司祭の言葉9/6

※20200906年間23主日(A年)

         困難な問題の解決


                   司祭 鈴木 三蛙
 今日のカ所をお聞きになってどのように感じられましたか?・・・ 教会の誕生はペンテコステの後ですし、言われている内容も教会の規約のようで律法的です。取税人や異邦人について言われていることも疑問に感じると思います。
 イエス様自身、「徴税人や罪人の仲間」と言われたほどですし、この後の21章の31節では祭司長や民の長老たちに向かって「徴税人や娼婦たちの方が貴方たちより先に神の国に入るだろう」と言っているのですから。さらに疑問を大きくするのは、赦しには限度があるかのように言われていることです。今日のお話の後に、7の70倍まで許しなさいと言われたイエスさまが、このようなことを言うはずがないのです。ではこの個所はどう理解したらよいのでしょうか。様々な理由から、ここに記されているとおりの言葉はイエスさまが実際に言ったのではなく、後年、教会が、懲戒処分を規約に盛らなければいけなくなった時に、イエスさまが言われた何かの言葉を適用したのだろう・・というのが、神学者たちの理解です。イエスの言葉を正確に記録したとは言えないでしょうが、イエスの発言に由来していると考えられるというのです。
 一昔前になりますが、神奈川県のある施設で職員と園長の間に溝が生じました。2年後、神奈川県独自に付いていた補助金2000万がカットされるというのです。それは人件費4〜5名分にあたります。それで園長は、「今後、園の行事計画などは、勤務時間内で処理するようにしてほしい。残業手当は出せなくなるから」と言いました。職員は説明してほしいと思いましたが、園長は相手が判ってくれるだろうと思いました。
 説明が足りずボタンの掛け違いでずっと来たため、職員たちは組合に入りました。説明不足で行動すると、誤解が生じやすくなります。その時両者の間に入って、溝の原因がどこにあるのか2回ほど、3人で話を聞きました。どちらかを裁くためではなく、こんがらかったヒモを解きほぐすために。
 だれかが自分に対して罪を犯した時には直接あって本人に話すべきですが、個人的に会っても目的が達成されない時には、和解を助けるため第三者を連れてゆく。それでもだめなら問題を教会の、祈りと愛の交わりに持ってゆく。それでも実らなかった場合には異邦人か徴税人のようにみなす。・・ここはよく見なければなりません。救われる望みが無いかのように取られますから。
 イエスさまがそんな事を言うはずはありません。今日のパンフレットは「新しい神の民に属していない人」と言う意味であると述べています。それは、その人の心を愛をもって勝ちとるように、宣教の対象と考える・・と言う意味になります。
 この言葉を言いながら反省しています。私にとっては説教しにくいテーマです。自分に資格がないと感じますから。杉戸で14年来挨拶が返ってこない人がいました。じりつ村の設立当初の、反対運動の急先鋒だった方です。私の努力不足もあって、時間だけがたってゆきました。しかしあるとき、ご主人が亡くなって、弔問に行ってから、その方の態度が変わりました。挨拶が返ってくるようになったのです。時が解決したとも言えますが、教会の中ではどうでしょうか。
 教会の中でもいろいろな人間関係で悩むことがあると思います。でもその問題をできるだけ当人に直接話して、誤解を解き、早急に解決することが求められているのだと思います。
 さらに大切な言葉が記されています。「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」イエス様はそうおっしゃいます。一人ではだめなのです。少なくとも二人いれば、そこには教会が存在するのです。そして、先に、私たちのために取り次いで祈っていて下さっている弁護者イエスが、ともに、そこにおられると言うのです。だから、困難と思える問題もイエス様とともに解決に向かう、そう信じることが出来ます。
 ここには聖体とみ言葉に加えて、もう一つの、キリストの現存の真理が語られています。


※2020.09.06 23th Sunday in Ordinary Time(A)
In the face of hard troubles
Fr. Suzuki, Michael Kunihiro
How do you feel about today’s Bible? The birth of the church was after Pentecost. Besides, this is legal matters just like rules inside our church. You may have doubt about what Jesus says on tax collector and foreigners. Jesus, in fact, was called “tax collectors or sinner’s companion”. He even says to the head of the priests or the elders of people “tax collectors and prostitute will enter into the kingdom of God earlier.” Moreover, what increases our doubts is his remark that his forgiveness of sins has a limit. It is impossible for Jesus to say that because he told us to forgive as many as 7 multiplied by 70 times. How should we understand this contradiction? Some theologist believe that when the church needed to introduce some disciplinary measures into the Covenant, they used some language. They say that part is rooted from what Jesus had actually spoken even though they are not accurately recorded.

A decade ago, a conflict occurred between the principal and the staff at an institution in Kanagawa prefecture. Kanagawa prefectural government informed they will cut their subsidy. The amount equals to labor cost of 4 or 5 stuffs. Then, he asked, “Finish preparing activity by the end of business hours from now on. We will not be able to provide overtime payment”. While the staff wanted to him to explain more, he thought they will understand. Because the explanation was not enough, they were still left misunderstanding him and joined labor union. If things are promoted with insufficient explanation, we cannot understand in the right way. I entered between the two to find what caused the trouble. Not to judge one of them but to untie a tangled knot.

When someone sins against you, you need to see and talk. If it fails, go to a third party for help. If it fails, bring the trouble to the church, communion of prayer and love. If it fails, treat them as if he is a gentile or a tax collector. We need to examine carefully here. It might give you the impression that he cannot be forgiven. Jesus cannot say that. According to today’s brochure it means they has not yet belonged to new God’s people. Therefore, we need to try to win his heart with our love in our faith in the Lord, Jesus Christ.

This is not a theme I can easily preach as I still feel sorry and criticize myself over a trouble. I confess that there was a faithful who would not answer to my greetings for fourteen years. He was the leader of opposition movement against founding Jiritu-mura, or independence village literally, from its foundation. I cannot say I made an enough effort in the long time that had already passed. I once made a call to express condolence after her husband passed away. One day, she changed her attitude and gave me a greeting back. It can be said the time has settled. I guess it is the same in church. We sometime are bothered with human relationship also here. We need to talk over the issue face to face, resolve our misunderstanding, and solve it as soon as possible.

Here are other essential words, “if two or three are gathered together in my name, there am I in the midst of them”. Jesus says he cannot be alone, a church will be among us if more than one of us is there. And we say that Jesus, the council will be there with us praying for us and interceding us. For this reason, we can believe even the problems looking difficult will be settled in Him. This is the truth of Christ’s presence as well as the Eucharist and words of the Lord.
(Translation: TK)

司祭の言葉 8/30

※2020年8月30日年間22主日A年(mt16:21~27)

聖ペテロ


                        司祭 鈴木 三蛙
 皆さんはペトロをどのような方とみているでしょうか。黒いひげを蓄えた、頭は少し薄くなり始めた、がっしりとした体格の、日焼けした浅黒い、朴訥なガリラヤの漁師。大漁に驚いてひれ伏し、湖上のイエスに驚きおびえどこまでもついてゆくと言いながら三度もイエスの弟子であることを隠す、しかし誰よりも早くイエスをメシアと公言した弟子。
 イエスはエルサレムを目指しています。そこは大王の都。メシアの君臨する場所。ペトロの夢は大きく膨らんでいたことでしょう。 「貴方はメシアいける神の子です」そう言いましたが、そのメシア像はユダヤ人たちが抱いていたメシア像そのものでした。そしてイエスとともに歩くうちにひそかに心に思うことがありました。イエスがメシアなら来るべき王国で、特別な地位につくことが出来るかもしれない。ガリラヤの漁師が、王の側近になる・・・。権力の中枢に立つ。
 その時受けたイエスの受難の予告。慌てたに違いありません。大きな声をあげ、イエスの言葉を遮り、わきへ引っ張ってゆき、それ以上語らせまいとしたのでしょう。
 そして受けた「サタン、引き下がれ」と言うイエスの、これまた激しい叱責。 ヒパゲー オピソー ムー サターナ Vade post me Satana。  「去りなさいサタンよ」  この言葉は荒野の誘惑のときの悪魔に、イエスが語った言葉でもあります。しかし、ペトロには悪魔のときとは違って「私の後ろに」が付け加えられています。
 イエスは漁師のペトロと最初に出会ったとき、「私についてきなさい」といっています。直訳では、「来なさいわたしのうしろに」です。弟子であるペトロはサタンのようにイエスの前に立ちはだからずに、イエスの後ろに回って従うべきだということでしょう。
 十字架に登るメシアを理解できずに、それは「とんでもないことだ」とのべたペトロは、イエスにとってサタンの誘惑なのです。荒れ野で石をパンに変えるようにとイエスにささやいたサタンは、今ペトロの口を通して、再び誘惑したのでした。
 当時のユダヤ人が待ち望んでいたメシアは十字架のもとに、むなしく殺されるような無力な敗北者ではありませんでした。 イエスをいさめるペトロも、ユダヤ人の常識や「人間の思い」から自由ではありませんでした。そのペトロはイエスをいさめ、「あなたはわたしの邪魔をするもの」としかられてしまいます。原文ではスカンダロンscandalum「つまづき」と言う言葉が使われています。
 ペトロが天の父のものとなって発言するときには「幸いだ」と祝福され、人間の思いにとらわれたときには、「つまづき」とされ、「サタンひきさがれ」と叱られます。 人間的な栄光を求めるとき、サタンの誘惑に陥ってしまいます。ペトロは弟子のあるべき場所「イエスの後ろ」に立ち、十字架に向かって、前を行くイエスに従うべきなのです。

司祭の言葉 8/23

※2020年8月23日春日部年間第21主日A年 
(→English)

名前のこと


                     司祭 鈴木 三蛙
 NHKが去年から放映していた日本人のお名前と言う番組があります。名前のルーツ由来を探るもので多くの方がご覧になっていると思います。ちなみにスズキの名前の由来は、和歌山の方言で、稲わらを保存するわら塚(スズキ)だとか。
 聖書を読みますと神との出会いの中でアブラムはアブラハムと呼ばれるようになり、ヤコブはイスラエルと名前を変えています。またイエスとの出会いの中で、シモンはペトロ、サウロはパウロと名前を変えています。これらにあやかってでしょうか、カトリックでは洗礼を受けると、洗礼名をもらいます。新しい名前をいただくことによって、その洗礼名の聖人の、信仰に習うものとなるように・・・という意味があります。キリスト教の国では、ヨーロッパだけではなくロシアにおいても、洗礼名の聖人の祝日を盛大に祝います。また、修道院でも誕生日はお祝いせず、洗礼名の祝日をお祝いします。春日部教会の守護の聖人は聖テモテです。その祝日はいつかご存知ですか?シモンがペトロと呼ばれるようになったように、皆さんの洗礼名についても意味があると思います。そして、その祝日はいつでしょう。 
 今日の聖書のみ言葉は、ペトロの信仰告白について語ります。ペトロはガリラヤ出身で、シモンともケファともシメオンとも呼ばれています。シメオンが本来のへブル的な形で、エルサレムの教会ではこの名で呼ばれています。シモンは、シメオンがギリシャ化した名前で、多くの場所では親しみを込めて、このシモンという呼び名が使われています。ヨハネの福音書では、その召し出しのときすでに、「あなたはヨハネの子シモンであるが、これからはケファと呼ぶことにする」・・・とおっしゃっています。ケファは当時の話し言葉アラム語で、岩という意味です。ギリシャ語ではペトロとなります。当時の人は自国語とギリシャ語と両方を話しましたから、このあとは、新旧の名前をいっしょにし、ヨハネではシモン・ペトロとつづけて呼ばれることが多くなります。 
 面白いのは今日のマタイ福音書では、ヨハネの子ではなく、バルヨナ・・すなわち「ヨナの子」と呼ばれていることです。ヨハネは「主は恵み深い」という意味ですが、ヨナは「鳩」といういみです。ペトロは嵐の中に現れたイエス様を見て水の上を歩いて行こうとしますが、強い風が吹くと慌ててしまい、沈みかけてイエス様に助けを求めます。また、モーセとエリヤがイエス様に現れたのを見た時には、ここに三つの幕屋を建てましょう・・などと、訳も分からず口走ったりします。また、最後の晩餐の夜には、捕まるのを恐れ、イエス様を知らないと三回否むことになります。そこでイエス様は、ペトロがいつも鳩のようにおくびょうで、いつもばたばたしているのを見て、ヨナの子とおっしゃったのかもしれません。そして、これからは岩のように動じない信仰の持ち主になりなさい、そうおっしゃりたくて岩という名前をくださったのではないでしょうか。 
 さて今日のみ言葉のうちとても大切な質問に目を向けてみましょう。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」 
 この質問のあとには、互いに顔を見合わせ、一瞬沈黙が続いたことでしょう。
 そのときペトロが口を切り、偉大な告白をしました。そして十字架に向かうイエスは今、少なくとも弟子のひとりが、ご自分を、メシア、神の油注がれたもの、生ける神の子として認めていることを知ることができました。 
 ここで注意すべきことは、イエスの質問はあなたに向けられ、あなたはわたしをどう思うかと問われているということです。ピラトがイエスに、【あなたはユダヤ人の王か】と尋ねたとき「あなたがそういうのは、自分の考えからか、それともほかの人々が、わたしのことをあなたにそう言ったのか」と答えられました。 
 人は、今日までイエスに対して述べられた教えをことごとく知り、イエスに対する偉大な思想家神学者の意見をことごとく理解したとしても、それでキリスト信者とはいえません。キリスト教の信仰は、イエスについて知ることではなく、イエスを知ることです。 
 イエスの「あなたはわたしを何者だというのか」と問いかけは、私たちの、一人一人に向けられているのです。あなたはどうこたえるのでしょうか。 

※2020.08.23 21th Sunday in Ordinary Time(A)
      Names
               by Rev. Fr. Suzuki, Michael Kunihiro
There is a program A name of a Japanese that NHK has been broadcasting since last year. I think that many people watched this program which follow the origin of their name. The name Suzuki, for instance, is derived from the Wakayama dialect, which means Suzuki, a mall which store rice straws.

When we read the Bible, Abram came to be called Abraham in the encounter with God, and Jacob was renamed Israel. In the meeting with Jesus, Simon changed his name to Peter and Saul changed his name to Paul. Perhaps because of these, Catholics receive a baptismal name when they are baptized. A new name is given in the prayer of learn from a saint’s faith. In Christian countries, not only in Europe but also in Russia, what is celebrated is the day of their saint’s holidays. Also, in the monastery, we do not celebrate holiday of each but celebrate the holidays of the baptismal name given. The patron saint of Kasukabe Church is Saint Timothy. Did you know its holiday? Just as Simon came to be called Peter, the baptismal name is meaningful. And when is his holiday?

Today’s Bible words speaks of Peter’s confession of faith. Peter is from Galilee and is also known as Simon, Kefa and Simeon. Simeon, in its original Hebrew form, is known as the name in the Church of Jerusalem. Simon is the Greek name of Simeon, and in many places the name Simon is used affectionately. The Gospel of John already said at the time of the calling, “You are Simon son of John, but from now on I will call you Kefah.” Kefa is the spoken language of the time in Aramaic and means rock. In Greek, it is Peter. Since people at that time spoke both their native and Greek languages, the old and new names were often used together in John, like Simon Peter.

What is interesting is that in today’s Gospel of Matthew he is not called “son of John” but called “Baryona”, or “the son of Jonah”. John means “the Lord is gracious,” but Jonah means a “dove.” Peter tries to walk on the water when he sees Jesus appearing in the storm, but when the strong wind blows, he panicked, be drowned and asked Jesus for help. Also, when we see Moses and Elijah appear to Jesus, he confessed and said “we will build up three tabernacles here…” Also, on the night when they had the last supper, He got afraid to be caught and he refused three times to confess that he knows Jesus. So, Jesus may have said he was the son of Jonah as he saw Peter always fluttering like a pigeon and flapping. I believe Jesus gave him the name “rock” in the hope that Peter have a firm belief and be strong as rock.

Now let us turn to the particularly important question in today’s Word. “So, what do you say I am?”

After this question, there would have been a moment of silence, looking at each other.
Then, Peter broke and made a great confession. And Jesus, who will go to the cross, now knows that at least one of his disciples knows himself as the Messiah, the anointed of God, the Son of the Living God.

The point to note here is that Jesus’ questions are addressed to you and you are asked “who do you say I am”. When Pilate asked Jesus, “Are you the King of the Jews?” he answered, “Did you say that from your thoughts, or did other people tell you about me?” 

Even if one knows all the teachings they learned about Jesus to this day and all the views of the great thinker or theologian studying Jesus, it is not enough. Christian faith is not about knowing about Jesus, but about knowing Jesus.

Jesus’ question, “Who do you say I am?” is asked to each of us. What do you confess to him?
(Translation:TK)

司祭の言葉 8/16

※2020年8月16日 年間第20主日A年
(→English)

カナンの女と子犬


                   司祭  鈴木 三蛙
 今日のみ言葉は、カナンの女のおはなしです。イエスがティルスとシドンの地方に行ったとき、女はイエスが来たと知ると、「ダビデの子よ、私を憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめいられています。」と叫びます。でも、「イエスは何もお答えにならなかった」とあります。「何で?」と思いませんか? そして弟子たちはと言えば、うるさいからと追い払おうとするのです。これまた薄情だと思いますよね。さらに引っかかるのは「子供たちのパンをとって子犬にやってはいけない」ということば。犬呼ばわりですよ。これがイエス様の言葉・?と思ってしましませんか。
 まず、カナンに来たいきさつから見てみましょう。今日の個所は21節からですが、15章の初めには、エルサレムから来たパリサイ人と律法学士たちが、イエスの弟子たちが先祖からの言い伝えを守らないことについて、論争を仕掛けています。その前の章ではパンの奇跡と、休むために対岸に行かせたが嵐にあったというお話でした。
 イエスの弟子たちもイエスもかなり疲れていて、本当に休みが必要で、パリサイ人、律法学者たちの偽善に辟易して、足の塵を払うような形で、ユダヤから離れたところでした。
既成宗教に対して足の塵を払ったイエスは、私たちの教会に対しても、もし辟易したら、足の塵を払われるかもしれません。
 ここで一つの言葉に注目したいと思います。「子犬」です。相手を犬呼ばわりするときには、そこに強い侮蔑の意味がこめられます。でも、この子犬という言葉には優しさと愛情が含まれているのです。
 指小辞(ししょうじ)‥という言葉をご存知でしょうか。ある言葉につけて、小さい、かわいい、という意味をあらわす言葉です。今、セウイの台所のわきに野良猫が子猫を生んでいて、時々姿を見つけるそうです。かつて、やはり物置に野良猫が子供を産んだことがありますが、子猫はすばしっこく、決してつかまりませんでした。犬も野良犬は恐ろしいし、その子犬も歯をむき出して威嚇してくるでしょう。人間を犬と呼ぶのは致命的な侮辱でした。そのような犬呼ばわりは、犬はごみをあさる不潔な動物という印象でしたが、ここに出てくるのは、そのような犬ではないのです。ギリシャ語で犬はキュノスですが、ここではこの指小辞が使われていて、キュナリオンなっています。飼い主のところに愛情込めて飼われている子犬という感じです。イエス様は、いわば、愛情込めて「子犬ちゃん」と呼んでいるいうところでしょうか。
 訪れた異邦人の地、あるいはそこに信仰を見出そうとしたのでしょうか。イエスはカナンの女の信仰を試します。イエスの厳しい言葉にも彼女は耐え、娘をいやすことのできる方はこの方を置いてはいない・・その確信をもって、「子犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです」とこたえます。
 カナンの女は、はじめイエスをダビデの子と呼んでいます。世俗的な呼びかけですが、あとからは信仰をもって「主よ」と呼び掛けています。
そしてイエスは彼女の信仰に応え、娘の病気をいやしたのです。

※2020.08.16 20th Sunday in Ordinary Time(A)
      Canaan woman and puppy
                     by Rev. Fr. Suzuki, Michael Kunihiro
Today’s scripture is the story of a Canaan woman. When Jesus went to the provinces of Tyre and Sidon, the woman found that Jesus had come and shouted, “Children of David, have mercy on me. My daughter is terribly suffering from evil spirits.” But, “Jesus did not answer anything.” Don’t you think “Why?” The disciples even try to get rid of her because she asked much. Isn’t it merciless? There is another part that catch our attention. “Don’t take children’s bread and give it to a puppy.” A puppy? Is this the word of Jesus? 

First, let us look at how He came to Canaan. Today’s story starts from chapter 15, verse 21, but at the beginning of chapter 15, the Pharisees and teachers of the law from Jerusalem challenged that Jesus did not keep the traditions of their ancestors. In the previous chapter, I told you about the miracle of bread and that He was sent to the opposite bank to take a rest, but there was a storm.

Both Jesus’ disciples and Jesus were very tired, they really needed a break, and were away from Judah. Because they were so sick of the hypocrisy of the Pharisees and the scribes that they dust their feet.

Jesus, who dusted and left the established religion, might do so our church if he was tired of us. Anyway,I would like to focus on one word here. “Puppy”. When you call your opponent a dog, there is a strong sense of contempt. But the word puppy includes kindness and affection.
Do you know the word syshoji diminutive suffix? This is a word attached to a word to mean small and cute. Stray cats lay beside Sewi’s kitchen, and we sometimes find them around. In the past, a stray cat had given birth to a child in the storeroom, but the kitten was quick and never caught. Dogs and stray dogs might be terrifying, and the puppies would be barking and threatening. It was a fatal insult to call a human a dog. It gives me the impression that a dog is a dirty animal that scavenges garbage, but it is not such a dog I told now. In Greek, the dog is Kynos, but this sishoji is used here to become a Kunarion. That sounds like a puppy who is loved by the owner. Jesus is lovingly calling him “puppy” isn’t it?

Did He try to find faith in the land of the Gentiles He visited? Jesus tests the faith of the Canaan woman. She endures Jesus’ harsh words, and no one can heal her daughter… With that assurance, “a puppy will eat breadcrumbs falling from her master’s table,” she replied.

The woman of Canaan first called Jesus the Son of David. It is a secular way of calling, but afterwards she called Him “Lord” with faith.

And in response to her faith, Jesus healed her daughter’s illness.

司祭の言葉 8/9

※2020年8月09日 年間第19主日A年

「私だ エゴ、エイミ」

                     司祭  鈴木 三蛙
 ウイズコロナと言われている今日、三密を避け、何とかミサを行っていますが、お年寄りは教会にもこれません。命を守る行動が求められていて、お盆の帰省の時期ですがお年寄りに移さないように、帰省も控えねばなりません。心細い今こそ子供たちにそばに来てほしいと思いますし、お孫さんたちもじいじ、ばあばのところへ遊びに行きたいとおもっている。だから、孫を連れて行って喜ぶ親の顔が見たいけど、万が一うつしてしまったら・・そう思うと帰省できないとの決断をします。今年はどれほど多くの人がそのような決断をしたことでしょう。

 今日の福音をお聞きになって、どこが一番気になるでしょうか。イエス様が水の上を歩いたことでしょうか?そしてどのような現象なのだろうと考えたりしませんか?今の時代はすべてを科学的に分析して、納得いく答えを見つけようとします。未知のものに出会うと、それをとことん研究して、納得して、安心するのです。そのような試みは、水の上を歩くイエスについて、いくつかの答えを出しています。でも今日は、イエス様の一つの言葉に注意を向けたいと思います。

 今日取り上げたいのは、「私だ」という言葉です。弟子たちはイエスに促されて対岸を目指し、湖に漕ぎ出しました。でも、この湖特有の突風にいなってそのような弟子たちのところへイエスが近づき、いるはずのないイエスの姿を湖上に見つけ幽霊だとおびえます。
 そのときイエスは「私だ」といい、弟子たちは胸をなでおろすのです。この言葉は、出エジプト記の芝の章で、モーセにご自分をあらわされた主が、その御名の啓示として言われた言葉と同じ言葉です。その時主は「わたしは在るというものだ」とおっしゃったのですが、それはギリシャ語で「エゴ、エイミ」ということばです。そこには二つの意味があって、私は誰からも創られず存在する・・という意味と、私はいつもあなたたちと共に在る・・という二つの意味があるのです。神の救いの歴史はまさに、「私はあなたたちと共に在る」ということを具体的に示してきた歴史でした。そして今恐れおののく弟子たちに、「私だ」といったとき、主が語られた言葉は「エゴ、エイミ」でした。「私はあなたとともに在る、恐れるな」と語りかけたのです。
 いま私たちは弟子たちのように、得体のしれないコロナによる恐れのただなかにいるのではないでしょうか。コロナは目に見えず、薬も治験の途中でまだ出来上がっていません。でも、恐れる私たちにも主は「私だ」私はあなたと共に在る・・とおっしゃって下さるのです。
 エゴ、エイミ この言葉を心にとめ、この難局を乗り切ってゆきましょう。共に主を大きな声で賛美できる日を待ち望みながら。

司祭の言葉 5/10

※5月10日(日)復活節第5主日

私は道 司祭 鈴木 國弘 

 福音はヨハネによる福音の14章1節から12節。イエスが弟子たちに「あなた方のために場所を用意しに行く、その道をあなた方は知っている」と言い、トマスが「どうしてその道を知ることが出来るでしょうか」尋ねる箇所です。このときイエスは「私は道だ」とおっしゃいます。

教会にいると時々、教会までの道順を尋ねられることがあります。

春日部駅からですと、西口に出て駅を背にして藤通りをまっすぐに歩いて、右手にジョナサン、左手に歯医者さんのある信号のない十字路を左折。そのまままっすぐ歩いてくると左手に「たいらや」と言うスーパーが見えたら、その手前右側が教会です。そう説明すればたどり着けるでしょう。

 しかし、「道を聞いてそのとおり歩いたけど目的地にたどり着けなかった」と言う経験もおありだとおもいます。

 皆さんの中に歩いているときに道を聞かれ、ただ教えるだけではなく道案内をして連れて行ってあげたことのある人はおられますか?

 最近は家電売り場など大きな店が多くなりました。どこに何があるのか探すのに苦労しますが、でも、場所を聞いたときに、その場所まで案内してくれる店も多くなりました。そんな時はとてもうれしいですね。

 もし道を尋ねられた人が「わたしがご案内いたしましょう」と言うなら、その場合案内をしてくれる人はわたしにとって道であり、わたしが道に迷うことはありえません。これが、イエスがわたしたちにしてくださったことなのです。

 イエスは単にわたしたちに助言や、指示や、忠告を与えるのではありません。イエスは手ずからわたしたちを導き、わたしたちと主にあゆみ、そしてわたしたちを個人的に日ごとに強めてくださるのです。イエスは道について語りはしない。イエス自身が道なのです。私たちも同じようにできたらいいですね。

 皆様の上に、主の祝福がありますように。アーメン、アレルヤ

司祭の言葉 5/17

※5月17日(日)復活節第6主日A年(ヨハネ14章15-21節)

司祭  鈴木 國弘

 主の平和!! 皆さんいかがお過ごしでしょうか? 三密にならないようにするために、小さいお子さんをお持ちのご家庭は、とくにご苦労なさっていることと思います。14日さいたま教区の中で、茨城、栃木、群馬は新型コロナウイルス感染予防のための緊急事態宣言が解除されましたが、埼玉県はいまだその最中にあります。

先週間違って31日までと書いてしまったのですが、教区が公開ミサを禁止しているのは5月30日までです。間違いをお詫びします。緊急事態宣言がそれまでに埼玉県も解除されれば、公開ミサ禁止の延長はなくなり、31日には聖霊降臨のミサが出来るかもしれません。その時には密にならないような工夫が必要になるでしょう。特に春日部教会は信徒数が多いので、ミサに集中しないようにするためには分散しなければなりません。小生は、そのためにはもう一回ミサを増やすしかないと考えています。皆さんのお知恵を拝借したいと思います。

2011年、東日本大震災の後川越少年刑務所へ行きましたときに、受刑者たちの中から「神様がいるなら、どうして今回の大震災と大津波のような出来事がおこるのですか・・・」と言う質問がありました。 「なぜ?」・・その疑問に対する答えはすぐには見つかりません。今回の新型コロナウイルスの世界的流行もそうですが、きっとわたしたちがこの困難を克服したときに、答えが見えてくるのではないでしょうか。

今回のコロナウイルスによる被害は世界中を震撼させています。テレビには、街から人影の消えた世界中の様子が日々放映され、その恐ろしさを共有していますが、でも心強いのは、世界中が知恵を尽くし、この未曽有の災害を克服すべく立ち上がっていることです。行政もそうですが、特にお医者さんや看護師、医療関係者の皆さんは、死と隣り合わせの中で命を守るために懸命に戦っています。

わたしたちはこの世界をどのように感じているでしょうか。 わたしたちは自分の人生の中で、愛に反する現実をたくさん経験してきています。暴力、裏切り、無関心などなど。しかし、わたしたちの人生はそれらに覆い尽くされているわけではありません。愛の体験も必ずあるはずです。今回の新型コロナウイルスのパンデミックを通じても、見えてくるものがたくさんあると思います。企業も自営業の方々も、自粛の要請に応え、倒産失業の恐怖に耐えながら、感染者を広げないために、命を守るために、ぎりぎりのところで頑張っています。多くのボランティアもその愛のすばらしさを見せています。

 さて、今日の福音の中心にあるのは「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」(18節)という力強い約束です。そして、別の弁護者が約束されています。

神の名は YHWH(わたしはある)と言う名でモーセに示されましたが、ここに

三位一体の神の役割分担が見えます。「わたしはある」・・と言われた神は、私たちを創造し、あがない、永遠にともにおられる・・のです。

聖霊は「別の弁護者」と呼ばれています。ヨハネの第一の手紙2章1節ではイエス様ご自身を「弁護者」と言っていますから、聖霊を「別の弁護者」と呼んでいるのです。 ヨハネ福音書が書かれた1世紀末、キリスト者は完全にユダヤ教から排斥され、ローマ帝国はキリスト教を激しく迫害していました。イエス様のこの約束の言葉が、人々を勇気づけていたことと思います。そして、ヨハネ3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という言葉はとても深く心に響いたことと思います。イエス様と聖霊がともに弁護者として私たちを助けて下さるのですから、フィリッピの信徒へ宛てた聖パウロの言葉を思い起こしながら、勇気をもって共に困難に立ち向かってゆきましょう。

「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリッピ人への手紙4章13節) 

皆様の上に神様の祝福がありますように。

司祭の言葉 5/24

※2020年5月24日(日)復活第7主日A年

主の昇天    司祭 鈴木 國弘

 春日部教会の皆さんお変わりありませんか? さいたま教区では司教様が次の対策を準備中です。25日に政府の発表がありますから、そのあとになると思いますが、発表され次第皆さんの手元にお届けいたします。ミサが開始されたらどのようにクラスター対策をするか、教会で考えをまとめておくことが大切です。どうぞ役員の皆さんにご意見をお寄せください。

24日は主の昇天の祝日です。

 NHKの番組ぽつんと一軒家では、空中から地球を眺め、森などの中にポツンと見える一軒家を尋ねてゆきますが、カメラはぐんぐん地表に近くなり、その家や周りの外観をとらえて、その場所を探しにゆきます。

ご昇天のイエス様の目から見ればその逆で弟子たちの姿はだんだん小さくなってゆくのでしょう。でも私たちの目から見るイエス様はどうなのでしょう。

皆さんは空を見上げるのはどのような時ですか?子供のころ縁日などで買ってもらったゴム風船が、大切に持っていたはずなのに、突然スーッと手を離れて空の方に登って言った経験。それをあーっと手を伸ばしても、ぐんぐん上の方に登って行ってしまったのを、ただ残念に思いながら見送った経験はありませんか?

 空を見上げていた弟子たちも、大切なものが傍を離れて行ってしまって、手が届かなくなり、ただ見送っていたと言う感じなのかもしれません。

ひとむらの雲がイエスを隠したとあるのは、神の「栄光」のうちに入られたことを雲という言葉で示しています。旧約聖書では神の栄光は雲の中に表現されています。そして、 天は「場所」ではないのです。だからでしょうね、「何故天を見つめて立っているのか」と言われたのは。聖書では 神の栄光・・・それは神の卓越性を示しています。

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。
わたしたちはその栄光を見た。

大切なのはイエスが去られたことではなく、イエスが神の栄光を示されたことです。そして神もまたイエスに栄光を与えたのです。その、神の栄光とは、神の愛そのもの。 

 神の栄光はエジプト脱出の時、もえる芝の中にあらわれ、シナイ山では、もえる炎の中から律法を書き記した板を頂きました。その火は神の栄光であり、その栄光は神のご自分の民に対する途方もなく大きな愛でした。そして、その愛は、新約に於いて、キリストの誕生と、十字架、復活を通して現れ、その昇天を持って完成するのです。
 その天に昇られた主は、わたしたちの中に住まわれます。教会だけが祈りの場所ではありません。一人一人はそれぞれ聖なる宮を携えているのです。わたしたちはそのことを、その宮に入ることを忘れてはいませんか? 今日はそのことをもう一度思い起こす日です。

司祭の言葉 5/31

※2020年5月31日(日)聖霊降臨の祝日

罪を赦すこと    司祭 鈴木 國弘

 聖霊降臨の祝日 おめでとうございます。 先日埼玉県の非常事態宣言も解除され、今日の祝日を皆さんとともにミサを捧げて祝うことが出来るかと期待しておりましたが、司教様のお手紙では、まだしばらく公開ミサの禁止は継続するとのことでした。とても残念ですが、まだ新型コロナウイルスの脅威が無くなったわけではありませんので、クラスター発生をさけるためには解除後のミサをどうするか、対策を考えながら自粛を続けましょう。

 このたびのパンデミックの発生について、米国では沢山の死者が出て、その責任は中国にあると厳しい論調で避難しています。また医療関係者は献身的に、自己の感染のリスクを顧みず、日夜頑張ってくださっているにもかかわらず、彼らに対する差別的な言動があるとも報道されています。とても悲しいことです。

 今日の福音は、ヨハネによる福音書の20章21節から23節。復活のイエスによる弟子たちの派遣と、罪の許しの言葉です。
「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
 これはイエスの派遣の命令、聖霊を与えられた者に対する指示です。聖霊を受けた者の使命は「罪を赦すこと」なのです。ここに「赦す」と訳された言葉には「放棄する」という意味もあるそうですから、相手の罪、失敗、道を踏み誤ってしまったことを赦す、そのことによって生じる自分の権利、債権を放棄するということも含んでいます。

 この部分、ほかの訳文では
あなたたちがこだわるなら、こだわるまま残る。【本田】
 あなた方が留め置くなら、留め置かれたままである。【岩波】
 あなた方が持ち続ければ、罪は残る(保たれる)【New King James Version】
などとも訳されています。 

 主が教えてくださった祈りでは、「私たちが人を許すように、わたしたちの罪をお許しください」と祈ります。

 人を罪人だと決め付けて、罪人扱いにしたり、相手がたとえ自分に対して何か害を加えることがあって、自分が相手に対する請求権を持っていたとしても、そのように扱わない・・ということでしょうか。

 聖霊を受けた私たちの使命は、イエスの許しの言葉を伝えることにある。そのことを考えてみたいと思います。

司祭の言葉 6/7

※2020年6月7日(日)三位一体の主日A年 

わたしは有る    司祭 鈴木 三蛙  

 アレルヤ! 皆様お変わりございませんか? 今日は三位一体の祝日です。

三位一体・・・私たちの信仰の奥義です。おうぎ・・今は神秘と言っていますね。聖書には三位一体という言葉はありません。イエス様のお言葉の中から導きだされた結論です。神様は唯一ですが、その神さまの中に、父と子と聖霊と言ういわば独立した人格があって、それぞれがいつもわたしたちに寄り添い、救いの御業がなされたことをかんしゃします。私たちを救うと言う主の御業は、父と子と聖霊の共同作業だったからです。

 モーセを通して示された神の名は「わたしは有ると言う者だ」と言うことでした。その神は天地万物を創造し、支え続けています。手のひらに本を載せて宙に浮かせ、手を退ければ、本は下に落ちてしまいます。私たちは常に神の手によって支えられているから、ここに存在するのです。神が支えることを止めればすべては消滅してしまいます。
 
神様は救いの歴史の中で預言者を通してご自分を紹介してきました。「群盲象を評す」というインド発祥の寓話があります。象のお腹やしっぽ、鼻、牙、耳、足を触って、それぞれが象について語るのです。象は壁のようだ、むちのようだ、ホースの様だ、すべすべしてとがったものだ、うちわの様だ、木の幹の様だなどとです。それは象の一面でウソではありませんが、象の全体を示してはいません。預言者たちの語った神の姿も同じだと言えます。

 そこで神ご自身が、この世に肉体をとっておいでになりご自分について語りました。

 前者が他己紹介だとすれば、後者は神ご自身による自己紹介。私たちの傍においでになり、私たちとともにある神の姿を示されました。そして十字架とその死を通して神が愛そのものであることを示されました。

 テレビドラマなどを見ているとき、刑事をしている父親が張り込みなどでその場を離れることが出来ず、奥さんの死に目に間に合えないことを、子供から非難される場面があります。どうしてでしょうか。子供にとっては、いくら仕事のためとはいえ、どうして母のそばにいてくれなかったのか、母の寂しさを想うと薄情な父が許せない・・と言うことでしょう。何をしてあげることが、人を愛することでしょうか。どんなプレゼントよりも、「その人と一緒にいて共に時間を過ごすことが最高の愛」だと感じたことが、わたしたちの体験の中にもあるのではないでかとおもいます。それは「モノではなく、自分自身を与えること」だからです。神はまさにそのような仕方でご自分の愛を示されたと言えます。

 そして天に昇られた主は、世の終わりまで私たちとともにいるといわれ、さらに聖霊が「別の弁護者」として、世の終わりまでわたしたちとともにおられることが示されたのです。

「わたしは有る」と言われた主は、「いつも私たちとともに在る」というその本質を、救いの歴史を通して示してくださいました。

 今日はそのことを黙想し、賛美と感謝の祈りを捧げたいと思います。いちにちも早く新型ウイルスの脅威が去り、ともに感謝の集いのできることを待ち望みながら。