司祭の言葉 5/29

主の昇天

20220529春日部

 主の昇天、おめでとうございます。
 ちょっぴり感染者数が少なくなってきましたね。共にミサに参加できる日を待ち望みながら、今日のミサの中で皆様の上に主の恵みを祈ります。

 山に行き、ゴンドラに乗った時、窓から見える景色はだんだん小さくなってゆきます。下から見ればだんだん小さくなって行くのはゴンドラです。
もし地上を離れて空に浮かぶ体験がしたければ、パラグライダーに乗れば体験できます。 空中に浮かび地上が遠ざかってゆく体験は感動的です。

 御昇天とはどのような出来事でしょうか。

聖書は雲に覆われて彼らの目から見えなくなったと表現しています。
 この表現に躓く人もいます。人間が宇宙に飛び出す時代ですから。
 今では誰も神の国が大空の彼方の、ある場所だ等とは考えません。
 神の国はわたしたちが神から永遠に離れることのない,祝福された状態にあることだと考えます。
 しかしここに書かれていることはほとんど2000年も前に起こったのです。当時の人は誰でも賢者でさえ、地球は平らであり大空の向こうには天国と呼ばれる場所があると考えていました。

天は場所ではないのです。・・、だから
 「なぜ天を見つめて立っているのか」と言われたのでしょう
 福音は、雲という言葉で、神の栄光に入られたという事を示しています。

 旧約において、神の栄光はエジプト脱出の時 もえる芝の中にあらわれ、シナイ山では、もえる炎の中から律法を書き記した板を頂きました。
 その栄光とは神のご自分の民に対する途方もなく大きな「愛の炎」であったのです

 新約において、その栄光はキリスト誕生と十字架 復活を通して現れ、その昇天 をもって完成します。

聖書のこの表現は、現在の人々にとっては躓きになりえます。でも、この表現は、地上を平らな面として理解していた時代の表現なのです。

ご昇天はいつも神秘として残ります → 言葉と叙述を超えるものを言い表そうとしているのです。  

ご昇天の出来事は必要だったのでしょうか。
 必要だったのです。今日の第一朗読がそのことを示しています。
 使徒たちが集まってイエスに尋ねています。
 「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか?」

 イエスがそばにいることによって弟子たちに強い依存心が生まれました。

 みどり幼稚園では、お母さんたちにお願いしていることがあります。
 入り口で子供を手渡したらすぐに立ち去るということです。
 お母さんの中には、門のところでしがみつく子供を抱いて、子供と一緒に泣いてしまうお母さんもいますから。

忘れてならないのは別離の日がなければならなかったということです。
神学者バークレーは、ご昇天は明らかに三つのことを意味しているといいます。

  1. それは終わりでした。 一つの舞台が過ぎ、次が始まったのです。血肉を備えたイエス様信じていた時代は終わり、永遠に時間と空間から自由になったイエス様につながれたのです。
  2. 同時にそれは始まりでした。 弟子たちは意気消沈してその場を去ったのではありません。 非常な喜びをもってそこを去ったのです。 何故でしょうか? もはや何物も自分たちからイエス様を引き離すことができないことを知ったからです。

パウロは言います(ロマ8の38~39)
 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

  1. さらにご昇天は弟子たちに、自分たちには地上にだけでなく天にも友人がいるという確信を与えました。 地上のイエス様と同じイエス様が天で我々を待っていてくれるという確信です。 

中村神父が病床にあった時、司教様が見舞いに行くと「早く召されるように祈って欲しい」と言いました。次に教区会計の事務をしている黒木さんが行くと、「まだ召されない。司教の祈りは効き目がないな」・・と言ったそうです。中村神父は天に帰る日を待ち望んでいました。

そして彼らはエルサレムに戻り絶えず宮にいて神をほめたたえ、間もなく舞台は、ルカ福音書から、使徒言行録に移ってゆきます。

復活のロウソクの火は消されました。しかしその光は、今から私たちの中に灯されねばならない・・・そのことを心に刻みましょう。

主の祝福が皆様の上にありますように。

司祭、鈴木三蛙

司祭の言葉 5/22

復活節第6主日C年

 火曜日の夜はお宝鑑定団の番組が長く続いています。根強い人気があります。

 私も一つの お宝? を持っています。セウイの庭に転がっていた石なのですが、誰かが削り磨いたのでしょうか、平らになっている面があります。
 あるとき気がつきました。よく見ると中に揺れているものがあるようなのです。多分水ではないかと思うのですが、水の閉じ込められている石。何石というのでしょうね。
 鑑定に出す人は、自分の持っている宝物がどのくらいの値打ちのものであるか知りたいと思っています。あわよくば高値で売れないものか・・そんな野心も透けて見えます。それが買値にはるかに及ばぬ偽物だったりすると、「だから欲をかいては遺憾のだよ・・」と、ほっとしたりします。

 1947年死海の北西、死海沿岸のクムランというところで、急な崖を駆け上って洞窟の中に姿を消してしまった迷子のヤギを追って、三人の牧童が死海沿岸を探し回っていました。崖の中腹にある洞窟に入ると、牧童はいくつかの大きな壷を見つけました。壷は壊れたものもありましたが無傷のものもあり、中にはヘブライ語で書かれた巻物が入っていました。
 それらの正体も価値も知らずに、牧童はゆったりとした衣服のポケットに入る限りの巻物を詰め込み、後日、ベトレヘムの商人に二束三文で売ってしまいました。
 それらはのちに死海文書であることが証明されてセンセーションを巻き起こし、値段のつけられないほどの価値のあることが分かりました。牧童は自分の持ち込んだものがそれほどの宝であるとは、全く考えもしなかったのです。

 多くのキリスト者は自分の持っているものが値踏みの仕様の無い宝であることに気づいていません。もし主ご自身が今日の福音にあるような、易しい言葉で語ってくれなかったとしたら、誰もそれを信じなかったでしょう。

 「私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む。」・・・凄いことではないですか。主がともにおられるということを知る平和。

 しかも、事あるときには弁護者を遣わすと言ってくださる。パラクレートス 傍に立つもの・・・わたしが子供のころは姉がそうでした。意地を張る私の代わりにいつも姉が、「もうしませんから」と謝ってくれました。

 神が私たちのうちに住まわれる・・・と言うことは、一人一人のキリスト者のうちに秘められた、大きな力です。ほとんどのキリスト者は、その宝にすがるしかないような苦難に出会っていないため、その真価を正しく認めずにいます。

 自分が運んだ宝の真の価値を知らずにいた、あの牧童のように、キリスト者でさえ、その大多数は神のことを、はるか天上の神殿で玉座についている存在と考えており、自分の内にある素晴らしい宝に気づいていないのです。

 しかし、わたしたちの主は、今日の福音で、本当に主を愛し、福音を生きようと努力する人のために、無限の神、聖なる三位一体の父と子と聖霊は、私たちのうちに住まいを構えるとおっしゃっているのです。
 この神秘を悟らせてくださるように祈りましょう。

 そしてまた、世界の平和のためにも祈りましょう。軍事力を背景にしたかりそめの平和ではなく、主が与えてくださる平和こそが誠の平和であることを覚えて。

司祭の言葉 5/15

復活節第5主日C年

 結婚式の時、新郎新婦の経歴と出会いが紹介されたのち、それぞれの両親に花束が手渡される場面があります。両親にとっては、長年の苦労が報われる時、栄光の時です。
 オリンピックの競技などでメダルを取った選手が、両親の首にこのメダルをかけてあげたいと感謝の言葉を口にする場面、両親にとって誇らしい栄光の時でしょう。
 今月30日の月曜日、浦和教区カテドラル教会で叙階式があり安神父が誕生します。コロナ下で式は司祭助祭のみで行われ、信徒の参加は認められず、ご両親もリモートでの参加と聞いていますが、それでもご両親にとっては大きな喜び、栄光の時であると思います。

今日のみ言葉はヨハネ13章の31節から35節、イエス様と神様の栄光について語られています。

 13章の冒頭では「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。」と弟子たちの足を洗ったことが語られます。聖木曜日の洗足式の原型となる出来事です。

 そして今日の朗読は、ユダが出てゆくところから始まっています。
ユダが出てゆくとイエス様は「今や人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」と語り始めます。何故でしょうか?

 ユダが裏切りを実行するために出て行ったことによって、ご受難の幕が開いたのです。
 イエス様にとっての栄光は、十字架です。父の聖心への完全な従順を示すことによって、全人類の罪を購い、アダムの不従順によって失われた全宇宙の調和を取り戻し、神に栄光を帰したのです。
 イエス様の十字架は、私たちを愛しぬいて・・・愛しぬいて受ける事を決意したものでした。
 その愛を、新しい掟として、イエス様の後に続くものにも求めます。
 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ヨハネ13章34節

 この新しい掟が、私たちのための唯一の掟なのです。
 イエス様が愛したように、私たちも互いに愛し合うことを望みながら、イエス様は父なる神に栄光を帰するために、十字架に向かいました。
 わたしたちもまたこの掟を大切にすることによってイエス様に栄光を帰することができ、その結果としてイエス様は私たちに栄光をくださるのです。

 イエス様によって購われた世界ですが、人々はいまだに争いを重ね、許すことを知りません。せめて私たちキリスト者は、イエス様が愛したように、愛することを努力するものでありたいと思います。

 今年の待降節から始まる新しい典礼の、復活節の祝福の言葉を送ります。

ひとり子の復活によって皆さんをあがない
ご自分の子としてくださった神が
皆さんを祝福し、喜びで満たしてくださいますように。 アーメン。

司祭の言葉 5/8

復活節第4主日(ヨハネ10章27-30節)

 今日は良き牧者の主日で、世界召命祈願の日となっています。良い牧者キリストの後に続く若者たちの召命のために祈りましょう。

わたしの羊は私の声を聞き分ける・・・
 この「聞く」という言葉は、ヨハネ10章に何度も出てくる言葉です。
 3節「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。
 8節「わたしより前に来た者は皆、盗人(ぬすびと)であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった」。
 16節「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける」。

 8節のように、「聞く」には「聞き従う」の意味もあります。
思えば、私は母の言いつけに、聞き従わない子どもでした。
家の仕事はちっとも手伝わず、・・・特に水くみが私の日課でした・・・
学校から帰ると家には入らず、「ただいま」と言って縁側に鞄を放り出し、
日が暮れるまで遊んでいました。ですから、
しょっちゅう和裁の物差しで叩かれました。

「聞く」時には・・耳を傾け、それを実行に移す・・・そのことが求められます。
ミサの中では、毎回使徒書が読まれますが、
わたしたちはそれをどのように聞いているでしょうか。

たとえば「コリントの教会への手紙」が朗読されるときには、
私たち「春日部教会への手紙」として・・・
宛先を替えて聞かなければならないのです。

 もう一つの、今日の注意すべき言葉は、「知る」と言う言葉です。
ユダヤの民は「知る」と言う言葉を、知識としてではなく、体験として知る・・と言う意味で受け取っていました。

 これも日本語で「○○さんを知っていますか」というときの「知る」に似ています。その人のことを良く分かっていますか、その人と関わりがありますか・・という意味になりますから。

私は、一人のお酒の好きな人、Aさんを知っています。
彼は、はじめは相手の顔を見て、「おい、俺の話を本当にわかっているのか」・・等と
おとなしく話していますが、酔うに従って少しずつ、手が上がってきます。
彼が相手に指をさして物を言うときは、かなりに酩酊しているときです。
そしてその後は、必ずと言っていいほど、トイレに行って便器を抱えて、
そこで眠ってしまいます。いいお酒です。

 相手を解ると言うことは、長いつきあいの中で、普段は見せないような相手の性格や癖も知っていると言うことです。

聖書の中での「知る」も、いつも「かかわりをとおして知ること」を意味しています。

 今でもそこに在るのだろうと思うのですが、土浦市の真鍋小学校の校庭の真ん中には5本の桜が植えてありました。とてもきれいな見事な桜でした。明治40年に植えられた桜ですので、もう115年になります。校庭の隅に植えられた桜でしたが、子どもが増えてくると学校は拡張され、校庭も広げられ隅にあったサクラは校庭の真ん中に来ました。
ここに30年以上前から続く伝統があるそうです。6年生が新入生を負ぶってサクラの周りを回ると言うことです。

 上級生の背中で見た桜は忘れられないと言うことでした。

 「わたしは彼らを知っており、彼らは私に従う」とイエス様はおっしゃいます。

イエス様がわたしたちを知っていてくださるということは、何よりも大きな恵みです。
そのことに感謝しながら、今日のみ言葉を黙想いたしましょう。

司祭の言葉 4/24

復活節第2主日

 復活節の第2主日はいつもヨハネによる福音の20章19節から31節が朗読されます。
 今日は神の慈しみの主日と副題がついていることにお気づきだと思います。今日の福音には神の慈しみが溢れています。
 イエス様が捕まった時、「イエスと一緒にエルサレムに行って死のう」といったトマスも、「あなたのためなら命も捨てます」といったペトロも、散り散りに逃げ去ってしまいました。一人大祭司の屋敷に入ったペトロも、あなたも弟子のひとりですねと言われると、3度も否定してしまいました。弟子たちは恐怖におびえ、1つの家に閉じこもり、中から鍵をかけて災いが過ぎ去るのを待っていたのです。

 わたしは刑事物が好きです。終わってしまって残念なのですが、特に「相棒」がすきです。非常に知的で、クールでおもしろい。
 いろいろな刑事物でよくあるパターンが、逃亡していた犯人が時効間近で捕まってしまうと言うものです。そんなときいつもあと数日であればどこかの山の中か、地下にでも潜っておればいいのに・・・と思います。アルセーヌルパンなら決して捕まらないのにとか、犯人の方に肩入れしてしまいます。どうして時効間近でのこのこ出てくるのか、あるいはあまりにも長く潜んでいると、我慢が出来なくなってしまうのでしょうか。
 時々夢を見ることがあります。何が理由か解りませんが、ひたすら逃げている自分がいます。身を隠し息を潜めている自分が・・・。
 刑事物のテレビの見過ぎでしょうか。でも、サスペンスは見ないのです。
 小生の心臓はノミの心臓です。はらはらどきどきは、心臓に悪いから・・・。同じ理由でホームドラマも見れませんし、サッカーなどの試合や、フィギアスケートも見れないのです。

 恐怖で固まっている弟子たち、そこへイエス様が来て、弟子たちの集いの「真ん中に」立ち「あなたがたに平和」と言います。どんなにか嬉しかったことでしょう。 弟子たちが求めていたのは自分たちの身の安全でしたが、いくら鍵をかけていても心は恐怖でいっぱいだったのです。本当の平和はイエス様がともにいてくださるところから来ます。

 イエス様を見捨てて逃げてしまった弟子たちは、弟子だという資格はありません。でも、復活したイエス様は、そのことには一言も触れず、弟子として、新たに派遣をしていきます。
「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21節)と。
 私たちなら皮肉や恨みの一言でも言いたくなるところですが、主は慈しみをもって「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。」と、かれらを、許しを宣言するために派遣なさったのです。
 次に続く「だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」という言葉は「許さなければ、その人の上に神の許しが実現しないままになるではないか」「だから許しなさい」・・・という意味でしょう。許すこと・・それがイエス様の弟子としての務めなのです。

 トマスは、最後までイエス様に従うという覚悟(ヨハネ11章16節参照)を果たせなかった自分に失望し、他の弟子たちにも失望して、弟子の集いから離れていたと思われますが、このトマスにイエス様が生きているという知らせが届きます。

 トマスにとって「主を見た」というほかの弟子の言葉は、とても信じられない言葉であったと同時に、信じれば自分の人生のすべてが変わる、という言葉でもありました。
 そして弟子たちの集いに復帰していたトマスのもとに、再び主が現れ、「あなた方に平和があるように」と挨拶なさったのです。この言葉に許しを受けたと感じたトマスは「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を告白します。

 これまでイエス様には多くの称号が使われていました。ダビデの子・メシア・人の子など、主よ、という呼びかけも福音書には出てきますが、それは、先生に近い呼びかけでした。
 ツロ、フェニキアの女も、サマリアの女もイエスを主と呼んでいますが、何れも先生という意味の域を出ていません。
 しかしここで、トマスが「わたしの主、わたしの神よ」と信仰告白したことによって、「主」という言葉に特別な意味が加わったと言えます。神・ヤーウエと同義の言葉としての「主」です。そして「イエス・キリストは主である」という初代教会の信仰告白は、イエス・キリストはヤーウエ、そのお方である・・という信仰告白の意味を持つのです。

 イエス・キリストは主である…という同じ信仰を告白するウクライナとロシアの人々の上に一日も早い平和が訪れるように祈りましょう。

司祭の言葉 4/17

主の復活

 アレルヤ 主の復活、おめでとうございます。
 復活徹夜祭の典礼は、旧約聖書から7つの朗読がなされ次いで使徒書と福音が朗読されます。
  1.万物と人間の創造、
  2.アブラハムへの試練と祝福の基となると言う約束、
  3.エジプト脱出にあたり紅海を渡って救い出された事、
  4.イスラエルを贖い平和の契約についてのイザヤの預言、
  5.私のもとに来るが良いと招きを語るイザヤの預言、
  6.主の輝きに向かって歩めと勧めるバルクの預言
  7.新しい心と新しい霊を約束するエゼキエルの預言・・と旧約の救いの歴史をたどり、続く使徒書は、私たちが洗礼を受けたのはキリストの死と復活の結ばれるためであることを述べています。
 これらの朗読によって、十分に黙想ができるようになっています。

 徹夜祭の朗読は、ルカによる福音のヨハネによる福音の24章1節から12節。お聞きになって、どんなことをお感じになられましたか?

 わたしは安心しました。婦人たちの話を聞いて使徒たちは、「この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」とありますから。
 何度もイエス様自身から聞かされていたにもかかわらず・・・です。 わたしはきいていませんからね。一度も。だから、私にも信じるのは難しい。  
しかしペトロは殉教したのです。主の復活を証言しながら・・・。

 ペトロは十字架に向かおうとするイエス様を止めようとしてサタン退けと言われた男です。
 イエス様が捕まった夜には、あなたもあの男と一緒でしたねと言われて三回も知らないと、しかもそれを誓って言った男ですよ。
でもそのペトロが復活のイエスと出会って変わりました。
十字架を恐れなくなったのです。逆さ十字架にかかったほどに・・・。
 だから信じてみようかなという気になります。

 復活はなかなか信じがたい。 だから、ミサの度に「信仰の神秘」と言い、
私たちの信仰は、何でしたか?   そう質問して思い出させ、確認しているのです。

イエス様のお言葉です。
「二人または三人が、私の名によって集まるところにはわたしもいる」マタイ18の18 
「私は世の終わりまで、いつもあなた方とともにいる」マタイ28の20
「私の兄弟であるこの最も小さいものの一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」マタイ25の40

 復活の主はいつも私たちとともにいます。私たちの周りの小さくされている人々の中に。この方々を意識すると、復活のイエス様に会えるのです。

 もし自分が、まだ復活のイエス様に会えていないと思うなら・・・彼らの中に探してみましょう。
 マザーテレサも、ブラザーロジェも、ジャンバニエも、ありの町のマリアも、そして石川神父も、小さくされている人たちの中にイエス様を感じています。彼らに教えられることが沢山あります。
 きっと素晴らしい模範に出会えると思います。

 未だにウクライナの戦争は終結の兆しがなく、多くの難民を生んでいます。
 復活祭も祝えない彼らのために、主の憐れみを祈りましょう。

皆様の上に主の豊かな祝福がありますように、アレルヤ

司祭の言葉 4/10

受難の主日 (ルカ23章1-49節)

 皆さんおはようございます。ウクライナの戦争はまだ先が見えません。一日も早い終結を願いながら今日のミサを捧げましょう。

 式は、始めにイエス様のエルサレム入場が記念され、ミサの中ではピラトによる裁判の場面とイエス様が十字架にかけられる場面が朗読されます。
 今日黙想すべき最大のポイントは、イエス様に対する群衆の態度です。それは私たちもまた同じであるとの、深い反省を呼び起こします。イエス様を歓呼のうちに迎えた群衆は、その舌の根も乾かぬうちに、イエス様を十字架につけよと叫んでいるのです。エルサレム入場について入祭唱は、過ぎ越し祭の六日前と言っています。聖土曜日が過ぎ越し祭に当たりますから、万歳万歳と言ってイエス様を迎えた5日後には十字架に着けよと叫んでいる事になります。 

 受難の朗読前半では「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」というピラトの宣言が、繰り返されています。4節、14-15節、22節。しかしかれは群衆を恐れ、祭司長の言うがままになってしまうのです。

 十字架の道行きの中に印象深く取り上げられていますが、イエス様のために泣く女性たちの場面があります。 イエス様はご自分のために泣いているエルサレムの女性たちを逆に慰め、これから起こる大きな災いを予告します。 その災いは、子どもがいれば、自分の苦しみだけでなく、自分の子どもについても苦しまなければならないから、子どもがいないほうがましだ、と思わせるほどのものです。それはエルサレム滅亡の時の様子を語っているものと思われますが、今回のロシアによるウクライナ侵攻とも重なり、今の時代にもまさに起こっている問題として、深い憂慮を覚えます。


 次にルカだけが伝える祈りがあります。
 「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです』」
 この箇所は、新共同訳聖書ではでは〔 〕の中に入れられています。その理由は重要な写本に欠落しているからです。
 聖書学者たちはその理由を、写本を書き写した誰かが、「イエスを十字架につけた人々の罪だけは絶対にゆるされない」と考えて省いてしまったため・・と考えています。十字架の上にあってなお、父なる神に許しを願うイエス様がそこにいるのです。

 ルカだけが伝えるもう一つの話は、一緒に十字架につけられた犯罪人のうち、一人が回心してイエス様に救いを願う話・・・です。
 「イエスよ、あなたの御国においでになるときには私を思い出してください」
 この言葉はこの人が、イエス様を神が油注がれた王として認めていることを示しています。
 イエス様はこれにこたえ、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束します。
 イエス様が救いを宣言した唯一の人です。

 ルカが伝えるイエス様の最後の言葉、「父よ、わたしの霊を御手(みて)にゆだねます」
 これもルカ福音書だけが伝える言葉です。

 ルカは、これらのエピソードを記述しながら、イエス様が最後の最後まで人々を愛し続け、神に信頼し続けた姿を伝えようとしています。

 無差別の殺人事件などで、被害者が加害者の死刑を願う厳罰を望む姿がよく放映されます。今回のロシアによるウクライナ侵攻も不条理としか言いようがありません。そのために430万人もの避難民が生み出されているのです。無実の罪で死刑になる、そのような不条理なことがあれば、ただ怒りや憎しみ・恨みに支配されてしまい、絶望して、神を呪い、人を呪うのが普通かもしれません。
 しかし、十字架のイエス様はそうではなかったのです。

 私たちは戦争反対の意思表示をするのをためらっているかも知れません。でも、イエス様はあるとき、私に反対しないものは味方であると言われました。これを今回の戦争に置き換えるなら、ロシアの侵攻に反対しないものはロシアの味方であるということができます。何らかの形で反対の意思表示をしてはいかがでしょうか。
 イエス様を訴える事に反対した議員方もおられたと聖書は述べています。でもその声は小さく、かき消されてしまったのです。

司祭の言葉 4/3

四旬節第5主日

 今日の福音の背景にあるのは、ユダヤ人たちのイエスに対する激しい妬みです。下役たちを逮捕に向かわせましたが、彼らもイエスについて、「いままで、あの人のように話した人はいません」といって、手ぶらで戻ってきました。
 何とかしてイエスをおとしいれ、捕まえようとする彼らは、考えに考えた挙句、このシナリオを作ったのです。
 イエスの前に連れてこられた女は、そのために利用されたのです。姦通の現場を押さえられた女・・という設定のために、女を見張り、ようやくその現場を押さえたというわけです。そして、とうとうイエスを窮地に陥れる時が来たと、意気揚々とイエスの前に女を連れだしたのでしょう。
 石殺しを命じれば、死刑の権限はローマにあるとする、ローマの支配権に反することになりますし、民衆もイエスの答えに失望するでしょう。許すと言えば律法に反することになります。

 今回のロシアによるウクライナ侵攻についても、プーチンはウクライナが化学兵器を作りロシアを攻撃しようとしている、核兵器を作りロシアを攻撃しようとしている・・・そのようなシナリオを作り、フェイクニュースを流し、ロシア侵攻の口実としたとの事

 「罪を犯したことの無いものが、まずこの女に石を投げなさい。」今日の福音は姦通の女に石を投げつけようとする、自らを正しいと信じているものに向かってのイエスの言葉でした。自分は律法を守っていると信じるパリサイ人は、律法を守れない人々に厳しい態度で望みました。
 教会内でも周りの人にきびしい人がいるでしょう。善意がぶつかり合い、軋轢を生みます。聖書は初代の教会内部にも、異邦人にきびしい律法を守らせようとする人達が居て、論争があったことを伝えています。
 わたしたちは皆罪人です。しかし、いつのまにか自分が全く正しいものかのように行動し、人を裁きます。

 そのような、大人たちの偽善に苦悩する若者たちがいます
 時々若者は自分の望むこととは正反対のことをして自分自身を痛めつけることがあります。自分の存在を確かめるために、自己主張のために、自分を本当に愛しているのかどうか・・・ 親の愛情を確かめるために。
 大人たちはいつも試されていると考えるべきです。

 かつて病院に見舞った一人の女性は、スタッフを試そうとして2階から飛び降りて圧迫骨折をしました。下半身麻痺 もう足が動かないと言われていましたが、リハビリで左足が動くようになり、立つ訓練も始めていました。 

 彼女もいつもみんなに振り向いてほしくて 彼女は人が見ているときに二階から飛び降りました。

 愛を求めながら、愛に反する行為に走った少女も居ます。両親はカトリック信者でした。援助交際という名前は、オブラートのようです。それが売春行為であることを感じさせません。中学2年生でした。

 なんのために?・・・理由はわかっています。母親に自分の方をむいて欲しくてでした。お金を貯めて一緒に生活したかったからでした。 

 家庭には一人一人の個性を生かす場所になって欲しいと思います。容積が同じでも、丸い器に四角いものを四角い器に丸いものを入れようと無理に押し込もうとするなら、器は壊れてしまいます。無理をしすぎています。
 大人の考えを押しつけ、望まぬ方に無理矢理曲げようとする・・のではなく、一人一人の個性が花開くように、子供たちの可能性を見つけ、それを引き出してゆくのが教育なのです。
 大人たちは指図し、道をつけすぎます。答えを先に出してしまう。
 施設職員に大切なことはあまり、自分がやりすぎないことです。
 同じことは家庭でも言えます。

御言葉に戻りましょう。

「罪を犯したことの無いものが、まずこの女に石を投げなさい。」今日の福音は姦通の女に石を投げつけようとする、自らを正しいと信じているものに向かってのイエスの言葉でした。
 姦通の女を捕まえた人々が、年長者から始まって、一人また一人と立ち去った後、イエスと女だけが残ります。イエスは罪を犯したことの無い者ですから、女に石を投げつけることが出来る唯一の方です。

 しかし、イエスは許しの言葉を投げかけ、わたしもあなたを罪に定めない。これからは、もう罪をおかしてはならない・・といたわり、励まします。
 自分の弱さを認め、神の義にふれることを望む者を神は許します。みずから造った者を滅ぼすことは神の本意ではなく、神の栄誉を褒め讃えることが出来るようにと、神との生きた関わりに招き入れることこそ神の望みだからです。

司祭の言葉 3/27

四旬節第4主日

 おはようございます。きょうはバラの主日です。司祭はバラ色の祭服をつけます。
 四旬節の犠牲や厳しさの中にも、心はいつも神を思って、喜んでいなければならないのです。
 新型コロナウイルスのパンデミックは私たちの日常を変えました。仕事を失った方も多くおられます。ローンが払えなくなり、家を失い、路上生活者となった方もおられます。ウクライナでの戦争は一か月も続き、たくさんの犠牲者が出ました。避難民は350万人を超えています。現実は厳しく、挫折しそうな時もあります。しかし、神様がともにおられる限り、わたしたちは失望することがありません。
 神がいつも共におられることを意識し、今日は祭壇に花を飾ります。

 今日の福音は放蕩息子の譬えと言われています。でも見て下さい、放蕩息子が帰ってきたところで話が終わるのではありません。お兄さんの話が続いています。
ともに考えてみたいのですが、弟の罪はどこにあるのでしょうか、放蕩三昧の生活だった事だと思いますか? 
 モーセの十戒という、犯してはならない戒律を基準に据えて、それに反することが罪であると考えるならば、そのとおりだといえます。そして、わたしたちは、このお兄さんを正しい人だと判断すると思います。でも、その判断は正しいのでしょうか。

 まず弟を考えてみましょう。
 彼は、遠い国で、天に対してもお父さんに対しても罪を犯しました・・・と、天とお父さんとの関係を破ったことを告白して、息子と呼ばれるのにふさわしくないと考えています。

 しかし、お兄さんはどうでしょうか。
 お父さんの言うことを守っていましたが、我慢して守っていただけなのです。
お父さんとの間の本当の交わりは欠けていた・・・というべきなのです。なぜでしょうか、兄の言葉がそれを明らかにしています。
「何年もあなたに仕えて一度も言いつけに背いたことはなかった」と兄は言いました。
「仕える」とは「奴隷として働く」と言うことです。兄は父の家での生活を奴隷的な屈辱と感じていたのです。従わされていた・・・と。

 ちょっと脇道にそれますが、
 私と一緒に住んでかれこれ12年ほどになる一人の青年が居ます。いまだに就職も難しく生活も落ち着きません。本人の希望は自立なのですが、まだ先が見えません。
何故でしょうか。彼の中には「お父さんお母さんにせウイホームに入れられた」という思いがあり、セウイで仕事をさせられていると感じているので、何をするにも身が入らないからです。
 家族との信頼関係が取り戻せれば、彼も変わってゆくのだろうと思います。

 聖書がわたしたちに教える罪は、神様との関係を破ることです。
弟はそのことに気づいて戻ってきましたが、兄はまだ気づいていません。
 そして、正直ものが馬鹿を見るのは許せないといって、父を責めます。弟は父の財産を損じたのであって、兄に損害を与えたのではありません。兄は弟の罪を口実として、自分に愛の無いことを正当化しようとしていると言えます。ここに正しいと思っている人が陥る偽善や罪があります。

 父を責める兄に対して、「あなたはいつも私と一緒にいるし、また私のものは全部あなたのものだ」という父の言葉は、何ものにもまさって、わたしたちとともにおられることを喜びとされる、神様の心をあらわしています。

 そして今日の福音は、わたしたちにもまた、兄弟と共に生きることを喜びとするように・・・と促しているのです。
 もしかしたら、私たちは義務感で教会に来て、心地よい説教を期待しているのではないでしょうか。 
 私たちはホミリアの助けを借りて、イエスの言葉を黙想しに来ているのです。

 父の慈しみの御顔であるイエスの生き方を見ながら、私たちもまた慈しみのうちに生きたい。イエスの福音を水で薄めずに、イエスの教えそのままに生活したいものです。

 ウクライナに対する支援の輪が広がっています。ともに祈りつつ、私たちにもできることはないか、平和を作り出すために何ができるかを考えてみましょう。
  主の平和がいつも皆さんとともに。

司祭の言葉 3/20

四旬節第3主日 (ルカ13章1‐9節)

 ロシアのウクライナへの侵略はいまだ続いています。もう三週間になり避難を強いられた人々は300万人を超えています。国際社会は、まだこの戦争を終わらせることができないでいます。 幼稚園の園児も、このニュースに心を痛めています。
 昔も今も権力者が力づくで人々をしたがわせようとしますが、人々は自由を求めて戦うことをやめません。話し合いによる解決が待たれます。

 「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」とはどのような事件なのでしょうか。残念ながら資料が乏しく正確にはわからないのだそうです。
 でも、バークレーと言う神学者は事件について次のように書いています。

 「ちょうどこの頃、ピラトは深刻な問題に巻き込まれていた。エルサレムにはもっと水の供給を増大する必要があると彼には思われた。確かにそれは的確な判断だった。彼は水道の建設を提唱し、その費用を賄うために、神殿の金を用いることを要求した。それは称賛されるべき企てで、そのような支出は極めて正当なものであった。
 ところが、そのようなことに神殿の金を使うという考えがそもそも間違っているとしてユダヤ人たちは武装ほう起した。反徒が集合するとピラトは兵士たちに、密かに、そのなかに潜入するように指令した。兵士たちは戦衣の上に外套をかぶって変装していた。彼らは剣ではなく棒を持つように指令されていた。合図により反徒にとびかかり、彼らを逃散させるという手はずになっていた。だが実際になってみると、兵士たちは反徒に対して指令よりもはるかにひどい暴虐を加えたので、相当数の人がそこで殺された。おそらくそこにはガリラヤ人も含まれていたのであろう。」

 シロアムの塔の場合は全く偶然の、不慮の事故と思われますが、これについてもバークレーは、「この説の言外には、この人々がピラトの忌まわしい水道工事中に災難にあった‥ということが示唆されているように思われる」と書いています。

 古代エルサレムには町に水を供給するための地下水道があり、その出口にシロアムの池がありました。(ヨハネ9章7節) その塔が倒れて大勢の人が死んだという大事故があったようです。 忌まわしい工事に手を貸したから罰を受けたというのでしょうか。

 当時は「人の不幸はその人の罪の結果だ」という考えがありました。事件や事故の被害者を見て、「あの人たちが何か罪を犯していたからだ」と決めつけたのです。

 イエス様は、そういう考えを否定します。
 「ほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」
それは、悲惨な出来事を自分たちへの呼びかけ、警告として受け取るように、ということです。
 さまざまな出来事はわたしたちの回心のチャンスなのです。
3.11 東日本大震災から丸11年が経ちました。
この間わたしたちは何をしてきたでしょうか。

災害を最小限の被害に食い止めるための工夫
 被災地の支援 被災者の受け入れ 被災地の人たちの作ったものをできるだけ買ってあげること いろいろなさったと思いますが、・・・今でもその支援は続いているのでしょうか。

 ウクライナ侵攻は、権力者による全くの人災ですから同列に置くことはできませんが、それでも、災難にあっている彼らのために何かしていますか?と、問われていると思います。
 そして6節からは実のならないいちじくの木のたとえ話です。
 このたとえ話の「主人」を「父である神」、「園丁」を「イエス様」と考えるなら、イエス様のとりなしに甘えて、いつまでも実を結ばない私たちを戒めていると考えるべきではないでしょうか。

 第1朗読では、神様は「わたしはあるというものだ」としめされています。神の名ヤーウエはこの「ある」という意味の込められた名前であるといわれています。

 そこには二つの意味があります。神さまは何者にもよらない、存在そのものだという意味と、いつもわたしたちと共にあるといういみです。
 そしてわたしたちと共にあることを示すために、神の第二のペルソナはマリアのうちに宿り、この世においでになりました。  主イエス様を遣わされたのです。

 しかしそのことに甘えて回心を遅らせてはいけないのです。

 今日のたとえ話のポイントは、「来年まで待つ」という言葉です。

 神は忍耐してくださるけれども、今が回心の最後のチャンスだと考えなければならない・・ということが強調されています。