司祭の言葉 12/13

待降節第3主日B年(2020/12/13)

喜びの主日

 今日は「喜びの主日」です。今日の入祭唱にガウデーテGaudete in Domino semper:主にあっていつも喜べ。重ねて言う喜べ。主は近づいておられる(フィリピ4:4-6)とあるからです。

 第一朗読のイザヤの預言も「私の魂は私の神にあって喜び躍る」とかたり、答唱詩編はマリアの賛歌「私の心は神の救いに喜び躍る」とうたい、第二朗読はパウロのテサロニケの教会への言葉、「いつもよろこんでいなさい」という言葉を取り上げています。
 教会で降誕日が統一してこの時期に祝われるようになったのは4世紀も半ばのことのようですが、この祝祭への準備期間として、復活祭の前に設けられている「40日」の半分の期間を宛てるようになりました。そして、第三主日に「ばら色」の蝋燭が灯されるのも、受難節の典礼から借りたものです。
 待降節の典礼は、4週の前半を終末の「王なるキリスト」の来臨を待ち望む主日、また後半の2週を「預言の成就」を待ち望む主日となっていて、前半の二週では預言者の声に従って神に立ち返るよう呼びかけ、後半の二週では、預言の成就にたいする期待が述べられてゆきます。

 今日の福音は、ヨハネの証が述べられていますが、洗礼者ヨハネがその到来を予告した救い主が、すぐ近くに来ておられる、という喜びの雰囲気の中でこの主日は祝われるのです。
 20節の「メシア」はヘブライ語ですが、ギリシア語では「クリストス=キリスト」です。どちらも神から「油を注がれた者」「王」「救い主」を意味します。メシアを待ち望んでいた人々に対して、ヨハネは「わたしよりも優れた方」が来ると予告しました。「履物のひもを解く」のはしもべの仕事で、「わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」 自分は、光について証しするために来たもの、荒れ野で叫ぶ声だといいます。
荒れ野は人のいないところです。ヨハネはひとのすくないところで叫んでいたのですが、その声を聴いて多くの人が集まってきたのです。ヨハネの言葉の中に心に響くものがあったため、そこでは真実が語られていたからでしょうか。
 「証しする」という言葉ですが、ある事件の証人とはその出来事を確かに見たり経験したりした人を意味します。自分が「見たこと、経験したことを語る」のが「証言する」ということなのです。洗礼者ヨハネも神から「後から来られる方」を示されたからこそ、その方について証言したのでしょう。

 私たちにとっての証は何でしょうか。私たちが経験した事とは何でしょうか。
 使徒たちが証したものは、キリストの死と復活でした。私たちが受け継ぐ証もまさにここにあると思います。そこに人がいなくても、荒野であっても、見たこと経験したことを、喜びをもって証しすることが求められているのです。いや、証ししないではいられないというべきでしょう。ミサにあずかるということは、最後の晩餐の出来事を体験しているということ、見聞きしているということ、神の恵みの実体験なのですから。

司祭の言葉 12/6

待降節第2主日B年 2020/12/6

回心の呼びかけ

 待降節の第2主日は、メシアの到来に備えて準備しなさいと言う、バプテスマのヨハネの言葉が朗読されています。
 メシアの来る裁きの時は近い、だから、悔い改めてバプテスマを受けなさい。頭まで水に浸かり回心の情を表し、生き方を改めなさい、そう呼びかけました。
 並行カ所のマタイとルカでは、「その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言った後で、「そして、手に箕をもって脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて蔵に入れ、殻を消えることない火で焼き払われる」と言っていますから、洗礼者ヨハネの思っていた洗礼とは、火による神の裁きでした。

 9月になるとセウイのお隣の作業小屋がにぎやかになります。お米を乾燥させ脱穀する音がしばらくの間続きます。小屋から長い太い筒が外に出され、そこから、脱穀されたもみ殻が吐き出されて大きな山を作ります。
 昔は箕と言う道具で脱穀されたコメを放り上げると、風で軽いもみ殻が飛ばされ、重いコメは箕の中に残りますので、これはカメの中に収められます。脇の方に飛ばされたもみ殻はそこに山を作りますが、その山にはあとで火がつけられ、焼かれて炭状になります。そして畑にまかれるのです。車で近くを通りますと車の中までその煙が入ってきて、小生はそこに秋の訪れを感じます。
 洗礼者ヨハネは裁き主としてのメシアの到来を予想していましたが、実際においでになった方は、ご自分を生贄として、人々の罪の赦しを願う仲介者としてのメシアでした。そして、聖霊による洗礼の意味が明らかになったのは、ペンテコステの時でした。それは、私たちが受けた洗礼そのものです。罪を許し、神の子とし、神の命に与らせるものです。

 待降節の今、私たちに求められる悔い改めとは、何でしょうか。それは回心、自己中心の生活から、イエス中心の生活に向きを変えることです。それは、イエスの目で周りの人たちに目を向ける事、イエスが愛したように互いに愛し合うことではないでしょうか。
 例えば、11月30日のさいたま新聞の記事ですが、世界の飢餓状態にある人たちに支援が届きにくくなっているそうです。コロナのために人の行き来や物質の行き来が制限され、必要な支援が届かないため、年末までに一日12000人の餓死者が出る恐れがあるそうです。一日は1440分ですから、12000を1440で割ると、8.3.今こうして話をしている間にも、一分間に8人ずつが死んでゆく計算になります。
 一昨日のニュースでは、女性の雇用危機が深刻だと述べていました。看護師やパート労働者、業務委託の方が仕事を失い、休業手当も受けられないそうです。それは休業者の25%に及び、休業者の38.5%の女性は再就職ができていないといいます。男性の24%に比べると、女性の方が苦しいところに置かれています。この方がシングルマザーでしたら、子供たちも飢えることになります。

 先日教会にポスターが届いていましたが、さいたま教区では毎年待降節の金曜日、イエスを食卓に招く、イエスの食卓献金が行われています。ご存知だったでしょうか。
 コロナ下の世界では厳しい現実があります。イエスならどうするのでしょうか、祈り且つ行動することが求められているのではないでしょうか。 私がアフリカで生まれていたなら、支援を受ける立場で、何もできないでしょう。でも日本に生まれています。イエスが私に何を求めているか、それを考えてみたいと思います。

司祭の言葉 11/29

待降節第一主日マルコ13の33から37 (2020/11/29)

 目を覚ましていなさい。車を運転していると目をしっかり開けていたつもりがハッとすることがあります。昨日も加須に行く途中そうでした。あわてて珉珉打破を飲みました。眠気覚ましのドリンクです。一本300円ですが、50本の大量買いで222円で手に入れました。目を覚ましているつもりでも眠ってしまうことは多々あります。

 今年はコロナに対する警戒が2月ごろから絶え間なく続いています。でも気を許すとすぐさま感染者が増えてしまいます。営業時間の短縮、ゴーツ トラベル、ゴーツ イートの見直しが図られることになりました。
 先日ある通夜では、歌を3曲、答唱詩編が3回、しかも3番4番まで皆さんが歌い、その中にはマスクを外して歌う人も。司教さんの注意も忘れてしまうのでしょうね。 葬儀では奏楽にして、歌わないようにお願いしました。ずーっと目覚めていると言うのは本当に難しいです。
 今パンデミックを引き起こしている新型コロナウイルス出現は、クローン人間を作り神になったかのように錯覚している人類への警告にも思えます。この目に見えないウイルスに、全人類がほんろうされています。ここに、時のしるしを見るべきだろうと思います。
 いかなる時にも、イエスと面と向かい合って顔を合わせられるように、今なすべきことを確認し、備えをするということが大切であると思います。

ところで、何故キリスト誕生を待ち望む待降節の最初の主日に、終末に備える朗読があるのでしょうか。
 聖書学者ヨアヒム・エレミアスは、今日のカ所も本来は「天の王国の鍵を持っている」と主張する人々に対して語られた、と言うのがもっともありうる話だと言います。律法学者たちに対して、最後の決定的な時間を迎えた時、眠っているのを見られないように注意しなさい・・と。
 ユダヤ人たちは長い間、メシアの到来を待ち望んでいました。でも彼らは先駆者として送られたバプテスマのヨハネをうけいれることもできませんでしたし、イエスをも受け入れることが出来ませんでした。目が有っても見えず、耳があっても聞こえなかったのです。
 教会は待降節の第一主日にこの朗読を置いて、ユダヤ人の轍を踏まないようにと、注意を促しているのです。

司祭の言葉 11/22

王であるキリスト マタイ25章31-46節 2020/11/22

有罪の理由

 今日の王の裁きの譬えは、5人の賢い乙女と5人の愚かな乙女の譬え、タラントンの譬えに続く話となっています。用意の無かった油とは何か、土に埋めたタラントンとは何か、今日の箇所がその説明になっていると神学者たちは考えています。

 昨日の新型コロナウイルスの新規感染者は東京都で543名となりこれまでで最大となりました。全国で見ますと19日現在で感染者は122966名となり死者は1922名。戦後、これほど毎日死と向かい合うことになった年なかったと思います。人類はほとんどの病気や災害に対して克服できたと有頂天になっていました。今回のパンデミックはそのような人類への大きな試練です。
 今日の福音は私たちが神の前に立つときに、何をもって裁かれるかを示しています。
疑問の余地はありません。隣人愛です。 「この最も小さい者」とは、実際にわたしたちの目の前にいて、助けを必要としているすべての人を指しています。

 油の用意の無かった乙女たちも、タラントンを土に埋めた僕も同じです。善い行いを怠った乙女たち、善い行いを土中に埋もれさせていた僕なのです。 しかも、イエスはそれ以上のことを言います。「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と。そのため「キリスト信者が苦しむ人を助けるのは、相手のためではなく、キリストのためなの? 結局自分が最後の裁きで有利になるためなの?それが本当の愛と言えるの?」・・と疑問を呈する人がいます。決して、そうではないと思います。
 イエスのためではなく、そこにいるその人を大切にして注がれる愛、それだけで良いのです。裁きではキリスト者であるかどうかも問われていませんし、神のためにしたかどうかも問われてはいないのです。
 正しいものは、どのような助けを施したかについて意識した事もなく、貧しい人や疲れ果てた人を介して、隠れたメシアがその人に出会っているという考えもないのです。

 「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」とイエスがおっしゃったのはなぜでしょうか。
 イエスご自身が、ゴルゴタの丘への歩みの中で、彼らと同じになったのです。エルサレムの町に入ったとき、イエスは「飢え」ていましたし(マルコ11章12節参照)、十字架の上では渇くと呻き(ヨハネ19章28節)。イエスの公生活は旅の連続でした。逮捕されたイエスは一晩、大祭司の屋敷の「牢」にも入っています。十字架にかけられるとき、イエスは衣を脱がされて「裸」となり、十字架の道では何度も倒れ、弱り果て、鞭うたれ、命まで奪われまたのは病気以上の苦しい出来事でした。
 イエスの十字架への歩みは、苦しむすべての人と一つになる道だったのです。だからこそ、イエスはその小さくされた人たちを「わたしの兄弟」と呼び、彼らとご自分が一つであると語られたのです。

神の目から見て何が決定的に大切なのか、旧約聖書にも記述があります。「私が喜ぶのは愛であって生贄ではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」(ホセア6の6)

司祭の言葉 11/15

年間33主日 2020.11.15

タラントンのたとえ

 かつて教区会計をしていた身としては、今日の話はいつも引っかかるんですよ。5タラントン2タラントンを預かって商売をしてそれぞれ倍に増やした話でしょう。それと比べれば、確かに銀行に預けてはいるのですが、さいたま教区の会計を預かる司祭たちも、あまり役に立たない僕だなあと思うのです。増やすこともできず、減らす一方ですから。専門外だから仕方がないといえばそうですが。
 さいたま教区の持っているお金は、せいぜい6億円ほど、10タラントンです。でも、この主人は大金持ちですよ。5タラントン(3億円)をわずかなものというのですから。この主人が神様なら、何タラントンでも、何十タラントンでも僅かなお金でしょうね。

 今日の福音は何を言いたいのでしょうか、お金儲けの話でないことは確かです。
1タラントンは6000デナリオンと説明されています。1デナリオンは労働者の一日の賃金ですから、仮に1万円としますと6000万円。それを埋めておいたことが非難されているのです。そして役に立たない僕と言われています。ルカによる福音書ではミナの例えとして、10人の僕それぞれに1ミナずつ預けられています。1ミナは100デナリオンで非難された僕は布に包んで持っていましたから、土に埋めていたマタイの僕のほうが安全に保管していたといえます。でも非難されたのはなぜでしょうか。

 まず、イエス様は誰に向かって、何を言おうとしてこのたとえを語られたのでしょうか。そこが問題です。実は、この怠惰な僕こそイスラエルの指導者、特に律法学者とパリサイ人を指しているのです。彼らは律法を授かったのですが、その細かい規則を作り、人々に重荷として背負わせ、それを守ることにきゅうきゅうとして、律法の真髄、神様への愛と隣人への愛、神の寛大さについては語りませんでした。神を独占して、祝福の基とならなかったこと、宣教に力を尽くさなかったこと、そこが非難されているのです。埋めておいたのはまさにそのような神のたまものでした。

 そしてマタイの教会はこのお話を自分たちに当てはめて考えました。イエス様のイスラエルの指導者に対しての非難は、私たちにとっても他人事ではないと。自分のこととして読まねばならないのです。そして、反省しなければならないのです。果たしてわたしは自分のタラントンをうまく活用しているだろうか・・・と。運用するのが面倒だと言って、穴を掘ってうずめてしまってはいないかと。
 わたしたちはみな神様からお預かりしているタラントン(能力)があります。
神様はその力を使って、ご自分のみ業に協力するよう招いておられるのです。

 譬えが難しいのは、持っている物まで取り上げられると言うことですが、持っている物まで取り上げられるのは、なんでしょうか? 神の国の相続人と言う特権から外されること、と考えられませんか?

 あるいは、タラントンは、愛の業を指しているとも考えられます。この後に続くすべての民族の裁きで問われているのは、自分のタラントンを生かしていますかという、まさに隣人愛の実践ですから。役に立たない僕と言われたくないでしょう?
 今日のみ言葉をそれぞれ、自分に向けられた神様の声として考えてみたいと思います。

司祭の言葉 11/8

年間第32主日A年 2020/11/08

5人の乙女の愚かさとは

今日のたとえ話を聞いてみなさんはどのような決心あるいは反省をしますか?
今日のたとえ話は、小生には耳が痛い。先日花畑と呼んでいる友だちの家の荒れ果てた農園のパイプハウス一棟と、そこに立つ立派すぎるトイレを解体しました。農作業のできるメンバーがいなくなり、荒れ果ててしまったので、きれいに元に戻し返却するためです。このハウスには災害用の備蓄として薪を保管しておいたのですが、今はその備えもなくなりました。セウイホームの駐車場に災害用備蓄倉庫を建てようとの話は出ているのですが、まだ具体化していません。セウイの場所が周りに貝塚や竪穴式住居跡がるような高台にあるので、ハザードマップを見ても色が塗られておらず安全な場所となっているものですから、備えがおろそかになっているのです。皆さんは大災害に備えていますか? 大いに反省しているのですが、小生は気ばかり焦り、何もできていません。

マタイ福音書は24章の神殿崩壊の預言から、終末的な様相を帯びています。
今日のたとえ話の一番大切な強調点は何処にあるのでしょうか。「目を覚ましていなさい」でしょうか、ランプの油を用意していなかったことでしょうか。
目を覚ましていなさい・・この言葉は24章の42節にもあります。人の子は思いがけない時に来る・・だから・・・と。
マルコ福音書では13章の34節で、「門番には目を覚ましているようにと言いつけておくようなものだ。だから目を覚ましていなさい。いつ家の主人が返ってくるのか(中略)わからないからである」とあります。その日その時は誰も知らない、天使たちも、子も知らないとあるのは、再臨の時です。 
また、マルコでは目を覚ましているように仕事を割り当てられたのは一人ですが、ルカでは何人もいる僕たち全員が見張りをしなければならないことになっています。(12の39)
聖書学者ヨアキム・エレミアスは、「目を覚ましていなさい」という言葉は、このたとえ話のもともとの形には入っていなかったものが、勧告的な言葉として入ってきたのだと考えています。

話の本筋の強調点は、「目を覚ましていなさいで」は無いとするその理由は何処にあるのでしょうか。 
賢い乙女たちも愚かな乙女たちもみな眠っていたのです。だから、たとえ話の中心はここではないのです。油を用意していなかったことが問題なのです。

聖書学者バークレーは、パレスチナの中流家庭の結婚式では、花婿は花嫁の付き添いが眠っている間に不意を打とうとして真夜中に来ることがあること、花婿が到着したら戸が閉まり遅れてきたものは結婚式に参列できないという話を伝えています。式は一週間続きますから、その間式に参列出来ないことになります。

この話は直接にはユダヤ人に向けられたものであり、愚かな乙女はユダヤ人を指すのでしょう。ユダヤ人の歴史は神の子を迎える準備のためのものでした。しかし、彼らはイエスが来られた時、イエスを認めることが出来ませんでした。その準備ができていなかったのです。

私たちはどうでしょうか。大災害への備え、キリスト再臨への備え、よき死への備えエトセトラ・・どこから備えてゆきましょうか。
ちなみに、ボーイスカウトのモットーは全世界的に「備えよ常に」です。ご存知でしたか? それは心の備え、体の備え、技の備えをして、いつでも隣人の役に立てるようにしているのです。毎週の活動はそのための訓練となっています。

司祭の言葉 11/1

諸聖人の祝日 2020.11.01

聖人との出会い

                         司祭 鈴木 三蛙
あなたは聖人と出会ったことがありますか?  聖人とおぼしき人とは?

私が出会ったのは、サレジオ会の最初の宣教師の一人 チマッチ神父 マザーテレサ ヨハネパウロ二世  三人とも握手をする機会がありました。  教皇とは東京カテドラルで マザーテレサとは、支援組織のメンバーと一緒に面会して、チマッチ師は、恩師ですから聖書を教えていただき、試験の都度、正解に誘導していただいて、ベネベネ(よしよし)といって頭をポンポンとたたかれました。

でも、握手が何になるでしょう。 アイドルやヒーローたちとファンとの関係ならそれなりに話題や羨望の対象となります。しかし、事 聖人との出合いでは・・・・論外です。 聖人はわたしたちのならうべき信仰の模範ですので、その模範にならわなくては意味がないのですから・・・。
マザーテレサについては皆さんご存じです。 チマッチ神父は、サレジオ会員として日本に来た最初の宣教師で、ドンボスコの精神を生きた人です。
→ まず、祈りの人で、夕暮れ時聖堂に行けばいつもロザリオを手に祈っていました。
→ また、いつも子供たちと共にいる教師の模範でした。サレジオ会の教師は子供よりもさきに子供たちのいるところにいなくてはいけない、職員室でお喋りしていてはいけないのですが、これがなかなかできないのです。チマッチ師は、年を取って足が不自由になっても、いつも子供たちのそばにいて運動場の小石など危険物を拾っていました。

→ 病気の時も、いつも笑顔で一度も苦しい様子を見せたことがありません。
口癖はコラッジョ(さあ、さあ 元気を出して・・)でした。

マザーテレサも、チマッチ神父も、全面的に神に信頼していた聖人たちだったと思います。

ところで今日は、山上の説教の二つの言葉に注目したいと思います。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」
「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」

イエスがすでに確定したものとして天の国を保証したのは、心の貧しい人々と、義のために迫害される人々です。
私たちにもできる一番身近な、聖人となるための手立ての一つは、心の貧しい人となることです。イエス様は繰り返し、祭司長や民の長老たちに代わって、罪びとや貧しい人が、神の国に入ると述べてきました。バプテスマのヨハネの呼びかけに応えて、悔い改めたのは彼らだったからです。
心の貧しい人とはすべての希望を神に置く人、この世のものを頼りにせず、全面的に神を頼る人を指します。私たちもそのような一人であるなら、すでに天の国は保証されているのですから、天国の聖人だけではなく、地上にあっても、今日はそのような心の貧しい人の祝日でもあるといえます。

司祭の言葉 10/25

年間第30主日A年 2020/10/25

聞け、キリスト者よ

                          司祭 鈴木 三蛙
 今日の福音は、常日頃意見の対立していた司祭たちのグループサドカイ派がイエスにやり込められたと聞き、今度はファリサイ派の者たちがイエスを試そうとして質問する場面です。イエスがもし律法の一つだけを重視するなら、他の律法をないがしろにするものとして非難しようと目論みます。しかしイエスは、ユダヤ人たちがいつも祈りの時に額に結んでいる小さな小箱の中に入っていたシェマーイスラエルという言葉を取り上げます。この言葉は申命記6章5節に「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」と述べられているもので、イエスはこれを第一としました。そして第二としてレビ記19章18節の言葉を取り上げましたが、同じように重要なのだと強調します。そこには「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」と述べられています。イエスはさらに言葉を続けて、律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいているとお答えになったので、ファリサイ派の人々の目論見は完全に潰えてしまいました。偽善者という言葉は、律法学者たちが言葉の解釈にこだわり、現実世界の問題に目を向けていないその態度を厳しく指摘したものなのです。

 さて、私たちはどうでしょうか。他人の間違いばかりを指摘し、愛のない態度で生活をしているということはないでしょうか。聖書研究ばかりに時間を費やしたり、自分の信心や祈りに自己満足して、社会の現実から目をそらしてはいないでしょうか。

 先日一人の信者さんがインターネット上でさりげなく語った言葉に対し、非難の言葉ばかりが次から次に書き込まれるのを見て、怖くなったと語っていました。ネットは顔が見えませんので、それをよいことに、言いたい放題になってしまいます。時には面白半分に、社会から抹殺してしまおうという態度も見えます。誹謗中傷ではなく、間違いをただす注意や意見、アドバイスならば建設的なものとして大いに社会に役立つと思うのですが。

 また、自分のように隣人を愛するためには、隣人に心を向けなければなりません。何を求めているのか、どのような状況に置かれているのか、まずは関心を持つことです。「愛の反対は憎しみではなく、無関心です」というマザーテレサの言葉が思い出されます。隣人への無関心をなくすことがまずひつようなのです。そうすれば、隣人の中におられるイエスと出会うことも可能になりますから。
 自分に問いかけてみましょう。コロナ下の今、苦しんでいる人、悩んでいる人に具体的に手を差し伸べることを何かできただろうかと。

 また隣人を自分のように愛するためには、自分を大切にすることを知らなくてはなりません。自分に問いかけてみましょう。私は自分を大切にしているだろうか・・と。自分を律することも大切ですが、自分を許すことも大切なのです。さもないと人にも厳しくなってしまいますから。
 聖書の教えの全体が神への愛と隣人への愛に基づくと知った今、さあ、隣人の中にいるイエス様に会いに出かけましょう。隠れているイエス様を探しに行きましょう。無関心をやめて。

司祭の言葉 10/18

年間29主日A年 2020.10.18

仕組まれた罠

                           司祭 鈴木 三蛙
 痛烈な批判にさらされ、歯ぎしりしてきた祭司長や民の長老たちは、イエスに対する最高と思える罠を仕掛けてきました。この罠を思いついたとき、彼らは絶対の自信をもって、小躍りして喜んだことでしょう。自分たちの勝利間違いなしと思われたからです。

 この納税の是非は、抜かりなく仕組まれた罠でした。

 当時のパレスチナはローマ帝国の支配下にありました。ローマ帝国はユダヤ人の宗教的自由を認めながら、税を徴収することによって支配地域からの利益を得ようとしていました。しかし、ユダヤ人にとって徴税の問題は、ただ単に経済的な圧迫という問題ではなく、宗教的な信念の問題でした。「神が王である」と信じるなら、ローマ皇帝を王と認めることはできないし、そのローマ皇帝の徴税も認められないという考えが当時のユダヤ人にはありました。
 納めるべきと答えれば、ローマの支配を認める 神以外のものを神とする不信仰者として弾劾できますし、否定すれば、ローマへの反逆者として訴えることが出来るからです。この罠をこれまで反発してきたヘロデ党のものと一緒になって仕掛けてきたことからも、その自信が読み取れます。どちらに転んでもイエスは窮地に陥り、自分たちには都合のよいことになります。彼等は勝利を確信してイエスに挑みました。

 しかし、彼らの罠を見抜いたイエスは、納税のためのローマの銀貨を持ってこさせます。
デナリオン銀貨にはローマ皇帝の肖像と銘が刻まれていました。その銘は「ティベリウス・カエサル・神聖なるアウグストゥスの子」というもので、ローマ皇帝は神格化されていました。イスラエルの宗教は偶像崇拝禁止という点で徹底していましたから、このデナリオン銀貨は本来なら神殿に持ち込むことがゆるされないものでしたが、しかし、実際には誰もがその硬貨を使わざるを得ませんでした。デナリオン銀貨は広く一般に用いられており、誰の財布の中にも入っていたのです。彼らはその銀貨を用いて生活しつつ、皇帝に税金を納めることが良いか悪いかと論じている、彼らのその矛盾を、イエス様は偽善者と断定します。

 キリスト者は二重の国籍をもっています。第一は 自分が生れ育った国の国籍をもち、多くの恩恵を受けています。パスポートには、これをもつものは日本人だから保護してほしいとしるされています。 ユダヤ人の歴史が示すように、国家をもたないと悲惨です。キリスト者は信頼に足るものとして国家に対してよき市民でなければならないのです。国の政治に無関心であるなら 利己主義なものにまかせるならどうなるでしょうか。
 
 神のものは神に。 第二は、わたしたちのうちには神の姿が刻まれています。 神の支配を受け入れた神の国の市民として、神に対する義務の遂行がもとめられているのです。神の似姿にふさわしい生き方、それを考えてみましょう。「この人を見よ」 イエスの中にその答えを見つけることが出来ます。

司祭の言葉 10/11

年間第28主日A年 2020/10/11

婚宴の譬え

                         司祭 鈴木 三蛙
 婚宴の譬えは、ルカでは大宴会の譬え。トマスでは晩餐の譬えとして語られています。三つの譬えに共通するのは最初に招かれた客たちが、夫々理由をつけて招待を断っている事、その代わりに道に出てだれかれ構わず集め、招かれたことです。これはブドウ園の労働者や見失った羊のたとえ話のように、イエスの批判者や敵対者に対して語られた、福音を弁明した数多くのたとえ話の一つと言われています。

 そしてイエスは「あなた方は招待をなおざりにする賓客の様だ。招待を受け入れないので神は代わりに徴税人や罪びとを招き、あなた方がみすみす取り逃がした救いを彼らに与えたのだ」と言っているのだと言います。ルカは最後に「あの招かれた人たちの中で私の食事を味わう人は一人もいない」と結び、トマスでは「買主や商人は私の父の場所に入らない」と結んでいます。マタイでは礼服の着ていないものの話が加わり、そのあとで「招かれる人は多いが選ばれる人は少ない」と結んでいます。
 そして誕生したばかり教会はこのたとえ話を宣教の指令として受け取りました。

 今日の福音で一つ、驚くのは、王が家来たちを送ると、招待を受けた者たちから理由もなくとらえられ、乱暴を受け殺されたしまったことです。しかも激怒した王が宴会に先立ち兵を送り、その者たちを滅ぼして町を焼き払ったと言うことです。
 ここには先週のブドウ園の譬えの僕たち同様、家来たちに旧約の預言者たちを重ね、さらには、紀元70年のエルサレムの崩壊という出来事が反映していると見られています。

 もう一つ不可解なのは、手当たり次第に集めてきたのに、礼服を着ていないからと、何故放り出されるのか、と言うことです。急に連れてこられて礼服を着る暇なんてないでしょうに。 列王記下の10の22をよみますと「イエフは衣装係に『バアルに仕えるすべての者に祭服を出してやれ』と言った」とあり、招待客に礼服を提供するのが習慣であったようにも思われ、これまではそのように説明されてきました。
 そして実際にも今日、司教叙階式の時には、全司教に同じ祭服を用意する習慣があります。さいたま教区ではお金がないので、中央協議会から借りていますが。韓国での聖体大会(1989?)では何千人もの参加司祭全員に大会のシンボルマークの十字架の模様の付いたストラが用意されましたし、日本でも、高山右近の列福式では参加した司祭全員のためにアルバと祭服が用意され、皆さんが同じ祭服でミサをしました。

 しかし、聖書学者のヨアヒム・エレミアスは、「イエスの時代にそのような習慣があったことを立証するものはない」といいます。そして、ルカにもトマスにもこの話はないので、本来独立した話がここに挿入されたと見ています。
 挿入された理由についてはこう説明しています。
 「はっきりしているのは招かなかった人を見境もなく呼び入れることから生じかねない誤解、すなわち呼び込まれた人たちの行動は全然問題ないかのような誤解を避ける必要があったということである。」 初代教会はこの譬えを挿入し、最後の審判で無罪とされる条件として、悔い改めの必要性を強調したと言うことです。

 このたとえ話の中で、なぜ招かれた人々は来ようとしなかったのでしょうか。
 マタイでは5節に「一人は畑に、一人は商売に出かけ」とあるだけですが、
 ルカ14章18-20節では、「最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った」となっています。

 彼らは嫌だとは言っていません。でもそれ以上に優先することがあると考えたようです  彼らは結局、招かれたことの素晴らしさ・ありがたさを本当には感じていなかったのだと言わざるをえないでしょう。わたしたちはどうでしょうか。

 神の招きは婚宴という喜ばしい祝宴への招きです。クリスチャンが招かれているのは 
→ 喜びを主と共に味わうためです。ですから、キリスト教を・・・人生の喜び、明るさ、幸福な交わりを全て断念させるものと考えるのは大きな誤りです。

 キリストの招きを拒否させるものは、必ずしもそれ自体は悪くありません。

 人生においてしばしば・・二番目によいものが、1番目によいものを阻止し、最高のものを妨害します。神の子が目の前にいるのに、幸せの秘訣を示してくれているのに、遠くを捜しています。毎日あくせくして、幸せやーいといって、見当違いのところを捜しています。  冨を沢山ためたら幸せになれるだろうか。新しい車を手に入れたら幸せになれるだろうか。自分の家を建てたら幸せになれるだろうか・・・と。 

かくいうわたしもそうですが、あれも、これもと、なすべきことに毎日追われています。

その日の事に忙しすぎて、キリストの招きを聞き逃します。

宋の詩人(戴益)たいえきの詩があります。
尽日(じんじつ)春を訪ねて春を見ず
杖藜(じょうれい)踏み破る 幾重の雲
帰り来たりて試みに 梅梢を把って見れば
春は枝頭(しとう)にありて 已に十分

- 春が来た春が来たというので どうにかして 春に会いたいと思い、
朝から弁当持ちで一日中春を訪ね歩いたがどこにも見いだせなかった。

- 向こうの山、こちらの谷、あちらの丘とずいぶん歩いたが、いたずらにあかざの杖をすり減らしただけだった。

- 疲れた足を引きずり、日の暮れ方、しおしおと家に帰り、ふと入口の梅の枝をとって見ると、梅の花が数輪、いともふくよかに良い香を放って咲いていた。
なんだここに春があった、この梅の花のさいているところに春はあるじゃないかと言う詩です。

わたしたちは既に、神に招かれているのに、幸せはわたしたちの内にあるのに、・・・遠くを捜している。今日の福音はそこを指摘します。

ヨアヒム・エレミアス(1900-1979)著書「イエスのたとえ話の再発見」「イエスの宣教」等