司祭の言葉 10/23

年間第30主日(ルカ18の9-10)

 今日の福音は「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」イエス様が語られたとあります。
 質問です。ここで言う「人々」とは誰のことだと思いますか?

 今日の福音の前に語られているのは、「やもめと裁判官の譬え」でした。そこでは、「気を落とさずにたえず祈らなければならならないことを教えるために、弟子たちに譬えを話された」・・・とあります。話は弟子たちに向けられたものでありました。
 その続きですから、この「人々」とは弟子たちを指しています。ファリサイ人ではありません。今日のパンフレットの解説の部分にも、そのことが示されています。

 弟子たちはイエスの弟子とされたことでうぬぼれていたのかもしれません。そのことをイエス様は指摘します。今日の福音は、祈り方の指示ではなく、弟子たちのうぬぼれへの戒めなのです。

 ユダヤでは、通常祈りは黙ってではなく、小声で唱えられました。ファリサイ人はいつものように、でも人目につくところに立って、ちらりと徴税人に目を向け、人々が自分の祈りの言葉を聞いているであろうことを思いながら祈っています。祈りの内容は神に対する感謝の言葉です。この地上における幸いは神の祝福だと信じていましたから、与えられている恵みに、彼は心から感謝していたのです。

 一方、徴税人の祈りは、絶望の爆発だと、或る聖書学者は言います。
 何が絶望なのでしょうか。徴税人はおそらく地方税の下請けで、できるだけ実入りをよくしようと、政府の決めた税率表はありましたが、方法はいくらでもありましたから、かなり悪いことをしたのだと思われます。
 そんな彼らが悔い改めをするには、罪深い生き方を捨てるだけではなく、不正に得たお金に、その五分の一相当を上乗せした金額を弁済することが必要だったということです。でも、自分のだました相手を一人残らず見つけることは不可能です。ということは、悔い改めの業を果たすことは不可能だということです。ですから、ただ胸を打ち神の憐れみを求めるしかなかったのでしょう。

 彼の祈りは、詩篇51の3節、出だしの言葉です。
 3 神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。

 そして18節と19節には次のような言葉があります。
 18 もしいけにえがあなたに喜ばれ 焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら
  わたしはそれをささげます。
 19 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。 打ち砕かれ悔いる心を
  神よ、あなたは侮られません。

 イエス様はまさに、彼の祈りは神のみ心に沿うものだとおっしゃるのです。
 だから義とされたのだと。
 そして弟子たちを戒め、「神は絶望したものを受け入れる神であり、心砕かれたものに対する哀れみは限りないお方だ」とおっしゃっている・・・それが今日の福音です。

 ところで今日の福音の中の「断食」についても考察してみたいと思います。

 断食・・皆さんはどのように思われるでしょうか。
 断食はしたほうがよいでしょうか、それとも、無意味でしょうか。

 まず言えることは、「断食」は、神の前に誇るためではないということです。
 人は、自分が断食し他の人はしていないときに、どのような思いを抱くのでしょうか。特別なことをしている・・と思うとすれば、それは間違いです。
 断食そのものに意味はありません。邪魔になるだけです。ダイエットにはなるかもしれませんがそれだけです。

 でもわたしは、「隣人愛と結びつく断食」なら大いに意味があると思います。
 断食して一食分を飢えている人たちに捧げるなら、大いに意味があると思います。
 その場合、断食はお金に可視化するのがよいと思います。
 精神を鍛えるためというなら、邪魔になるだけです。パリサイ人のように自惚れをきたしますから。

 断食をしたなら、その分をお金に換算し、こっそりと寄付しましょう。

 献金箱を用意し、右手のしていることを左手に知らせないように、こっそりと入れてください。もちろん断食は健康を害さない程度に・・です。

 ハンガーゼロ運動を推進している日本飢餓対策機構によれば、飢餓が原因で命を落とす子供は5秒に一人だということです。そのような彼らの一人でも救うためにする断食なら、主は大いにお喜びにおいになるでしょう。