司祭の言葉 11/20

王であるキリストの祝日C年

 突然ですが、皆さんはバチカン市国の紋章を知っていますか。
 交差する金と銀のカギ。その上に三重の王冠(教皇冠)が描かれています。
 天国と煉獄とこの世の教会の王であるキリストの代理者ということでしょうか。王冠を三つ重ねた、銀に金をかぶせた金冠です。
 教皇がペトロの座に就くときには、1305年からパウロ6世(1963~1978)の時まで戴冠式が行われてきました。第2バチカン公会議ののちパウロ6世はこの教皇冠を使用せず、貧しい人々のために売却しようと考えました。その結果、ワシントンの無原罪の聖母教会に展示され、収益は貧しい人のために使われることになったそうです。その後のヨハネパウロ1世、ヨハネパウロ2世、ベネディクト16世、フランシスコも教皇冠の戴冠式を行っていません。
 その教皇の紋章にもこの三重の冠が描かれてきました。しかし、ベネディクト16世もフランシスコも紋章に教皇冠を描かず、ミトラ(司教冠)を描いており、教皇冠を描くことは過去のものになりつつあるということです。
 そういえばロシアの主教がミサの時にかぶるものも、王冠のようなデザインです。

 教会の聖人伝には沢山の聖人が載っています。でも、暦に載っていない聖人が一人だけいます。この聖人については、教会は聖人だと宣言していません。でも天国にいることは確実なのです。イエス様が保証しているのですから。
 この暦に載っていない聖人は、どうして聖人になれたのでしょうか。なんの難しいこともありません。 たった一言葉でなれたのです。その魔法のような言葉とは・・・「あなたの御国においでになるときには、私を思い出してください。」 イエス様を王として認めた言葉・・・これです、天国に往く秘訣は。簡単ですね。 心から、そう言えばよいのです。・・・それでイエス様は天国を保証したのです。

 王であるキリストという言葉とともに思い出すのは、映画ブラザーサン・シスタームーンの一場面です。戦争から病を得て帰り、ようやくよくなって家族と共にミサに出ている折のことです。金持ちたちは前の席に座り、貧しい人たちは教会の後ろのほうで跪まずいてミサにあずかっています。フランチェスコは後ろにいる貧しい人たちを見ながら、きらびやかな衣装に包まれ金の冠をいただく王であるキリストの十字架を見つめ、着飾った自分の衣装の襟元をつかみながら「違う!」とおおきなこえでさけぶのです。

 韓国がまだ軍事独裁政権だったとき、その政権に抵抗し続けた金芝河(キムジハ)という詩人がいます。彼は『荊冠(けいかん)のイエス』という戯曲を書いています。
以下、被差別部落解放と聖書的解放を結びつける神学。『荊冠の神学』を著した栗林輝夫さんの本からの引用です。

 この戯曲の場面は、ある小さな韓国の町である。そして三人の主要な登場人物は、明らかに社会の底辺に生きる被差別者である。「ライ病人」「乞食」「売春婦」は、ある寒い風の晩、腹を空かせ、自分たちの不運を嘆きながら、肩を寄せあって座っている。彼らのすぐ側には「黄金の冠」をいただいたイエスの像がおかれている。それはかつて次のような「ある大会社の社長」の祈りによって立てられた像だった。
 「イエスよ、金の冠は、全くあんたにお似合いだ。その冠をかぶって、あんたは実にこの世の王だ。いや王の王だ。その冠であんたは全くハンサムだ。けれどイエスよ、あんたのその金の冠が、去年のクリスマスに、忠実な僕、私の寄付で作られたことを忘れないでほしいね。・・・・イエスよ、私にしこたま金を儲けさせてくれ。そうしてくれりゃあ、次のクリスマスには、私はあんたの体全体を金箔で飾ってやろう。」

 さて、このイエス像は、肩を寄せあい語らっている貧しい三人の前で突然に、
「どうか自分を虜囚の身から自由にしてくれ、解き放ってくれ」と懇願して叫び始める。「私は社会で苦しむものらを救うために、まず自分自身を解放しなければならない。大教会の神父や司教たち、実業家、政府の高級役人らは、私をこうして虜のままにして、自分らの利益のために私を利用している。」
---そうイエスは嘆くのである。これを聴いた「ライ病人」は、おそるおそる、
「どうすればイエスよ、あなたを自由にすることができますか」と尋ねる。するとイエスの像は直ちにこう叫ぶ。
「それを可能にするのは、おまえたちの貧しさ、おまえたちの知恵、おまえたちの柔和な心、いや不正義に反抗する、おまえたちの勇気。・・・・私には荊冠がふさわしい。金冠など、無知で欲深く腐ったものらが、外見を飾るために私にしたお仕着せなのだ。」そう語り、金の冠を外して荊の冠を被せてもらう。

 金芝河はこうして、この世界の権勢家によって備えられたイエスの「金冠」に、差別された者らの「荊冠」を対峙させ、イエスとは元来、荊冠をかぶる者であるという。
(栗林輝夫『荊冠の神学』p.216-217)

 しかし実際には、金冠をいただくキリストの像や絵はほとんど見ることがありません。画家たちの描く王であるキリストの絵画は、荊の冠を被ったキリストです。キリストの王冠は荊の王冠なのです。
 では、この王はなぜ殺されたのでしょうか。光としてきたからです。闇を好むものにとって、光は命取りです。どうしても、抹殺する必要があったのです。
 イエス様は「あなた方は世の光である」といいました。私たちは世の光なのです。そのことを忘れていたなら、今日こそ荊冠のイエス様をわたしたちの王として認め、「私を思い出してください」と祈りながら、私たちの光を高く掲げましょう。

司祭の言葉 11/13

年間第33主日C年

 今日の神殿の崩壊予告と終末の徴について語る話は、マタイとマルコにも並行個所がありますので、マルコの記述から、出だしの「ある人たち」というのが、ペトロ.ヤコブ.ヨハネ.アンデレの4人だったことがわかります。
 ある聖書学者は、ユダヤ教の神殿を手放しで賛美するような格好の悪いことを使徒たちにやらせたくなかったので、ルカは四人の名前を出さず「ある人たち」にしたのだろうと語っています。ガリラヤの田舎から来たお上りさんである弟子たちは、度肝を抜かれていたのでしょうか。
 この神殿については、歴史家のフラビウス・ヨゼフスが、その著書「ユダヤ戦記」の中で、「ヘロデは、治世第15年に神殿を修復するとともに、周囲に新しい石垣をめぐらして、神殿を2倍に広げた。はかり知れないほどの工費を投じ、その規模の壮大なことは他に類がなかった。その例証として、聖所の庭を取り囲む大柱廊と、北側にそそり立つとりでなどをあげることができよう」と述べています。
 聖書学者バークレーは、神殿の表玄関と回廊の柱は、白大理石の円柱で、12メートルの高さを持ち、それが継ぎ目のない一本の石でできていた。献納物について言えば、もっとも有名なのは純金でできた大きなブドウの木で、その房は人間の背丈ほどもあった・・・と述べています。
 しかしイエスは、「あなた方はこれらのものに見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」とおっしゃるのです。

 続く終末の徴は、「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。またそのことが起こるときにはどんな徴があるのですか?」という質問に答えるものとなっています。

 エルサレムの神殿は、福音が書かれた時すでに崩壊していました。70年ローマ軍によって。著者はこの出来事と重ね合わせながら、イエスと弟子達の会話、その頃の想いを思いおこしながらペンをとっています。

 神殿はヤーウェが自らそこに住むようにえらばれた聖所であり、「主の座」(エレミヤ3の17)と呼ばれているくらいでです。 そのエルサレムの神殿ががたがたと音を立てて崩壊するとすれば、それこそ世も末です。
 けれども、たとえ何事がおころうとも、主キリストを信じて生きる人はうろたえてはいけない・・・「あなたはわたしの名のために全ての人から憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛一本も失われることはない。自ら堪え忍ぶことによって、自分の魂を救わなければならない。(ルカ21の17)」と、主は戒めておられます。

 いま世界は大変な苦難の中に突入しています。終末の時がやってきたかのような様相を呈しています。

 ウクライナとロシアの戦争は、まだ終わりが見えません。プーチン大統領はウクライナ侵攻を、「サタン化を阻止するための戦いだ」と正当化しています。戦術核が使われる恐れがあるともいわれています。
 また、中国の覇権主義、北朝鮮の相次ぐミサイル発射の挑発行為 オミクロン株による新型コロナウイルスによるパンデミック そして気候変動による干ばつや豪雨、台風やサイクロンの大型化 海面上昇による国土の消失。そして飢餓の問題。エトセトラ。

 今まさに国連の気候変動会議・コップ27がエジプトで、6日から18日までの予定で開かれていますが、世界は一つになれるのでしょうか。本当に心配です。

 キリスト者は傷だらけになっても、倒れても、倒れても再び立ち上がって、常にパウロのように、「私はよき戦いを戦った」(テモテ4の7)ということの出来る兵士、善戦した強者である筈です。
 私たちそれぞれにできることに力を尽くしながら、ともに、世界の平和のために祈りたいと思います。

 今日のミサの中で、コップ27の成功と世界の平和のために祈りましょう。

司祭の言葉 11/6

年間第32主日C年

 今日も、こうして、まだここでミサが出来ることを感謝します。でもいつ出来なくなるか、その日が突然来るのか、その前に恍惚の日が来るのか、それは神様だけがご存じです。今日の説教を準備するために3年前の原稿を探し出し、それを読んで愕然としました。そこにはこう書いてありました。
 「先週、二日間断食して腸の中をきれいにし、内視鏡の検査をして、見つかったポリープを切除しました。医者からは場合によって入院もありうるので、その用意をしてくるように言われて、入院の支度をして行きました。検査に当たり二日間の断食をしたのですが、終わってみると体がふらふら。初めての体験でした。脱水症状と思い自動販売機にポカリスエットを買いに行ったのですが、そのまま椅子に座り込んでしばらく動けませんでした。体力の衰えを感じさせられた一日でした。」

 愕然としたのは、この春、がん保険の勧誘があって、保険会社の人に「ポリープの検査をしましたがまだ手術はしていません。でも、2年以上たちます」・・と答えていたからです。手術したのを忘れていたのですよ。信じられないでしょう?

 死は誰にでも確実にやってきます。 問題はその後にあります。人生にとって死は終わりですが、信仰はその後に続く命を示しています。

 聖書に復活についての記述が初めて現れるのは、マカバイ記の今日の箇所です。この事件は紀元前180年から、130年の間に起こったものと見られています。復活の信仰はトビト書にも現れますが、同時代と見られています。

 今日のマカバイ記で四番目の兄弟の言葉が、印象に残ります。
 「たとえ、人の手で、死に渡されうとも、神が再び立ち上がらせてくださるという希望をこそ選ぶべきである。だが、あなたは、よみがえって再び命を得ることはない」

 わたしたちの信仰は、すべての死者がよみがえることを教えています。
 でも、信じないものは、新しい命を生きることはないのでしょう。
 信じないだけではなく、望んでいないからです。

 サドカイ人たちはレビラート婚の定めを根拠に、復活はないという論理をイエスにぶっつけてきました。彼らが守ってきた契約の箱には、向き合う一対の天使の像が置かれていました。・・しかし彼らは、天使も、復活も信じなかったと言います。
 使徒パウロはキリストの復活がなければ私たちの信仰は空しいと語っています。(1コリント15の17)
 復活はキリスト教にとって、信仰の根幹にかかわる問題なのです。

 今日の、ルカの言葉から推測されることがいくつかあります。

  1. 1.死人からの復活にあずかるにふさわしい者たち・・すべての人が復活するわけではないのでしょうか?
  2. 2.復活にあずかるものは死ぬことはない・・死ぬことはないので、子孫を残す必要はない。ゆえに結婚の必要性はなくなる・・ということでしょうか。
  3. 3.死者が復活することは、モーセも「柴」の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。
    神はモーセに、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と現在形で語っています。つまり、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、神の前で生きていることを示しているというのです。

 そのイエスは、証明を求められたときに、ヨナの印以外は与えられないと応えています。復活こそはイエスの言葉と行いのすべてが、神からのものであることを証しするということです。でもそのとき、弟子たちにはその言葉の意味が、理解できませんでした。
 イエスの弟子たちは、復活の主に出会って初めて信じたのです。そして命を懸けて、復活の証人となって世界に散って行きました。

司祭の言葉 10/30

年間31主日C年

 お早うございます。 先週の木曜日の朝、小生にとってとてもうれしいことがありました。その時、一人の女の子の「お早うございます」という挨拶の言葉を聞いて、思わず、胸の名札の名前を確かめました。そしてうれしくなりました。その子は年中組の子で、幼稚園に来て初めて挨拶をしたのです。入園したころから毎日、年中組になっても、門を入るのを嫌がり、足を投げ出して地面に座り泣いていた子です。ところが夏休みを終えてから、泣かずに門を入るようになり、成長したなと思っていたのですが、それが先日挨拶の言葉を口にしたのです。初めてです。
 挨拶をしない子のほとんどは、視線が先のほうを見ています。その先には子供と遊んでいる先生の姿があります。気持ちは先のほうに、これからの遊びに飛んでいるのです。
 また、園児を出迎えるために門に立っていると、いろいろな質問をしてきます。作務衣を見てそれなに?どうして頭を結わえているの?どんぐりある? などなど。

 こどもは好奇心いっぱいです。
 好奇心は探求心を生みます。 卵が先か、鶏が先か そして、哲学が、学問が始まります。好奇心は科学の進歩 文化の発展に欠かせないものです。子供のころは夢だったロボットも現実になっています。

 ザアカイはイエス様の噂に好奇心を持ってイチジクの木に登り イエス様と出合い 救いを得ました。好奇心を神に心を向けるとき、神の側から呼んでくださいます。
「ザケオ、急ぎ降りよ。今日、われ汝の家に宿らざるべからず。」
 私の大好きな言葉です。この言い回しは、パリミッションの司祭ラゲ神父の和訳です。

 さて、ここに出てくるエリコの町とはどのようなところなのでしょうか。地中海の海面よりも250メートルも低いところですが、ナツメヤシの実とバルサムの産地でした。バルサムはマツ科の常緑高木で、バルサムモミが知られています。松脂を出しその香りは数キロにわたって漂っていたといわれています。それらを世界中に輸出していましたので、エリコの町は、パレスチナの中で中心的な課税地だったということです。

 ザアカイは、その税の徴収を委託された徴税人の頭であったということですから、かなり人々から恨まれていた人と想像できます。

 彼は罪人の仲間と批判されているイエス様の噂を聞き、人目イエス様を見たいとの思いに駆られました。その時点で彼の心に何らかの変化が生じていたのかもしれません。
 イエス様を見たいと思いましたが、背が小さく後ろからは見えません。前に行こうとしても人々がそれを阻み、いじわるされ、小突かれ、どやしつけられたかもしれません。それでも何とかイエス様を見たいという思いが勝りました。そして先回りして木に登ってイエス様の来るのを待ちました。

 イエス様を家に迎えたザアカイは、自分から罪を告白します。その場合許される条件がありました。律法には、犯した罪を告白し、完全に賠償し、それに5分の1を追加して損害を受けた人に支払う・・・とあります。(民数記5の7)しかし彼は4倍にして返すといいます。それは盗んだものを売り払うか殺してしまって返済不能になった場合の償いでした。(出エジプト21の37)ここにザアカイの強い反省と固い決意が見て取れます。

 そしてイエス様は救いを宣言し、つぶやく人々に対しては、「人の子は失われたものを捜して、救うために来たのである」と宣言したのです。

 皆さんの、神の言葉への好奇心はどうでしょう?
 7年ほど前、90歳になる古河教会のおばあさんの葬儀をしましたが、棺の上に置かれた聖書には分厚くなるほど付箋が張られていました。

 好奇心の反対は ・・・ 無関心です

 聖なるものへの 神への無関心 イエス様の十字架による救いへの無関心
人々のうちにおられるイエス様への無関心。勿論知らなければ関心の持ちようがありませんから、 → だから宣教が必要になります。 

 社会に目を向ければ、まだ問題山積の東日本大震災、熊本地震、鳥取中部地震 多くの被災者 シリア難民、ウクライナ戦争の難民、国内では仮放免の外国籍の方々。
そこに寒さに震えるイエス様がおられます。
 無関心を捨て・・隣人の中に イエス様を見ようとするなら・・・必ず見つけます。
 そしてイエス様のほうから、必ず声をかけてくださいます。
「われ今日、汝の家に宿らざるべからず」・・・と。

司祭の言葉 10/23

年間第30主日(ルカ18の9-10)

 今日の福音は「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」イエス様が語られたとあります。
 質問です。ここで言う「人々」とは誰のことだと思いますか?

 今日の福音の前に語られているのは、「やもめと裁判官の譬え」でした。そこでは、「気を落とさずにたえず祈らなければならならないことを教えるために、弟子たちに譬えを話された」・・・とあります。話は弟子たちに向けられたものでありました。
 その続きですから、この「人々」とは弟子たちを指しています。ファリサイ人ではありません。今日のパンフレットの解説の部分にも、そのことが示されています。

 弟子たちはイエスの弟子とされたことでうぬぼれていたのかもしれません。そのことをイエス様は指摘します。今日の福音は、祈り方の指示ではなく、弟子たちのうぬぼれへの戒めなのです。

 ユダヤでは、通常祈りは黙ってではなく、小声で唱えられました。ファリサイ人はいつものように、でも人目につくところに立って、ちらりと徴税人に目を向け、人々が自分の祈りの言葉を聞いているであろうことを思いながら祈っています。祈りの内容は神に対する感謝の言葉です。この地上における幸いは神の祝福だと信じていましたから、与えられている恵みに、彼は心から感謝していたのです。

 一方、徴税人の祈りは、絶望の爆発だと、或る聖書学者は言います。
 何が絶望なのでしょうか。徴税人はおそらく地方税の下請けで、できるだけ実入りをよくしようと、政府の決めた税率表はありましたが、方法はいくらでもありましたから、かなり悪いことをしたのだと思われます。
 そんな彼らが悔い改めをするには、罪深い生き方を捨てるだけではなく、不正に得たお金に、その五分の一相当を上乗せした金額を弁済することが必要だったということです。でも、自分のだました相手を一人残らず見つけることは不可能です。ということは、悔い改めの業を果たすことは不可能だということです。ですから、ただ胸を打ち神の憐れみを求めるしかなかったのでしょう。

 彼の祈りは、詩篇51の3節、出だしの言葉です。
 3 神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。

 そして18節と19節には次のような言葉があります。
 18 もしいけにえがあなたに喜ばれ 焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら
  わたしはそれをささげます。
 19 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。 打ち砕かれ悔いる心を
  神よ、あなたは侮られません。

 イエス様はまさに、彼の祈りは神のみ心に沿うものだとおっしゃるのです。
 だから義とされたのだと。
 そして弟子たちを戒め、「神は絶望したものを受け入れる神であり、心砕かれたものに対する哀れみは限りないお方だ」とおっしゃっている・・・それが今日の福音です。

 ところで今日の福音の中の「断食」についても考察してみたいと思います。

 断食・・皆さんはどのように思われるでしょうか。
 断食はしたほうがよいでしょうか、それとも、無意味でしょうか。

 まず言えることは、「断食」は、神の前に誇るためではないということです。
 人は、自分が断食し他の人はしていないときに、どのような思いを抱くのでしょうか。特別なことをしている・・と思うとすれば、それは間違いです。
 断食そのものに意味はありません。邪魔になるだけです。ダイエットにはなるかもしれませんがそれだけです。

 でもわたしは、「隣人愛と結びつく断食」なら大いに意味があると思います。
 断食して一食分を飢えている人たちに捧げるなら、大いに意味があると思います。
 その場合、断食はお金に可視化するのがよいと思います。
 精神を鍛えるためというなら、邪魔になるだけです。パリサイ人のように自惚れをきたしますから。

 断食をしたなら、その分をお金に換算し、こっそりと寄付しましょう。

 献金箱を用意し、右手のしていることを左手に知らせないように、こっそりと入れてください。もちろん断食は健康を害さない程度に・・です。

 ハンガーゼロ運動を推進している日本飢餓対策機構によれば、飢餓が原因で命を落とす子供は5秒に一人だということです。そのような彼らの一人でも救うためにする断食なら、主は大いにお喜びにおいになるでしょう。

司祭の言葉 10/16

年間第29主日C年

 皆様おはようございます。秋も深まりつつありますね。紅葉の美しい季節です。
 ウイズコロナ・・ちょっと心配ですけど、用心しながら前に進むことが求められています。

 今日の話はやもめの訴えです。
 やもめ・・夫が亡くなった未亡人です。いくつくらいでしょうか。それはわかりませんが、当時のユダヤでは14・5歳で結婚しましたから、若い人もいたと思います。
 初代教会では、やもめとして登録するのは60歳未満のものではなく一人の夫の妻であった人、善い行いで評判の良い人でなければならない・・とあります。(1テモテ5の9)
 裁判官を悩ますほどですから、かなり声をあげる人だったと思われます。
 彼女が訴えた相手は社会的に身分があるか、金持ちだったのだろうと思われます。
 中身は金銭トラブルかも知れません。
 裁判官はユダヤ人ではないと思われます。ユダヤ人ならその役目をするのは長老だからです。不正なといわれているので、わいろをとって適当に裁判をする人で、やもめは金がなくわいろをくれないのでほっといたのでしょう。
 でも彼女には武器がありました。しつこく訴えるという武器です。そして裁判官は根負けします。

 今日の譬えはイエス様が、気を落とさず絶えず祈らなければならないことを教えるために語られたのだと、ルカは述べています。
 皆さんは一日にどのくらい祈る必要があると思っているでしょうか。
 そして祈りを聞き入れてもらうためには祈り続ける、長々と祈る必要がある・・・これは正しいでしょうか。
 イエス様は 違う! といいます。

 マタイ福音書では、イエス様は祈るにあたって、祈りを聞き入れてもらおうとくどくど祈ってはいけません。それは異邦人のすることです。神は祈る前から必要なことをすべてご存じです。だから、こう祈りなさい。そうおっしゃって教えたのが主の祈りです。くどくど祈るな・・といっているのですから、しつこく祈れ、祈り倒せと言っているのではないことは確かです。
 ここで思い出すのはヤコブが神と相撲を取ったという話です。これは、神が許すというまで祈り続けた話といわれています。神が根負けするのでしょうか、答えは「否」です。
 神はすでに許しているのです。その許しをヤコブがなかなか確信できず祈り続けたということではないでしょうか。

 ルカによる福音書ではイエス様が主の祈りを教えた後に、夜中に来た旅人をもてなすためにパンを借りにいった人の譬え話をしています。この個所は、「誰でも求めるものは受け、探すものは見つけ、門をたたく者には開かれる」(マタイ7の8)という言葉と結び付けて読む必要があると、聖書学者のエレミアスは言います。
 それは、すでに寝ていても頼まれれば起きてパンを貸し与える友達のように、助けを必要とする人が声を上げるなら、この友達がそうしたように、神は必ず頼みを聞いてくださる。それは確実なことなのです・・と教えるための譬えであったということです。

 そして、今日の朗読では「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために弟子たちに譬えを話された」とありますが、それは編集したルカが言っていることで、イエス様がこの話をした狙いは別なところにある・・といわれています。

 このやもめの訴えの譬えも、この裁判官がやもめの訴えを聞いたように、私たちが祈るとき神が祈りを聞いて下さることは確実なことなのだ・・・、だから祈りなさい・・・というところが、イエス様のおっしゃっているところなのです。
 「絶えず祈ることが必要だ」というのと「祈りが聞き入れられるのは確かなことだ」というのは違います。
 イエス様は主の祈りを教えながら、そのあとのたとえ話でもって、祈りは必ず聞き入れられるのだよ。そう教えておられるのです。

 やもめと裁判官の話について聖書学者エレミアスは、イエス様はこういいたいのだと説明します。
 「神の力、優しさ、そして助は疑いない。それは決定的に確実なことだ。あなた方が心配しなければならないのは、別のこと。人の子が来られた時、地上に信仰を見出すか・・である、と。

 今日の話は皆さんの祈りの助けになるでしょうか。すでに祈る前から主は私たちの願いをご存じなのですから、不安にならず、祈りは必ず聞き入れられると信頼をもって、日々主の教えてくださった祈りを唱えましょう。

司祭の言葉 10/9

年間28主日C年

 皆さんおはようございます。今日の福音は重い皮膚病患っている10人の癒しです。
 重い皮膚病とは、らい病(ハンセン病)のことです。この病気は結核よりも感染力が弱く、1943年に特効薬プロミンも作られ治癒することが可能となっていました。
 しかし、日本ではその10年後の1953年にらい予防法が作られています。この法律には,「強制隔離」規定がありましたが、「退所」規定がありませんでした。退所規定がないと、どうなるでしょうか? 死んでも出られないと言うことです。その結果、ハンセン病に対する恐怖を生み、患者に対する差別・偏見が強まることとなりました。家族は病人の存在をひた隠しにして、親子の縁まで切ったといいます。

 全国ハンセン病患者協議会の長年にわたる「らい予防法」改正要求運動により、【らい予防法の廃止に関する法律】が制定されて「らい予防法」が廃止されたのは1996年のことです。
 さいたま教区内では草津にこの病院があり、そこに作られた教会が草津カトリック教会として、巡回教会になっています。
 そこの患者さんたちがつづった詩集があります。本の名は「骨片文字」(1980年刊行)
 序文の一部を紹介します。

「いま、草津の「つつじ公園」、碑のそばに立つと、足元の赤土に白く乾いた小石のようなものの散乱を見る。掌に載せれば軽い。それは無数の骨片だ。砂礫のように小さなものが、生者と死者の共通の記憶である。それらが文字となってなお残ろうとする。日本からやがてライがきえても、すなわちハンセン氏病の人が死に絶えても、この詩集が消えることのないように、誰かの手に確実に渡されてゆくように・・」

 私は1979年インドのサンチナガールにあるマザーテレサのライ病の施設を訪問したのですが、日本との違いに驚かされました。
そこでは施設の周りに患者さんたちの家族の住む家があり、保育園もありました。患者さんたちは切り捨てられてはいなかったのです。自分たちでパンを焼き、シスターたちの支援を受けて暮らしていました。

 さて今日のメッセージについてみてみましょう・・・

 ライ病は重い皮膚病・・・と訳されています。
 ライ病をこのように訳することによって、本来の言葉の意味が弱められ、日本におけるライ病人への差別の歴史認識を、弱めることになりはしないかと危惧されます。

 イエス様の時代、この病気は全く治る見込みのない、死を宣告されるのと同じ病でした。
 毎日体の一部が死んでゆくと言っても良く、今日は指が死に、次に足の指が、鼻が、耳が落ちてゆきます。治療法もなく、伝染するので、その地域から追い出されてしまうのです。
 ベンハーという映画では、谷底の洞窟に生活するライ病人の姿が描かれています。

彼らは町の近くに物乞いに来ることもあり、その時は鈴を鳴らし、エメエメ(穢れたもの穢れたもの)といいながら歩かねばならなかったといいます。

 今日の福音のメッセージを皆さんはどのように見るのでしょうか

 特筆すべきことは、ユダヤ人とサマリア人がともに支えあって生活していたということです。
 いつもはいがみ合ってきたユダヤ人とサマリア人ですが、ともに一度かかったら治らない重い皮膚病という病気にかかり、共同体を追われて、互いに支え合い助け合って生きてきました。共通の苦しみによって結びあわされたのです。人と人との交わりには力があります。特に、苦しみを分かち合う交わりにはその力があります。    

 ライ病の人の一人がイエス様の噂を聞きました。そのことを語り合っている内に、彼らの心に少しずつ希望がわき上がってきました。今や彼らは信じるようにまでなりました。信仰の形成には、自分一人よりも、みんなで分かち合うほうがたやすいのです。
ライ病にかかっていましたがこの人々は生き抜く決意をしました。

 さらに、癒やされたサマリア人はとって返してきて、感謝しました。
 それに対しイエス様は、不思議な言葉を述べています・・・貴方の信仰が貴方を救った

 多くの人は、失敗は他人のせいにし、成功は自分の手柄にします。会社の社員は社長に感謝するでしょうか、多くの人は自分の働きで給料を得たと思います。
病気を直してもらった9人は、「みろ、俺たちはこうして治って戻ってきた。なおった姿を自慢してやる」・・そんな気持ちに支配され、感謝するのを忘れたのかも知れません。

しかし、9人のユダヤ人が戻ってこなくても、イエス様は問題にしなかったに違いありません。イエス様は心の広い人です。
 伝記を書いたルカが、イエス様の問題にしなかったことを問題にしているのではないか‥そう考える聖書学者もいます。

 なぜなら、その前の箇所でイエス様は次のように言っているからです。
「自分に命じられたことをみな果たしたら『わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい・・と。

そのイエス様が癒やした相手に、戻ってきて感謝することを要求するのはおかしい。イエス様は感謝など求めてはいない、感謝すべきだというのはルカの考えだろう・・と。

あなたの信仰があなたを救った   サマリア人の信仰とは何でしょうか。
イエス様が癒すことができるという信仰であれば、それはユダヤ人も同じでしょう。他の9人もその信仰のゆえに癒されたに違いありません。違いは感謝するために戻ってきたということであると思います。

この外国人の他には   外国人・異邦人・・・この言葉にわたしは差別を感じます。
本田哲郎訳では「民族の違うこの人の他には」となっています。
原文はアッロゲネース よそで生まれた人・・のいみです。
αλλoγενηs  αλλos(他の)+ γενos(生まれ)

司祭の言葉 10/2

年間第27主日 C年

 お早うございます。いよいよ秋も深まってきました。杉戸町の外れに当たる江戸川に近い宮前では、稲刈りが済んで田んぼに積まれたもみ殻に火がつけられ、一晩中もみ殻を焼くにおいが漂っています。杉戸の無人販売所には栗が並び始めました。まもなく道路わきには柿を売る店が店を構えることでしょう。

 今日の福音を読んでふと頭に浮かんだのは、先日テレビで見た樹木を移植する映像です。 普通樹木を移植するときには根の周りを掘って根切りを行い、1年ほど放置して細かい根が生えてから、土のついた根を傷めないようにコモでくるみ、縄で縛り、移植場所に移送し、掘った穴に入れ水をやって土を入れます。でも専門家がやっても枯れることがあります。数年前兄のところでも、茶室用の花木を庭に移植しましたが、根付かずに枯れてしまいました。
 造園業者は、枯れないように移植するにはどうしたらよいか考えたのでしょうね。とんでもない方法を編み出しました。重機移植といいます。大きな8本のシャベルのついた重機で木の周りを囲み、それを差し込んで根切りを行い、土を落とすことなくそのまま掘り出し、穴を掘っておいたところにそっとおろして移植するのです。15メートルもある樹木でも移植可能とのことですから、桑の木なら簡単でしょうね。

 今日の福音は、「わたしどもの信仰を増してください」と信仰の「量」を問題にした弟子たちに対して、イエス様は「からし種」の話をしています。それは「信仰とは量や大きさの問題ではないのだ」と言うことでしょうか。信仰の力とは「信じるとその人に不思議な力が備わる」というようなものではなく、「信じて神にゆだねたときに、神が働いてくださる」ということだと言えるのではないでしょうか。だからこそすべてが可能になるのでしょう。 聖人たちの、ドンボスコやマザーテレサの神に対する信頼は絶大なものがありました。ですから大きなこともなしえたのだと思います。

 福音書の中で「神を信じる」というのは「神の存在についての考え方の問題」ではなく、「神に信頼を置いて生きるかどうか」という問題だったのです。
 似たような話はマルコとマタイにもあり・・そこでは桑の木ではなく山となっています。山に向かって海に移れという方が壮大だし、山と海ならつりあいます。桑の木ではしっくりきません。
 そこで神学者はこう考えます。

 伝承の大元では山だった話が、マルコにはそのまま伝わり、マタイはそれを書き写した。しかし他方では、長い口伝の過程でどこかでこんがらかって桑になり、それがルカに伝わったのではないかと。
 マルコでは、イエス様が呪ったイチジクの木が枯れてしまったのに驚いた弟子たちが、どうしてそういうことが可能なのかを尋ねたところ、イエス様が山をも移すほどの信仰という言葉で答えたとなっています。
 もしかすると今日の言葉は伝承段階でもイエス様がイチジクを呪った話と結びついて伝えられており、それが伝承のどこかの過程で、桑と入れ替わった可能性もあると言います。

 さらに次の奴隷の話ですが、ルカは桑の木の話の続きとして書いていますので、本来は別の話をルカがまとめたと考えられています。

 もともとは、人々の関心を集めるために、街角で祈ったり、衣の房を大きくするパリサイ人たちに対する話で、譬えの意味するところは、人々の称賛を当てにするようなパリサイ的生き方をやめて、謙虚に生きることを求めています。
 意味するところは、私たちは神の称賛に値することは何もしていないし、どのような良い業をしても、神に向かって自慢することは何もないということです。

 ルカはこれを桑の木を移す話と結び付けて書いています。とすればルカはこれを使徒によって代表される、教会の指導者に対する説教として位置付けたと思われるということです。

 教会にはいろいろな問題があります。意見の対立もよくあることです。そして一番厄介なのは皆さん善意だという事だ・・・とは、教会の役員さんなどからよく聞く話です。

 ルカが桑の木を採用したのは、教会の役員さんたちに対して、傲慢になるな、許せないという思いが桑の木のように心の中に枝葉を茂らせ、はびこっているとしても「抜け出せ、海に植われ」と信じて命ずればその通りになる。
 これこそ奇跡である。心に許しという奇跡を起こし、奉仕しなさい。・・・と言いたかったのかもしれません。

 信仰は、問題をそのまま打ち捨てることはせず、山を動かすか、人を変えるか、どちらかをします。いずれにしても偉大な奇跡というべきであると思います。

司祭の言葉 9/25

年間第26主日C年2022

 お早うございます。かなり涼しくなって過ごしやすくなってきました。
 新型コロナウイルスの新規感染者はだいぶ少なくなってきたように感じますが、新たな対応について、教区からは何も通達がありませんので、これまで通りのコロナ対策を続ける必要であると思います。

 さて今日のお話は金持ちとラザロのお話です。・・こう言っただけで皆さんはああ、あのお話だなと推測されるのではないかと思います。
 神学者によれば、タルムードにはその原型となるような話があって、イエス様がこの話をなさると、聞いていた人たちはそのタルムードの話と重ね合わせてイエス様の話を聞き、ラザロがアブラハムの懐にいるという話に、驚いたことだろうと言います。
 何故驚いたのでしょう? 分かりますか?

 まず、聖書学者エレミアスが伝えるタルムードの「裕福な徴税人バル・マヤンと貧しい律法学者」の話です。

 裕福な徴税人のマヤンが亡くなり、立派な葬儀が行われました。皆が彼を最後の休息の場所まで見送ることを望んだので、町全体の人の仕事が休みになりました。時を同じくしてある貧しい律法学者が亡くなりましたが、彼の葬儀にはだれ一人として注意を払いませんでした。このようなことを許すとは、神はそれほどまでに不公平なのでしょうか。

 その答えはこうです。バル・マヤンは敬虔さとは程遠い生き方をして来ましたが、一度だけ善い行いをし、その最中に不意に亡くなりました。彼のその善行はそれまでのいかなる悪行によっても帳消しにされないものであることが、彼の死の瞬間に確定しましたので、彼の善行は神から報いられねばなりませんでした。そしてあの立派な葬式を通してその報いを受けたのだということです。ではその彼の善行はどのようなものだったのでしょうか? かれは町の評議員たちのために宴会を準備しましたが、彼らは来ませんでした。そこで彼は食べ物が無駄にならないようにと、貧しい人々に、来て食事をとるようにと命じました。

 バル・マヤンは上流社会に受け入れられることを願って招待状を出しました。でも、全員が申し合わせたようにいろいろ言い訳をして断ったのでした。それに腹を立てたマヤンは、町中の物乞いたちを家に招き入れた・・・ということです。イエス様はこの話を王の宴会の話でも採用していることに、皆さんはお気づきになったと思います。イエス様は皆がよく知るこの話を使ってご自分の譬えを語っているのです。

 ラザロは「神は助けて下さる」という意味の名前です。日本語にしたらさしずめ、「太助」とでもいう名前になるでしょうか。

 イエス様の時代の人々は、ラザロがこのような悲惨な目にあっているのは、彼が罪を犯したか、先祖の罪の報いでそのような状況に陥ったのだと考えていました。ですからイエス様の、「この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れていかれた」という言葉には目を丸くしたと思われます。

 この話の意味するところは明白です。この金持ちは誰でしょうか。

 告白します。私なのです。今から40年以上前インドを旅行した時、ホテルの庭でビールを飲んでいました。当時、たばこは1ルピー30円ほど。ビールは8ルピー240円ほどでした。そしてチップは2ルピー。10ルピー300円はインドの日雇い労働者の一日分のお金であったと思います。それを鉄格子の扉の向こうで手を差し出しながら、しゃがみ込み見ている人たちがいました。それを眺めながらビールを飲み続ける私がいました。まさにこの話の情景だったと思います。

 次の数字がわかるでしょうか。 77億 8億 5秒に一人 420万トン 522万トン  

 77億は世界の人口 8億は十分に食べることが出来ずお腹をすかして寝る人の数 5秒に一人は飢餓が原因で命を落とす子供 420万トンは2020年国連世界食糧計画が支援した食料 522万トンは日本でまだ食べられるのに廃棄された食品の量です。

 私たちが捨てずに消費するなら、その分輸入せずに済み、それだけ食料に余裕が生まれることになります。

 マザーテレサは、現代の最大の罪は、無関心だと言います。

 金持ちも無関心でした。私も。
 今日の福音は、その無関心を捨てるようにと迫ります。 

司祭の言葉 9/18

年間第25主日C年

 このたとえ話を信者たちから聞いたルカは困惑したことでしょう。ルカに伝承を伝えた信者たちは、「イエス様はこの管理人のやり方を褒めて語ったんですよ」・・・と、驚きを持って言い添えたのではないか、と思うからです。

 今日のみ言葉を聞いた感想はいかがですか?
 どうして「主人」はこの管理人をほめたのでしょうか。

 イエス様が話の筋を「不正にまみれた富で友達を作りなさい」と持ってゆくために、普通なら怒るはずの主人に、この管理人のやり方をほめさせた・・と受け止めているのではないでしょうか。

 なんでも疑ってかかるへそ曲がりな神学者たちは、「何か、からくりというものがないか」・・と、勘ぐって考えます。
 不正を重ねる管理人を許せるのか。二重に損害を与えたのに、主人はなぜ褒めたのか。

 もしかしたら、8節aの「主人」は、管理人をやめさせようとする「主人」と別な人ではないのか・・など。

 8節aの、「主人は、この不正な管理人の抜け目ないやり方をほめた」という言葉について、二つの解釈があります。

 一つは、破局を前にした家令の「賢さ」に限定してみる見方。

 もう一つは、デレットという方が、1970年に主張した見方で、家令のしたことは、律法にのっとったやり方で、主人にも、負債者にも益をもたらし、自分の将来も確保した「利口なやり方」であったというもの・・・・です。

 それはどういうことかというと、
 律法では同胞に対して利息を取ることは禁じられていました。そのため、取引の場合は利息を含めて、借用書を書く習慣がありました。それで、油の50パトス、小麦の20コロスは利息分だったというものです。
 油の50%というのは高いと思われますが、オリーブ油の場合は混ぜ物をしやすいので、補償のため利子が高くなり、麦の場合は混ぜ物をしにくいので低いと説明されています。
 棒引きによって、負債者は得をします。主人は律法通りなので文句を言えません。そして、管理者は負債者から感謝される・・という、展開です。

 信者たちは、イエス様がこのたとえ話を語ったのは確かだが、自分たちの常識に反してこの管理人のやり方を褒めて語ったということに、釈然としない気持ちを抱きながら、それでもこのたとえ話を伝承してきました。

 それでこの話の後、8節aの後に、ルカが、解釈を加えたとみられています。

 今日のパンフレットを見ますと、いろいろ理由をつけてみても、管理人の行いを許しがたい不正とみる以上は、詭弁にしかなりません。不正を良いと言いくるめるのは、詭弁でしかないからです。
 それで、まず最初に、「この世の子らは・・」が加わり、「不正にまみれた富で友達を作りなさい・・・」という言葉が加わった・・そう聖書学者は見ています。

 田川健三という聖書学者はこのようなことを言います。

「不正な管理人」といわれていますが、たとえ話の中には「不正」という言葉は出てきませんし、主人の財産を無駄遣いしているというのも、告げ口の言葉です。
 無駄遣いもどのように無駄遣いしたのでしょうか。小作人の借金の棒引きこそ、大きな無駄遣いですが、それをイエス様は褒めているのですから、不正とみなすはずがありません。もしかしたら、この管理人はもともと主人の財産を管理することよりも、小作人の負担を軽くすることに熱心だったのかもしれません。そして小作人たちに人気があったので、仲間がねたんで告げ口をしたのかもしれません。そうすると、無駄遣いといっても、自分のために使ったのではないことになります・・・と。

 この聖書学者は、この譬えが語られた状況をこう推測します。

 多数の小作人に対して権勢をふるっている大地主の管理人が、イエス様を食事に招いたような折りにでも「どうしたら私は救われるでしょうか」尋ねたのに対して、
『こんな管理人の話もありますよ』と皮肉交じりに、「救われようなどと考えるのなら、まず小作人の借金を棒引きにしてあげなさいよ」と語ったのかも知れない・・・と。

 そして、金持ちがイエス様に、「どうしたら永遠の命に入ることが出来るでしょうか」、とたずねたら、イエス様は「貴方の財産を売り払って貧しい人に施し、私に従いなさい」とおっしゃっている箇所がありますから、ありえない話ではありません・・・と。

 この個所の前も後も律法学者やパリサイ人たちに対する警告なので、ここも、当初は律法学者やパリサイ人たち裕福なものに対して、「危機に際して、断固として行動しなさい」という勧告であったものが、聞き手がキリスト信者になり、その聴衆の変化によって、譬えの後の部分が付け加えられ、「富の正しい用い方の指針」に変化した、とみられています。

 イエス様のお話は、当時の社会の姿をとらえて、厳しい言葉で、わたしたちのあるべき姿を語っていると思います。財産は自分のためだけではなく、神のお心に沿って、使わなければならないと。