「らい(病)」と訳されていましたが、1996年の「らい予防法」廃止後は「重い皮膚病」と訳されています。 この方々の苦しみは想像を絶するものでした。 (レビ13章45-46節には次のように記されています)。
 重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。

「宿営の外」は共同体から切り離された場所です。会堂に行き、ともに神を賛美することもできませんし、隣人とのかかわりも断たれます。肉体的な苦しみに加え、精神的にも追い込まれ、絶望的な状況に立たされます。
 (映画、ベン・ハーでは、母親と妹が思い皮膚病にかかり、宿営の外、深い谷底の洞窟の中で同じような病気の人たちと施しもので生活している場面が描かれています。
 イエズスマリアのみ心会の会員だったダミアン神父は、アメリカ合衆国ハワイ州モロカイ島で、当時誰も顧みなかったハンセン病患者たちのケアに生涯をささげ、自らもハンセン病で命を落としました。当時、患者たちは見つかるとすぐモロカイ島へ隔離され、そこで誰からも世話されずに亡くなっていくのが運命だったのです。)

 「深く憐れんで」(スプランクニゾマイ)は、「はらわたを揺さぶられる」という意味の言葉です。しかしながら、古い写本の中には「怒って」となっている写本もあるのです。
 書き写す際にわざわざ難しく書き換えることは考えにくいと言う理由で、本来「怒って」だったのではないか、と考える神学者もいるようです。イエスはラザロが死んで墓に行く途中「憤った」と述べられています。
 イエスはこの世に存在する悪とその働きに対して、強い怒りを覚えたのです。
 イエスは目の前の苦しむ人との出会いの中で心を揺さぶられ、その人を助けます。

 主はまたモーセに言われた、
 「らい病人が清い者とされる時のおきては次のとおりである。すなわち、その人を祭司のもとに連れて行き、祭司は宿営の外に出て行って、その人を見、もしらい病の患部がいえているならば、(中略)清められる者はその衣服を洗い、毛をことごとくそり落し、水に身をすすいで清くなり、その後、宿営にはいることができる。(レビ記14章)
 「祭司に体を見せる」ことは社会復帰のための条件でした。肉体的にいやされても、祭司によって清いと宣言されなければ、もといた村や家族のところに帰ることはできないのです。
 司祭に見せるようにと言われたイエスは、ただ単に彼の肉体的な病をいやすだけでなく、彼が社会との絆(きずな)を取り戻すように、背中を押したと言うことが出来ます。

 イエスは絆を取り戻すために来ました。神と人々との間の失われた絆を取り戻すために。人間と自然との絆、調和を取り戻すために。イエスの十字架による贖いは、まさにそのためでした。
 話はちょっと飛びますが、先週2/7のNHKスペシャル「飽食の悪夢」はショッキングでした。飽食の結果、水と食料の危機(クライシス)が迫っていると言うのです。あと10年が残された時間で、この間に自然との調和を取り戻さないと、取り返しがつかなくなると。その前に持続可能なシステムを探し出す必要があるというのです。
そのためには、健康にも地球環境にも理想的な食事の仕方、プラネタリーヘルスダイエットを推進して、飢える人を無くす必要があると述べていました。
大豆で作った人造肉は、同じ量の牛肉に比べ、水を90%土地の93%エネルギーの50%を削減でき、温室効果ガスを89%減少するとも述べていました。

 イエスの弟子である私たちは、この地球の調和のために、イエスが命を懸けて贖った世界が滅びないように、力を尽くすことが求められていると思います。

司祭の言葉2020/5月〜12月

司祭の言葉 2/7

年間第五主日(B)

 ペトロの姑の癒しの話です。でも、ペトロの奥さんは出てこないのですね。もてなしたのは姑だけではないと思うのですが。何故でしょう。
 イエスによる癒しののち、姑はすぐにもてなし始めます。そこのところを強調したいのではないでしょうか。このもてなしが姑の感謝の心としてのもてなし、奉仕となって示されるのです。姑の喜びと感謝の心が感じられます。そしてこの出来事でイエスの評判は広がってゆきます。

 「もてなす」はギリシア語で「ディアコノーdiakono」といい、「食卓で給仕する」ことを表します。たとえば、 畑から帰った僕は主人のために「給仕する」(ルカ17:8)、目を覚ましていた僕たちに主人が「給仕する」(ルカ12:37)ここにディアコノーが使われています。
 さらには食卓だけでなく、あらゆる奉仕を表し、「仕える」の意味にもなります。たとえば、 悪魔からの試みを受けるイエスに「仕える」のは天使たちです(マコ1:13)し、ガリラヤの婦人たちもイエスに「仕える」人となります(マタ27:55)。
 また、十字架を含むイエスの全活動を表す用例としても、ディアコノ―が使われています。 
「仕えられる」ためではなく「仕える」ために来たイエスは、多くの人の身代金として自分の命をささげます(マコ10:45)。

 ディアコノーと言う言葉から教会の職務の一つであるディアコノス(助祭)が生まれます。使徒言行録の中で、日々の分配のことで教会内に苦情が出た時、食卓の世話をするために7人が選出され、それが教会で助祭と言う職務になります。東方教会では輔祭、聖公会ではデーコン(執事)と呼ばれています。(デーコンと言うと私は大根を思い起こしてしまします。福島で子供のころ大根をデーコンと言っていたように思います。)

 第二ヴァティカン公会議以前は、助祭は司祭への通過点になっていましたが、さいたま教区のように現在は助祭として固有の職務を再確認する方向に進み、司祭には叙階されず、既婚者もなりうる終身助祭(parmanent deacon)の制度が復活しました。
 現在助祭は男性に限られていますが、40歳以上の独身女性の叙階を認めるなどの例が教会の歴史においては見られます。(カルケドン公会議)それで、今後は女性の助祭職も検討してほしいと言う声もあります。

 イエスから癒しを受けたペトロの姑は「もてなす=仕える」人となりました。その後は聖書には述べられていませんが、イエスの弟子となり、イエスのように「愛と奉仕に生きる人」になっていったと考える神学者もいます。イエスに奉仕した多くの女性の中の一人となったかもしれません。イエスのいやしを体験することによって、その人の生き方が変わったと。

 私たちもイエスとの出会いによって心の癒しを受けています。そして生き方も変わってきているのではないでしょうか。

 それからもう一つ、「悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」とあります。原文では普通の「話す」という言葉が使われていますが、「もの言う」は中々良い訳と言えるかもしれません。これについては次のような解釈があるからです。例えば、「肩書きがものを言う」という表現が日本語にはありますが、「ものを言う」は「悪霊が力をふるう」ことと同じだったと考えられる・・・と言うのです。イエスはそれを許さないのです。

 オレオレ詐欺にあってしまう人は、電話で相手と話してしまい、相手の巧妙な話術にはまって、信じてしまうのだと言います。一番いいのは相手に話させないことです。そのためには直接話さないで、録音するのがいいと言います。悪に引き込むような話題にも耳を貸さず、相手に話させないのが一番の防御法かもしれません。

司祭の言葉 1/31

年間第4主日 (マルコ1章21-28節) 

 皆様いかがお過ごしでしょうか。なかなかコロナの勢いが収まりませんね。司教団が「政府の緊急事態宣言が出された場合は、会衆参加のミサを中止する」と決めていますので、ミサの中止期間は流動的です。どうぞ、しばらくの間、自宅でのお祈りをお続けください。

 福音にあるカファルナウムは、ガリラヤ湖の北西岸にある町です。ユダヤ人の町には必ず会堂があります。そこは礼拝の場であると同時の教育の場でもありました。会堂には会堂司がいます。会堂の維持管理や聖書の朗読ヶ所の選定をし、礼拝を司会し、また聖書朗読者を指名し、有能な説教者を指名することが役目です。そして、説教するために、特別な資格もありませんでした。

 「律法学者のようにではなく、権威ある者として」教えたとあります。
律法学者は、師から弟子に口伝えに教えられたトーラーやタルムード(口伝律法)を解説して人々を指導しました。モーセにさかのぼりながら、私の先生の教えはこのようなものだった・・・と言う教え方で権威付けをしていました。
 一方、イエスのメッセージは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1章15節)というものでした。 そして、Amen Amen dico vobis 真に真に私は言う・・と言いながら教えたのです。 それは、全く新しい教え方でした。そこに人々は驚いたのです。

 「汚(けが)れた霊」 「霊」はヘブライ語で「ルーアッハ」といい、ギリシア語で「プネウマ」といいます。もともとは「息」や「風」を意味する言葉ですが、古代の人々は人間の力を超えた、目に見えない大きな力を感じたときには、それをルーアッハとかプネウマと呼びました。その力が神から来るものであれば「聖霊」であり、神に反する悪い力であれば「悪霊」を意味します。 病気はこの悪霊のなせる業と考えられ、重度の精神障害者のように、まわりのひとと意思疎通が出来なくなる場合、「悪霊に取りつかれている」と考えました。聖霊が「神と人、人と人とを結びつける力」だとすれば、悪霊は「神と人、人と人との関係を断ち切る力」だと言うことができます。

 古代の頭蓋骨に小さな穴が開いているのが見つかっています。・・・手術のためと考えると小さすぎますので、悪霊を逃がすためだったと考えられています。古代の人にとって「汚れた霊=悪霊」は身近なものでした。人間の理解や力を超えるものがあふれていたのです。

 あるとき、一本の電話がかかってきました。フィリピンから来たダンサーたちが亡霊におびえ、怖がって部屋から出ない、「口々に亡霊が出る、聖水で追い払ってほしいと言っている」と言うのです。行ってみると狭い8畳ほどの部屋に10人ほどが固まって震えていました。聖水で部屋を祝福すると、皆安心して仕事に行きました。

 一人のスチュワーデス希望の女性がいました。学科は通るが面接になると体がこわばって何もいえなくなります。前年もその前の年もそうでした。「悪霊が取り付いていると思うので払ってほしい」と言ってきました。教会では叙階の段階の一つに、祓魔師という段階がありました。悪霊を祓う職務です。儀式書の祓魔の祈りをしました。そしてその年、体がこわばることなく合格できたと感謝に来ました。

 色々な障碍があります。障害によっては、話しをしていても話題がくるくる変わり、脈絡のない話になることがあります。古い言い方をすれば、時々この相手は、何か付き物があってこんな行動に出ているのではないかと、疑いたくなるときがあります。
 セウイに一人の方が入居していました  ・・・仮称 鈴木さん
20歳過ぎに発病し30年入院していました 歳は50ほど。中学生の特はピッチャーで背番号1 高校ではファースト。 彼の時間はそこで止まっています。 調子の良い時は対話が通じますが 調子が悪い時は自分の世界に入ってしまいます。野球のブロックサインをしたりしながらの独り言。 まわりが注意しても耳に入りません うるさく、みんなから向こうに行ってといわれるほどでした。 世話人さんが 大きい声で 「黙れ!! 監督の云う事を聞きなさい。ピッチャー背番号1 鈴木君!」と言うと はっと我に返り、ニヤリとします。 そして対話が出来るようになります。

 因果関係に対する認識がなかったイエスの時代、病気とか障害という最初に生じた状態が、イエスのいやしによって治癒されたという最後に生じた状態を見ると、あたかもそれが一足飛びに起こった現象のように見え、驚嘆してしまったのかもしれません。

 間もなく東日本大震災から10年になりますが、この間、絆と言う言葉が、震災から立ち上がるための合言葉になってきました。互いに助け合い協力し合って、その結びつきを強くしてきました。
 しかし一方で、競争社会の中で、一人一人が孤立し、大きな精神的重圧がのしかかるのを払いのけようとして、それがついには暴力となって爆発してしまう・・・そのような方がたくさんいます。わたしたちも、そのような、一人の人間ではどうすることもできないような、得体の知れない「力」を感じることがあるのではないでしょうか。
 それでも私たちはイエスの弟子として、そのような方々へ手を差し伸べることを忘れないようにしたいと思います。