司祭の言葉 8/15

聖母の被昇天


 皆さん、聖母の被昇天おめでとうございます。本来なら守るべき祝日として、共に教会に集い、ラテン語のミサを捧げるはずでしたが、新型コロナウイルスの蔓延で緊急事態宣言が出され、またまたミサの公開が中止となりました。どうぞそれぞれのご家庭で、心を合わせ、聖母の被昇天をお祝いしてください。

 聖母の被昇天というと、聖母が天に昇っていき、冠を授けられる姿を思い浮かべるかもしれません。イエス様は神としての力によって自ら天に昇っていきましたが、聖母の場合は、神に引き上げられたので、わざわざ「被」の字がついています。
 正式には「聖母は地上の生活を終えた後、体と霊魂が共に天の栄光にあずかるようにされた」ことを祝います。生きたまま天に昇ったと取るのも不可能ではありませんが、イエス様も人間として死んだのですから、人間だったマリアは、死んで、復活させられ、天に昇ったと捉えて、話をしたいと思います。この信仰はカトリック教会の信仰で、東方教会はマリアのお眠りと呼び、魂だけが天に迎えられたとしています。

 キリストは十字架にかけられた後、そのお言葉通り復活して弟子たちの前に現れました。私たちの信仰はこの復活を信じることにあります。このキリストの復活は初穂としての復活です。そのあとにすべての人の復活があります。そして今日のコリント人への手紙は、「ただ、一人一人に順序があります」と述べているのです。 人は、終わりの日に、この世で持っていた身体のまま、しかし病気や障害、肉体的な弱さを克服した体で、もちろん他人のものと入れ代わることなく、体ごと復活するのです。
(フィリ3:21 私たちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる)

 マリアは生涯をキリストと共に歩み、いつも、苦難の時も、絶えずもっとも近くにあり、キリストの救いの業の始めから終わりまで、思いと行動を共にしていました。ですから教会は共償者マリアと言う称号をマリアに与えています。イエスと共に贖いの業に参加したマリアです。それなら、死んだ後は、霊も体も共にイエス様から一時も離れず、共にいるのは当然のことといわねばなりません。 また原罪にも、また生涯にわたっても、あらゆる罪に勝利したマリアは、罪の結果である肉体の死に対しても勝利し、栄光を受けるはずです。 それで普通の人のように、世の終わり、最後の審判の日を待つまでもなく、この世の肉体における生を全うしたすぐ後に、イエスと同じ栄光の体を身に帯びることができ、天にあげられたと教会は信じているのです。

 復活の日は私たちにもやってきます。 私たちも、死んですぐと言うわけではなくても、神から離れずに生活するなら、終わりの日に、同じように体ごと復活し、天に引き上げられることになります。 

 天使ガブリエルのお告げを受けたマリアは、エリザベトを訪問しました。その時口をついて出た賛美の言葉マニフィカト(私の魂は主をあがめ)のなかで、「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者というでしょう」とのべていますが、まさにその言葉通りになったと思います。
 今日の福音で読まれたマリア、無原罪の特権を与えられ、神の母となったほどのマリアの生き方の特徴、それは徹底的に、神の僕として小さく生きたことにあります。

 マリア様の生涯は外から見て、決して楽なものではありませんでした。神の子を宿した時には、婚約者ヨセフに疑われ、石打ちにされることも覚悟したでしょう。馬小屋で神の子を産まざるを得ず、幼い子供を抱え知らないエジプトで避難民として貧しく過ごしました。ヨセフとの早い死別や、わが子イエスのむごたらしい死……。
 しかしそれでも神に従うことで、罪の奴隷としての惨めな生活から解放され、もっと自由に、安心と信頼の心で、誇り高く生きることができたのです。そしてすべてを得て、永遠の冠・栄光を受けることができました。
 これこそ無原罪であり、被昇天の恵みを受けるにふさわしい生き方です。私たちキリスト信者もこのマリアに倣って生きていくことが主のお望みであると思います。コロナ下でつらいことの多い毎日であると思いますが、マリアに祈りながらこの苦境を乗り越えてゆきましょう。
 皆様の上に主の平和がありますように。

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生神女就寝祭のモザイクイコン。現在はカーリエ博物館となっている、ホーラ(コーラ)修道院の聖堂内にある。生神女マリヤの身体が中央下に、ハリストス(キリスト)が中央に描かれる。ハリストスはマリヤの霊を抱いている。マリヤの霊が幼女を象るのは、その純潔を意味している。(ウィキペディアより)

司祭の言葉 8/8

年間第19主日B年 わたしは命のパン

 皆さんこんにちは、お元気でしょうか。新型コロナウイルスの猛威は衰えることなく、8月31日まで埼玉県にも緊急事態宣言が出され、それまで教会の公開ミサも中止となりました。聖母被昇天のミサも非公開となり、残念な思いでいっぱいです。ホミリアを送りますので、今日の福音の理解のためにお役立てください。日本の教会は6日から平和旬間に入っています。司祭は自室で皆様のご家庭の平和と、世界の平和のためにミサをお捧げ致します。心を合わせてお祈り下さい。

 今日の個所は、「わたしは天から下ってきたパンである」とイエス様が言われた言葉をめぐる、村人の反応が取り上げられています。どうして「天から下ってきた」などと言うのだろう、昔を知る村人はイエスの言葉に躓きます。

 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」6の35

 「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」6の63
 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。」6の53

 ここではイエスの言葉が命と言われ、またその肉を食べその血を飲むことで永遠の命を得ると言われています。

 命の糧であるパン・・それをわたしはどのようにいただくのでしょうか。
 ミサは主の食卓といわれています。私達はこの食卓で永遠に生きる糧をいただきますが、それは聖体拝領によってだけではありません。(もしかしたら、ご聖体だけが命の糧であると思ってはませんか?)

 ミサはことばの典礼と感謝の典礼とにわけられています。このことから、ミサには2つの食卓があるといわれているのです。
 63節では「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」とあります。
55節では「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物」と述べられています。

 49・50節では「荒れ野で食べたマンナ」と「天から降ってきたパン」が対比されます。モーセが与えたマンナを食べたものは死にましたがイエスがもたらすパンを食べるものは死ぬことがありません。
 イエスのパンとは直接的にはイエスが語る「神の言葉」を指します。
 しかしそれだけではありません。イエスは自分を死に引き渡す事によってこの世に命を与えるために来たのです。
 「わたしが与えるパンとは,世を生かすためのわたしの肉のことである。」と述べるときには、み言葉ではなく、ご聖体を表していると思われます。
 神の言葉とご聖体の双方が、命のパンであるといわれているのです。

 教会のながい伝統の中で、聖体の秘跡をもっとも聖なる秘跡として大切にしてきました。毎日曜日ミサに参加し、出来るだけ聖体拝領することが勧められました。しかし今コロナ下の中で、公開ミサが中止となりご聖体を受けることが出来ません。
 でもちょっと待ってください。み言葉があるではないですか。今日のみ言葉を読みそれを黙想する。そこでイエスの命をいただくことが出来るのです。

 コロナ下でも皆さんの家庭の中でも、み言葉と言う命のパンは、ミサに参加しなくもいただけるのです。ミサに与るわたしたちは、み言葉とご聖体という二つの形でイエスキリストご自身をいただいています。

 ことばの典礼は単にミサの導入、または前半ではありません。静かな雰囲気を作るための手段でもありません。朗読台は、み言葉を聞いてイエスキリストご自身を命のパンとしていただく、もう一つの祭壇なのです。
 ミサに遅れてくる人が多いのは、イエスキリストが命のパンであるという意味を、未だ良く理解していないからではないでしょうか。遅れてきて、又息づかいも整わないでいるうちに、聖書の朗読が終わってしまう。遅れてミサに来るとき、イエスの命の言葉を、命のパンを勿体ないことに私たちは頂き損なっているのです。

 今日のみ言葉を黙想しながら、ミサに参加できなくても、お家でイエスの与える命のパンをいただいてください。
 主の恵みが皆さんのご家庭のうちに豊かに注がれますように。ハレルヤ。

司祭の言葉 8/1

年間第18主日B年

 五つのパンと二匹の魚で五千人を養われた「しるしを見て」、群衆はイエスを捜し求めて対岸にまで押し寄せます。しかしイエスの見るところ、群衆が来たのは「しるしを見た」からではなくパンを食べたからです。もちろん対岸まで駆けつけた群衆に悪意のあるはずがありません。群衆とイエスの間にずれが生じた理由は、彼らは本当の意味でしるしを見ることができなかったことにあります。
 「あなたがたは」とイエスは言われます。「驚くべき事を見た。あなたがたは、いかにして神の恵みが群衆を養うことが出来るかを見た。あなたがたは、これらのことを行った神に思いをはせるべきであった。それだのに、あなたがたは胃袋のことばかりを考えているために、自分達の魂のことを考えることが出来ないのだ」と。

 奇跡は指差しです。今、群衆に求められているのは、「しるしの先を見る」ことです。五千人を養った出来事の内には、神の慈しみが溢れています。 こうしてイエスこそ神から遣わされた方だと信じること、それこそ命のパンに与る最大の業なのです。  けれども彼らは言います。「どんなしるしを行ってくれますかわたしたちの先祖は荒れ野でマンナをたべました。」
 マナは現在でも見られる自然現象だと言われます。荒れ野に生えるタマリスク(ギョウリュウ)の木に寄生するカイガラ虫は枝から多量の樹液を吸いますが、余分な樹液を排出します。それが固まって白く黄ばんだ小さな玉となって地に落ちたものは、蜜の代用物になるほどに甘く、ベドウィン族は今でも食べているそうです。
 イスラエルが食べ物の見つけにくい荒れ野で、このようなマナに出会ったとすれば、大きな喜びだったにちがいありません。しかし、彼らがそれを神からのプレゼントと見たときに、その喜びはいっそう深いものになってゆきました。それは単なる自然現象なのではなく、荒れ野を導く方が与えてくれた食べ物だからです。
 ユダヤ教のラビの固い確信によると、来るべきメシアは、再びマナを降らせるはずでした。マナを与えたことはモーセの生涯における最大の業と見なされ、メシアはそれと同等かそれ以上の業をしなければならなかったのです。
 その信仰によれば、ひと壺のマナが最初の神殿にある契約の櫃の中にかくされていて、その神殿が破壊された時にエレミヤがそれをかくしてしまったが、メシヤが来る時、再びそれを出すだろうと言うのです。そしてユダヤ人達はイエスに、神からのパンを生み出すようにと挑戦していたのです。
 彼らは5000人を養ったパンを、神からのパンとは見なさなかったのです。

 イエスは「神のパンとは天から下ってきて、人間に、単に肉体的飢えからの満足だけではなく、生命を与えるお方なのである。」と語られました。

 この一週間この言葉を黙想したいと思います。

司祭の言葉 7/25

年間第17主日B年

 今日の聖書の御言葉はパンの奇跡です。イエス様の最大の関心事は神の国の到来、福音を述べ伝えることでした。そのために病人を癒し、空腹の人にはパンの奇跡も行いました。腹が減っては戦ができないといいます。福音も耳に入らなくなります。

 ところで今日の言葉で気になる表現があります。「パンくず」という言葉です。屑というといらないものという印象ですから、訳が悪いですね。原文はfragmentum 断片 フランシスコ会訳では「余ったパン切れ」バルバロ訳は「食べた残り」と訳しています。

 イエスさまが五つのパンを5000人に食べさせたとき、群衆はイエスさまを王様にしようとします。イエスさまが王様になれば働かなくても食べられるとおもったからだと解釈されています。イエス様ご自身このようにおっしゃいます。「あなた方が私を探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」

 もちろん、飢えている人たちを食べさせるために奇跡は行われたのですが、彼らの態度をみてイエスさまはがっかりしたに違いありません。彼らがしるしの中にみたのは、聞き従うべき牧者ではなく、自分たちの願いを満たすための王だったのですから。

 イエスの目線は横から目線です。上からではありません。共に暮らし、傍らにいるために人となられた方です。人々の必要をたちまちに感じ取られ、パンを分け合与えられたのです。
 イエス様はバプテスマをうけることによって、群衆と同じところに立ちました。そして、強みも弱みもあるがままの私を受け入れて下さいます。

 このパンの奇跡が今の私たちのためにはどの様な意味を持っているかと言えば、一つにはイエス様が神から使わされたものであると理解するため、さらには最後の晩餐のときの、聖体の制定を理解する助けとなるように、行われたというのが教会の理解です。

 イエス様は、私達の生活のしづらさを、とくに聖体によって養い、ゆるしの秘跡によって、じっくり話を聞いて、助けて下さるのです。

司祭の言葉 7/18

年間第16主日B年

 イエスは弟子を集め、派遣し、報告を聞き、いま休ませようとしています。弟子たちが疲れていると感じたからです。そのうち肉体が疲れるだけでなく、精神的にも疲れてしまうと思われたからでしょう。 今日の社会の中で疲れ切ってしまう人がたくさんいます。空っぽになる。 空回りする。 喜びを失ってしまう等など。
 イエス様はそのような時、まかせきることの出来ないことをかんじます。与えるものを持っていなければどうして与えることが出来るでしょう。

 ここにクリスチャンたちのリズムが示されています。一週間人々の中に生活した私たちは、週の初めに神の前に出てみ言葉に触れ、聖体祭儀で主の体を受け、派遣の祝福を受けてまた人々の中に、み言葉を伝え人々を癒すために出かけてゆくのです。
 昔はラテン語で、イテ ミサ エスト 行きなさい、あなたがたは派遣されています・・・と言って信徒を送りだしました。
最後の祝福は、そのための派遣の祝福と呼ばれているのです。

 イエスは自分達だけで人里離れたところへ行くように命じます。 = それは、神との交わりの場所です。でも、その時間は取れなかったようです。
 34節の「深く憐れみ」は、ギリシア語では、「スプランクニゾマイsplanknizomai」という言葉です。「目の前の人の苦しみを見たときに、こちらのはらわたがゆさぶられる」ことを表します。相手の痛みをわがことのように感じて共感する言葉で、イエスの愛の行いはいつもここから来ています。そしてイエスも弟子たちも働き続けたのです。

 あるとき、夢を見ました。「危ない危ない、早くブレーキを踏んで・・」と思っているうちに、前を歩いている人の方に車がだんだんよって行き、腕に接触してしまいました。となりの席の運転手をみると居眠りしています。示談の為に喫茶店を指示されました。そこに行く途中後ろの席の方が、神父さんたいしたことが無くて良かったですね、気をつけてください・・・といいました。それで運転していたのは隣の人ではなくて自分だったのだと気がつきました。夢でしたけど神様から、「あなたが疲れているんだよ」そう言われたように思いました。

 いま長江司教様を囲んでいたような時間がほしいと思います。司祭に成りたてのその頃は、ともに祈り、時間を忘れて宣教について分かち合い、激論を交わしました。
 先日、ボランティアの方が食事作りに来てくれました。 その日は私が食事の準備をしなくてもよいので助かります。そればかりか、おしゃべりをして疲れを忘れます。主に信仰の話です。そこで小生は大きな力をいただきます。

 ほんとうに皆さん疲れています。新型コロナウイルスで世界中が混乱しています。ミサに出るのも制限されている状況ですが、疲れたら十分に休みを取り、み言葉に触れて力を受け、主のお体に養われて派遣の祝福を受け、また前に進みましょう。

司祭の言葉 7/11

年間第15主日B年 12人の派遣           

 イエスは弟子たちを呼び寄せました
 「かれらを自分の傍に置くため、また派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」(Mc 3の14-15)

 特別な教育が始まりました。宣教に使わす前に彼らを自分のそばに置き、自分の人格の神秘自分の心、思い、メッセージの全てをとことんまで伝えようとされたのです。
 「わたしの言うのを聞いてさとりなさい。外から人に入って人を汚すものはない」
Mc7の14

 「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」  Mc10の42
 「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。  Mc8の34

 宣教は、イエスを伝える事です。→ 宣教の前にイエスの全てを知る必要がありますし、→ 揺るぐ事のない確信を形成するひつようがあったのです。
 そして弟子たちの派遣が始まりました。

2人ずつ 二つの理由によります。まず、重要な事柄についての証言は、2人以上でした。
 「長老に反対する訴えは、二人あるいは三人の証人がいなければ、受理してはなりません。」(Ⅰテモテ5の19)「死刑に処せられるには、二人ないし三人の証言を必要とする。一人の証人の証言で死刑に処せられてはならない。」(申命記17の6)

 着物  チューニック・・・下着  一枚の布で足に届く長さ 一方が縫い合わせてありました  新品の証拠として、頭のはいる穴なしに売られていたそうです。

 ヒマティオン・・・巾70センチ 長さ2mの布を縫い合わせたもので、縫い目は後ろにきました。昼は上着 礼服(神殿で、目上の前に必ず着用)となり、 夜は毛布替わりになりました。
 イエスの時代、外套にくるまっての野宿は良く行われました。

 袋 剥いだままの子山羊の皮袋で 羊飼い、巡礼者、旅行者の袋は・・数日分のパン、オリーブ、干しぶどう、チーズをいれました。 
 祭司たちの袋は・・・募金袋でした。 どん欲な祭司たちのようにしてはいけない、受け取る為ではなく与える為に行くのだから、すべてを神に頼れ・・・・それがイエスの派遣の言葉でした。

司祭の言葉 7/4

年間第14主日B年

 大工の子は大工、そんな時代です。イエスを迎えたナザレの人たちは、イエスをよく知っていると思い込んでいました。会堂で聖書の巻物を持ち出す老人も、会堂司も、会堂に集まった人たち皆が、かつてのイエスを知っていました。村に住んでいた皆が家具の修理や家の修理の依頼を、ヨゼフのもとに出し、イエスとヨゼフが力を合わせて仕事をしていたのを知っていました。だから、現在のイエスを受け入れることができませんでした。

 そこに、村人のイメージにそぐわないメシアの出現です。そして言います。大工ではないか。 技術者・便利屋・労働者であったがため、軽蔑しました。
 しかしそれはイエスの栄光なのです。神が地上に来られるとき、例外であろうとしなかったのですから。
 人々の思っていた救い主の出現は、壮大な、みんなを驚かせるような演出の中で行なわれるはずでした。 仲間内の一人であってはいけなかったのです。 髪の毛に鉋屑をつけて働いていた青年であっては幻滅だ、というわけです。(降誕の時もそうでした。認めたのは心の純朴な羊飼い達だけでした。)
 「彼はご自分の家にこられたが、その人々は受け入れなかった。」(ヨハネ1ノ11) 
 イエスの敵は、イエスを十字架に付けて当たり前だと思っていました。
 身内は気が触れたと思い、取り押さえ、拘束衣をつけさせようと思いました。

 私たちも、イエスを知っているけれども、認めないことが多いのではないでしょうか。神のイメージを自分でつくってそれに固執し、もしそのイメージと違う神が現われたら、それを迎えようとしない。
 神を外に捜し求めていませんか。  私たちの中にいるのに――
 神は遠くにいると思うので、目を細めて探ります。私たちのそばを通っているのに――
 キリストは、昇天の日にこの地上から去ってしまったのではありません。
 姿を消すのと 立ち去るというのは、別のことです。
立ち去れば――→当然不在となります。姿を消したというのは、かくれた現存・・を思わせます。
 ただ、姿を隠しただけ――あたりまえの男に変装してここにいるのです。

 祈りの時に、気を散らしました・・・ 良くそんな告解を聞きます。そんなことはたいしたことではありません。道を歩くときに こそ、気を散らしてはいけないのです。キリストとすれ違っているかも知れないのですから・・

 あまりにもよくしった顔ばかり――夫の、妻の、子どもの、姑の、病人の、家なしの、身なりの悪い人の・・・でもそこに、隠れたキリストがおられるかもしれないのです。

司祭の言葉 6/27

年間第13主日 ヤイロの娘の奇跡の話

 会堂司のヤイロがイエスに助けを求めた話です。イエスに最も反対していたのは既成のユダヤ教の指導者たちでした。心がかたくなで、自分たちと少しでも考え方の違う人には反対しました。それは今日に至るまで変わっていません。同じ宗教を奉じる者たちの中での宗教的対立は消えることがありません。日本の宗教の中でもそうです。
 あるときプロテスタントの牧師さんから電話がありました。一人の女性のために払魔式をしてほしいと言うものでした。カトリックの昔の儀式では洗礼前に払魔の式がありました。カトリックの司祭に祈りを願ってきたのですから謙遜な方だと思いました。もちろん承諾しお祈りいたしました。

 ヤイロは会堂司、ユダヤ教の指導的立場にある人です。イエスに助けを求めることをまわりの人たちは反対したことでしょう。それを押し切ってイエスの下に来ました。何としても助けたかったのです。イエスが会堂司の家に行く間に一つの話が挿入されています。その対応をしている間に、「お嬢さんはなくなりました。もう先生を煩わすには及ばないでしょう」との知らせが入ってきました。この知らせがいかにも早いのは、どうしてもイエスに来てほしくなかった者たちがいたからでしょう。

 ヤイロは娘を生かしてほしいと願い、イエスも生かしたいと思いました。そして死んだはずの少女に奇跡が起こったのです。

 今日、奇跡をおこなうことができるのは、お医者さんだと思っています。でも患者はそのお医者さんとの出会いが作れなければ、癒しを受けることもできません。出会いのチャンスを作る。・・その役目なら私たちも引き受けることができます。
 国境なき医師団(MSF)がインドでも支援に当たっていますが、そこから支援を求めて次のような知らせが来ました。

 現場で医療チームリーダーを務めるアパルナ・イェルが、その必要性を語っています。

 MSFがムンバイで支援している薬剤耐性結核の患者の多くは、仕事を求めて地方からムンバイにやって来てスラムに暮らしている人びとだ。コロナで日雇いの仕事がなくなると、故郷に帰らざるを得なくなる。しかしこれは、大切な治療を途中で中断することにつながる。地方では必要な薬を手に入れることが難しいからだ。
そのためMSFは、ムンバイから離れる患者と連絡を取り合い、故郷の保健所に薬を送って治療が続けられるよう支援している。また、電話でのカウンセリングも行い、コロナで仕事を失いながら結核治療を続ける患者たちの心のケアにもあたっている。

 いま、多くの医療資源が新型コロナ対応にあてられているため、結核やHIVなどを患う人びとの治療環境は厳しくなっている。そのような状況下でも必要な治療を続けられるよう、それぞれの患者のニーズに合わせたサポートを行っていく。 

 世界中には助けてほしいと願う人がおり、イエスは助けたいと思っているに違いありません。しかし今それを行うことができるのはわたしたちなのです。

司祭の言葉 6/20

年間第12主日B年

 今日の福音で疑問に思うことがあります。何故ペトロたちは嵐を恐れ、イエスを起こしたのでしょうか・・と言うことです。今回の嵐はガリラヤ湖固有の嵐だといわれています。その地形が嵐を呼ぶのだそうです。

でも彼らは漁師ですよ。何度もそのような嵐には遭遇しているはずです。何をそんなに恐れたのでしょうか。しかも起こした相手はイエス、大工ですよ。船のことなど知っているはずはない。漁師のメンツにかけて、何とかしようと思うはずです。でもイエスを起こした。なぜでしょうか。船を出すように言ったのはイエス、確かに責任はあります。とは言え、疑問です。漁師が白旗を上げたのですから。いくら恐怖にかられたとはいえ、理解できません。あるいは船出したのはイエスのせいなのだからと、文句を言いたかったのでしょうか。

 人間はその誕生以来常に恐怖にさらされてきました。周りの獣たちはみな牙と鋭い爪、そして嗅覚を持っています。弱い人間はいつも逃げ回り、その中で道具を工夫し、火を発見し、文明を発展させ恐れを克服してきました。原初の人間にとって恐怖を持つことは、大切なことでした。それによって身を守り、生き延びてきたのです。
 この恐れを利用し金儲けをたくらむ人たちがいます。オレオレ詐欺がそうです。息子が孫が窮地に陥っている・・そう思わせて、その窮地から脱するためにお金が必要だといいくるめ、お年寄りからお金をだまし取る、許せない輩らです。
 先日は私のところに一通のメールが来ました。私のパソコンを支配し、自由に操作し、ついているカメラも自由に操って、部屋の中をくまなくのぞき見し、動画を撮った。これをインターネット上にばらまかれたくなければ、ビットコインで1700ドルほどを振り込め。そうすればすべてを廃棄し、二度と侵入しないなどと言うものでした。個人情報が流されるという恐れを持たせ、金を奪おうという手口です。

 聖書は「主を恐れることは知恵の初め」・・と言います。(箴言1の7)
 正しい恐れ、それは大切なことですが、むやみに恐れる事、不安にかられることを主は戒めておられます。主がともにおられる限り、わたしたちは主に信頼すべきなのです。
 今日の福音の要点は、イエスが嵐を鎮めたということよりも、弟子たちの弱さを通じて、神への信頼の大切さが語られていることです。

司祭の言葉 6/13

年間第11主日 (マルコ4章26-34節)

 聖書学者エレミアスは、聖書のたとえ話はイエスに対する非難などに対する弁明として語られていると言います。

 イエスの集団は、漁師や税吏、罪びとたちの集まる集団でした。イエスのもとに集まった人々はほとんど病人とその家族のようです。そして、イエスはこの人々を指して、「見なさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」(3の34)と宣言されました。
 神の国のために戦う戦士になろうと考えていた「熱心党のシモン」(マルコ3の18)のような弟子たちは、この現実をどのように見たのでしょうか? 多くの人々から見ればイエスの周りで起こっていることはあまりにも小さく、弱々しい人の群れでしかなく、神の国からほど遠いものに見えたと思います。

そしてイエスは言います。
「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」  
 フランシスコ会訳は「どうしてそうなるかをしらない」
 日本聖書協会訳も「どうしてそうなるのかその人は知らない」同じ文章を、
 講談社のバルバロ訳は「気づかぬままに」と訳しています。
どうしてそうなるかその人は知らない と言う訳と
気づかぬままに と言う訳では かなり意味合いが違います。
 そうなるか・・というのは、成長の理由を指しますが、気づかぬままに・・というのは、そのことに気を配らないうちに・・いつの間にか・・・という意味になります
 ラテン語訳は 「dum nescit ille」 彼が知らないうちに・・いつの間にかです。

 次の「からし種」のたとえ マルコでは野菜 マタイ・ルカは木と表現されていますが、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張ります。
 実は、日本語訳には原文にはない言葉が付け加えられています。 葉と巣です。
 フランシスコ会訳は「その陰に鳥が宿るほど」
 日本聖書協会訳は「その陰に鳥が宿るほど」
 バルバロ訳は「空の鳥が陰に身を寄せるほど」と訳しています。
「からし種」の特徴は、その成長力です。わずか1.5ミリほどの小さな種ですが、ガリラヤ湖畔においては、2.5~3mほどになるそうです。
 神の国も同様、人間の反逆や不従順にもかかわらず、神の働きは続いてゆく。
 そこには達成の日があることを告げています。収穫の日、よき実は取り入れられ、雑草と毒麦は捨てられる。天の御国は、「からし種」のように、小さくて人々に気づかれないものであるが、結果的には、非常に大きなものに拡大し、この地上に満ちわたるものとなることが明らかにされています。

イエスに対する周りの人たちの非難や中傷、そんな中でイエスは今日のたとえ話を語っています。焦らないで神に任せなさい。神の業は素晴らしい・・そうは聞こえませんか。