司祭の言葉 12/5

待降節第2主日C年

 戸田のボートレース場から続く広い道があります。オリンピック道路と呼ばれています。1964年の東京オリンピックの時につくられました。
 わたくしが小学生の時には、母校に、昭和天皇を迎えるために、道路が整備されました。国賓などを迎えるときにも道路が整備されることがあります。

 今日の福音に引用されているのは、イザヤ書の40章の言葉です。当時、イスラエルは国を失った状態でした。エルサレムの神殿は破壊され、おもだったひとびとはバビロンに捕囚となって連れ去られていました。異国の地で人々は故郷を思い涙していましたが、イザヤは必ず祖国に戻れる日が来ると勇気づけました。
 イザヤのこの預言はバビロンに代わってペルシャが支配するようになったときに実現しました。エルサレムの神殿の再建が許され、捕囚の地から戻ることができたのです。

 広い大きな道はイスラエル人にとって忌まわしいものでした。アッシリア軍もバビロン軍もギリシャ軍もローマ軍もみな広い道を通って攻めてきました。バビロンには広い道があって、軍隊は凱旋してくるときにその道を通りました。
 特にローマ軍はすべての道はローマへ通じると言われるように、ローマから舗装された道を支配地に向かって整え、途中に駐屯地を置き、戦車を配置し、いったんことあればその道を通って鎮圧に赴きました。そしてそのためにローマ時代にはローマの平和という軍事力を背景にした平和が訪れたのです。

 そしてこの道を通って、使徒たちにより、イエスの福音は世界中にもたらされました。
 ルカはこのイザヤの預言が、今こそ実現したと思ったことでしょう。

 ところで今私たちにとって、広い道を通すということは、どのようなことでしょうか。
 バプテスマのヨハネの招きに従い、悔い改めることです。
 イエスの掟は愛の掟です。この掟が自分のうちで守られているのかどうか。
 無関心をやめ、時のしるしを見分けて、今必要とされていることに関心を寄せて、自分にできる事を、少しでも実行する努力をすることではないでしょうか。

 コロナ下の社会の中で、自分の周りだけではなく、世界の中で置いてけぼりになっている人たちを思い、そのために何かをする、それが道を整える事と言えるのではないでしょうか。

 ルカ福音書の中のヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ。下着を二枚持っているものは、一枚も持たないものに分けてやれ。食べ物を持っているものも同じようにせよ。」そのように勧めます。
 イエスに従う、従うと言いながら、実は無視しているということは無いか、もう一度自分の生き方を見つめなおしてみましょう。

司祭の言葉 11/28

待降節第1主日C年 (ルカ21章25-28,34-36節)

 今日から待降節に入りました。
 待降節はラテン語では「アドヴェントゥス」で「到来」を意味しますが、この到来には二つの意味があります。

 一つにはまず、神の子の第一の来臨、クリスマスを待ち望む期間です。
 ・・・楽しい思いをする、喜びを手に入れる、そのためには待つことが必要です。
 並んで待つのがどうも苦手。だからおいしいものも口にすることが少ない。
 スイーツ、ラーメン、デパートの人気の食堂
 子どもの頃はクリスマスが待ち遠しくて仕方が無かった。その時を迎えるために、リースを作ったり、ツリーを飾ったり、馬小屋を作ったりいろいろ準備をしてその時を待ちました。
 きれいな靴下も用意して・・・
 大人になった今はどのようにその時を準備すればよいのでしょうか。

 待降節のもう一つの意味は、神の子の到来の追憶を通して、終末、世の終わりにおけるキリストの第二の来臨を待ち望み、そのことに心を向ける期間でもあります。
 黙想会はこの第二の来臨を準備します 

 今日のテーマは目覚めていなさい・・ということです。
教会で仕事をしていたらチャイムが鳴る。出てみると本を手にした女性。
世界中で読まれている本の紹介に来ましたといいます。すぐ判りました。「めざめよ」という本を持っています。 ものみの塔の小冊子、エホバの証人です。

その主張は  ●イエスキリストはエホバ神が最初に作られた被造物
       ●父より低いので神ではない・・・というものです。
 でも会員の活動は驚くべきものがあります。 教会までにも来るのですから。

 今日の終末的福音を耳にして、多くの方々はまた、東日本大震災とその後に起こった福島原発の事故を思い起こしたことでしょう。
 そして、行政のあるいは電力会社の言い訳として、想定外という言葉がたびたび使われました。東日本にあのように大きな地震が来ると言うこともみな考えませんでしたし、あのように大きな津波が来ると言うことも考えませんでした。防災地図の津波想定の範囲を超えて大津波が押し寄せました。皆、ここまでは来ないと考えていましたし、防波堤を越える津波も想定していませんでした。原子力発電所の電源が全て失われると言うことも想定外でした。
 また今回のパンデミックにあたって、すでに2年が経過しているのに、日本製のワクチンはまだ出来上がっていません。基礎研究に十分な予算がつけられていなかったせいだとも聞きます。また、増え続ける医療費削減のため、保健所の数も平成元年の848から昨年は469と半減させたため、感染者特定作業の処理能力の限界を超え、政策の見直しを迫られています。

 いずれも想定外でしょう。 でも、今日の福音は想定外という言い訳をしてはいけないと、いつも備えているように戒めます。

 「太陽と月と星に徴(しるし)が現れる」というような天体の異変は、イザヤ13章10節、エゼキエル32章7節、ヨエル2章10節などにも見られます。
 これは、人間の罪に対する神の裁きの到来を表す表現です。

 現代のわたしたちが思い描く世界の終わりは、世界全面核戦争であったり、地球環境の悪化による人類の滅亡であったりして、破滅そのものであり、そこには何の救いも感じられないかもしれません。

 しかし、聖書の終わりについてのメッセージは同時に救いの完成のメッセージでもあります。なぜなら、その時が神との出会いの時でもあるからです。

 28節に「解放の時が近いからだ」とあります。解放とは、ギリシア語では、「アポリュトローシス」 「身代金を払って奴隷を解放する」という意味です。わたしたちは何の奴隷となっているのでしょうか。何に縛られているのでしょうか。 
 この世界の混乱に対する不安。この世界の悪の現実、戦争や犯罪や暴力という現実、
 さらには、「放縦(ほうじゅう)や深酒(ふかざけ)や生活の煩(わずら)い」(34節)それらが私たちを縛り、心を鈍くし、周りの事柄に無関心にしているとも言えます。

「いつも目を覚して祈りなさい」の「目を覚ましている」ということはどういうことでしょうか。マルコ、マタイ、ルカの各福音書ではそれぞれにニュアンスが違うようです。

 マルコ13章では、偽預言者に警戒するように、目に見えるものではなく、決して滅びることのないイエスの言葉に信頼を置くように、という勧告ですし、

 マタイ24-25章では、最終的に「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25章40節)というイエスの宣言につながっていきますので、「目を覚ましている」ということは、現実の生活の中で目の前の苦しんでいる人を大切にして生きることといえます。

そして今日のルカ福音書では、目を覚ましていることを祈ることと結びつけますので「目を覚ましていること=祈ること」と言っても良さそうです。
 「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くなる」というのはおそらく誰の中にもあることでしょう。 しかし、その時なって想定外という言葉を口にすることのないように、心しておくべき大切なことがらに心を向けさせるのが「祈り」なのです。

司祭の言葉 11/21

王であるキリスト Jo18章33節~37 B年

 今日の朗読個所は、大祭司たちがイエスを尋問した後、ローマ総督ピラトにイエス様を処刑させるため総督官邸に送り、これを受けてピラトがイエス様を取り調べるくだりです。

 ピラトは、いつもは地中海に面した港町カイザリアに住んでいますが、過ぎ越祭のように大勢の群衆がエルサレムに押し寄せる時期には、不測の事態に対処するために、エルサレムのヘロデの宮殿か、あるいはアントニア要塞に官邸を置いていました。
 彼はローマ人ですからユダヤ人の政治的な動向には細心の注意を払っていましたが、信仰上のもめ事には全く関心を持っていませんでした。そこで大祭司たちは政治上の問題として訴え出たのです。自分を「王だ」と言っている謀反人だと。

 王と言っているとすれば大問題です。王の任命権はローマにありましたから。
 ピラトは、「お前がユダヤ人の王なのか」と切り出します。「お前が」と、強調されています。目の前の人物は予想とは違った、みすぼらしい無力な人物であり、とても「王」とは云えない姿に驚き、軽蔑の心をにじませながら「お前のような者が王だというのか」と口に出したのです。

 ピラトはこれまで、多くのユダヤ人の問題を尊大な軽蔑の念を抱いて処理してきました。

 しかし、イエス様をそのようには処理しませんでした。物語を読んでゆくと、ピラトは自分の理解できない状況の中で、とまどい、あがいているのがわかります。

イエス様はあからさまに、「私の国はこの世には属していない」と言うことによって、自分は王である、しかしそれは、地上のものではないと定義を下します。
 エルサレムの空気は、常に爆発の危険をはらんでいました。過ぎ越祭りの時期は民族意識が高まって、ものすごい、一触即発のダイナマイト状態となりました。ローマ政府はそのことを良く知っていました。そこでいつもこの時期は、臨時の軍隊をエルサレムに送り込んでいました。
 もしイエスが暴動を起こそうと思ったら、志願兵を募ったなら簡単に成功したと思われます。ピラトは、どんな時も3000人以上の軍隊を持ちませんでした。その一部は本部のカイザリアに、一部はサマリアに置かれましたから、エルサレムで実際の任務に当たっていたのは数百人でした。

 イエス様はここで、自分が王であることを明らかにしながら、同時に、自分の王国が軍事力でなく、人間の心の中の王国であることを明らかにしています。

 ここでイエス様は自分が何故世に来たかを述べます。神についての真理、人間そのものについての真理、人生についての真理を教えるために来たと。

 これこそ、まさに、わたしたちがキリストを受け入れるか拒絶するかのどちらかを決めなければならない大きな理由です。

 真理について中途半端な道は許されませんから
 人はそれを受け入れるか、拒絶するかのいずれかになります。
 そして、キリストがその真理なのです。

 私は王と言う言葉が好きではありません。この世の王は、力によって弱いものを従属させる、そのような王ですから。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず・・」という有名な言葉があります。福沢諭吉の「学問ノススメ」冒頭の言葉です。王と臣民・・・ここに貧富の差や人種差別、貴賤と言った差別の原点があるとみるからです。

 聖書における王の起源は、神こそは王であるというものです。このお方はすべての人を神の国へと招き入れます。人々がこの世の王を求めた時、神こそが王でありこの世の王は必要ないとさとしましたが、人々は人間の王が欲しいと聞き入れませんでした。(サムエル記上8章)

 わたしたちはキリストを王としていただいています。
 今日はそのことを忘れないための日です。
 わたしたちは、・・・武力によってではなく、人々の心を愛によって征服する務めをもつキリストの、愛の兵士です。

 「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」
(1コリント9ノ16)
 と言ったパウロにならい、わたしたちもまた、一人一人の心の中にこの福音を述べ伝えたい、との思いを新たにしたいと思います。

司祭の言葉 11/14

年間33主日

 教会の典礼暦年は終わりに近づいてきました。朗読は週末について考えるように求めています。今日の箇所はエルサレムに入城し壮麗な神殿に感嘆している弟子たちに対して、エルサレム滅亡を語ったお話です。

 このような苦難の後とは、・・聖書と典礼の解説に述べられていますが、今日の朗読箇所の前13の5から23には、戦争や迫害、天変地異や偽メシアの出現など、終わりの日に起こる苦難のことが語られています。
 その後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる・・
とありますが、この表現は当時の人々が用いていた終末的表現で、イエス様もそれをそのまま用いて、人々の目を終末に向けようとしています。
 主なる神は言われる、「その日には、わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗くし、
アモスの預言8の9

 地は彼らの前におののき、天はふるい、日も月も暗くなり、星はその光を失う。
ヨエルの預言2の10

 わたしはあなたを滅ぼす時、空をおおい、星を暗くし、雲で日をおおい、月に光を放たせない。                         エゼキエルの預言32の7

 そしてその時とは、再臨の時であることが示されます。
「そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」

 イエス様はイチジクの木を譬えにして、キリストの再臨の確かさについて語っています。イチジクは冬になると葉を落とし、夏の近づきとともに葉を茂らせます。そして人々は、それを見て季節の変化を感じ取ります。

 戸口に近づいていると言う表現は、終末はすぐそこにきている事を示します。それは、
天地が滅びても私の言葉は決して滅びない・・・というほど確かな事なのです。

しかし、確かで近いその日は、父の他は誰も知り得ません。
子も知らないというものをわたしたちが詮索するのはむだなことであると示されます。
必要なことは、いつも目覚めていることです。

 終末は救いの時なのですから、不安のうちに待つのではなく、熱心に待ち望みながら ・・ (御国が来ますように)今日の一日を目覚めて生きる事が必要なのです。
 わたしたちは、先のこともわからないのにずーと先のことまで考えていますが、人は無意識のうちにも、永遠に生きると言うことを自覚しているとも言えます。

 施設におりますと3年ほどに一度、県の監査がはいります。その時には、入居者の記録を丹念に読んで行きます。ですから、毎日の記録はきちんとつける必要があります。そして一人一人のケアサービス計画が立てられているか、半年に一度は、その見直しがなされているか、一人一人の大目標、小目標の設定、支援計画の見直しがなされているかなどをチェックして行きます。ですから毎年いつ監査が来ても大丈夫なように備えています。

人類滅亡などと、そんな大それた事を考えなくても、私にとってのこの世の終わりは必ず来ます。まずは、自分の死によって・・。 私たちの死亡率は100%ですから。

 私たちの大目標とは何でしょうか → 必ず、神の国にはいることです。
その為の小目標は設定されているのでしょうか。 いろいろあると思いますが、その一つは・・・常に神を大切にし、神に感謝することです。
 忙しい、たのしい、あるいは、つらい一日が終わり床につく前に、
 悔いも色々あるけど、今日も一日有り難うございました・・とつぶやけば感謝の祈りとなります。まずは日々感謝することです。

 さらに必要な小目標は、イエスが愛したように隣人を愛するように努めることです。イエス様が命をかけて贖った隣人を大切にすることです。どんなに許せない相手でもイエス様が許したのですから・・・。

 神の助けによって、頑張りましょう。

司祭の言葉 11/7

年間第32主日B年

 エルサレム神殿は縦300メートル横500メートルの城壁があり、その中に建てられた石作りの四角い建物です。異邦人の庭。婦人の庭があり、神殿に入れるのは男子だけ、さらに司祭だけが入れる生贄の祭壇と香をたく場所、その奥に大祭司だけが入れる至聖所があり契約の箱が置かれていました。

 「賽銭箱」というのは、日本の神社の前にあるような四角い木箱ではなく、ラッパ形の容器で、神殿の「婦人の庭」に十三個が置かれていたと伝えられています。各々特別な目的のためで、供えの穀物のため、油のためなど、神殿の費用のためでした。
 具体的にどんなかたちであったのかは分かりませんが、恐らく口が大きく開いていて、お金を賽銭箱に入れた時には音が大きく拡大されて響いていたのではないかと考えられます。
 ついで、やもめについても、理解しておく必要があります。女性の働く職場と言うものがなかったこの時代、独り身になった女性が生きてゆくのは大変でした。旧約聖書のルツ記にも、落ち穂を拾わせてもらって生活するやもめの姿が描かれています。

 ある日のエレサレム神殿です。お金持ちの夫人たちはジャランジャランと銀貨をたくさん入れていました。当時は高額貨幣も硬貨でしたから、重さに比例して音も派手だったかも知れません。やもめが入れたこの時、賽銭箱に響いた音は、正直、ささやかな音だったのではないかと思います。レプタは薄いものと言う意味でした。

当時のパレスチナにはイスラエル固有の貨幣であるシケルの他に、ギリシャ貨幣やローマ貨幣が入り乱れて流通していましたから、ローマ貨幣に馴染んでいる読者のためにこのような説明が必要になったのでしょう。レプトン銅貨は労働者の一日の賃金1デナリオンの128分の一とありますから、Ⅰデナリオンを1万円とすると、今でいえば、やもめが入れたのは160円ほどになります。

 しかし、その音を聞いたイエス様はその光景を見のがしませんでした。おそらく、とりわけ質素な身なりをしていたのだと思います。イエス様の目がいつも貧しい人々に向いていた証拠です。

 レプトン二枚はささやかな金額ですが、やもめにとっては、その日の食べ物を買うための最後の二枚、すなわち生活費の全部だったとイエス様は見抜いています。

その日暮らしのやもめでした。しかも、一枚を自分のためにとっておくこともできたのに、二枚とも投げ入れたところに、このやもめの心が表れています。

 ここでこイエス様が問題にするのは、贈り物の額ではなく、贈り物に伴う犠牲の大きさです。神様が喜ばれるのは私たちの犠牲の大きさなのです。
 そしてさらに目を止めるべきなのは彼女の信仰です。生活費のすべてをと言うことは、自分のすべてを神の手にゆだねたということになります。

 今日のイエス様の言葉を自分に向けた言葉として聞いて、神への応えとして、何か一つ決意をいたしましょう。

司祭の言葉 10/31

年間第31主日 (マルコ12章28b-34節)

 旧約聖書には数え切れないくらい多くの掟(戒め)がありますが、人は、余りに多くの言葉に接すると困惑して「要するに何ですか?」と訊きたくなります。
 今日の所で一人の律法学者が、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」(28節)とイエスに尋ねたのも、同じ気持ちからでしょう。この人なら、少ない言葉で単刀直入に要点を教えてくれるだろうと期待したのかも知れません。

 この問いに答えて、イエス様はまよわずに次の言葉を挙げました。
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。 申命記6章4-5節の引用です。
  神を愛するとはどういうことでしょうか。ここは、本田哲郎訳では「心のそこから、自分のすべてをかけ、判断力を駆使して、力のかぎり、あなたの神、主を大切にせよ」となっています。キリシタン時代の人は「神の愛(ラテン語のカリタスcaritas)」のことを「御大切(ごたいせつ)」と訳したと言われます。「

 申命記ではこれに続いて次の言葉があります。「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額(ひたい)に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」(申命記6章6-9節)。・・・それほど重要な掟でした。

 それに続けて、間をおかず、イエスは第二の掟を挙げます。レビ記19章18節の言葉です。 「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」。
 そして、「この二つにまさる掟はほかにない」(31節後半)と言います。
これは、マタイの並行箇所では「律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている」(22章40節)となっています。

 タルムードの話です。ある異邦人が「ユダヤ教に改宗したい。ただし条件がある。片足で立っている間に律法をわかるように教えてくれ。とラビのシャンマイのもとへ行きます。するとシャンマイは、「一生かかってもまだ完全には理解できないのに」・・・と測り棒でたたきだしました。 追い出された彼は次に、ラビ・ヒレルのもとに行きます。するとヒレルはよろしいと答え、彼が片足で立つと、愛の掟を否定的な表現で「あなたのしてほしくないことは他人にしてはならない。あとは自分で実践して学びなさい」そう答えたといいます。

 ルカの平衡個所(10の27)では、私の隣人とは誰ですかという質問が続き、サマリア人の例えが語られますが、レビ記も決してユダヤ人だけを愛すればいいと教えているわけではありません。

「寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである」(レビ記19章34節)。

ここで、「自分自身を愛するように」と言う言葉に疑問が投げかけられます。
 自分自身を愛せない人はどうするの・・・という問いかけです。
 理由は様々ですが、自分自身を愛せない人もいるのが現実です。

そしてイエス様はそのような疑問にこたえるかのように、新しい掟をくださいます。  「私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13の34)

レビ記の隣人愛の根拠は、寄留者であったあなたたちを神が愛され、奴隷状態から解放された。だから「神があなたたちを愛されたように、あなたたちも寄留者を愛しなさい」ということでした。
 そして新約の根拠は「私があなたたちを愛したように」ということです。

ではイエス様はどのように私を愛してくださったのか
 そこは福音を読み込むことによって、第二のアダム・キリストの生き方に倣うことによって、キリストの愛に触れることができるのではないかと思います。

司祭の言葉 10/24

年間30主日

 目の見えない人の苦悩はいかばかりでしょうか。 
 朝霞の主任司祭だった犬飼い神父さんは、晩年は目が悪くなり、大きなレンズを通して典礼書を見ていましたから、ミサを捧げるにも苦労していました。
 小生も、おととしの春、見えにくくなって白内障の手術を受けました。手術室にいたのは25分ほど、それでも時間のかかった方です。日帰りで翌日には眼帯が外れました。すごいですね、母が手術をしたときには動かないように目に重しを乗せて、二泊ほどしたように思います。おかげで今は、レンズが入っていますので、視力は1.2あります。
 目の見えない自分を想像することができません。人間の情報の80%は目から入るのだそうです。とても不自由で、不安だと思います。

 今日の聖書の言葉は、ティマイの子・バルティマイのお話です。
 当時目の見えない人が生きてゆくのは本当に大変でした。障害は罪の結果だと考えられ、障害者は罪びととして差別されたからです。視力を失った彼は、道行く人に物乞いをするほかには、生活の糧を得る方法がなかったのです。

 バルティマイはどんなに目が見えなくても、誰よりも早くイエス様の足音を聞きつけました。手探りをしながらでも駆けつけようとしました。彼の目は閉じられていましたが、霊的な目ははっきりと開かれていて、目が見えないと言う障害も、イエス様に近づくための障害にはなりませんでした。また、彼の切実な叫びをだまらせようと制止するまわりの力に対しても、バルティマイは屈しませんでした。それどころか、彼はますます叫び続けたと書かれています。

 イエス様はエルサレムの途上にありました。そしてエリコの町に入ります。ここからはあと24キロほどです。
 弟子たちはイエス様を囲んで話を聞きながら道をたどっていました。
 逍遥学派という言葉があります。アリストテレスが創設した古代ギリシャの哲学者のグループで、逍遥(散歩)しながら講義を行ったからです。
 私の神学生の時も、夕食後は庭を、先生を囲み逍遥しながら、多くの話を聞きました。イエス様も歩きながら多くのことを教えたのです。
 大事な話を聞き漏らすまいとしていた弟子たちにとって、バルテマイの、イエス様を呼ぶ声は邪魔だったのでしょう。多くの人が叱りつけて黙らせようとしたとあります。

 救いに飢え乾くバルティマイの切なる願いさえ、周囲の人々は非情にもさえぎろうとしましたが、でもイエス様は、道端に座り込む者の苦しみにも目を留めるメシアです。その叫びを聞き彼を呼びなさいと命じます。

 彼は上着を投げ捨て、躍り上がってイエス様のところに来ました。この上着は、夜は彼のからだを寒さから守る唯一のものであり、昼間は投げられる硬貨を一円でも失われないよう確実に受け止めるため、ひざの上にいっぱいに広げられていたものだろうと思います。それは彼にとってなによりも大切なものでした。
 それなのに彼は、自分の持ち物も安全も手放すかのように、イエス様のもとに向かいます。メシアとの出会いは唯一の上着をも投げ捨てるほどの喜びでありました。

 私たちはどうでしょうか。イエス様のように小さき者の声に耳を止めているでしょうか。私たちも心の目が見えないのではないでしょうか。
 そしてバルティマイの信仰をご覧になり、癒しはなされました。

 ここに私たちの模範とすべきものが、示されています。 

先ず、バルティマイの本気さ。 
 漠然とイエスに合いたいと言うのではなく必死の願いでした。
次いで、イエスの召しに対する応答は即座に、熱心になされました。
 そのため大切な、でも今は邪魔な上着を脱ぎ捨てたのです。
 多くの場合私たちはやりかけたことを終えるまで待とうとしますが、バルティマイは
 イエス様が呼んだ時、弾丸のようにやってきました。
そして、ただ一度しか起こらないチャンスというものがあります。
 時々間違った生活を精算し、イエスにもっと自分を捧げたいと思うことがありますが、
 しかし、その瞬間にそれを行動に移すことをしない。
 そして機会は去り決して戻ってこないのです。
最後に、バルティマイは感謝の人でした。
 道ばたの乞食でしたが、見えるようにして貰って彼はイエスに従ったのです。

司祭の言葉 10/17

年間29主日B年

 歴史を振り返れば、有名な専制君主は古今東西を問わず、圧政によって支配してきました。そして今なお、多くの国で、権力はまさに力と暴力によって行使されています。
 現在のミャンマーも香港も民衆の願いは、力によって封じ込められてきました。アフガニスタンも武力が支配し、民衆の自由は封じ込められています。
 2019年末で紛争や迫害により故郷を追われた人の数は7950万人となり、97人に一人となっているとのことです。

今日のパンフレット(聖書と典礼)の下の説明に、三回目の受難予告に続く箇所・・・とあります。イエス様はこれまで弟子達に、ご自分の生命が犠牲として捧げられるもの、であることを三度告げました。受難の予告です。しかし三度とも、この世の権力を夢見ていた弟子達には、イエス様の言わんとするところが理解できませんでした。

 戦の前に恩賞を約束し、配下の戦意を高揚させるのは指揮官の常套手段なので、彼らは「世の常にならって、わたしたちにも恩賞を約束して下さい」と願ったと思われます。

 イエス様の答は「あなたがたは、自分が何を願っているかわかっていない。このわたしが飲む杯をのみ、このわたしがうける洗礼を受けることが出来るか」というものでした。

イエスの栄光にあずかるためなら、彼らはどのような苦しみにも耐える覚悟ができていたのでしょう。二人の弟子は39節で「できます」と答えます。

「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」とおっしゃいましたが、イエス様は報いとしての地位を彼らに約束しませんでした。そして「定められた人々にゆるされる」とおっしゃいました。「神がお決めになることだ」という意味で、それはあなたにもわたしにも関係ない、と言うのです。

(ヨハネの最期は聖書に伝えられていませんが、ヤコブは後に殉教したと伝えられています  使徒言行録12・1-2)。

 他の10人は腹を立てます。自分たちも同じようなことを考えているのに、ヤコブとヨハネに先を越されたからです。 そうでなければ腹を立てる必要はありません。

 そこでイエス様は弟子達を呼び集め、他者に愛をもって使えるという教えを再度たたき込みました。 「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た。」

 しかし、神の国での権能は、他者が必要としていることに、謙遜に仕えることで行使されます。イエス様は夜遅くまで様々な病気を癒したり、長時間群衆に教えたり、町から町へ福音を宣教して歩いたり、人々の悩みに耳を傾けたり、と言った模範を示しました。

 イエス様は報酬を求めず、分け隔てをせず、何も要求しませんでした。イエス様は他者のために存在する人として生きました。そして弟子達の足を、自分を裏切る事となる者の足をも洗うことで、弟子達に、仕えると言うことの最高の模範を示す日がやがてやってくるのです。

 幸い教会ではこのイエス様の教えを生きようとする信者さん達の姿を多く目にします。
大学の校長であった人でも、病院の理事長であった人でも献金を勘定し、身分の隔てなく全ての人が謙虚に教会活動に奉仕しています・・・。そしてその気になれば、家庭、職場、学校、その他何処ででも、わたしたちも、仕えるキリストの姿に倣うことが出来ます。そしてそれがキリスト教信仰の奥義であるとおもいます。

司祭の言葉 10/10

年間第28主日(B年)(マルコ10.17~27)

 「神父さん、司祭たちの老後はどうなっていますか?」・・時々そのような質問が来ます。今は子供を神学校に行かせるにも、親はそのような心配をします。 
 わたしが神学校に行こうとした当時は、親はそのような心配よりも、「わが子が途中で挫折して戻ってくるのではないか」ということを心配していました。また、貧しかったにもかかわらず、お金の心配もしていなかったようです。当時は「老後の生活」なんて、発想もできなかったのでしょう。それゆえにお金への執着もなかったのではないかと思います。  

 勿論、お金がどれだけあるかによって、生活設計を立てているのが現実です。司祭にも自分の将来は信者さんに迷惑をかけないように、責任を持たなくてはいけないと言う考えがありますから、どうしてもお金の問題は避けて通れません。「お金の心配をしない・・それでいいのだ」という声と、「それじゃいけない」という声が交錯します。

 今日の福音に登場する青年は、なんと真剣なんだろう、と思います。「永遠の生命を得るためにどうしたらよいのですか」この質問に善良な青年の姿を感じます。
 この質問に対して、イエスさまは「おきてを守りなさい」といわれます。「殺すな。姦通するな。盗むな。偽証するな。欺きとるな。父母を敬え」と。十戒の初めの神に関する三つの掟を除いた項目で、人との関係性を示す掟の部分です。これで、永遠の生命に入ることができるといわれます。
 言い換えれば、神を知らない人も救われるという教えが述べられています。周りを見渡せば、親族友人の中でも、神を知る機会もなく、命を神に返す人がほとんどですから、大きな慰めです。

 青年が(マタイでは青年と言っています)その全てを守りましたと答えると、イエス様は一つだけかけていることがあると指摘し、「財産を売って貧しい人達に与えなさい」と教えてから「さあ、わたしに従いなさい」と招きます。

 イエス様は、永遠のいのちを相続するために十戒では不十分であるから、施しという新しい掟を加えたのではありません。むしろ、十戒はほどこしをもふくんでいるのですが、掟を守ることに懸命な青年の視野には隣人の姿が入らない。しかし、十戒は人が隣人と共に生きるために与えられた神の指示です。
 イエス様にとって隣人とのかかわりを欠いた十戒は無意味なのです。
パウロも、「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」そのほかどんな掟があっても「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます(ロマ13の9)と述べて、イエス様の考えを受け継いでいます。十戒を真に生きる者は、施す者になるのです。

 ただし、だからと言ってイエス様の呼びかけに応えられない自分はダメだと決めつけるべきではありません。 「慈しんで」(agapao」)という言葉には、イエス様の深い愛が感じられます。
 イエス様はすべての人に、このような強い要求をしているわけでもありません。
ルカ19章1-10節に徴税人の頭(かしら)で金持ちであったザアカイの物語があります。ザアカイはイエス様に出会い、救いを受け取ったとき、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言いました。 イエス様はザアカイのこの決意を良しとしています。

 なぜ、きょうの箇所ではすべてを捨てて、貧しい人に施す、ということが要求されているのでしょうか?

 イエス様はこの男に「あなたに欠けているものが一つある」(21節)と言います。それはこの人の生き方の問題に気づかせるためだったのではないでしょうか。
 イエス様の言葉を聞いて、彼は「悲しみながら立ち去り」ました。
 こうして、彼が「自分の財産」に全面的に頼りきっていたことが明らかになってしまうのです。 そしてこのことは、私達みなが絶えず反省すべき事だと思います。

 私もあまりに金に頼りすぎてはいないでしょうか。 あなたの心は私のうちにない・・そうイエス様はおっしゃって、嘆いているかもしれません。
 イエス様の言葉です。「あなたの宝のある所にあなたの心もある」(マタイ6の21)

司祭の言葉 10/3

 年間第27主日B年 (マルコ10章2-16節)

 ようやく今日から公開ミサ再開です。ともに聖体祭儀の出来ることを感謝したいと思います。そして引き続き主の哀れみを願ってともに祈りたいと思います。

 熟年離婚が多くなっていますね。ご主人の定年退職後、奥さんの常日頃の不満が爆発。いつも一緒にいるのは耐えられないと・・。 ご主人のほうも奥さんに対する不満があります。部屋の片付けができていない。よく料理を焦がす。遊び歩いてばかりいる。それらも離婚の原因になるのでしょうか?
 女性の社会進出は目覚ましいですね。 幼稚園で運動会の日、ご老人が倒れて、お医者さんがおいででしたらお願いしますというと、女医さんも含め3人が駆け付けました。
 数年前、東京大学医学部では女性の点数を低く抑え、差別をしていたことが明るみにでました。女性の成績がよく、女医ばかりになってしまうと言うのが理由でした。女性の社会での地位は日増しに向上していますが、まだ十分ではありません。国民を代表する国会議員の女性比率は9.9%ですから・・。
 春日部教会は違います。女性の皆さんが大活躍しています。

 ファリサイ派の人たちが離婚の問題をイエスに突きつけたのには、どのような背景があるのでしょうか。
 ファリサイ派の人たちはイエス様がモーセに律法と矛盾したことを言うのを聞きたいと思い、それによってイエスを異端者として、訴える口実を作ろうとしたのでしょうか。
 あるいは、その妻と離婚し別な女性と結婚したヘロデ王をバプテスマのヨハネが糾弾し、捕まえられ首をはねられた、その問題に引き込み、ヘロデ王との敵対関係に持って行こうとしたのでしょうか。
 申命記にはこう規定されていました。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」(申命記24章1節)。
 日本でも江戸時代に、三行半という離縁状が夫から妻へ、あるいは妻から夫へも渡されることがありました。離別状あるいは去状、暇状とも言います。
 三行半とは、離縁状の俗称です。離縁状の内容を3行半で書く習俗があったことから、このようによばれました。もっとも、必ずしも全ての離縁状が3行半であったわけではありません。多くは前段で離婚文言を述べ、後段で再婚許可文言を述べるのが常でした。
 当時は字が書けない人もいましたが、その場合は3本の線とその半分の長さの線を1本書くことにより、離縁状の文言を書いた取扱がされていたそうです。

 当時のラビたちには、この「何か恥ずべき事」のについて、二つの解釈がありました。シャンマイ派とヒレル派です。

 シャンマイ派はこの文言を厳重に解釈し、「何か恥ずべきこと」を妻の側の異性関係の問題とだけ解釈し、どんなに浪費癖のある妻でも、それだけでは離婚できないとしました。一方ヒレル派は「何か」と「恥ずべきこと」を分けて読み、この「何か」を出来るだけ広く解釈しました。彼らは妻が料理をだめにしたり、通りで紡いだり、見知らぬ男と話をしたり、夫の聞いているところで夫の身内を軽蔑する話をしたり、大騒ぎをする女で、隣の家に声が聞こえるような女だとしたと言うことです。つまり、妻のどんな小さな落ち度でも、夫が気に入らないとなれば、離縁する正当な理由になったのです。そして一般に、このヒレル派の解釈が通用していました。
 「離縁状さえ書けば、妻を離縁してよい」これが当時の一般的な考えでした。
 律法学者は皆、男性でしたから、何百年かの間に、この律法は男性に都合のいいように解釈されていきました。 ラビのアキバなどは、この意味を拡大して、男の目に、自分の妻よりも美しい女がいた場合にも当てはまる・・としたと言われています。

 しかしながら、モーセのこの言葉の後の24章の5節には、次のような言葉があります。
 「人が新妻をめとったならば、兵役に服さず、いかなる公務も課せられず、一年間は自分の家のためにすべてを免除される。彼は、めとった妻を喜ばせねばならない。」
 そこには妻を大切にすべきことが述べられているのです。

 イエス様は当時の社会の中で、夫に追い出され、路頭に迷う多くの女性たちを見ていたと思われます。そして断固として離縁に反対します。取るに足らぬ理由で、あるいは全く理由なしに離婚されることが普通になった結果、イエス様の時代には結婚が不安定なものとなり、女たちが結婚を躊躇するような事態が起きていたと言います。
 イエス様は結婚を本来あるべき姿に回復なさろうとなさいます。
「神は人を男と女とにお造りになった」
神にかたどって創造された男女が神の前に対等であることを語る箇所です。
「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」
 そして結論として、イエス様はこう言います。
「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」
 妻とは、神が与えてくださったかけがえのないパートナーです。妻を自分の都合で家に置いたり、追い出したりできる「物」のように考えるのは間違っているのです・・と。 
 そして、イエスの言葉の本来の意味は「離婚してはいけない」という掟ではなく、結婚とは、「互いに相手を神が結び合わせてくださったかけがえのない相手として大切にしなさい」・・・ということであったと思われます。