司祭の言葉 7/4

年間第14主日B年

 大工の子は大工、そんな時代です。イエスを迎えたナザレの人たちは、イエスをよく知っていると思い込んでいました。会堂で聖書の巻物を持ち出す老人も、会堂司も、会堂に集まった人たち皆が、かつてのイエスを知っていました。村に住んでいた皆が家具の修理や家の修理の依頼を、ヨゼフのもとに出し、イエスとヨゼフが力を合わせて仕事をしていたのを知っていました。だから、現在のイエスを受け入れることができませんでした。

 そこに、村人のイメージにそぐわないメシアの出現です。そして言います。大工ではないか。 技術者・便利屋・労働者であったがため、軽蔑しました。
 しかしそれはイエスの栄光なのです。神が地上に来られるとき、例外であろうとしなかったのですから。
 人々の思っていた救い主の出現は、壮大な、みんなを驚かせるような演出の中で行なわれるはずでした。 仲間内の一人であってはいけなかったのです。 髪の毛に鉋屑をつけて働いていた青年であっては幻滅だ、というわけです。(降誕の時もそうでした。認めたのは心の純朴な羊飼い達だけでした。)
 「彼はご自分の家にこられたが、その人々は受け入れなかった。」(ヨハネ1ノ11) 
 イエスの敵は、イエスを十字架に付けて当たり前だと思っていました。
 身内は気が触れたと思い、取り押さえ、拘束衣をつけさせようと思いました。

 私たちも、イエスを知っているけれども、認めないことが多いのではないでしょうか。神のイメージを自分でつくってそれに固執し、もしそのイメージと違う神が現われたら、それを迎えようとしない。
 神を外に捜し求めていませんか。  私たちの中にいるのに――
 神は遠くにいると思うので、目を細めて探ります。私たちのそばを通っているのに――
 キリストは、昇天の日にこの地上から去ってしまったのではありません。
 姿を消すのと 立ち去るというのは、別のことです。
立ち去れば――→当然不在となります。姿を消したというのは、かくれた現存・・を思わせます。
 ただ、姿を隠しただけ――あたりまえの男に変装してここにいるのです。

 祈りの時に、気を散らしました・・・ 良くそんな告解を聞きます。そんなことはたいしたことではありません。道を歩くときに こそ、気を散らしてはいけないのです。キリストとすれ違っているかも知れないのですから・・

 あまりにもよくしった顔ばかり――夫の、妻の、子どもの、姑の、病人の、家なしの、身なりの悪い人の・・・でもそこに、隠れたキリストがおられるかもしれないのです。

司祭の言葉 6/27

年間第13主日 ヤイロの娘の奇跡の話

 会堂司のヤイロがイエスに助けを求めた話です。イエスに最も反対していたのは既成のユダヤ教の指導者たちでした。心がかたくなで、自分たちと少しでも考え方の違う人には反対しました。それは今日に至るまで変わっていません。同じ宗教を奉じる者たちの中での宗教的対立は消えることがありません。日本の宗教の中でもそうです。
 あるときプロテスタントの牧師さんから電話がありました。一人の女性のために払魔式をしてほしいと言うものでした。カトリックの昔の儀式では洗礼前に払魔の式がありました。カトリックの司祭に祈りを願ってきたのですから謙遜な方だと思いました。もちろん承諾しお祈りいたしました。

 ヤイロは会堂司、ユダヤ教の指導的立場にある人です。イエスに助けを求めることをまわりの人たちは反対したことでしょう。それを押し切ってイエスの下に来ました。何としても助けたかったのです。イエスが会堂司の家に行く間に一つの話が挿入されています。その対応をしている間に、「お嬢さんはなくなりました。もう先生を煩わすには及ばないでしょう」との知らせが入ってきました。この知らせがいかにも早いのは、どうしてもイエスに来てほしくなかった者たちがいたからでしょう。

 ヤイロは娘を生かしてほしいと願い、イエスも生かしたいと思いました。そして死んだはずの少女に奇跡が起こったのです。

 今日、奇跡をおこなうことができるのは、お医者さんだと思っています。でも患者はそのお医者さんとの出会いが作れなければ、癒しを受けることもできません。出会いのチャンスを作る。・・その役目なら私たちも引き受けることができます。
 国境なき医師団(MSF)がインドでも支援に当たっていますが、そこから支援を求めて次のような知らせが来ました。

 現場で医療チームリーダーを務めるアパルナ・イェルが、その必要性を語っています。

 MSFがムンバイで支援している薬剤耐性結核の患者の多くは、仕事を求めて地方からムンバイにやって来てスラムに暮らしている人びとだ。コロナで日雇いの仕事がなくなると、故郷に帰らざるを得なくなる。しかしこれは、大切な治療を途中で中断することにつながる。地方では必要な薬を手に入れることが難しいからだ。
そのためMSFは、ムンバイから離れる患者と連絡を取り合い、故郷の保健所に薬を送って治療が続けられるよう支援している。また、電話でのカウンセリングも行い、コロナで仕事を失いながら結核治療を続ける患者たちの心のケアにもあたっている。

 いま、多くの医療資源が新型コロナ対応にあてられているため、結核やHIVなどを患う人びとの治療環境は厳しくなっている。そのような状況下でも必要な治療を続けられるよう、それぞれの患者のニーズに合わせたサポートを行っていく。 

 世界中には助けてほしいと願う人がおり、イエスは助けたいと思っているに違いありません。しかし今それを行うことができるのはわたしたちなのです。

司祭の言葉 6/20

年間第12主日B年

 今日の福音で疑問に思うことがあります。何故ペトロたちは嵐を恐れ、イエスを起こしたのでしょうか・・と言うことです。今回の嵐はガリラヤ湖固有の嵐だといわれています。その地形が嵐を呼ぶのだそうです。

でも彼らは漁師ですよ。何度もそのような嵐には遭遇しているはずです。何をそんなに恐れたのでしょうか。しかも起こした相手はイエス、大工ですよ。船のことなど知っているはずはない。漁師のメンツにかけて、何とかしようと思うはずです。でもイエスを起こした。なぜでしょうか。船を出すように言ったのはイエス、確かに責任はあります。とは言え、疑問です。漁師が白旗を上げたのですから。いくら恐怖にかられたとはいえ、理解できません。あるいは船出したのはイエスのせいなのだからと、文句を言いたかったのでしょうか。

 人間はその誕生以来常に恐怖にさらされてきました。周りの獣たちはみな牙と鋭い爪、そして嗅覚を持っています。弱い人間はいつも逃げ回り、その中で道具を工夫し、火を発見し、文明を発展させ恐れを克服してきました。原初の人間にとって恐怖を持つことは、大切なことでした。それによって身を守り、生き延びてきたのです。
 この恐れを利用し金儲けをたくらむ人たちがいます。オレオレ詐欺がそうです。息子が孫が窮地に陥っている・・そう思わせて、その窮地から脱するためにお金が必要だといいくるめ、お年寄りからお金をだまし取る、許せない輩らです。
 先日は私のところに一通のメールが来ました。私のパソコンを支配し、自由に操作し、ついているカメラも自由に操って、部屋の中をくまなくのぞき見し、動画を撮った。これをインターネット上にばらまかれたくなければ、ビットコインで1700ドルほどを振り込め。そうすればすべてを廃棄し、二度と侵入しないなどと言うものでした。個人情報が流されるという恐れを持たせ、金を奪おうという手口です。

 聖書は「主を恐れることは知恵の初め」・・と言います。(箴言1の7)
 正しい恐れ、それは大切なことですが、むやみに恐れる事、不安にかられることを主は戒めておられます。主がともにおられる限り、わたしたちは主に信頼すべきなのです。
 今日の福音の要点は、イエスが嵐を鎮めたということよりも、弟子たちの弱さを通じて、神への信頼の大切さが語られていることです。

司祭の言葉 6/13

年間第11主日 (マルコ4章26-34節)

 聖書学者エレミアスは、聖書のたとえ話はイエスに対する非難などに対する弁明として語られていると言います。

 イエスの集団は、漁師や税吏、罪びとたちの集まる集団でした。イエスのもとに集まった人々はほとんど病人とその家族のようです。そして、イエスはこの人々を指して、「見なさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」(3の34)と宣言されました。
 神の国のために戦う戦士になろうと考えていた「熱心党のシモン」(マルコ3の18)のような弟子たちは、この現実をどのように見たのでしょうか? 多くの人々から見ればイエスの周りで起こっていることはあまりにも小さく、弱々しい人の群れでしかなく、神の国からほど遠いものに見えたと思います。

そしてイエスは言います。
「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」  
 フランシスコ会訳は「どうしてそうなるかをしらない」
 日本聖書協会訳も「どうしてそうなるのかその人は知らない」同じ文章を、
 講談社のバルバロ訳は「気づかぬままに」と訳しています。
どうしてそうなるかその人は知らない と言う訳と
気づかぬままに と言う訳では かなり意味合いが違います。
 そうなるか・・というのは、成長の理由を指しますが、気づかぬままに・・というのは、そのことに気を配らないうちに・・いつの間にか・・・という意味になります
 ラテン語訳は 「dum nescit ille」 彼が知らないうちに・・いつの間にかです。

 次の「からし種」のたとえ マルコでは野菜 マタイ・ルカは木と表現されていますが、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張ります。
 実は、日本語訳には原文にはない言葉が付け加えられています。 葉と巣です。
 フランシスコ会訳は「その陰に鳥が宿るほど」
 日本聖書協会訳は「その陰に鳥が宿るほど」
 バルバロ訳は「空の鳥が陰に身を寄せるほど」と訳しています。
「からし種」の特徴は、その成長力です。わずか1.5ミリほどの小さな種ですが、ガリラヤ湖畔においては、2.5~3mほどになるそうです。
 神の国も同様、人間の反逆や不従順にもかかわらず、神の働きは続いてゆく。
 そこには達成の日があることを告げています。収穫の日、よき実は取り入れられ、雑草と毒麦は捨てられる。天の御国は、「からし種」のように、小さくて人々に気づかれないものであるが、結果的には、非常に大きなものに拡大し、この地上に満ちわたるものとなることが明らかにされています。

イエスに対する周りの人たちの非難や中傷、そんな中でイエスは今日のたとえ話を語っています。焦らないで神に任せなさい。神の業は素晴らしい・・そうは聞こえませんか。

司祭の言葉 6/6

キリストの聖体B年(マルコ14章12-16, 22-26節)

 司祭になって間もない40数年前、箱根の強羅温泉でベテル聖書研究会という、講師養成講座に参加しました。カトリックとプロテスタント両方が参加したエキュメニカルな研修でした。
 一週間の研修が終わって帰るバスの中で、隣に座ったプロテスタンド教会の牧師が話しかけてきて、しみじみと、カトリック教会はご聖体があるからうらやましいといいます。いつもキリストの現存を感じることができる。プロテスタントは最後の晩餐の記念はするが、終われば何も残らない。カトリックは神の恵みのしるしとしてのご聖体がいつも聖堂に安置されているので、いつもそこで神の現存を感じることができる・・・とも。

 お寺さんに行くと、本堂には仏像が置かれ礼拝の対象となっています。ご本尊と言うこともありますね。ご本尊と言う言葉を調べると、「ご本尊と言うのは寺院や仏壇の中で中央に安置している、信仰の大切な対象となるものです。同じ仏教でもそれぞれの宗派やお寺によって、ご本尊は異なります。例えば浄土宗ではあみださまのほか「南無阿弥陀仏」の名号をご本尊とすることもあります。日蓮宗では「南無妙法蓮華経」を中心とした曼荼羅を安置します」とあります。

 ところで私たちの信仰の対象であるご聖体は「ご本尊」でしょうか?
 どう思われます?
 所沢教会は今小手指と言うところにありますが、かつては、今のNTTのある「星の宮」と言うところにありました。今から47年前の話です。当時の岡神父さんはNTTに請求する移転費用の中に、ご本尊の移動のお金も入れました。私たちの信仰の対象ですから。
 NTTはカトリック中央協議会のほうに、「ご聖体はご本尊かどうか」という問い合わせをしました。返事は、「ご本尊ではない」というものでした。そして移転費用は出ませんでした。
 ご本尊かどうかは別として、ご聖体は私たちの信仰の根幹にかかわるものです。

 申16章には過ぎ越し祭の記述があります。
 「アビブの月を守り、あなたの神、主の過越祭を祝いなさい。アビブの月のある夜、あなたの神、主があなたをエジプトから導き出されたからである。あなたは、主がその名を置くために選ばれる場所で、羊あるいは牛を過越のいけにえとして、あなたの神主に屠りなさい。その際酵母入りのパンを食べてはならない。七日間酵母を入れない苦しみのパンを食べなさい。」 (青穂の月 カナン人の暦の古い呼び名 バビロン歴では1月 ニサンの月 太陽暦の3-4月) 

 今日の福音は、イエスと弟子たちとの最後の晩さんが「過越の食事」であったとはっきり述べています。新約聖書は、イエスの受難を過越祭と結びつけ、イエスの死が人々を罪の支配から解放し、神との和解をもたらす「新しい過越」の生贄であると考えています。

  「パンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えた」 
 イエスはここで特別なことを言いました。「これはわたしの体である」 ・・「これはわたしだ」という意味です。これを食べることは、イエスと一つに結ばれることなのです。

 また、「契約の血」は今日の第一朗読、出エジプト記24章8節にある言葉です。
 「これは・・・わたしの血」、ここには「多くの人のために流される」という言葉が加えられています。「多くの人」はヘブライ語的な表現で、意味としては「すべての人」ということで、イエスは自分の死を、すべての人の救いのための死であるとおっしゃっているのです。

 古い契約は十戒と言う10の掟を定めました。 そして新しい契約は「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」というただ一つの掟を私たちに示しています。

 私たちはご聖体をいただき、イエスと一つに結ばれることによって、この掟を守ることが可能となるといってもよいでしょう。イエスのように愛する・・・並大抵のことではありませんから。

 「新しい契約」はイエスによって実現しました。 しかし、最終的にわたしたちが神と完全に一つに結ばれるのはまだずっと先のことです。そこに向かって歩むための糧として、ご聖体が与えられている事を感謝し、おそれずに主に近づきたいと思います。

司祭の言葉 5/30

三位一体の主日B年

 復活、主の昇天、聖霊降臨と祝日は続いて、今日は三位一体の祝日となります。

 福島市の桜本寺の住職 佐藤老師に一枚の系図を見せていただいたことがあります。
 悟りを開いたものにそのしるしとして印可と言う証明書が与えられますが、その印可が、達磨禅師から何代目の弟子によって与えられたものかを示す、悟りの系図です。
 それはまた、老師として次の弟子を指導してもよいと言うしるしにもなります。

 しかし、キリスト教では、悟ったものにだけ洗礼を授け、弟子にするのではありません。
司祭職も、按手によって与えられるもので、悟りを求めるものでもありません。

 今日の福音の、「しかし疑う者もいた」・・と訳されている部分ですが、原文は、「しかし彼らは疑った」です。
 日本語的には・・「みんなが疑った」と言う意味になるでしょう。

 教会は、弟子たちのように疑っていても、イエスの復活を信じイエスに従いたい、イエスのように愛に生きたいと思うもの、疑いは有っても信じたいと思うものには、洗礼を授け弟子にしています。

 この洗礼は父と子と聖霊の名によって授けられます。
 救いの歴史は父と子と聖霊の共同作業なのです。

 それを如実に示しているのが、第4奉献文です。 
 今日は第4奉献文でミサを捧げたいと思います。

 その叙唱では、
 あなたは溢れる愛、命の泉、万物の作り主・・と、創造者としての神を称え、

 奉献文の中では、
 人が神に背いてからも、慈しみの手を差し伸べ、人とたびたび契約を結び、救いを待ち望むように励まし、

 時が満ちると、ひとり子を遣わしたこと。
 ひとり子は聖霊によって人となり、父の計画を実現するために死に身をゆだね、復活して死を滅ぼしたこと。 

 そして、信じるものに聖霊を遣わし、聖霊はイエスが天に昇られた後、世にあってその技を全うし、全てを聖なるものになさいます・・・と、称えています。

 ここには、救いは三位一体のなせる業であることが、示されているのです。

司祭の言葉 5/23

聖霊降臨の主日B年

 今好んで見ている番組があります。  イチケイノカラス  検事もの、刑事もの、弁護士ものなど、いろいろありますが、裁判官ものと言うのはあまりなかったように思います。弁護士物はたくさん作られています。依頼者が途中で投げ出し放棄しようとしても、熱心な弁護士が依頼者を説得し裁判に勝利する・・など。

 きょうの福音の箇所は、最後の晩さんの席でイエスが語られた弁護者を送ると言う約束です。「弁護者」はギリシア語で「パラクレートスparakletos」です。
 「パラpara」は「そばに」、「クレートス」は「カレオーkaleo(呼ぶ)」という動詞から来ていて「そばに呼ばれた者」の意味です。
 ヨハネの第一の手紙2章1節には「御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」という言葉があります。

 システィーナ礼拝堂正面壁画には、ミケランジェロの最後の審判の絵が描かれています。そこにはイエスが審判をしている様子が描かれていますので、審判者としてのイエスのイメージが強いかもしれませんが、イエスはご自分の血をもって私たちのために執り成しをしてくださったのですから、イエスこそは第一の弁護者なのです。
 そこで、今日の福音書では、イエスの約束として、聖霊について「別のパラクレートス」という言葉が使われています。
 教会が祈るときにいつもイエスの名によって祈るのは、イエスこそが第一の弁護者、とりなすお方だからです。

 ペンテコステに始まる教会の誕生は、大きな試練の始まりでもありました。試練に立つ教会は弁護者の助けを必要としていました。
 イエスは迫害の予告をしてから、弁護者としての聖霊を約束しています。そして言うべきことは聖霊が教えてくださると勇気づけます。

 弁護者である聖霊は、現代に生きる私たちにも派遣されています。私たちがどの様に歩むべきかを迷い途方にくれたときに、聖霊は「助け手」となって、真理を悟らせます。神は聖霊を遣わしてイエスが語られた言葉をわたしたちにも思い起こさせます。そのような体験は無いでしょうか。

 キリストを信じるものは、天と地の両方に「弁護者」を持ち、父と子と一緒に住むことを許されていると言うことを、忘れないようにしましょう。

司祭の言葉 5/16

主の昇天

 現在はロケットで頻繁に宇宙に飛び出す時代です。今の子供たちはこのご昇天をどのようにとらえるのでしょうか。いや皆さんはどうでしょうか。

 ソ連の宇宙飛行士ガガーリンは、人類初の有人宇宙飛行士として、1961年ボストーク1号に乗りました。 その言葉として知られる「地球は青かった」は、1961年4月13日付けのイズベスチヤに掲載された言葉によるものです。
 ガガーリンの地球周回中の言葉として報道され、有名になったものとして「ここに神は見当たらない」というものがありますが、記録にはその種の発言は一切残されていないそうです。

 ビデオのルカによる福音では、イエスの目から見て地上がぐんぐん小さくなってゆきやがて雲が周りを覆う映像でイエスの焦点が表現されています。
 使徒言行録は、イエスが雲に覆われて彼らの目から見えなくなったと表現しています。
 神の 栄光 のうちに入られたことを、雲という言葉で示しているのです。 天は場所ではありません。 だから何故天を見つめて立っているのかと言われたのです。

 栄光は ヘブライ語もギリシャ語も 「重い」が本来の意味で荘重 威厳 卓越性を意味するようになり、聖書で言う 神の栄光は、神の卓越性を意味しています。
 イエスはご自分の十字架によって神の卓越性を示しました。
 神の栄光とは 一人子を与えるほどの神の愛そのものです 

 旧約において、神の栄光はエジプト脱出の時 もえる芝の中とにあらわれ、シナイのもえる炎の中にあらわれましたが、新約において、その栄光はキリスト誕生と十字架 復活を通して現れ、その昇天を持って完成するのです。

 フィリッピ人への手紙は(2の6~11)次のように言います。

キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしくして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。

 このことから教会の典礼では、昔からの伝統的では、栄光の賛歌のときに、イエスの名がてくると式長は司祭の方を向いてレベレンチアといい、皆頭を下げます。

 神と人との隔ての幕を取り去られた主は、天にのぼられ、わたしたちの中に住まわれます。キャンドルの火は消され、私たちの心のうちに復活の火を移します。
一人一人はそれぞれ聖なる宮を携えているのですが、多くの人はその宮に入ることを忘れているのです。

司祭の言葉 5/9

復活節第6主日B年        

 今日のみ言葉は、「わたしがあなた方を愛したように互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」と言うものです。主が最後の晩餐の食卓で語られた遺言です。マタイマルコルカは聖体の制定を最重要な出来事として伝えていますが、ヨハネは3人の書き残さなかった別れの言葉を詳細に伝えています。

 私はジャズを聴きながら、ショットバーの隅っこでパイプの香りを楽しみながら、ウイスキーを飲むのが好きです。ジャズがわかるわけではありませんが、その雰囲気が好きなのです。でもコロナで、春日部に来てからは一度も出かけていません。
 ウイスキーを飲むときには先ずはストレートです。ウイスキーの味の違いがよくわかりますから。水割りもおいしいし、何杯も飲めますが、ストレートを頼むと必ず水も出てきます。水を飲んでリセットして別なウイスキーを飲む、味を比べて楽しみます。
 もちろん日本酒でも違いが分かって面白いと思います。中村神父は日本酒の利き酒の会に入っていました。でも私は日本酒ですと悪酔いしてダメなので、もっぱら洋酒です。

 なぜこんな話をしたかと言うと、私たちはイエス様の話をいつも水割りで聞いているのではないかと思ったからです。水割りは美味しいんですよ、何杯でも飲めるんです、軽いから。でも、いつも水割りでは本当の味がわからない。ストレートを飲んでみなくては。

イエス様が言葉と行いで説いた愛は 当時のユダヤ社会にとって革命的新しさをもっていました。挨拶をくれないひとに挨拶しなさい。 お返しの出来ない人を宴会に招きなさい。 上着をほしがる人には下着も与えなさい。 敵をゆるし迫害者のためにいのりなさい。・・・これらのどれかをそのまま実行してみたことはあるのでしょうか。
 旧約でも神と隣人への愛は重要な掟でした・・・しかし、それは自分の不利益を犠牲にするほどの隣人愛ではありませんでした。良きサマリア人のたとえの、祭司とレビ人のとった行動にそれをみることができます。

 イエス様の掟は「互いに愛し合いなさい」ですが、「私があなた方を愛したように」と条件があるのです。 ここが難しいところです。命を与えるほどに愛したのですから。

 私たちは命がけで隣人を愛しているのでしょうか。まず自分を安全圏に置いてから愛しているのに気づかされます。 それでは命がけとは言えません。

イエス様は、旧約の掟でどの掟が大事か聞かれたとき、第一の掟として「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という申命記6の5をとりあげ、次に第二の掟として「自分自身を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」というレビ記19の18をとりあげています。ですから、まずしっかり自分を大切にしなければいけないのです。 それから、自分のように他の人を愛することになります。

 イエス様のお言葉通りに、ストレートにとれば、自分の10分の1とか、半分とかではないのです。
 わたしたちは週の一日でも、食べるものの無い人に、自分の食べるものの半分を分かち与える努力をしているのでしょうか。
 この原稿を書いている最中、国境なき医師団からSOS 「感染力は新型コロナの10倍近く 、はしかの再流行で子どもたちの命が危機に」と言うニュースが飛び込んできました。 そこには、「2018年から2020年にかけて、コンゴは史上最悪のはしかの流行に見舞われた。わずか2年で46万人余りの子どもがこの病気にかかり、8000人近くが死亡。その4分の3は5歳未満だった。」とありました。 困窮する兄弟たちの声に耳を傾けてみませんか。

 強制されてすることではありません。イエスの勧告に従って、私たちが選ぶことですが、一度くらい徹底的に、イエスの言葉通りにしてみてはどうでしょうか。そうすればイエスの言葉が腑に落ちます。 

司祭の言葉 5/2

復活節第5主日B年

 イエスはわたしにつながっていなさいと言われます。
・・・ぶら下がってじゃないことに感謝します。子供大はぶら下がるのが大好きです。幼稚園。の子供たちは、お猿さんみたいに庭の雲梯というアーチ形の鉄棒を渡って行きます。私も小学生のころには好んでこの雲梯で遊びましたが、今はもう無理です。腕の力がなさすぎますから。最近久しぶりにぶら下がり健康器にぶら下がってみたら15秒ほどでダウン。その点スポーツクライミングする人にはただ驚くばかりです。

 イエス様は私につながっていなさいといわれますが、ただつながっているだけではだめなんです。そこのところがポイントなんですね。
 まず、枯れ枝ではだめですね。当たり前ですけど。
 そして実のならない枝もダメなんですね。「私につながっていながら実を結ばない枝は父が取り除かれる」とあります。

 イスラエル民族が、今のパレスチナ、かつてカナンと呼ばれていた土地にエジプトを脱出してやってきたときに、乳と蜜の流れる良く肥えた土地であることを示すために、斥候はそこのブドウの一房を担いできました。巨峰よりも大きな実がたわわになっていたといたといいます。
 ブドウはイスラエルにとって神の恵のシンボルでした。マカバイ王朝の紋章はブドウの木でしたし、神殿の栄光の一つは聖所の前面にある大きな黄金のブドウの木だったと言います。  イエス様がよく話されたカペナウムの会堂の門には、ダビデの星、ソロモンの星とともに、一房のブドウが刻み込まれていました。

 旧約聖書にはブドウの木のたとえが沢山出てきます。でもいずれも、預言者を通じて、神の嘆きの対象として出てくるのです。 
 「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑、主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁きを待っておられたのに見よ、流血。正義を待っておられたのに見よ、叫喚。」(イザヤ5の7)
 わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる確かな種として植えたのにどうして、わたしに背いて悪い野ぶどうに変わり果てたのか。(エレミヤ2の21)

「イスラエルは伸びほうだいのぶどうの木。実もそれに等しい。実を結ぶにつれて、祭壇を増し、国が豊かになるにつれて、聖なる柱を飾り立てた。(ホセア10の1)

 イエス様は良い実を付けないイスラエルに代わって「真のブドウの木」となります。  このブドウの木の実りは、父である農夫の働きによってもたらされます。
 農夫は実りのために心を砕いて枝に手入れをします。この農夫の働きに身をゆだねるとき、枝はよい豊かな実を付けることが出来ます。そして、父と人を結ぶ絆は「わたし」すなわちイエスなのです。

 でも実をつけない枝は切り取られてしまいます。切り取られた枝は何の役にも立ちません。神殿ではある時期、生贄を焼くための薪になる木を持って行くことになっていましたが、ブドウの枝は持ってきてならないと定められていたということです。何故でしょうか。火力が弱すぎるからです。

私の部屋の前には、アケビの棚があります.樹勢が強くどんどん伸びますから剪定をします。春先のはだめですが、秋の枝は丈夫でよくしなりますので、かごなどを編むのに使うことができます。でもぶどうのつるは折れやすく弱いのでそのような役にも立ちません。ただ集めて焼かれるだけです。
 
 さて、イエス様の驚くべき言葉は、イエス様も私達につながっているという約束です。「私はブドウの木」ということばの、その中央の、3~4節には「わたし」の働きが語られています。 「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」 イエスの言葉には、弟子達を清くする力があります。それはイエスが神にとどまっているからです。

 2節「手入れをなさる」は原文では、3節の「清くなっている(カタロスkatharos)」という形容詞から派生した動詞で、「清くする」が普通の意味ですが、「枝を清くする」というのは「刈り込む」「剪定(せんてい)する」ことを表しているそうです。

「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」も「イエスの言葉によって刈り込まれる」というイメージなのでしょう。 イエスの言葉は、わたしたちにとって時として厳しく、痛いことがありますが、それが自分にとって大きな成長のチャンスでもあった、そんな経験があるのではないでしょうか。
 そして、キリスト者はイエスの言葉によって「すでに清くなっており」、そのようなものとしてイエスにとどまり続け、うちにもそとにも、その実を示すのです。

 もう一度思い起こしましょう。実のならない枝は、刈り取られるのです。この実を結ぶとはどういうことか、考えてみましょう。花芽の無い、葉だけ茂らせる枝は刈り取られるのです。