司祭の言葉 11/15

年間33主日 2020.11.15

タラントンのたとえ

 かつて教区会計をしていた身としては、今日の話はいつも引っかかるんですよ。5タラントン2タラントンを預かって商売をしてそれぞれ倍に増やした話でしょう。それと比べれば、確かに銀行に預けてはいるのですが、さいたま教区の会計を預かる司祭たちも、あまり役に立たない僕だなあと思うのです。増やすこともできず、減らす一方ですから。専門外だから仕方がないといえばそうですが。
 さいたま教区の持っているお金は、せいぜい6億円ほど、10タラントンです。でも、この主人は大金持ちですよ。5タラントン(3億円)をわずかなものというのですから。この主人が神様なら、何タラントンでも、何十タラントンでも僅かなお金でしょうね。

 今日の福音は何を言いたいのでしょうか、お金儲けの話でないことは確かです。
1タラントンは6000デナリオンと説明されています。1デナリオンは労働者の一日の賃金ですから、仮に1万円としますと6000万円。それを埋めておいたことが非難されているのです。そして役に立たない僕と言われています。ルカによる福音書ではミナの例えとして、10人の僕それぞれに1ミナずつ預けられています。1ミナは100デナリオンで非難された僕は布に包んで持っていましたから、土に埋めていたマタイの僕のほうが安全に保管していたといえます。でも非難されたのはなぜでしょうか。

 まず、イエス様は誰に向かって、何を言おうとしてこのたとえを語られたのでしょうか。そこが問題です。実は、この怠惰な僕こそイスラエルの指導者、特に律法学者とパリサイ人を指しているのです。彼らは律法を授かったのですが、その細かい規則を作り、人々に重荷として背負わせ、それを守ることにきゅうきゅうとして、律法の真髄、神様への愛と隣人への愛、神の寛大さについては語りませんでした。神を独占して、祝福の基とならなかったこと、宣教に力を尽くさなかったこと、そこが非難されているのです。埋めておいたのはまさにそのような神のたまものでした。

 そしてマタイの教会はこのお話を自分たちに当てはめて考えました。イエス様のイスラエルの指導者に対しての非難は、私たちにとっても他人事ではないと。自分のこととして読まねばならないのです。そして、反省しなければならないのです。果たしてわたしは自分のタラントンをうまく活用しているだろうか・・・と。運用するのが面倒だと言って、穴を掘ってうずめてしまってはいないかと。
 わたしたちはみな神様からお預かりしているタラントン(能力)があります。
神様はその力を使って、ご自分のみ業に協力するよう招いておられるのです。

 譬えが難しいのは、持っている物まで取り上げられると言うことですが、持っている物まで取り上げられるのは、なんでしょうか? 神の国の相続人と言う特権から外されること、と考えられませんか?

 あるいは、タラントンは、愛の業を指しているとも考えられます。この後に続くすべての民族の裁きで問われているのは、自分のタラントンを生かしていますかという、まさに隣人愛の実践ですから。役に立たない僕と言われたくないでしょう?
 今日のみ言葉をそれぞれ、自分に向けられた神様の声として考えてみたいと思います。

司祭の言葉 11/8

年間第32主日A年 2020/11/08

5人の乙女の愚かさとは

今日のたとえ話を聞いてみなさんはどのような決心あるいは反省をしますか?
今日のたとえ話は、小生には耳が痛い。先日花畑と呼んでいる友だちの家の荒れ果てた農園のパイプハウス一棟と、そこに立つ立派すぎるトイレを解体しました。農作業のできるメンバーがいなくなり、荒れ果ててしまったので、きれいに元に戻し返却するためです。このハウスには災害用の備蓄として薪を保管しておいたのですが、今はその備えもなくなりました。セウイホームの駐車場に災害用備蓄倉庫を建てようとの話は出ているのですが、まだ具体化していません。セウイの場所が周りに貝塚や竪穴式住居跡がるような高台にあるので、ハザードマップを見ても色が塗られておらず安全な場所となっているものですから、備えがおろそかになっているのです。皆さんは大災害に備えていますか? 大いに反省しているのですが、小生は気ばかり焦り、何もできていません。

マタイ福音書は24章の神殿崩壊の預言から、終末的な様相を帯びています。
今日のたとえ話の一番大切な強調点は何処にあるのでしょうか。「目を覚ましていなさい」でしょうか、ランプの油を用意していなかったことでしょうか。
目を覚ましていなさい・・この言葉は24章の42節にもあります。人の子は思いがけない時に来る・・だから・・・と。
マルコ福音書では13章の34節で、「門番には目を覚ましているようにと言いつけておくようなものだ。だから目を覚ましていなさい。いつ家の主人が返ってくるのか(中略)わからないからである」とあります。その日その時は誰も知らない、天使たちも、子も知らないとあるのは、再臨の時です。 
また、マルコでは目を覚ましているように仕事を割り当てられたのは一人ですが、ルカでは何人もいる僕たち全員が見張りをしなければならないことになっています。(12の39)
聖書学者ヨアキム・エレミアスは、「目を覚ましていなさい」という言葉は、このたとえ話のもともとの形には入っていなかったものが、勧告的な言葉として入ってきたのだと考えています。

話の本筋の強調点は、「目を覚ましていなさいで」は無いとするその理由は何処にあるのでしょうか。 
賢い乙女たちも愚かな乙女たちもみな眠っていたのです。だから、たとえ話の中心はここではないのです。油を用意していなかったことが問題なのです。

聖書学者バークレーは、パレスチナの中流家庭の結婚式では、花婿は花嫁の付き添いが眠っている間に不意を打とうとして真夜中に来ることがあること、花婿が到着したら戸が閉まり遅れてきたものは結婚式に参列できないという話を伝えています。式は一週間続きますから、その間式に参列出来ないことになります。

この話は直接にはユダヤ人に向けられたものであり、愚かな乙女はユダヤ人を指すのでしょう。ユダヤ人の歴史は神の子を迎える準備のためのものでした。しかし、彼らはイエスが来られた時、イエスを認めることが出来ませんでした。その準備ができていなかったのです。

私たちはどうでしょうか。大災害への備え、キリスト再臨への備え、よき死への備えエトセトラ・・どこから備えてゆきましょうか。
ちなみに、ボーイスカウトのモットーは全世界的に「備えよ常に」です。ご存知でしたか? それは心の備え、体の備え、技の備えをして、いつでも隣人の役に立てるようにしているのです。毎週の活動はそのための訓練となっています。

司祭の言葉 11/1

諸聖人の祝日 2020.11.01

聖人との出会い

                         司祭 鈴木 三蛙
あなたは聖人と出会ったことがありますか?  聖人とおぼしき人とは?

私が出会ったのは、サレジオ会の最初の宣教師の一人 チマッチ神父 マザーテレサ ヨハネパウロ二世  三人とも握手をする機会がありました。  教皇とは東京カテドラルで マザーテレサとは、支援組織のメンバーと一緒に面会して、チマッチ師は、恩師ですから聖書を教えていただき、試験の都度、正解に誘導していただいて、ベネベネ(よしよし)といって頭をポンポンとたたかれました。

でも、握手が何になるでしょう。 アイドルやヒーローたちとファンとの関係ならそれなりに話題や羨望の対象となります。しかし、事 聖人との出合いでは・・・・論外です。 聖人はわたしたちのならうべき信仰の模範ですので、その模範にならわなくては意味がないのですから・・・。
マザーテレサについては皆さんご存じです。 チマッチ神父は、サレジオ会員として日本に来た最初の宣教師で、ドンボスコの精神を生きた人です。
→ まず、祈りの人で、夕暮れ時聖堂に行けばいつもロザリオを手に祈っていました。
→ また、いつも子供たちと共にいる教師の模範でした。サレジオ会の教師は子供よりもさきに子供たちのいるところにいなくてはいけない、職員室でお喋りしていてはいけないのですが、これがなかなかできないのです。チマッチ師は、年を取って足が不自由になっても、いつも子供たちのそばにいて運動場の小石など危険物を拾っていました。

→ 病気の時も、いつも笑顔で一度も苦しい様子を見せたことがありません。
口癖はコラッジョ(さあ、さあ 元気を出して・・)でした。

マザーテレサも、チマッチ神父も、全面的に神に信頼していた聖人たちだったと思います。

ところで今日は、山上の説教の二つの言葉に注目したいと思います。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」
「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」

イエスがすでに確定したものとして天の国を保証したのは、心の貧しい人々と、義のために迫害される人々です。
私たちにもできる一番身近な、聖人となるための手立ての一つは、心の貧しい人となることです。イエス様は繰り返し、祭司長や民の長老たちに代わって、罪びとや貧しい人が、神の国に入ると述べてきました。バプテスマのヨハネの呼びかけに応えて、悔い改めたのは彼らだったからです。
心の貧しい人とはすべての希望を神に置く人、この世のものを頼りにせず、全面的に神を頼る人を指します。私たちもそのような一人であるなら、すでに天の国は保証されているのですから、天国の聖人だけではなく、地上にあっても、今日はそのような心の貧しい人の祝日でもあるといえます。

司祭の言葉 10/25

年間第30主日A年 2020/10/25

聞け、キリスト者よ

                          司祭 鈴木 三蛙
 今日の福音は、常日頃意見の対立していた司祭たちのグループサドカイ派がイエスにやり込められたと聞き、今度はファリサイ派の者たちがイエスを試そうとして質問する場面です。イエスがもし律法の一つだけを重視するなら、他の律法をないがしろにするものとして非難しようと目論みます。しかしイエスは、ユダヤ人たちがいつも祈りの時に額に結んでいる小さな小箱の中に入っていたシェマーイスラエルという言葉を取り上げます。この言葉は申命記6章5節に「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」と述べられているもので、イエスはこれを第一としました。そして第二としてレビ記19章18節の言葉を取り上げましたが、同じように重要なのだと強調します。そこには「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」と述べられています。イエスはさらに言葉を続けて、律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいているとお答えになったので、ファリサイ派の人々の目論見は完全に潰えてしまいました。偽善者という言葉は、律法学者たちが言葉の解釈にこだわり、現実世界の問題に目を向けていないその態度を厳しく指摘したものなのです。

 さて、私たちはどうでしょうか。他人の間違いばかりを指摘し、愛のない態度で生活をしているということはないでしょうか。聖書研究ばかりに時間を費やしたり、自分の信心や祈りに自己満足して、社会の現実から目をそらしてはいないでしょうか。

 先日一人の信者さんがインターネット上でさりげなく語った言葉に対し、非難の言葉ばかりが次から次に書き込まれるのを見て、怖くなったと語っていました。ネットは顔が見えませんので、それをよいことに、言いたい放題になってしまいます。時には面白半分に、社会から抹殺してしまおうという態度も見えます。誹謗中傷ではなく、間違いをただす注意や意見、アドバイスならば建設的なものとして大いに社会に役立つと思うのですが。

 また、自分のように隣人を愛するためには、隣人に心を向けなければなりません。何を求めているのか、どのような状況に置かれているのか、まずは関心を持つことです。「愛の反対は憎しみではなく、無関心です」というマザーテレサの言葉が思い出されます。隣人への無関心をなくすことがまずひつようなのです。そうすれば、隣人の中におられるイエスと出会うことも可能になりますから。
 自分に問いかけてみましょう。コロナ下の今、苦しんでいる人、悩んでいる人に具体的に手を差し伸べることを何かできただろうかと。

 また隣人を自分のように愛するためには、自分を大切にすることを知らなくてはなりません。自分に問いかけてみましょう。私は自分を大切にしているだろうか・・と。自分を律することも大切ですが、自分を許すことも大切なのです。さもないと人にも厳しくなってしまいますから。
 聖書の教えの全体が神への愛と隣人への愛に基づくと知った今、さあ、隣人の中にいるイエス様に会いに出かけましょう。隠れているイエス様を探しに行きましょう。無関心をやめて。

司祭の言葉 10/18

年間29主日A年 2020.10.18

仕組まれた罠

                           司祭 鈴木 三蛙
 痛烈な批判にさらされ、歯ぎしりしてきた祭司長や民の長老たちは、イエスに対する最高と思える罠を仕掛けてきました。この罠を思いついたとき、彼らは絶対の自信をもって、小躍りして喜んだことでしょう。自分たちの勝利間違いなしと思われたからです。

 この納税の是非は、抜かりなく仕組まれた罠でした。

 当時のパレスチナはローマ帝国の支配下にありました。ローマ帝国はユダヤ人の宗教的自由を認めながら、税を徴収することによって支配地域からの利益を得ようとしていました。しかし、ユダヤ人にとって徴税の問題は、ただ単に経済的な圧迫という問題ではなく、宗教的な信念の問題でした。「神が王である」と信じるなら、ローマ皇帝を王と認めることはできないし、そのローマ皇帝の徴税も認められないという考えが当時のユダヤ人にはありました。
 納めるべきと答えれば、ローマの支配を認める 神以外のものを神とする不信仰者として弾劾できますし、否定すれば、ローマへの反逆者として訴えることが出来るからです。この罠をこれまで反発してきたヘロデ党のものと一緒になって仕掛けてきたことからも、その自信が読み取れます。どちらに転んでもイエスは窮地に陥り、自分たちには都合のよいことになります。彼等は勝利を確信してイエスに挑みました。

 しかし、彼らの罠を見抜いたイエスは、納税のためのローマの銀貨を持ってこさせます。
デナリオン銀貨にはローマ皇帝の肖像と銘が刻まれていました。その銘は「ティベリウス・カエサル・神聖なるアウグストゥスの子」というもので、ローマ皇帝は神格化されていました。イスラエルの宗教は偶像崇拝禁止という点で徹底していましたから、このデナリオン銀貨は本来なら神殿に持ち込むことがゆるされないものでしたが、しかし、実際には誰もがその硬貨を使わざるを得ませんでした。デナリオン銀貨は広く一般に用いられており、誰の財布の中にも入っていたのです。彼らはその銀貨を用いて生活しつつ、皇帝に税金を納めることが良いか悪いかと論じている、彼らのその矛盾を、イエス様は偽善者と断定します。

 キリスト者は二重の国籍をもっています。第一は 自分が生れ育った国の国籍をもち、多くの恩恵を受けています。パスポートには、これをもつものは日本人だから保護してほしいとしるされています。 ユダヤ人の歴史が示すように、国家をもたないと悲惨です。キリスト者は信頼に足るものとして国家に対してよき市民でなければならないのです。国の政治に無関心であるなら 利己主義なものにまかせるならどうなるでしょうか。
 
 神のものは神に。 第二は、わたしたちのうちには神の姿が刻まれています。 神の支配を受け入れた神の国の市民として、神に対する義務の遂行がもとめられているのです。神の似姿にふさわしい生き方、それを考えてみましょう。「この人を見よ」 イエスの中にその答えを見つけることが出来ます。

司祭の言葉 10/11

年間第28主日A年 2020/10/11

婚宴の譬え

                         司祭 鈴木 三蛙
 婚宴の譬えは、ルカでは大宴会の譬え。トマスでは晩餐の譬えとして語られています。三つの譬えに共通するのは最初に招かれた客たちが、夫々理由をつけて招待を断っている事、その代わりに道に出てだれかれ構わず集め、招かれたことです。これはブドウ園の労働者や見失った羊のたとえ話のように、イエスの批判者や敵対者に対して語られた、福音を弁明した数多くのたとえ話の一つと言われています。

 そしてイエスは「あなた方は招待をなおざりにする賓客の様だ。招待を受け入れないので神は代わりに徴税人や罪びとを招き、あなた方がみすみす取り逃がした救いを彼らに与えたのだ」と言っているのだと言います。ルカは最後に「あの招かれた人たちの中で私の食事を味わう人は一人もいない」と結び、トマスでは「買主や商人は私の父の場所に入らない」と結んでいます。マタイでは礼服の着ていないものの話が加わり、そのあとで「招かれる人は多いが選ばれる人は少ない」と結んでいます。
 そして誕生したばかり教会はこのたとえ話を宣教の指令として受け取りました。

 今日の福音で一つ、驚くのは、王が家来たちを送ると、招待を受けた者たちから理由もなくとらえられ、乱暴を受け殺されたしまったことです。しかも激怒した王が宴会に先立ち兵を送り、その者たちを滅ぼして町を焼き払ったと言うことです。
 ここには先週のブドウ園の譬えの僕たち同様、家来たちに旧約の預言者たちを重ね、さらには、紀元70年のエルサレムの崩壊という出来事が反映していると見られています。

 もう一つ不可解なのは、手当たり次第に集めてきたのに、礼服を着ていないからと、何故放り出されるのか、と言うことです。急に連れてこられて礼服を着る暇なんてないでしょうに。 列王記下の10の22をよみますと「イエフは衣装係に『バアルに仕えるすべての者に祭服を出してやれ』と言った」とあり、招待客に礼服を提供するのが習慣であったようにも思われ、これまではそのように説明されてきました。
 そして実際にも今日、司教叙階式の時には、全司教に同じ祭服を用意する習慣があります。さいたま教区ではお金がないので、中央協議会から借りていますが。韓国での聖体大会(1989?)では何千人もの参加司祭全員に大会のシンボルマークの十字架の模様の付いたストラが用意されましたし、日本でも、高山右近の列福式では参加した司祭全員のためにアルバと祭服が用意され、皆さんが同じ祭服でミサをしました。

 しかし、聖書学者のヨアヒム・エレミアスは、「イエスの時代にそのような習慣があったことを立証するものはない」といいます。そして、ルカにもトマスにもこの話はないので、本来独立した話がここに挿入されたと見ています。
 挿入された理由についてはこう説明しています。
 「はっきりしているのは招かなかった人を見境もなく呼び入れることから生じかねない誤解、すなわち呼び込まれた人たちの行動は全然問題ないかのような誤解を避ける必要があったということである。」 初代教会はこの譬えを挿入し、最後の審判で無罪とされる条件として、悔い改めの必要性を強調したと言うことです。

 このたとえ話の中で、なぜ招かれた人々は来ようとしなかったのでしょうか。
 マタイでは5節に「一人は畑に、一人は商売に出かけ」とあるだけですが、
 ルカ14章18-20節では、「最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った」となっています。

 彼らは嫌だとは言っていません。でもそれ以上に優先することがあると考えたようです  彼らは結局、招かれたことの素晴らしさ・ありがたさを本当には感じていなかったのだと言わざるをえないでしょう。わたしたちはどうでしょうか。

 神の招きは婚宴という喜ばしい祝宴への招きです。クリスチャンが招かれているのは 
→ 喜びを主と共に味わうためです。ですから、キリスト教を・・・人生の喜び、明るさ、幸福な交わりを全て断念させるものと考えるのは大きな誤りです。

 キリストの招きを拒否させるものは、必ずしもそれ自体は悪くありません。

 人生においてしばしば・・二番目によいものが、1番目によいものを阻止し、最高のものを妨害します。神の子が目の前にいるのに、幸せの秘訣を示してくれているのに、遠くを捜しています。毎日あくせくして、幸せやーいといって、見当違いのところを捜しています。  冨を沢山ためたら幸せになれるだろうか。新しい車を手に入れたら幸せになれるだろうか。自分の家を建てたら幸せになれるだろうか・・・と。 

かくいうわたしもそうですが、あれも、これもと、なすべきことに毎日追われています。

その日の事に忙しすぎて、キリストの招きを聞き逃します。

宋の詩人(戴益)たいえきの詩があります。
尽日(じんじつ)春を訪ねて春を見ず
杖藜(じょうれい)踏み破る 幾重の雲
帰り来たりて試みに 梅梢を把って見れば
春は枝頭(しとう)にありて 已に十分

- 春が来た春が来たというので どうにかして 春に会いたいと思い、
朝から弁当持ちで一日中春を訪ね歩いたがどこにも見いだせなかった。

- 向こうの山、こちらの谷、あちらの丘とずいぶん歩いたが、いたずらにあかざの杖をすり減らしただけだった。

- 疲れた足を引きずり、日の暮れ方、しおしおと家に帰り、ふと入口の梅の枝をとって見ると、梅の花が数輪、いともふくよかに良い香を放って咲いていた。
なんだここに春があった、この梅の花のさいているところに春はあるじゃないかと言う詩です。

わたしたちは既に、神に招かれているのに、幸せはわたしたちの内にあるのに、・・・遠くを捜している。今日の福音はそこを指摘します。

ヨアヒム・エレミアス(1900-1979)著書「イエスのたとえ話の再発見」「イエスの宣教」等

司祭の言葉 10/4

年間第27主日A年 2020/10/04

邪悪な農夫

                             司祭 鈴木 三蛙
 皆様お元気ですか? ようやく司教様から出されていた年齢制限が解除され、今日から、高齢者の方もミサに参加できることになりました。でも、ご心配な方は今まで通り家の中でお祈り下さいとのことです。

 今日の福音はマタイによる福音です。同じ譬え(たとえ)はマルコもルカも記しているのですが、このイエスの「ブドウ園のたとえ話」を、マタイ福音書は寓喩的(ぐうゆてき)に紹介しています。寓喩とは、ある事柄を直接的に表現するのではなく、他の事物によって暗示的に表現する方法とされています。
 イエスが最初語った時の聴衆は祭司や民の長老たちでしたが、教会が誕生し、聞き手が信徒に替わることによって、信徒たちの置かれた現状に合わせ、次第に寓喩的に解釈、伝承されるようになったと考えられています。

 今日の福音では、最初につかわされた者たちの一人を袋叩きにし、一人を殺し、一人を石で撃ち殺したとあります。また他の僕たちを前よりも多く送りましたが、農夫たちは同じような目に合わせています。この僕たちは旧約の預言者たちで、聖書学者は、先に送られた者たちは捕囚前の預言者たち、後に送られた者たちは捕囚後の預言者たちであると見ています。そして、最後に送られた息子はブドウ園の外で殺されていますで、イエスのエルサレム城外での十字架刑を示していると考えています。
 今日の第一朗読のイザヤの預言がこの話の根底にありますので、ブドウ園はイスラエルの家、主が楽しんで植えられたのはユダの人々としますと、農夫たちはイスラエルの指導者たちを指すことになります。マタイはこの話の中に、イスラエルの指導者がキリストを拒否した結果、救いが異邦人に及んだ歴史を見ているのです。

 このたとえ話は、「邪悪(じゃあく)な農夫のたとえ話」ともいわれています。土地を手に入れるために地主の息子を殺してしまうとは、何とも乱暴な話ですが、この譬えはあり得る話なのでしょうか、たんなる作り話なのでしょうか、皆さんはどう思われますか? 息子を殺せば相続権が手に入ると言う農夫たちの考えは、ばかばかしく思われます。

 ヨアヒム・エレミアスと言う聖書学者は、このたとえ話は外国の農園主に対するガリラヤの農民たちの姿勢を記したもので、その行動はガリラヤに本拠を置く熱心等によって引き起こされたと述べています。(イエスのたとえ話の再発見p87)
 ガリラヤ湖の北岸と北西岸、そしてガリラヤ山岳地帯の大部分は、当時外国人の所有者で、地主が外国に暮らしていたので、地主が外国に暮らしている限り借地人たちは使者に対して好き勝手なことをしました。また、特定の条件下では、遺産は主人のいない財産とみなされ、誰でも自分のものだと主張でき、最初に専有獲得したものが優先権を得ることが出来たのだ・・と言うことです。
 この場合、息子がやってきたのは、土地の所有者が死に、息子がその遺産を取りに来たのだと考え、もし息子を殺せばブドウ園は主人のいない財産となり、自分たちが最初のものとしてその場所を占有できると考えたということです。そしてイエスが一人息子を登場人物に取り入れたのは「神の子」としてのメシアと言うことではなく、この物語の本来の筋として、ブドウ園主の息子を殺すことで、最後に決定的な神の使信(ししん/メッセージ)が拒否されることを示しているということです。日常生活からとられた話としては、あまりにも残酷ではないかと思われるのですが、この物語は借地人の邪悪さを強調し、聴衆が聞き漏らさないようにする必要があったと考えます。

そして、もう一つの見方があります。
この譬えはマルコとルカにも記されています。マルコでは使わされる僕(しもべ)は一人ずつで、一人目は袋叩きにされ、二人目は頭を殴られ侮辱されます。三人目は殺されます。他にも送られましたが同様にされ、息子なら敬ってくれるだろうと送られた息子はブドウ園の中で殺されたのちブドウ園の外に放り出されます。
 ルカでは三人目は傷を負わせて放り出します。そのあとに送られた息子はブドウ園の外に放り出されて殺されます。
 また、偽福音書として知られるトマスによる福音書にも、この話は記されています。グノーシス派に属するこの書物の編集者は、たとえ話を確実に寓喩的感覚で理解するのを常としていたのですが、トマスによる福音書のたとえ話には寓喩的特徴がみられないのです。「彼は僕を送った。ブドウ園の収穫をださせるためである。彼らは僕を捕まえて袋叩きにし、ほとんど殺すばかりにした。僕は帰ってそれを主人に言った。『多分彼らは彼を知らなかったのだ。』主人は他の僕を送った。農夫たちは彼をも袋叩きにした。そこで主人は自分の子を送った。」
 そして、マルコもルカもマタイより話の筋が単純なので、こちらの方がイエスの言われた実際の言葉に近いと考えられるといいます。

そこで、寓喩的見方を取り除きますと、もともとイエスが言わんとしたのは、
あなた方ブドウ園の借り手たちである「人々の指導者たち」は、これまで何度も神に逆らい、預言者たちに聴こうとしなかった。今もまた神の遣わした最後の使者を拒絶している。もはや限界だ。したがって神のブドウ園は「他の人たち」に与えられる・・ということでした。

 そしてヨアヒム・エレミアスは、マルコもルカも「他の人たち」がだれを指すか、何も明らかにしていないので、関連するイエスの説教から類推して、他の人たちとは「貧しい人々」を指していると考えねばならない・・・と結論して、
 本来は「祭司長たちや民の長老たちよりも、神から遠いとされている取税人や遊女たちの方が神の国に入る」とおっしゃったのだ、と読み解きます。(マタイ5の5山上の垂訓)

イエスのたとえ話の多くは、取税人や罪びとたちとともに食事をしているのを非難する、パリサイ人や律法学者たちに対するイエスの弁明で、「かたくなな祭司長たちや民の長老たちよりも、悔い改めた取税人や遊女たちの方が神の国にふさわしい」と、福音の正しさを言明するために語られているということです。

司祭の言葉 9/27

年間第26主日A年(2020/09/27)

神からの呼びかけ

                        司祭 鈴木 三蛙
最近とみに忘れっぽくなりました。 昨年のある土曜の夜7時に、古河教会から電話がかかってきました。電話のこえをきいたとたんに「しまった」とミサの約束をしていたのを思い出しました。セウイから古河までは45分はかかります。向こうが気を利かして、自分たちでお祈りをするから、そのままセウイにとどまってください、事故を起こさないためにもとおっしゃってくださいました。色好い約束をして守れないと・・・心が痛みます。メモをしても、それを見るのを忘れるのですから、どうしようもありません。

今日の福音は共同訳聖書からとられています。もう一つの日本聖書協会訳をよんでみます。聞き比べてください。

あなたはどうおもうか、ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った「子よ、今日葡萄畑に行って働いてくれ」すると彼は「お父さん、参ります」と答えたが行かなかった。また弟のところに来て同じように言った。かれは「いやです」と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。この二人のうちどちらが父の望み通りにしたのか。彼等は言った。「あとの者です」イエスは言われた。よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなた方より先に神の国に入る。

ちがいがわかりましたか? この訳では、「行きます」と言って行かなかったのは、兄の方ですね。行くと言った兄がゆかなかったので、父は弟の方に声をかけた・・こちらのほうが自然です。この譬えで、父に声をかけられた兄は、パリサイ人やユダヤの指導者たちのことを示しています。そして、「いやです」と言っても、考え直した弟の方は、取税人や遊女たちのことですから、この順番の方がしっくりきます。この違いは写本の違いによるものだと考えられています。

徴税人と娼婦は当時のユダヤ人社会の中で、罪びとの代表とされていましたし、周囲の人々からは、神の救いに程遠い人間と考えらていました。また、自分たちも救われることに絶望していました。洗礼者ヨハネのメッセージは、このような人々に希望を与えることになります。「すべての人は今回心しなければならない」ということは「どんな人でも今回心して救いにあずかることができる」ということだからです。

一方、パリサイ人や民の指導者たちは[自分たちは律法を守っている」と考えていましたから、洗礼者ヨハネの回心の呼びかけを自分たちに向けられたものとしては受け取りませんでした。

このたとえ話の中で、弟は「承知しました」と言いながら、なぜ出かけなかったのでしょうか。 父親の呼びかけに同感せず、無関心だったのかもしれません。マザーテレサは、愛の反対は、憎しみではなく無関心ですと言います。聖書の神のことばを通して神はわたしたちに呼びかけています。と同時に、今この世界に起こるさまざまな出来事も神からの呼びかけとして関心を示すこと、それがたいせつです。

司祭の言葉 9/20

※20200920 年間第25主日A年

デナリオン・信仰の恵み

                      司祭 鈴木 三蛙
日本国内でも、とくに新型コロナウイルスによる打撃は激しく、健康で働きたくても仕事がなく働けないという現実があります。多くの方が派遣切りにあい、8月初め、失業者は265万人、戦後最悪の6%台になり、隠れ失業者517万人を含めると11%台になるそうです。さらにこれは世界中の傾向で、米国などでの失業者は、20%を超えるともいわれています。現実に、春日部教会でもこども食堂を行っていましたが、現在は部屋に招いて食事を提供することが難しく、母子家庭などではお母さんの失業や休職で、食べるものにも事欠く事態に陥っています。

マタイ20の1~16の今日の福音のたとえは、全ての人に働く権利があること、また働く者はその働きに対して生活できる賃金を得る権利がある事をも、示唆しています。

今日のたとえ話でぶどう園の労働者に支払われた賃金は、私たちの社会の基準で考えれば、同じ現場で同じ労働をしていた労働者の時給が10倍近く違うのですから、これは明らかに不当な行為だろうと思います。 でもイエスさまは「あなたに不当なことはしていない」のだから「自分の分を受け取って」それで満足しなさいとおっしゃっています。

1デナリオンは本当にわずかなお金です。家族みんなのパンがやっと買える程度のお金だったのです。このお金がなければ家族は今日一日ひもじい思いをすることになります。 たとえ話で語られる労働者は「9時ごろ」「12時ごろと3時ごろ」に雇われた人たちも、「5時ごろ」に雇われた人たちも「何もしないで1日中ここに立っている」ので雇われたのですが、彼らは「誰も雇ってくれない」のでしかたく、声をかけられるチャンスを逃さないために、働くチャンスを逃さないために、「何もしないで広場に立って」いたのです。逆に同じ賃金であったことに抗議をした最初に雇われた者たちは、あとから雇われても同じ賃金なのであれば、自分たちも五時ごろに雇われれば良かった、つまり朝から働かないほうが良かったという思いがにじみ出ています。

ここで語られているのは社会正義ではなく神の憐れみなのです。1デナリオン、この神から与えられるものは、信仰の恵だということが大切な点です。この労働者が神から与えられるのは賃金ではなく贈り物であり、報酬ではなく恵なのです。パウロは言います。「ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」(ロマ4の4)

わたしたちはみな神から恵みを受ける資格を持ちません。自分で自分を義とする事のできる人は一人もいないからです。もし、人が義とされるのなら、それは、ただ、神のあわれみによるのであって、イエスがわたしたちのかわりに贖いをされた事によるのです。

ラビの言葉に、「ある者は1時間で神の国に入り、ある者は一生かかってやっと入る」と言うのがあるそうですが、今日の福音は、神は全ての人を神の国へと招いておられ、信仰に後先はないことを物語っています。

司祭の言葉 9/13

※20200913 年間第24主日A年

許しの限界

                   司祭 鈴木 三蛙
今日のテーマは許しの限界についてです。「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回許すべきでしょうか。7回までですか?」イエスにこの質問をしたとき、ペトロはお褒めの言葉を大いに期待していたと思います。

日本のことわざにも「仏の顔も三度まで」というのがあります。どんなに温和な人でも顔を撫でられて気持ちのいいはずがありません。やめてよ‥というでしょう。コロナの今の時代ならなおさらです。それを三度も撫でられたら、どんなに温和な人も怒り出すというわけです。

ユダヤのラビの言葉にも、次のように言われているそうです。「ラビのヨセ・ベン・ハニナは言った。隣人から許しを3回以上乞うことはできない。」ですから、ペトロは自分を寛大な人間だと思っていたことでしょう。ラビの許しの倍許し、さらにもう一回加えているのですから。でもイエスの言葉は7の70倍許しなさいというものでした。それは際限なくということです。そしてたとえをもってその根拠が示されます。一万タラントンを許された者が100デナリンオンの負債のある仲間を許さなかった・・。1デナリオンを労働者の日当1万円と仮定するなら、1万タラントンはその同僚の負債の60万倍でしたから、6000億円にあたります。べらぼうな額です。

このたとえが示すのは、私たちは神の子の命というべらぼうな額によってあがなわれているということです。贖われている‥それはキリストによって買い取られ、その所有とされたということです。キリストの所有となったのですから、私のすべてはキリストのものであり、キリストの聖心に沿って行動することが求められているという事です。

パウロがローマの教会への手紙の中で、「生きるにしても死ぬにしても、私たちは主のものです」といっているのは、まさにこのことです。「私たちは主の僕であり、主の聖心を生きるのだということです。「私たちの中には誰一人自分のために生きるものはなく、誰一人自分のために死ぬ人もいません。」借金を帳消しにしてもらった家来は、王の心を生きるべきだったのです。

私たちが人を許さないのは、自分がべらぼうな値によってあがなわれたものであるということを意識していないことによります。自分はキリストの命によってあがなわれ、キリストの僕となったのです。だからキリストの思いを自分の思いとして生きる・・・そのことを改めて黙想してはいかがでしょうか。