司祭の言葉 5/26

三位一体の主日(年間第8週)マタイ28:16-20

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「聖霊降臨の主日」に続く今日は「三位一体の主日」。集会祈願で、「唯一の神を礼拝するわたしたちが、三位の栄光をたたえることができますように」と祈りました。

唯一の神を、父・子・聖霊の三つの位格を以てお呼びさせていただく。これは、ご復活の主イエスご自身がなさっておられることです。主は、仰せになられました。

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名(「名」は単数)によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

先の「聖霊降臨」の主日の福音で、ご復活の主イエスは、天の父なる神のみ許からわたしたちに遣わされる「聖霊」を「弁護者」と呼んでおられました。ただし、日本語で「弁護者」と訳されたギリシャ語パラクレートスは、元来「(人を助けるために)傍らに呼ばれた方」という意味の言葉です。そうであれば、「聖霊」は、日本語で「復活する」と訳された元来のギリシャ語の意味する「倒れている者を抱き起こし、病む者を介抱してくださる」、つまりご復活の主イエスのお姿と、確実に重なります。

このように、「聖霊」において、ご復活の主イエスご自身がご昇天後も変わることなくわたしたちと共にいてくださる、むしろ「聖霊」こそ「ご復活の主イエス」ご自身であられることを、主は今日の福音でわたしたちに確信させてくださいます。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

同時に、「聖霊」としてわたしたちと共にいてくださるご復活の主イエスが、ご昇天という出来事を通して、全能の天の父なる神と一つであられることも明らかにされました。主は仰せです。「わたしは天と地との一切の権能を授かっている。」

マルコによる福音は、この真実を、さらにつぎのように具体的な事実を以って語っています。(ご復活の)主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、(父なる)神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。(マルコ16:19-20)

父なる神と一つに「天と地との一切の権能」を行使なさるご復活の御子なる主イエス。ご復活の主は、ご昇天の後の今、「ご復活の主の霊」である「聖霊」によって、地上のわたしたちといつも共にあり、さらに共に働いてさえくださっておられます。

それにしても、なぜ、唯一の神が、父・子・聖霊の三つの位格によって働かれると言われるのでしょうか。あるいは、わたしたちは、なぜ、「唯一」の神を、父なる神・子なる神・聖霊なる神の「三位」、つまり各々異なったお働き(存在の違いではなく、存在の仕方の違い)ゆえに、三つの異なった位格でお呼びさせていただくのでしょうか。

それは、わたしたちの救いのためです。罪なるわたしたち一人ひとりのために、神ご自身がわたしたちと共に在り、さらにわたしたちすべての内にまで来てくださって、わたしたちの内から救いのみ業を全うしてくださるためには、唯一なる神が、父なる神、子なる神、そして聖霊なる神として働いてくださる他ないからです。

わたしたちの救いのために、天の父なる神は、全知全能の力の座である天を離れること無く、御子キリストとして地のわたしたちの許に来てくださり、わたしたちの罪の贖いために、ご自身を十字架につけてくださいました。さらに、主イエスは復活され、そのご復活の主は、ご昇天の後にわたしたちにご自身の霊である「聖霊」を与えくださり、わたしたちの内に働き、またわたしたちと共に働いて、わたしたちのみならず、わたしたちを通してすべての人々の救いの業を完成してくださいます。

神がわたしたち一人ひとりの救いのためにしてくださった具体的な事実、その手続きの一つひとつを指折り数えるように、わたしたちは心からの懺悔と感謝をこめて、唯一の主なる神を、父・子・聖霊と、三位の位格でお呼びさせていただくのです。ただしそれは、神が難解で複雑な方だということではありません。わたしたちの罪が、わたしたちを救ってくださるための神の救いの手続きを複雑にしたのです。

したがって、わたしたちにとって、唯一の神を「三位」の位格でお呼びする「三位一体」の信仰は、単なる教理ではありません。わたしたち自身の心からの懺悔と感謝による信仰の告白です。罪なるわたしたちを救い取ってくださった神のご懇切なるみ業を思い起こす時、わたしたちは唯一の神を、父なる神、子なる神、聖霊なる神と、懺悔と感謝を以てていねいにお呼びされていただく他無いからです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 5/19

聖霊降臨の主日 ヨハネ15:26-27,16:12-15

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」

先に、主イエスのご昇天の証人とされたわたしたちは、今日、主の約束された聖霊の降臨を祝い、またその証人とされるべく、再び、主のみ前に集められました。

ここでわたしたちは、弟子たちとの最後の晩餐での主イエスの説教のおことばを、もう一度想い起こすようにと求められています。それが、今日の福音です。

最後の晩餐の間中、主イエスは、弟子たちとの晩餐に続くご自身の十字架をはっきりと見つめておられたはずです。しかしその時でさえ、否、その時こそ、主のお心を占めておられたのは、十字架の後に残されるわたしたち弟子たちの事だけです。

そのわたしたちに、主イエスはご自身の十字架とご復活、さらにご昇天の後、「真理の霊」を送ってくださること、そして「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と、約束してくださいました。

ここで、主イエスがお送りくださる「真理の霊」。今日の福音では、主はそのお方のことを「弁護者」とお呼びになっておられました。

「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証をなさるはずである。」

「真理の霊」、すなわち「弁護者」が、わたしたちのために主イエスご自身の十字架の死の犠牲と引き換えに与えられることは、主の次のおことばからも明らかです。

「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたたちのところに送る。」

それにしても、主イエスは、ここで、「真理の霊」つまり「聖霊」のことを、なぜ「弁護者」とお呼びになっておられるのでしょうか。

「弁護者」。じつは、これはギリシャ語で、元来「(人を助けるために)傍らに呼ばれた人」を意味する言葉です。従って、助け手、介護者、保護者とも訳されて来ました。

先にわたしは、「復活」すると訳されている言葉は、『福音書』のギリシャ語、さらにその背後に考えられるユダヤの言葉でも、傷ついた人を介抱する、あるいは、倒れた人を抱き起こすと言う意味で、日常使われる言葉でもあると申し上げました。

主イエスのご復活。そこには、傷ついたわたしたちを介抱してくださる主、倒れ、あるいは死んでさえいたわたしたちを抱き起こしてくださる主が、立っておられます。

このご復活の主イエスのお姿。それは、今日の福音で、主が十字架の後に、ご自身の十字架の死と引き換えにわたしたちにお与えくださる「弁護者」、むしろ「助け手」、「介護者」、「保護者」のお姿と、明らかに重なり合っています。

そして、「弁護者」とも呼ばれるその方こそ「聖霊」なる主であられることは、最後の晩餐の説教の中で、主イエスご自身が繰り返し明らかにしておられる通りです。

しかし、この「弁護者」である「聖霊」が、主イエスから遣わされて来られる時、そこにはどのようなわたしたちの姿があるのでしょうか。それは、傷つき、倒れ、あるいは、主のみ前に命を失ってさえいるわたしたち、ご復活の主に抱き起こされることを、ひたすら待ち望んでいるわたしたちの姿ではないでしょうか。

「真理の霊」は、そのわたしたちを「導いて、真理をことごとく悟らせてくださる。」「真理の霊」が、「聖霊」つまり「ご復活のキリストの霊」に他ならない以上、「真理の霊」がわたしたちを導く「真理」とは、ご復活の主イエスご自身に他なりません。

「聖霊降臨」の今日、ご昇天の主イエスがお遣わしくださる「真理の霊」・「聖霊」は、わたしたちをご復活の主へとお導きくださいます。「弁護者」なる「聖霊」は、わたしたち一人ひとり、主のみ前に倒れ、死んでさえいるわたしたちを確実に抱き起こし、命へと回復してくださるご復活の主のみ腕の内に確実に導き入れてくださいます。

「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」「聖霊」が遣わされるところ、そこには、わたしたちの前にご復活の主イエスが確実にお立ちになっておられます。そして、ごミサこそまさにその主イエスとの出会いの時です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 5/12

主の昇天(復活節第7週)マルコ16:15-20

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日、わたしたちは、主イエスの弟子たちとともに、「天に上げられ、神の右の座に着かれる」ご復活の主の証人とされるために、このごミサに集っています。

マルコによる福音は、ご復活の主イエスがご昇天を前にして、ペトロたち十一人の弟子たちにお命じになられた大切なおことばを伝えてくれていました。

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」

マルコはその生涯を、使徒ペトロの弟子として誠実に生きました。したがって、マルコによる福音書は、ペトロが、マルコに直々に伝えたに相違ない主イエスのおことばに基き、師であるペトロの教えに忠実に記録されたと信じられています。

そうであれば、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」との、主イエスのペトロたちへの世界宣教のご命令も、マルコがペトロの口から直接聞かされた主ご自身のおことばであったに違いありません。

ペトロは主イエスのおことばをマルコに語る時、いかなる思いだったのでしょうか。

恐らく、ペトロはその時、このおことばを主イエスご自身からご昇天の直前に聞かされた時の、彼の身の竦(すく)むような畏れと、さらには十字架の際に一度は主を捨てさえした彼に対しての主のまったく変わらぬ真実と信頼に、深い懺悔と抑えきれぬ感謝の思いが、溢れる涙と共に込み上げて来たのではなかったでしょうか。

ペトロから、主イエスのこの宣教のご命令のおことばを聞かされたマルコも、それを語るペトロの決意と情熱に圧倒されたに違いありません。マルコのその時の感動が、後に彼に福音書を執筆させる動機と力となったに違いありません。

さらに、後にマルコ自身、ローマで宣教し殉教した師であるペトロに習って、主イエスの宣教のご命令に従い、自らアレキサンドリアに宣教し、使徒ペトロのローマ使徒座に一致して、コンスタンティノープル、アンティオキア、エルサレムと共に初代教会の五大司教区の一つとなる当地の教会の建設に献身しました。

さて、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と、「ご復活の主は、弟子たちに話した後」と、マルコは今日の福音で、さらに、ご昇天の主イエスについて、大切な二つのことをわたしたちに語ってくれています。

第一に、「主は天に上げられ、神の右の座に着かれた」、ということです。ご復活の後四十日の間、ペトロたち多くの弟子たちと共に地上に留まってくださったご復活の主イエス・キリストは、その後、「弟子たちの見ているうちに天に上げられ」ました。それは、「天の父なる神の右の座に着かれる」ためでした。

「父なる神の右の座に着かれた」とは、父なる神と権威と力とを完全に一つにされたのみならず、父なる神の権威と力を行使することがおできになる唯一の方となられた、と言うことです。言い換えれば、今後、神の権威もその力も、御子キリストを通して、そして御子を通してのみ現わされる、と言うことです。

第二には、主イエスのご命令を受けて、文字通り全世界に「出かけて行って、至るところで宣教した弟子たちと、主は共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」、ということです。

ご復活の主イエスは、弟子たちに全世界への宣教を託されて、ご自分は帰天されたというのではありません。ご昇天後も地上で彼らと一緒に働いてくださる。目に見えない聖霊において。しかしそれは、目に見えるしるしを伴って、と主は仰せです。

マルコが伝えるこれら二つのことは、共に同じ主なる神キリストのみ業です。したがって、「全世界に出て行って宣教する弟子たちと共に働かれる主」は、「天に上げられて、神の右の座に着かれたキリスト」ご自身に他なりません。

弟子たちを用いて働かれる、弟子たちを通して語られる方は、主イエスご自身です。彼らを用いての主の宣教は、天の父なる神の権威と力によるみ業。そして神は、無から有を生み出すことがおできになる。それこそが目に見える確実なしるしです。

弟子たちを通して語られる主イエスのみことばは、常に真実です。今や天の父なる神の右に座し、神から全権を託された主は、そのみことばによってすべてを創造することがおできになるからです。弟子たちへの主の宣教のご命令。それはわたしたちを用いて働かれる、聖霊によるご復活の主イエスの新しい創造のみ業です。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 5/5

復活節第6主日 ヨハネ15:9-17

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「神は愛です。」(1ヨハネ4:8b)

この言葉を、主イエスの十字架とご復活の後、主の弟子ヨハネはどのような思いで綴ったのでしょうか。彼は、さらに次のように手紙の文章を続けます。

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました。」(1ヨハネ4:9)

主イエスに愛された使徒ヨハネには、主の十字架とご復活を経て、彼の心の内に明らかにされて来た事実があったはずです。それは、神はその愛を主イエスによって現わされた、すなわち、神の愛は主イエス・キリストである、と言う事実です。

愛とは、たんなる教えではありません。愛とは、人のために命を捧げることです。それは、今日の福音で主イエスご自身が、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と、極めて具体的に仰っておられる通りです。

事実、愛とは具体的である他ないものではないでしょうか。神は、一人ひとり異なるわたしたちを、一人ひとり掛け替えのない子として愛してくださいます。

「神は愛です。」 それは、天の父なる神が、御子キリストにおいて、この地上で、このわたしたち一人ひとりを愛し、わたしたち一人ひとりにご自身のいのちをお与えくださったと言うことです。ヨハネは、彼の言葉を次のように結んでいます。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

(1ヨハネ4:10)

「ここに神の愛がある。」 ここ。それは、主イエスの十字架とご復活です。

その主イエスご自身、今日の福音の内に、わたしたちに仰せになられます。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。」そして、「わたしの愛にとどまりなさい。」

主イエスの愛に「とどまる」。この「とどまる」と言う言葉は、先週の主日の福音の主の「ぶどうの木のたとえ」の中で、ぶどうの枝であるわたしたちが、ぶどうの木である主に「つながる」と言う時の「つながる」と言う言葉と同じです。

主イエスの愛にとどまる。それは、ちょうどぶどうの枝が、ぶどうの木に堅くつながるように、わたしたちが、主にしっかりとつながらせていただくと言うことです。そのわたしたちに主は、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15:5)と、約束しておられました。

同じことを、今日の福音で、主イエスは次のように仰っておられました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願う者は何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」

主イエスは、既に、わたしたちを選んでおられます。それは、主がわたしたちに、主ご自身のみことばによって、みことばなる主ご自身をご聖体としてお与えくださることによって、すなわち主の自己犠牲によって、既に、わたしたちをぶどうの木であるご自身の枝としてしっかりと結び付けてくださっておられる、ということです。

二つの理由を、主イエスは仰せでした。第一は、枝であるわたしたちが、ぶどうの木である主からいのちの水を十分に受けて、豊かな実を結ぶために。次に、わたしたちが主のみ名によって祈る時、父がその祈りを聞いてくださるために。

実は、これらはともに、わたしたち自身のためだけではなく、主イエスの救いと主の愛を求めるさらに多くの人々を、主の愛で満たすためであるに違いありません。

今日の福音を、主イエスは、次のおことばで結んでおられます。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

主イエスに愛された者として、主の愛の内に、主の愛に応えて、神と人とのために生涯を捧げて主の愛に生きる。この主の愛のご命令は、主のわたしたちへの、愛の主とともにある喜びに満ちた新しいいのちへの招待です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 4/28

復活節第5主日 ヨハネ15:1-8

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」。

ヨハネによる福音は、主イエスの「最後の晩餐」での十二弟子への説教と祈りを、五章にもわたって、実にていねいに伝えてくれています。今日の福音はその一節で、その内容からとくに、主の「ぶどうの木のたとえ」とも呼ばれてきました。

聖地を旅行された方は、お気付きと思います。ぶどうは乾燥した地で生育し得る数少ない植物です。しかもそのような地において、とりわけ豊かに水分を蓄える事のできるぶどうは、日本でいう果物と言うよりも、乾燥した地の人々にとっていのちの水ともいい得る、まことに貴重な植物です。

主イエスは、わたしたちに「わたしはぶどうの木」と、仰ってくださいました。主のおことばには、水を求めて得られないような荒地においても、主はわたしたちに豊かにいのちの水を与えることがおできになる、との主のおこころを強く感じます。

「わたしはぶどうの木」と言われた主イエスは、さらにわたしたちに、「あなたがたはその枝である」と仰せでした。「ぶどうの木」である主に、「枝」として繋がらせていただかなければ生きることができないわたしたちであることを、主は良くご存知です。わたしたちは誰一人、いのちの水なしに生きることはできないからです。

ところで、主イエスは続けて、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と、仰せになっておられました。

一つのことに気付きます。主イエスは、わたしたちをぶどうの木の「枝」であると仰っておられるのであって、「実」であると仰ってはおられません!

主イエスはわたしたちを、ぶどうの「実」ではなく、主のぶどうの木の「枝」としてくださいました。「枝」であるわたしたちが、主なるぶどうの木からの豊かないのちの水を受けて生きるのみならず、「豊かに実を結ぶためであると、主は仰せです。

「ぶどうの実」は、わたしたちという「枝」を通して、「ぶどうの木」である主イエスからのいのちの水を豊かに蓄えさせていただきます。そのわたしたちという「枝」を通して多くの「実」が豊かに受けるのは、主のいのちです。

ところで、わたしたちに、「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」と仰せになられた主イエスは、天の父なる神については、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と、仰っておられました。

その上で、主イエスは続けて、父なる神ご自身が農夫として、ぶどうの木の枝を手入れしてくださる。実を結ばない枝は取り除かれ、実を結ぶ枝は、さらに豊かに実を結ぶようにしてくださる、と仰せになられました。わたしたちは、どちらでしょうか。

実は、主イエスは、決定的に大切なことを、わたしたちに仰せになっておられました。「わたしの話したことばによって、あなたがたは既に聖(きよ)くなっている。」

「既に」です過去の、あるいは今後のわたしたちの様子を見て、ではありません。主イエスは、わたしたちに与えられたみことばによって、「既に」わたしたちを聖くしてくださった。父なる神は、みことばなる主を与えてわたしたちを、「既に」父なる神のもの・豊かな「実」を結び得る枝としてくださっておられる、と主は仰せです。

「わたしの話したことばによって、あなたがたは既に聖(きよ)くなっている。」わたしたちを聖くすることがおできになるのは、聖霊のみです。つまり、主イエスは、ご自身であるみことばをわたしたちにお与えくださることによって、「既に」わたしたちに、聖霊をお与えになっておられる、と仰っておられるのです。

事柄は明確です。主イエスがわたしたちにみことばをくださる、それはみことばなる主ご自身をくださることです。みことばなる主は、聖霊なる主ご自身です。

主イエスの「ぶどうの木のたとえ」は、最後の晩餐での主の説教の一節です。そこでの主の約束は、「最後の晩餐」を経て十字架で裂かれ、わたしたちに与えられる主ご自身、つまりご聖体において、わたしたちに聖霊をくださる、ということです。

主イエスのみことばとご聖体において聖霊をいただいたわたしたちは、聖霊によって既に聖くされている、と主は仰せです。それはわたしたち、さらにわたしたちを通して多くの人が、主から同じいのちの水をいただいて豊かに生きるためです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 4/21

復活節第4主日 ヨハネ10:11-18

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」

これは、主イエスのおことばです。ここで、「良い羊飼い」とは、誰のために「良い」のでしょうか。もちろん、わたしたち「羊のために」です。わたしたちを生かすために、ご自身を犠牲になさるほどに、わたしたちのために「良い」ということです。そうであれば、「良い羊飼い」とは主だけです。ただ主だけが、このみことばの通りに、「良い羊飼い」として、事実、わたしたち「羊のために命を捨て」てくださったからです。

ここで思い出すことがあります。主イエスは、宣教のご生涯の始めに、「町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」(マタイ9:35)と、マタイによる福音は伝えていました。ただし、その時、行き廻られた町や村で、主がご覧になったわたしたちの現実とは、どのようなものだったのでしょうか。

マタイによる福音は続けていました。「主は、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(マタイ9:35,36) フランシスコ会訳『聖書』では、ここを次のように訳しています。「イエスは、群衆が牧者のいない羊の群れのように疲れ果て、倒れているのを見て、憐れに思われた。」

先に、主イエスの話されたユダヤの言葉でも、また福音が伝えられた新約のギリシャ語でも、「復活する」とは、元来、倒れている人を抱き起こす、さらには、傷ついた人を介抱する、と言う時に日常的に使われる言葉(他動詞)でもあると申しました。

そうであれば、「牧者のいない羊の群れ」こそ、主イエスのみ前に「疲れ果て、倒れて」いたわたしたちの姿、ご復活の主に見いだされ、抱き起こされ、介抱されることをひたすらに待っているわたしたち自身の現実の姿ではないでしょうか。

「わたしは良い羊飼いである。」主イエスは、今日の福音で、このおことばを二度繰り返された後、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」と、仰せになっておられました。この時、主が「羊であるわたしたちを知って」おり、羊も「神である羊飼いを知る」とは、どういうことなのでしょうか。主は、仰せです。

「それは父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。」

御父なる神と御子キリストが互いを知る。それは、御父と御子が一つであるということです。そうであれば、御父が御子を知っておられるように、羊飼いである主イエスが、わたしたち羊を知ってくださる。それは、父なる神と御子が一つであるように、主は、ご自身とわたしたちとを一つにしてくださる、ということです。

驚くべきことに、「牧者のいない羊」であるようなわたしたちを、主イエスはご自身と一つとしてくださる。ご自身そのものとさえしてくださる。自らの罪ゆえに主のみ許から迷い出たわたしたちの負うべき十字架、つまりわたしたちの悩み、苦しみ、悲しみ、罪の一切を、主ご自身がご自分に引き受けてくださる、と言われるのです。

「こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」ここに神の愛があります。御子にわたしたちを固く結びつけご自身と一つにしてくださる父なる神の愛。

しかしこの父なる神の愛は、わたしたちの罪の赦しために御子キリストを十字架につけ、さらに御子を復活させてわたしたちに命を与える聖霊をくださることにより成就する神の愛です。主は仰せでした。「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。」

かつては「牧者のいない羊」のようであったわたしたち。それは、自らの罪ゆえに牧者を失っていたわたしたちの現実の姿、唯一人の牧者なる神から罪によって離れてしまっていたわたしたちの姿でした。そのような愚かで惨めなわたしたちと、敢えてご自身を一つにしてくださるまで、わたしたちを愛し抜いてくださる主イエス。

御子キリストによる、この神の愛の内に、わたしたちの罪を贖う主イエスの十字架が堅く立てられています。この神の愛の内に、罪贖われたわたしたちに永遠の命を与え、さらにそのわたしたちを神への捧げものとしてくださるために、聖霊を注いでわたしたちを聖くしてくださるご復活の主ご自身がお立ちになっておられます。

羊飼いなる主イエスが、羊であるわたしたちを知り、ご自身と一つに結び合わせてくださいます。主は、十字架とご復活によるご自身のご奉献に、わたしたち自身の奉献を一つに結び合わせてくださいます。ごミサこそ、まさにその時です。

「わたしは良い羊飼いである」と主イエスは仰せです。 

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

司祭の言葉 4/14

復活節第3主日 ルカ24:35-48

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」(ルカ24:32)

「そのとき、エルサレムに戻った二人の弟子は、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を(ペトロたち十一人の弟子たちに)話した」(ルカ24:35)と、今日のルカによる福音は、語り始めていました。

ところで、遡って、主イエスの十字架の死から三日目のことでした(ルカ24:13-34)。この二人の弟子たちは、エルサレムを離れてエマオと言う村に向かっていました。彼らは、主のことを道々話していました。すでにその日の朝早く、十字架の主のおからだが納められた墓を訪ねた婦人たちから、「主は生きておられる」と聞かされていました。しかし、二人はそのことを信じることができませんでした。

エルサレムから離れて行くこの二人に、いつの間にかご復活の主イエスが寄り添い、ともに歩き始めてくださっていました。しかし彼らは、この方が主ご自身であることに気づきませんでした。「二人の目は遮られていた」と、聖書は伝えています。

何が、ご復活の主イエスに対して、彼らの目を遮っていたのでしょうか。それは、彼らの人間的でこの世的な主への期待、したがって主の十字架の死による失望と落胆。さらには、その後の主のご復活を疑う疑いではなかったでしょうか。

実は、そのような二人には最初から、主イエスの真実が目に見えていなかったのかも知れません。それは、彼らが主に呼ばれたその時から、主の十字架の死、さらには主のご復活の後の今この時に至るまで、神が一時も休むことなく、主イエスにおいて彼らになさってくださっておられた恵みの事実です。

しかし、この神の恵みの事実に、二人の目が開かれる時が来ます。

二人、否、今や三人がともに歩き続けて夕方になりました。二人は、もう一人の方を夕べの食卓に招きました。その方は彼らとともに家に入られ、一緒に食卓に着かれました。そして、その方が二人に「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」まさにその時、「二人の目が開け、イエスだと分かった」(24:30,31)。

「主は生きておられる。」

十字架を控えての最後の晩餐の時と同じ主イエスが、しかし、まぎれもなく、今やご復活の主が、その食卓で、二人のためにパンを裂いておられる、彼らのために、ご自分の御からだを裂き、ご自分の御血を注いでくださっておられる。 

実は、ご復活の主イエス・キリストに対して「目が遮られていた」のは、この二人の弟子だけではありませんでした。エルサレムに留まっていたペトロたち他の弟子たちも、同様でした。彼らは、この二人から主のご復活の証言を聞かされていたにもかかわらず、ご復活の主がペトロたちにご自身を現わされた時、主から「なぜうろたえているのか。どうして心に疑いを起すのか」と言われなければなりませでした。

しかし、ご復活の主イエスは、ちょうど、かつてエルサレムを離れてエマオに向かった二人になさったように、ペトロたち十一人の弟子たちにも、主ご自身について、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活するとの聖書の言葉を悟らせるために、彼らの心の目を開いて」くださいました。その上で、主は、「あなたがたはこれらのことの証人となる」と、ペトロたちに約束されました。

後にペトロたちは確かに、主イエスのお約束通り、主の十字架とご復活の証人とされました。しかしそれは今日の福音のように、ご復活の主ご自身が、彼らの心から疑いが無くなるまで、くりかえし彼らを訪ねてくださったことによって、でした。

わたしたちも、同じではないでしょうか。わたしたちの「遮られた心の目」が、ご復活の主イエスにはっきりと開かれるその時まで、主はうむことなく、休むことなくわたしたちを訪ね、わたしたちのためにご自身について聖書を悟らせ、さらにごミサで、主とのこの食卓でご自身の御からだを裂き、御血を注ぎ出してくださいます。

「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」

わたしたちも同様です。ご復活の主イエス・キリストは、すでにわたしたちとともに歩いてくださっておられた。この事実に気づかせていただく。それがごミサです。

ご復活の主が、皆さんとともに。 父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

司祭の言葉 4/7

復活節第2主日 (神のいつくしみの主日) ヨハネ20:19-31

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「わたしの主、わたしの神よ。」

主イエスの十二使徒の一人トマスが、ご復活の主日から八日目の当に今日。彼を訪れてくださったご復活の主イエス・キリストご自身に、深い懺悔、そして畏れと感謝をもって告白した、彼の信仰のことばです。彼のこの信仰のことばは、今に至るまで、すべての時代、全世界のキリスト者の信仰告白のことばであり続けています。

聖トマスは、「わが主よ、わが神よ」との彼の信仰のことばとともに、二千年の教会の歴史を通して記憶されてきました。しかし、トマスは最初から信仰者の模範というべき人であったという訳ではなかったようです。最初はむしろ逆であったともいえます。トマスは、弟子たちの間で、「ディディモ」と呼ばれていました。これには「双子」に加えて、「疑い深い」と言う意味もあるのです。それには、理由があります。

わたしたちは、先の主日を、主イエス・キリストの復活の主日としてお祝いいたしました。主は十字架におつきになられる前に、弟子たちに三度、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、殺され、三日目に復活する」と仰せになっておられました。このおことば通り、主は十字架に死に、そして三日目に復活されました。

その復活の主日後、昨日までの一週間、わたしたちは毎日の礼拝で、ご復活の主イエスが、最初にマグダラのマリアに、続けて十字架の許にまで主に従い続けた婦人たちに、さらにペトロたち主の弟子たち一人ひとりにお会いくださった次第を、喜びと感動、そして畏れをもって、福音からていねいにお聞きし続けて参りました。

ただし、ご復活の主イエス・キリストは、今日までトマスにだけはお会いなっておられませんでした。なぜでしょうか。今日の福音が伝えているように、ご復活の日の夕方、主が他の弟子たちをお訪ねになられた時、トマスは、そして彼一人だけが、彼らと一緒にいなかったからです。トマスは、主イエスのご復活を疑っていたからです。

ペトロがトマスに、「わたしたちは、週の始めの日に、確かに主に、ご復活の主にお目に掛かった」と熱く語った時も、トマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」とさえ応えていました。

さて、ご復活の日から丁度一週間後の今日、ペトロ始め主イエスの弟子たちは再び集まりました。トマスも今日は一緒でした。ご復活の主日と同様に、主は八日目の今日再び、弟子たちを訪ねてくださいました。ご復活の主イエスは、今日はとくにトマスにお会いくださるために来てくださいました。主はトマスに仰せになりました。

「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

ご復活の主イエス・キリストのこのおことばに応えて、トマスの心の底から絞り出されるようにして語りだされた言葉こそ「わたしの主、わたしの神よ」でした。疑い深いトマスでした。主のご復活の約束を、さらにその事実をも疑っていました。しかし、トマスは、最早これ以上疑い続ける訳にはゆきませんご復活の主イエスご自身が、今、弟子たちのただ中に、そしてトマス自身の目の前に立っておられるからです。

その時、トマスは主イエスのみ前に悔い崩折れる他無かったと思います。今日まで疑いの内に自らを閉ざしていたトマス、主の十字架の下に蹲り続けていたトマスを、主は大切に抱きしめ、抱き起こしてくださいました。十字架の釘跡の残る主の両の御腕で。槍で刺し貫かれた傷跡の残る主のみ胸の内に。それが、主のご復活です。

「ディディモ」と呼ばれたトマスのように、主イエスを「疑う」こと、神の遣わされた主を信じ切ることができないことを、聖書では罪と言います。この罪の帰結は死以外にはありません。神を疑い続ける限り、人は真実に生きることはできないからです。神を疑う者は、結局は自分自身も疑い、誰をも信じることはできず、したがって、誰とも信頼しあい、愛しあい、望みをもって生きることはできないからです。すなわち、神を疑う者は、神と人とに対して死んだ者である他ないのです。

しかし疑うトマスを、主イエスはそのままにしてはおかれません。ご復活の主イエス・キリストは、彼を、神と人との前に決して死んだままにしてはおかれません。トマスだけではありません。実は、二度もご復活の主のご訪問を受けながら、なお主のご復活を疑ったペトロ始め主の弟子たちを、ご復活の主イエスは忍耐強く、「三度」訪ねてくださいました。わたしたちすべてが、最早二度と、主のご復活を疑い得なくされるまで、十字架の許に蹲っていたわたしたちすべてが、主に抱き起こされ、主とともに主のご復活のいのちに歩み始める者とされるまで、主は忍耐強くわたしたちを訪ね続けてくださいます。それが今日の福音です。

「わたしの主、わたしの神よ」。 ご復活の主が、皆さんとともに。 アーメン。

司祭の言葉 3/31 日中

復活の主日・日中のミサ(B年・2024年3月31日)ヨハネ20:1-9

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエス・キリストのご復活の日の朝早く、マグダラのマリアは、主のおからだが納められた墓を訪ねました。しかし、その墓の内に、主を見つけることは出来ませんでした。ヨハネによる福音は、そのように伝えています。

主イエスにもう一度お会いしたい。主への切ないほどのマグダラのマリアのこの一途な思い。しかし、訪ねた主の墓が空であった時のマリアの驚きと落胆。それは、皆さんもよくお分かりになると思います。

しかし、「その時」と、ヨハネによる福音は、続けて、マグダラのマリアとご復活の主イエスご自身との驚くべき出会いを伝えます。

マリアが「空の墓の外に立って泣いていた」「その時」、彼女は、「マリア」と彼女の名を呼ぶ声を聞いたのです。忘れもしないその声に、マリアは即座に、彼女の言葉で主に、「ラボニ」と、お応えしました。「わたしの先生」と言う意味です。

「わたしの先生」。この短い言葉にマリアの逸る心を感じます。ふたたび見(まみ)えることができたご復活の主イエス・キリスト。主に縋りつきたい。しかしこの時、主はマリアに、「わたしに縋りつくのはよしなさい」と仰せになりました。なぜでしょうか。

マグダラのマリアだけでは無いと思います。実は、気付かないままにわたしたち一人ひとりも、「わたしの」思いの中に、「わたしの」小さな愛の中に、「わたしの」願いの中に、主イエスを求め続けて来たのではなかったでしょうか。

しかしご復活の主イエスは、逆にわたしたちが、「主の」内に、「主の」深い願いの内に、「主の」大きな愛の内にわたしたち自身を見つけることを求めておられます。

主イエスは、エルサレムに最後に入城された直後、神殿での説教で人々に、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネ12:32)と、仰せになっておられました。

このみことばで主イエスは、ご自身の十字架に続くご復活が、聖霊による主ご自身の新しいいのちの始めであるとともに、主の十字架によって主に結び合わされたわたしたち自身の復活のいのちの始めでもあることを、語り示しておられます。そしてそのことを、復活の主イエス・キリストの使徒パウロは次のように語っています。

「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。・・・あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロサイ3:1-4)

ご復活の主イエス・キリストが、マグダラのマリアに、「わたしに縋りつくのはよしなさい」と仰せになられた時、主は、続けて次のように念を押しておられました。「わたしは、まだ父のもとへ上っていないのだから。」(ヨハネ20:17)

ご復活の主イエスは、決してご自分だけが「天の父のもとに上っていないのだから」と仰っておられるのではないと思います。ご復活の主のいのちとともに、マリアの命も、まだ天の父のもとに高く上げられていないのだから、ということです。

しかし、ご復活の主イエスが天の父のもとに高く上られる時、必ずやマリアの命も主とともに、主によって天に高く抱き上げられ、主のご復活のいのちと一つとされます。ただしそれは、マリアが、ご復活の主に「縋りつく」ことによってではありません。ご復活の主キリストが、マリアを「抱き起こし、抱き上げる」ことによってです。

実は、主イエスがマリアと話された『聖書』の言葉では、「復活する」とは、死んだ者、倒れた者が、一人で立ち上がると言う意味の自動詞ではありません。(倒れた者、死んだ者を)抱き起こし、抱き上げる」という意味の他動詞です。主は復活された。それは、倒れ死んでいた主イエスが生き返ったと言うだけではありません。むしろ、倒れ死んでいたのはマリアの方です。そのマリアを、あるいは倒れているわたしたち一人ひとりを、主が抱き起こし、抱き上げてくださる。それが主の「復活」です。

わたしたちのために十字架につかれた主イエス・キリストは、主の十字架のもとに、なお蹲(うずくま)ってしまうわたしたちのために復活してくださるのです。主のみ前に倒れているわたしたちを、死に打ち勝った主の力強い御腕で抱き起こし、さらに高く抱き上げてくださるために。十字架の傷跡のある主の御腕で。

ご復活の主イエス・キリストが、皆さんとともに。  アーメン。

司祭の言葉 3/31

復活の聖なる徹夜祭(B年・2024年3月31日)マルコ16:1-7

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエス・キリストのご復活の日の朝早く、マグダラのマリアたち三人の女性たちは、十字架の後に主のおからだが収められた墓を訪ねました。

そのマリアたちに、神は、最初にみ使いによって声をかけてくださいました。それが今日の福音です。実は、福音書は、さらに、ご復活の主イエスご自身とマグダラのマリアとの感動的な出会いの物語を語り継いで行きます。

ところで、最初にみ使いによってマグダラのマリアたちに出会われた神は、彼女たちに「驚くことはない」、文字通りには「恐れるな」と仰せになっておられました。なぜでしょうか。なぜ、神は、この時、マリアたちに、「恐れるな」と仰せになられたのでしょうか。皆さんは、三人の女性たちとともに、神からの「恐れるな」とのおことばを、どのような思いでお聞きになられたでしょうか。

この時、マリアたちは一体何を「恐れた」のでしょうか。主イエスが納められたはずの墓が、空だったことでしょうか。聖書はそのようには伝えていません。そうではなく、み使いによって、神が、彼女たちに会ってくださった、そのことを、マリアたちは「恐れた」のです。マリアたちは、神を「恐れた」のです。だからこそ、マリアたちに、神は「恐れるな」と仰ってくださったのです。

神に「恐れるな」と仰っていただく。わたしはこの主のみことばに、愕然といたしました。なぜなら、神のこのみことばの前に、わたしは自分自身を問い直さざるを得ないからです。果たして、わたしは、神に「恐れるな」と言っていただかなければならないほどに、真実に神を恐れて生きてきたかどうか。さらに、わたしは、今、この時、果たして、神を、そして神のみを、真に恐れて生きているといえるかどうか。

第二次大戦中、当時ドイツの大学で教えていたスイス人牧師カール・バルトが、ドイツの教会の人々に、クリスマスの説教をいたしました。その題は『恐れるな』。説教の題は、主イエスの誕生を予告する天使ガブリエルが、主の母となられるマリアさまに告げた「恐れるな」ということばから取られました。これはドイツのナチの軍靴の響きが、すでにドイツ内外に不気味な影を落とし始めている中で、恐怖と不安に心が動揺している人々に向けて語られた説教でした。

彼は教会に集った人々に、わたしたちは、今、一体何を恐れているのか、と問い掛けます。ナチの軍隊か。もちろん、そうであるに違いない。しかし、と彼はさらに問いかけます。わたしたちは、み使いに「恐れるな」と言っていただかなければならないほどに、果たして、神を、神のみを恐れているだろうか、と。彼は、この説教を次の言葉で結んでいます。「もし、わたしたちが、真の神を、神のみを恐れることがないならば、その結果、わたしたちは、真の神以外の一切のものを、恐れることになる。」

これは他人ごとでありません。先の東日本大震以来の自然災害、さらに未だ終息に至らない新型コロナ感染症に加えて、日常の些細なことでも、一端事が起これば、自分の身の危険や、さらには自らの死を恐れて心が動転するだけのわたしです。

もし、神から「恐れるな」とのみことばを聞かせていただくことがなければ、「神を恐れる」ことに、思いが及ばなかったようなわたしでした。その結果、「神を恐れる」という人として最も大切なことを忘れ、神を信じると言いながらも、取りとめのない不安と神以外のあらゆるものに対する恐れの中で、わたしは一生を空しく過ごしてしまったかも知れません。

こころから愛していた主イエスの十字架の死。頼りにし切っていたに違いない主の、まったく思いがけない死。主イエスのご復活の朝早く、神から「恐れるな」とのみことばを聞かせていただくその時まで、マグダラのマリアたちの心を占めていたのも、主を失った彼女たちのこれからの生活への不安、さらには、主を失った彼女たちを取り巻くすべてのものに対する恐れでは無かったでしょうか。言い換えれば、真の神以外のすべてのものへの恐れでは無かったでしょうか。

しかし、もうその必要はない。ご復活の日の朝、神はマリアに語られたのです。「恐れるな。」そして時を措かず、ご復活の主イエスご自身が彼女にお会いくださる。

神を、神のみを「恐れる」者から、神は、神以外の一切のものへの恐れを取り除いてくださいます。実はこの神こそ、主イエスにおいて既に親しくわたしたちにお会いくださっておられた神。十字架に至るまで、わたしたちを愛し抜いてくださった方です。この方が、今、ふたたびわたしたちにお会いくださる。それが主のご復活です。

「マリア、恐れることはない」。マリアだけではありません。これは、皆さんお一人おひとりへの、ご復活の主イエス・キリストご自身からの愛と慰めのおことばです。

「恐れることはない」。 ご復活の主が、皆さんとともに。 アーメン。