司祭の言葉 11/20

王であるキリストの祝日C年

 突然ですが、皆さんはバチカン市国の紋章を知っていますか。
 交差する金と銀のカギ。その上に三重の王冠(教皇冠)が描かれています。
 天国と煉獄とこの世の教会の王であるキリストの代理者ということでしょうか。王冠を三つ重ねた、銀に金をかぶせた金冠です。
 教皇がペトロの座に就くときには、1305年からパウロ6世(1963~1978)の時まで戴冠式が行われてきました。第2バチカン公会議ののちパウロ6世はこの教皇冠を使用せず、貧しい人々のために売却しようと考えました。その結果、ワシントンの無原罪の聖母教会に展示され、収益は貧しい人のために使われることになったそうです。その後のヨハネパウロ1世、ヨハネパウロ2世、ベネディクト16世、フランシスコも教皇冠の戴冠式を行っていません。
 その教皇の紋章にもこの三重の冠が描かれてきました。しかし、ベネディクト16世もフランシスコも紋章に教皇冠を描かず、ミトラ(司教冠)を描いており、教皇冠を描くことは過去のものになりつつあるということです。
 そういえばロシアの主教がミサの時にかぶるものも、王冠のようなデザインです。

 教会の聖人伝には沢山の聖人が載っています。でも、暦に載っていない聖人が一人だけいます。この聖人については、教会は聖人だと宣言していません。でも天国にいることは確実なのです。イエス様が保証しているのですから。
 この暦に載っていない聖人は、どうして聖人になれたのでしょうか。なんの難しいこともありません。 たった一言葉でなれたのです。その魔法のような言葉とは・・・「あなたの御国においでになるときには、私を思い出してください。」 イエス様を王として認めた言葉・・・これです、天国に往く秘訣は。簡単ですね。 心から、そう言えばよいのです。・・・それでイエス様は天国を保証したのです。

 王であるキリストという言葉とともに思い出すのは、映画ブラザーサン・シスタームーンの一場面です。戦争から病を得て帰り、ようやくよくなって家族と共にミサに出ている折のことです。金持ちたちは前の席に座り、貧しい人たちは教会の後ろのほうで跪まずいてミサにあずかっています。フランチェスコは後ろにいる貧しい人たちを見ながら、きらびやかな衣装に包まれ金の冠をいただく王であるキリストの十字架を見つめ、着飾った自分の衣装の襟元をつかみながら「違う!」とおおきなこえでさけぶのです。

 韓国がまだ軍事独裁政権だったとき、その政権に抵抗し続けた金芝河(キムジハ)という詩人がいます。彼は『荊冠(けいかん)のイエス』という戯曲を書いています。
以下、被差別部落解放と聖書的解放を結びつける神学。『荊冠の神学』を著した栗林輝夫さんの本からの引用です。

 この戯曲の場面は、ある小さな韓国の町である。そして三人の主要な登場人物は、明らかに社会の底辺に生きる被差別者である。「ライ病人」「乞食」「売春婦」は、ある寒い風の晩、腹を空かせ、自分たちの不運を嘆きながら、肩を寄せあって座っている。彼らのすぐ側には「黄金の冠」をいただいたイエスの像がおかれている。それはかつて次のような「ある大会社の社長」の祈りによって立てられた像だった。
 「イエスよ、金の冠は、全くあんたにお似合いだ。その冠をかぶって、あんたは実にこの世の王だ。いや王の王だ。その冠であんたは全くハンサムだ。けれどイエスよ、あんたのその金の冠が、去年のクリスマスに、忠実な僕、私の寄付で作られたことを忘れないでほしいね。・・・・イエスよ、私にしこたま金を儲けさせてくれ。そうしてくれりゃあ、次のクリスマスには、私はあんたの体全体を金箔で飾ってやろう。」

 さて、このイエス像は、肩を寄せあい語らっている貧しい三人の前で突然に、
「どうか自分を虜囚の身から自由にしてくれ、解き放ってくれ」と懇願して叫び始める。「私は社会で苦しむものらを救うために、まず自分自身を解放しなければならない。大教会の神父や司教たち、実業家、政府の高級役人らは、私をこうして虜のままにして、自分らの利益のために私を利用している。」
---そうイエスは嘆くのである。これを聴いた「ライ病人」は、おそるおそる、
「どうすればイエスよ、あなたを自由にすることができますか」と尋ねる。するとイエスの像は直ちにこう叫ぶ。
「それを可能にするのは、おまえたちの貧しさ、おまえたちの知恵、おまえたちの柔和な心、いや不正義に反抗する、おまえたちの勇気。・・・・私には荊冠がふさわしい。金冠など、無知で欲深く腐ったものらが、外見を飾るために私にしたお仕着せなのだ。」そう語り、金の冠を外して荊の冠を被せてもらう。

 金芝河はこうして、この世界の権勢家によって備えられたイエスの「金冠」に、差別された者らの「荊冠」を対峙させ、イエスとは元来、荊冠をかぶる者であるという。
(栗林輝夫『荊冠の神学』p.216-217)

 しかし実際には、金冠をいただくキリストの像や絵はほとんど見ることがありません。画家たちの描く王であるキリストの絵画は、荊の冠を被ったキリストです。キリストの王冠は荊の王冠なのです。
 では、この王はなぜ殺されたのでしょうか。光としてきたからです。闇を好むものにとって、光は命取りです。どうしても、抹殺する必要があったのです。
 イエス様は「あなた方は世の光である」といいました。私たちは世の光なのです。そのことを忘れていたなら、今日こそ荊冠のイエス様をわたしたちの王として認め、「私を思い出してください」と祈りながら、私たちの光を高く掲げましょう。