司祭の言葉 10/16

年間第29主日C年

 皆様おはようございます。秋も深まりつつありますね。紅葉の美しい季節です。
 ウイズコロナ・・ちょっと心配ですけど、用心しながら前に進むことが求められています。

 今日の話はやもめの訴えです。
 やもめ・・夫が亡くなった未亡人です。いくつくらいでしょうか。それはわかりませんが、当時のユダヤでは14・5歳で結婚しましたから、若い人もいたと思います。
 初代教会では、やもめとして登録するのは60歳未満のものではなく一人の夫の妻であった人、善い行いで評判の良い人でなければならない・・とあります。(1テモテ5の9)
 裁判官を悩ますほどですから、かなり声をあげる人だったと思われます。
 彼女が訴えた相手は社会的に身分があるか、金持ちだったのだろうと思われます。
 中身は金銭トラブルかも知れません。
 裁判官はユダヤ人ではないと思われます。ユダヤ人ならその役目をするのは長老だからです。不正なといわれているので、わいろをとって適当に裁判をする人で、やもめは金がなくわいろをくれないのでほっといたのでしょう。
 でも彼女には武器がありました。しつこく訴えるという武器です。そして裁判官は根負けします。

 今日の譬えはイエス様が、気を落とさず絶えず祈らなければならないことを教えるために語られたのだと、ルカは述べています。
 皆さんは一日にどのくらい祈る必要があると思っているでしょうか。
 そして祈りを聞き入れてもらうためには祈り続ける、長々と祈る必要がある・・・これは正しいでしょうか。
 イエス様は 違う! といいます。

 マタイ福音書では、イエス様は祈るにあたって、祈りを聞き入れてもらおうとくどくど祈ってはいけません。それは異邦人のすることです。神は祈る前から必要なことをすべてご存じです。だから、こう祈りなさい。そうおっしゃって教えたのが主の祈りです。くどくど祈るな・・といっているのですから、しつこく祈れ、祈り倒せと言っているのではないことは確かです。
 ここで思い出すのはヤコブが神と相撲を取ったという話です。これは、神が許すというまで祈り続けた話といわれています。神が根負けするのでしょうか、答えは「否」です。
 神はすでに許しているのです。その許しをヤコブがなかなか確信できず祈り続けたということではないでしょうか。

 ルカによる福音書ではイエス様が主の祈りを教えた後に、夜中に来た旅人をもてなすためにパンを借りにいった人の譬え話をしています。この個所は、「誰でも求めるものは受け、探すものは見つけ、門をたたく者には開かれる」(マタイ7の8)という言葉と結び付けて読む必要があると、聖書学者のエレミアスは言います。
 それは、すでに寝ていても頼まれれば起きてパンを貸し与える友達のように、助けを必要とする人が声を上げるなら、この友達がそうしたように、神は必ず頼みを聞いてくださる。それは確実なことなのです・・と教えるための譬えであったということです。

 そして、今日の朗読では「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために弟子たちに譬えを話された」とありますが、それは編集したルカが言っていることで、イエス様がこの話をした狙いは別なところにある・・といわれています。

 このやもめの訴えの譬えも、この裁判官がやもめの訴えを聞いたように、私たちが祈るとき神が祈りを聞いて下さることは確実なことなのだ・・・、だから祈りなさい・・・というところが、イエス様のおっしゃっているところなのです。
 「絶えず祈ることが必要だ」というのと「祈りが聞き入れられるのは確かなことだ」というのは違います。
 イエス様は主の祈りを教えながら、そのあとのたとえ話でもって、祈りは必ず聞き入れられるのだよ。そう教えておられるのです。

 やもめと裁判官の話について聖書学者エレミアスは、イエス様はこういいたいのだと説明します。
 「神の力、優しさ、そして助は疑いない。それは決定的に確実なことだ。あなた方が心配しなければならないのは、別のこと。人の子が来られた時、地上に信仰を見出すか・・である、と。

 今日の話は皆さんの祈りの助けになるでしょうか。すでに祈る前から主は私たちの願いをご存じなのですから、不安にならず、祈りは必ず聞き入れられると信頼をもって、日々主の教えてくださった祈りを唱えましょう。