司祭の言葉 10/18

年間29主日A年 2020.10.18

仕組まれた罠

                           司祭 鈴木 三蛙
 痛烈な批判にさらされ、歯ぎしりしてきた祭司長や民の長老たちは、イエスに対する最高と思える罠を仕掛けてきました。この罠を思いついたとき、彼らは絶対の自信をもって、小躍りして喜んだことでしょう。自分たちの勝利間違いなしと思われたからです。

 この納税の是非は、抜かりなく仕組まれた罠でした。

 当時のパレスチナはローマ帝国の支配下にありました。ローマ帝国はユダヤ人の宗教的自由を認めながら、税を徴収することによって支配地域からの利益を得ようとしていました。しかし、ユダヤ人にとって徴税の問題は、ただ単に経済的な圧迫という問題ではなく、宗教的な信念の問題でした。「神が王である」と信じるなら、ローマ皇帝を王と認めることはできないし、そのローマ皇帝の徴税も認められないという考えが当時のユダヤ人にはありました。
 納めるべきと答えれば、ローマの支配を認める 神以外のものを神とする不信仰者として弾劾できますし、否定すれば、ローマへの反逆者として訴えることが出来るからです。この罠をこれまで反発してきたヘロデ党のものと一緒になって仕掛けてきたことからも、その自信が読み取れます。どちらに転んでもイエスは窮地に陥り、自分たちには都合のよいことになります。彼等は勝利を確信してイエスに挑みました。

 しかし、彼らの罠を見抜いたイエスは、納税のためのローマの銀貨を持ってこさせます。
デナリオン銀貨にはローマ皇帝の肖像と銘が刻まれていました。その銘は「ティベリウス・カエサル・神聖なるアウグストゥスの子」というもので、ローマ皇帝は神格化されていました。イスラエルの宗教は偶像崇拝禁止という点で徹底していましたから、このデナリオン銀貨は本来なら神殿に持ち込むことがゆるされないものでしたが、しかし、実際には誰もがその硬貨を使わざるを得ませんでした。デナリオン銀貨は広く一般に用いられており、誰の財布の中にも入っていたのです。彼らはその銀貨を用いて生活しつつ、皇帝に税金を納めることが良いか悪いかと論じている、彼らのその矛盾を、イエス様は偽善者と断定します。

 キリスト者は二重の国籍をもっています。第一は 自分が生れ育った国の国籍をもち、多くの恩恵を受けています。パスポートには、これをもつものは日本人だから保護してほしいとしるされています。 ユダヤ人の歴史が示すように、国家をもたないと悲惨です。キリスト者は信頼に足るものとして国家に対してよき市民でなければならないのです。国の政治に無関心であるなら 利己主義なものにまかせるならどうなるでしょうか。
 
 神のものは神に。 第二は、わたしたちのうちには神の姿が刻まれています。 神の支配を受け入れた神の国の市民として、神に対する義務の遂行がもとめられているのです。神の似姿にふさわしい生き方、それを考えてみましょう。「この人を見よ」 イエスの中にその答えを見つけることが出来ます。

司祭の言葉 10/11

年間第28主日A年 2020/10/11

婚宴の譬え

                         司祭 鈴木 三蛙
 婚宴の譬えは、ルカでは大宴会の譬え。トマスでは晩餐の譬えとして語られています。三つの譬えに共通するのは最初に招かれた客たちが、夫々理由をつけて招待を断っている事、その代わりに道に出てだれかれ構わず集め、招かれたことです。これはブドウ園の労働者や見失った羊のたとえ話のように、イエスの批判者や敵対者に対して語られた、福音を弁明した数多くのたとえ話の一つと言われています。

 そしてイエスは「あなた方は招待をなおざりにする賓客の様だ。招待を受け入れないので神は代わりに徴税人や罪びとを招き、あなた方がみすみす取り逃がした救いを彼らに与えたのだ」と言っているのだと言います。ルカは最後に「あの招かれた人たちの中で私の食事を味わう人は一人もいない」と結び、トマスでは「買主や商人は私の父の場所に入らない」と結んでいます。マタイでは礼服の着ていないものの話が加わり、そのあとで「招かれる人は多いが選ばれる人は少ない」と結んでいます。
 そして誕生したばかり教会はこのたとえ話を宣教の指令として受け取りました。

 今日の福音で一つ、驚くのは、王が家来たちを送ると、招待を受けた者たちから理由もなくとらえられ、乱暴を受け殺されたしまったことです。しかも激怒した王が宴会に先立ち兵を送り、その者たちを滅ぼして町を焼き払ったと言うことです。
 ここには先週のブドウ園の譬えの僕たち同様、家来たちに旧約の預言者たちを重ね、さらには、紀元70年のエルサレムの崩壊という出来事が反映していると見られています。

 もう一つ不可解なのは、手当たり次第に集めてきたのに、礼服を着ていないからと、何故放り出されるのか、と言うことです。急に連れてこられて礼服を着る暇なんてないでしょうに。 列王記下の10の22をよみますと「イエフは衣装係に『バアルに仕えるすべての者に祭服を出してやれ』と言った」とあり、招待客に礼服を提供するのが習慣であったようにも思われ、これまではそのように説明されてきました。
 そして実際にも今日、司教叙階式の時には、全司教に同じ祭服を用意する習慣があります。さいたま教区ではお金がないので、中央協議会から借りていますが。韓国での聖体大会(1989?)では何千人もの参加司祭全員に大会のシンボルマークの十字架の模様の付いたストラが用意されましたし、日本でも、高山右近の列福式では参加した司祭全員のためにアルバと祭服が用意され、皆さんが同じ祭服でミサをしました。

 しかし、聖書学者のヨアヒム・エレミアスは、「イエスの時代にそのような習慣があったことを立証するものはない」といいます。そして、ルカにもトマスにもこの話はないので、本来独立した話がここに挿入されたと見ています。
 挿入された理由についてはこう説明しています。
 「はっきりしているのは招かなかった人を見境もなく呼び入れることから生じかねない誤解、すなわち呼び込まれた人たちの行動は全然問題ないかのような誤解を避ける必要があったということである。」 初代教会はこの譬えを挿入し、最後の審判で無罪とされる条件として、悔い改めの必要性を強調したと言うことです。

 このたとえ話の中で、なぜ招かれた人々は来ようとしなかったのでしょうか。
 マタイでは5節に「一人は畑に、一人は商売に出かけ」とあるだけですが、
 ルカ14章18-20節では、「最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った」となっています。

 彼らは嫌だとは言っていません。でもそれ以上に優先することがあると考えたようです  彼らは結局、招かれたことの素晴らしさ・ありがたさを本当には感じていなかったのだと言わざるをえないでしょう。わたしたちはどうでしょうか。

 神の招きは婚宴という喜ばしい祝宴への招きです。クリスチャンが招かれているのは 
→ 喜びを主と共に味わうためです。ですから、キリスト教を・・・人生の喜び、明るさ、幸福な交わりを全て断念させるものと考えるのは大きな誤りです。

 キリストの招きを拒否させるものは、必ずしもそれ自体は悪くありません。

 人生においてしばしば・・二番目によいものが、1番目によいものを阻止し、最高のものを妨害します。神の子が目の前にいるのに、幸せの秘訣を示してくれているのに、遠くを捜しています。毎日あくせくして、幸せやーいといって、見当違いのところを捜しています。  冨を沢山ためたら幸せになれるだろうか。新しい車を手に入れたら幸せになれるだろうか。自分の家を建てたら幸せになれるだろうか・・・と。 

かくいうわたしもそうですが、あれも、これもと、なすべきことに毎日追われています。

その日の事に忙しすぎて、キリストの招きを聞き逃します。

宋の詩人(戴益)たいえきの詩があります。
尽日(じんじつ)春を訪ねて春を見ず
杖藜(じょうれい)踏み破る 幾重の雲
帰り来たりて試みに 梅梢を把って見れば
春は枝頭(しとう)にありて 已に十分

- 春が来た春が来たというので どうにかして 春に会いたいと思い、
朝から弁当持ちで一日中春を訪ね歩いたがどこにも見いだせなかった。

- 向こうの山、こちらの谷、あちらの丘とずいぶん歩いたが、いたずらにあかざの杖をすり減らしただけだった。

- 疲れた足を引きずり、日の暮れ方、しおしおと家に帰り、ふと入口の梅の枝をとって見ると、梅の花が数輪、いともふくよかに良い香を放って咲いていた。
なんだここに春があった、この梅の花のさいているところに春はあるじゃないかと言う詩です。

わたしたちは既に、神に招かれているのに、幸せはわたしたちの内にあるのに、・・・遠くを捜している。今日の福音はそこを指摘します。

ヨアヒム・エレミアス(1900-1979)著書「イエスのたとえ話の再発見」「イエスの宣教」等

司祭の言葉 10/4

年間第27主日A年 2020/10/04

邪悪な農夫

                             司祭 鈴木 三蛙
 皆様お元気ですか? ようやく司教様から出されていた年齢制限が解除され、今日から、高齢者の方もミサに参加できることになりました。でも、ご心配な方は今まで通り家の中でお祈り下さいとのことです。

 今日の福音はマタイによる福音です。同じ譬え(たとえ)はマルコもルカも記しているのですが、このイエスの「ブドウ園のたとえ話」を、マタイ福音書は寓喩的(ぐうゆてき)に紹介しています。寓喩とは、ある事柄を直接的に表現するのではなく、他の事物によって暗示的に表現する方法とされています。
 イエスが最初語った時の聴衆は祭司や民の長老たちでしたが、教会が誕生し、聞き手が信徒に替わることによって、信徒たちの置かれた現状に合わせ、次第に寓喩的に解釈、伝承されるようになったと考えられています。

 今日の福音では、最初につかわされた者たちの一人を袋叩きにし、一人を殺し、一人を石で撃ち殺したとあります。また他の僕たちを前よりも多く送りましたが、農夫たちは同じような目に合わせています。この僕たちは旧約の預言者たちで、聖書学者は、先に送られた者たちは捕囚前の預言者たち、後に送られた者たちは捕囚後の預言者たちであると見ています。そして、最後に送られた息子はブドウ園の外で殺されていますで、イエスのエルサレム城外での十字架刑を示していると考えています。
 今日の第一朗読のイザヤの預言がこの話の根底にありますので、ブドウ園はイスラエルの家、主が楽しんで植えられたのはユダの人々としますと、農夫たちはイスラエルの指導者たちを指すことになります。マタイはこの話の中に、イスラエルの指導者がキリストを拒否した結果、救いが異邦人に及んだ歴史を見ているのです。

 このたとえ話は、「邪悪(じゃあく)な農夫のたとえ話」ともいわれています。土地を手に入れるために地主の息子を殺してしまうとは、何とも乱暴な話ですが、この譬えはあり得る話なのでしょうか、たんなる作り話なのでしょうか、皆さんはどう思われますか? 息子を殺せば相続権が手に入ると言う農夫たちの考えは、ばかばかしく思われます。

 ヨアヒム・エレミアスと言う聖書学者は、このたとえ話は外国の農園主に対するガリラヤの農民たちの姿勢を記したもので、その行動はガリラヤに本拠を置く熱心等によって引き起こされたと述べています。(イエスのたとえ話の再発見p87)
 ガリラヤ湖の北岸と北西岸、そしてガリラヤ山岳地帯の大部分は、当時外国人の所有者で、地主が外国に暮らしていたので、地主が外国に暮らしている限り借地人たちは使者に対して好き勝手なことをしました。また、特定の条件下では、遺産は主人のいない財産とみなされ、誰でも自分のものだと主張でき、最初に専有獲得したものが優先権を得ることが出来たのだ・・と言うことです。
 この場合、息子がやってきたのは、土地の所有者が死に、息子がその遺産を取りに来たのだと考え、もし息子を殺せばブドウ園は主人のいない財産となり、自分たちが最初のものとしてその場所を占有できると考えたということです。そしてイエスが一人息子を登場人物に取り入れたのは「神の子」としてのメシアと言うことではなく、この物語の本来の筋として、ブドウ園主の息子を殺すことで、最後に決定的な神の使信(ししん/メッセージ)が拒否されることを示しているということです。日常生活からとられた話としては、あまりにも残酷ではないかと思われるのですが、この物語は借地人の邪悪さを強調し、聴衆が聞き漏らさないようにする必要があったと考えます。

そして、もう一つの見方があります。
この譬えはマルコとルカにも記されています。マルコでは使わされる僕(しもべ)は一人ずつで、一人目は袋叩きにされ、二人目は頭を殴られ侮辱されます。三人目は殺されます。他にも送られましたが同様にされ、息子なら敬ってくれるだろうと送られた息子はブドウ園の中で殺されたのちブドウ園の外に放り出されます。
 ルカでは三人目は傷を負わせて放り出します。そのあとに送られた息子はブドウ園の外に放り出されて殺されます。
 また、偽福音書として知られるトマスによる福音書にも、この話は記されています。グノーシス派に属するこの書物の編集者は、たとえ話を確実に寓喩的感覚で理解するのを常としていたのですが、トマスによる福音書のたとえ話には寓喩的特徴がみられないのです。「彼は僕を送った。ブドウ園の収穫をださせるためである。彼らは僕を捕まえて袋叩きにし、ほとんど殺すばかりにした。僕は帰ってそれを主人に言った。『多分彼らは彼を知らなかったのだ。』主人は他の僕を送った。農夫たちは彼をも袋叩きにした。そこで主人は自分の子を送った。」
 そして、マルコもルカもマタイより話の筋が単純なので、こちらの方がイエスの言われた実際の言葉に近いと考えられるといいます。

そこで、寓喩的見方を取り除きますと、もともとイエスが言わんとしたのは、
あなた方ブドウ園の借り手たちである「人々の指導者たち」は、これまで何度も神に逆らい、預言者たちに聴こうとしなかった。今もまた神の遣わした最後の使者を拒絶している。もはや限界だ。したがって神のブドウ園は「他の人たち」に与えられる・・ということでした。

 そしてヨアヒム・エレミアスは、マルコもルカも「他の人たち」がだれを指すか、何も明らかにしていないので、関連するイエスの説教から類推して、他の人たちとは「貧しい人々」を指していると考えねばならない・・・と結論して、
 本来は「祭司長たちや民の長老たちよりも、神から遠いとされている取税人や遊女たちの方が神の国に入る」とおっしゃったのだ、と読み解きます。(マタイ5の5山上の垂訓)

イエスのたとえ話の多くは、取税人や罪びとたちとともに食事をしているのを非難する、パリサイ人や律法学者たちに対するイエスの弁明で、「かたくなな祭司長たちや民の長老たちよりも、悔い改めた取税人や遊女たちの方が神の国にふさわしい」と、福音の正しさを言明するために語られているということです。

司祭の言葉 9/27

年間第26主日A年(2020/09/27)

神からの呼びかけ

                        司祭 鈴木 三蛙
最近とみに忘れっぽくなりました。 昨年のある土曜の夜7時に、古河教会から電話がかかってきました。電話のこえをきいたとたんに「しまった」とミサの約束をしていたのを思い出しました。セウイから古河までは45分はかかります。向こうが気を利かして、自分たちでお祈りをするから、そのままセウイにとどまってください、事故を起こさないためにもとおっしゃってくださいました。色好い約束をして守れないと・・・心が痛みます。メモをしても、それを見るのを忘れるのですから、どうしようもありません。

今日の福音は共同訳聖書からとられています。もう一つの日本聖書協会訳をよんでみます。聞き比べてください。

あなたはどうおもうか、ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った「子よ、今日葡萄畑に行って働いてくれ」すると彼は「お父さん、参ります」と答えたが行かなかった。また弟のところに来て同じように言った。かれは「いやです」と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。この二人のうちどちらが父の望み通りにしたのか。彼等は言った。「あとの者です」イエスは言われた。よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなた方より先に神の国に入る。

ちがいがわかりましたか? この訳では、「行きます」と言って行かなかったのは、兄の方ですね。行くと言った兄がゆかなかったので、父は弟の方に声をかけた・・こちらのほうが自然です。この譬えで、父に声をかけられた兄は、パリサイ人やユダヤの指導者たちのことを示しています。そして、「いやです」と言っても、考え直した弟の方は、取税人や遊女たちのことですから、この順番の方がしっくりきます。この違いは写本の違いによるものだと考えられています。

徴税人と娼婦は当時のユダヤ人社会の中で、罪びとの代表とされていましたし、周囲の人々からは、神の救いに程遠い人間と考えらていました。また、自分たちも救われることに絶望していました。洗礼者ヨハネのメッセージは、このような人々に希望を与えることになります。「すべての人は今回心しなければならない」ということは「どんな人でも今回心して救いにあずかることができる」ということだからです。

一方、パリサイ人や民の指導者たちは[自分たちは律法を守っている」と考えていましたから、洗礼者ヨハネの回心の呼びかけを自分たちに向けられたものとしては受け取りませんでした。

このたとえ話の中で、弟は「承知しました」と言いながら、なぜ出かけなかったのでしょうか。 父親の呼びかけに同感せず、無関心だったのかもしれません。マザーテレサは、愛の反対は、憎しみではなく無関心ですと言います。聖書の神のことばを通して神はわたしたちに呼びかけています。と同時に、今この世界に起こるさまざまな出来事も神からの呼びかけとして関心を示すこと、それがたいせつです。

司祭の言葉 9/20

※20200920 年間第25主日A年

デナリオン・信仰の恵み

                      司祭 鈴木 三蛙
日本国内でも、とくに新型コロナウイルスによる打撃は激しく、健康で働きたくても仕事がなく働けないという現実があります。多くの方が派遣切りにあい、8月初め、失業者は265万人、戦後最悪の6%台になり、隠れ失業者517万人を含めると11%台になるそうです。さらにこれは世界中の傾向で、米国などでの失業者は、20%を超えるともいわれています。現実に、春日部教会でもこども食堂を行っていましたが、現在は部屋に招いて食事を提供することが難しく、母子家庭などではお母さんの失業や休職で、食べるものにも事欠く事態に陥っています。

マタイ20の1~16の今日の福音のたとえは、全ての人に働く権利があること、また働く者はその働きに対して生活できる賃金を得る権利がある事をも、示唆しています。

今日のたとえ話でぶどう園の労働者に支払われた賃金は、私たちの社会の基準で考えれば、同じ現場で同じ労働をしていた労働者の時給が10倍近く違うのですから、これは明らかに不当な行為だろうと思います。 でもイエスさまは「あなたに不当なことはしていない」のだから「自分の分を受け取って」それで満足しなさいとおっしゃっています。

1デナリオンは本当にわずかなお金です。家族みんなのパンがやっと買える程度のお金だったのです。このお金がなければ家族は今日一日ひもじい思いをすることになります。 たとえ話で語られる労働者は「9時ごろ」「12時ごろと3時ごろ」に雇われた人たちも、「5時ごろ」に雇われた人たちも「何もしないで1日中ここに立っている」ので雇われたのですが、彼らは「誰も雇ってくれない」のでしかたく、声をかけられるチャンスを逃さないために、働くチャンスを逃さないために、「何もしないで広場に立って」いたのです。逆に同じ賃金であったことに抗議をした最初に雇われた者たちは、あとから雇われても同じ賃金なのであれば、自分たちも五時ごろに雇われれば良かった、つまり朝から働かないほうが良かったという思いがにじみ出ています。

ここで語られているのは社会正義ではなく神の憐れみなのです。1デナリオン、この神から与えられるものは、信仰の恵だということが大切な点です。この労働者が神から与えられるのは賃金ではなく贈り物であり、報酬ではなく恵なのです。パウロは言います。「ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」(ロマ4の4)

わたしたちはみな神から恵みを受ける資格を持ちません。自分で自分を義とする事のできる人は一人もいないからです。もし、人が義とされるのなら、それは、ただ、神のあわれみによるのであって、イエスがわたしたちのかわりに贖いをされた事によるのです。

ラビの言葉に、「ある者は1時間で神の国に入り、ある者は一生かかってやっと入る」と言うのがあるそうですが、今日の福音は、神は全ての人を神の国へと招いておられ、信仰に後先はないことを物語っています。

司祭の言葉 9/13

※20200913 年間第24主日A年

許しの限界

                   司祭 鈴木 三蛙
今日のテーマは許しの限界についてです。「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回許すべきでしょうか。7回までですか?」イエスにこの質問をしたとき、ペトロはお褒めの言葉を大いに期待していたと思います。

日本のことわざにも「仏の顔も三度まで」というのがあります。どんなに温和な人でも顔を撫でられて気持ちのいいはずがありません。やめてよ‥というでしょう。コロナの今の時代ならなおさらです。それを三度も撫でられたら、どんなに温和な人も怒り出すというわけです。

ユダヤのラビの言葉にも、次のように言われているそうです。「ラビのヨセ・ベン・ハニナは言った。隣人から許しを3回以上乞うことはできない。」ですから、ペトロは自分を寛大な人間だと思っていたことでしょう。ラビの許しの倍許し、さらにもう一回加えているのですから。でもイエスの言葉は7の70倍許しなさいというものでした。それは際限なくということです。そしてたとえをもってその根拠が示されます。一万タラントンを許された者が100デナリンオンの負債のある仲間を許さなかった・・。1デナリオンを労働者の日当1万円と仮定するなら、1万タラントンはその同僚の負債の60万倍でしたから、6000億円にあたります。べらぼうな額です。

このたとえが示すのは、私たちは神の子の命というべらぼうな額によってあがなわれているということです。贖われている‥それはキリストによって買い取られ、その所有とされたということです。キリストの所有となったのですから、私のすべてはキリストのものであり、キリストの聖心に沿って行動することが求められているという事です。

パウロがローマの教会への手紙の中で、「生きるにしても死ぬにしても、私たちは主のものです」といっているのは、まさにこのことです。「私たちは主の僕であり、主の聖心を生きるのだということです。「私たちの中には誰一人自分のために生きるものはなく、誰一人自分のために死ぬ人もいません。」借金を帳消しにしてもらった家来は、王の心を生きるべきだったのです。

私たちが人を許さないのは、自分がべらぼうな値によってあがなわれたものであるということを意識していないことによります。自分はキリストの命によってあがなわれ、キリストの僕となったのです。だからキリストの思いを自分の思いとして生きる・・・そのことを改めて黙想してはいかがでしょうか。

司祭の言葉9/6

※20200906年間23主日(A年)

         困難な問題の解決


                   司祭 鈴木 三蛙
 今日のカ所をお聞きになってどのように感じられましたか?・・・ 教会の誕生はペンテコステの後ですし、言われている内容も教会の規約のようで律法的です。取税人や異邦人について言われていることも疑問に感じると思います。
 イエス様自身、「徴税人や罪人の仲間」と言われたほどですし、この後の21章の31節では祭司長や民の長老たちに向かって「徴税人や娼婦たちの方が貴方たちより先に神の国に入るだろう」と言っているのですから。さらに疑問を大きくするのは、赦しには限度があるかのように言われていることです。今日のお話の後に、7の70倍まで許しなさいと言われたイエスさまが、このようなことを言うはずがないのです。ではこの個所はどう理解したらよいのでしょうか。様々な理由から、ここに記されているとおりの言葉はイエスさまが実際に言ったのではなく、後年、教会が、懲戒処分を規約に盛らなければいけなくなった時に、イエスさまが言われた何かの言葉を適用したのだろう・・というのが、神学者たちの理解です。イエスの言葉を正確に記録したとは言えないでしょうが、イエスの発言に由来していると考えられるというのです。
 一昔前になりますが、神奈川県のある施設で職員と園長の間に溝が生じました。2年後、神奈川県独自に付いていた補助金2000万がカットされるというのです。それは人件費4〜5名分にあたります。それで園長は、「今後、園の行事計画などは、勤務時間内で処理するようにしてほしい。残業手当は出せなくなるから」と言いました。職員は説明してほしいと思いましたが、園長は相手が判ってくれるだろうと思いました。
 説明が足りずボタンの掛け違いでずっと来たため、職員たちは組合に入りました。説明不足で行動すると、誤解が生じやすくなります。その時両者の間に入って、溝の原因がどこにあるのか2回ほど、3人で話を聞きました。どちらかを裁くためではなく、こんがらかったヒモを解きほぐすために。
 だれかが自分に対して罪を犯した時には直接あって本人に話すべきですが、個人的に会っても目的が達成されない時には、和解を助けるため第三者を連れてゆく。それでもだめなら問題を教会の、祈りと愛の交わりに持ってゆく。それでも実らなかった場合には異邦人か徴税人のようにみなす。・・ここはよく見なければなりません。救われる望みが無いかのように取られますから。
 イエスさまがそんな事を言うはずはありません。今日のパンフレットは「新しい神の民に属していない人」と言う意味であると述べています。それは、その人の心を愛をもって勝ちとるように、宣教の対象と考える・・と言う意味になります。
 この言葉を言いながら反省しています。私にとっては説教しにくいテーマです。自分に資格がないと感じますから。杉戸で14年来挨拶が返ってこない人がいました。じりつ村の設立当初の、反対運動の急先鋒だった方です。私の努力不足もあって、時間だけがたってゆきました。しかしあるとき、ご主人が亡くなって、弔問に行ってから、その方の態度が変わりました。挨拶が返ってくるようになったのです。時が解決したとも言えますが、教会の中ではどうでしょうか。
 教会の中でもいろいろな人間関係で悩むことがあると思います。でもその問題をできるだけ当人に直接話して、誤解を解き、早急に解決することが求められているのだと思います。
 さらに大切な言葉が記されています。「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」イエス様はそうおっしゃいます。一人ではだめなのです。少なくとも二人いれば、そこには教会が存在するのです。そして、先に、私たちのために取り次いで祈っていて下さっている弁護者イエスが、ともに、そこにおられると言うのです。だから、困難と思える問題もイエス様とともに解決に向かう、そう信じることが出来ます。
 ここには聖体とみ言葉に加えて、もう一つの、キリストの現存の真理が語られています。


※2020.09.06 23th Sunday in Ordinary Time(A)
In the face of hard troubles
Fr. Suzuki, Michael Kunihiro
How do you feel about today’s Bible? The birth of the church was after Pentecost. Besides, this is legal matters just like rules inside our church. You may have doubt about what Jesus says on tax collector and foreigners. Jesus, in fact, was called “tax collectors or sinner’s companion”. He even says to the head of the priests or the elders of people “tax collectors and prostitute will enter into the kingdom of God earlier.” Moreover, what increases our doubts is his remark that his forgiveness of sins has a limit. It is impossible for Jesus to say that because he told us to forgive as many as 7 multiplied by 70 times. How should we understand this contradiction? Some theologist believe that when the church needed to introduce some disciplinary measures into the Covenant, they used some language. They say that part is rooted from what Jesus had actually spoken even though they are not accurately recorded.

A decade ago, a conflict occurred between the principal and the staff at an institution in Kanagawa prefecture. Kanagawa prefectural government informed they will cut their subsidy. The amount equals to labor cost of 4 or 5 stuffs. Then, he asked, “Finish preparing activity by the end of business hours from now on. We will not be able to provide overtime payment”. While the staff wanted to him to explain more, he thought they will understand. Because the explanation was not enough, they were still left misunderstanding him and joined labor union. If things are promoted with insufficient explanation, we cannot understand in the right way. I entered between the two to find what caused the trouble. Not to judge one of them but to untie a tangled knot.

When someone sins against you, you need to see and talk. If it fails, go to a third party for help. If it fails, bring the trouble to the church, communion of prayer and love. If it fails, treat them as if he is a gentile or a tax collector. We need to examine carefully here. It might give you the impression that he cannot be forgiven. Jesus cannot say that. According to today’s brochure it means they has not yet belonged to new God’s people. Therefore, we need to try to win his heart with our love in our faith in the Lord, Jesus Christ.

This is not a theme I can easily preach as I still feel sorry and criticize myself over a trouble. I confess that there was a faithful who would not answer to my greetings for fourteen years. He was the leader of opposition movement against founding Jiritu-mura, or independence village literally, from its foundation. I cannot say I made an enough effort in the long time that had already passed. I once made a call to express condolence after her husband passed away. One day, she changed her attitude and gave me a greeting back. It can be said the time has settled. I guess it is the same in church. We sometime are bothered with human relationship also here. We need to talk over the issue face to face, resolve our misunderstanding, and solve it as soon as possible.

Here are other essential words, “if two or three are gathered together in my name, there am I in the midst of them”. Jesus says he cannot be alone, a church will be among us if more than one of us is there. And we say that Jesus, the council will be there with us praying for us and interceding us. For this reason, we can believe even the problems looking difficult will be settled in Him. This is the truth of Christ’s presence as well as the Eucharist and words of the Lord.
(Translation: TK)

司祭の言葉 8/30

※2020年8月30日年間22主日A年(mt16:21~27)

聖ペテロ


                        司祭 鈴木 三蛙
 皆さんはペトロをどのような方とみているでしょうか。黒いひげを蓄えた、頭は少し薄くなり始めた、がっしりとした体格の、日焼けした浅黒い、朴訥なガリラヤの漁師。大漁に驚いてひれ伏し、湖上のイエスに驚きおびえどこまでもついてゆくと言いながら三度もイエスの弟子であることを隠す、しかし誰よりも早くイエスをメシアと公言した弟子。
 イエスはエルサレムを目指しています。そこは大王の都。メシアの君臨する場所。ペトロの夢は大きく膨らんでいたことでしょう。 「貴方はメシアいける神の子です」そう言いましたが、そのメシア像はユダヤ人たちが抱いていたメシア像そのものでした。そしてイエスとともに歩くうちにひそかに心に思うことがありました。イエスがメシアなら来るべき王国で、特別な地位につくことが出来るかもしれない。ガリラヤの漁師が、王の側近になる・・・。権力の中枢に立つ。
 その時受けたイエスの受難の予告。慌てたに違いありません。大きな声をあげ、イエスの言葉を遮り、わきへ引っ張ってゆき、それ以上語らせまいとしたのでしょう。
 そして受けた「サタン、引き下がれ」と言うイエスの、これまた激しい叱責。 ヒパゲー オピソー ムー サターナ Vade post me Satana。  「去りなさいサタンよ」  この言葉は荒野の誘惑のときの悪魔に、イエスが語った言葉でもあります。しかし、ペトロには悪魔のときとは違って「私の後ろに」が付け加えられています。
 イエスは漁師のペトロと最初に出会ったとき、「私についてきなさい」といっています。直訳では、「来なさいわたしのうしろに」です。弟子であるペトロはサタンのようにイエスの前に立ちはだからずに、イエスの後ろに回って従うべきだということでしょう。
 十字架に登るメシアを理解できずに、それは「とんでもないことだ」とのべたペトロは、イエスにとってサタンの誘惑なのです。荒れ野で石をパンに変えるようにとイエスにささやいたサタンは、今ペトロの口を通して、再び誘惑したのでした。
 当時のユダヤ人が待ち望んでいたメシアは十字架のもとに、むなしく殺されるような無力な敗北者ではありませんでした。 イエスをいさめるペトロも、ユダヤ人の常識や「人間の思い」から自由ではありませんでした。そのペトロはイエスをいさめ、「あなたはわたしの邪魔をするもの」としかられてしまいます。原文ではスカンダロンscandalum「つまづき」と言う言葉が使われています。
 ペトロが天の父のものとなって発言するときには「幸いだ」と祝福され、人間の思いにとらわれたときには、「つまづき」とされ、「サタンひきさがれ」と叱られます。 人間的な栄光を求めるとき、サタンの誘惑に陥ってしまいます。ペトロは弟子のあるべき場所「イエスの後ろ」に立ち、十字架に向かって、前を行くイエスに従うべきなのです。

司祭の言葉 8/23

※2020年8月23日春日部年間第21主日A年 
(→English)

名前のこと


                     司祭 鈴木 三蛙
 NHKが去年から放映していた日本人のお名前と言う番組があります。名前のルーツ由来を探るもので多くの方がご覧になっていると思います。ちなみにスズキの名前の由来は、和歌山の方言で、稲わらを保存するわら塚(スズキ)だとか。
 聖書を読みますと神との出会いの中でアブラムはアブラハムと呼ばれるようになり、ヤコブはイスラエルと名前を変えています。またイエスとの出会いの中で、シモンはペトロ、サウロはパウロと名前を変えています。これらにあやかってでしょうか、カトリックでは洗礼を受けると、洗礼名をもらいます。新しい名前をいただくことによって、その洗礼名の聖人の、信仰に習うものとなるように・・・という意味があります。キリスト教の国では、ヨーロッパだけではなくロシアにおいても、洗礼名の聖人の祝日を盛大に祝います。また、修道院でも誕生日はお祝いせず、洗礼名の祝日をお祝いします。春日部教会の守護の聖人は聖テモテです。その祝日はいつかご存知ですか?シモンがペトロと呼ばれるようになったように、皆さんの洗礼名についても意味があると思います。そして、その祝日はいつでしょう。 
 今日の聖書のみ言葉は、ペトロの信仰告白について語ります。ペトロはガリラヤ出身で、シモンともケファともシメオンとも呼ばれています。シメオンが本来のへブル的な形で、エルサレムの教会ではこの名で呼ばれています。シモンは、シメオンがギリシャ化した名前で、多くの場所では親しみを込めて、このシモンという呼び名が使われています。ヨハネの福音書では、その召し出しのときすでに、「あなたはヨハネの子シモンであるが、これからはケファと呼ぶことにする」・・・とおっしゃっています。ケファは当時の話し言葉アラム語で、岩という意味です。ギリシャ語ではペトロとなります。当時の人は自国語とギリシャ語と両方を話しましたから、このあとは、新旧の名前をいっしょにし、ヨハネではシモン・ペトロとつづけて呼ばれることが多くなります。 
 面白いのは今日のマタイ福音書では、ヨハネの子ではなく、バルヨナ・・すなわち「ヨナの子」と呼ばれていることです。ヨハネは「主は恵み深い」という意味ですが、ヨナは「鳩」といういみです。ペトロは嵐の中に現れたイエス様を見て水の上を歩いて行こうとしますが、強い風が吹くと慌ててしまい、沈みかけてイエス様に助けを求めます。また、モーセとエリヤがイエス様に現れたのを見た時には、ここに三つの幕屋を建てましょう・・などと、訳も分からず口走ったりします。また、最後の晩餐の夜には、捕まるのを恐れ、イエス様を知らないと三回否むことになります。そこでイエス様は、ペトロがいつも鳩のようにおくびょうで、いつもばたばたしているのを見て、ヨナの子とおっしゃったのかもしれません。そして、これからは岩のように動じない信仰の持ち主になりなさい、そうおっしゃりたくて岩という名前をくださったのではないでしょうか。 
 さて今日のみ言葉のうちとても大切な質問に目を向けてみましょう。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」 
 この質問のあとには、互いに顔を見合わせ、一瞬沈黙が続いたことでしょう。
 そのときペトロが口を切り、偉大な告白をしました。そして十字架に向かうイエスは今、少なくとも弟子のひとりが、ご自分を、メシア、神の油注がれたもの、生ける神の子として認めていることを知ることができました。 
 ここで注意すべきことは、イエスの質問はあなたに向けられ、あなたはわたしをどう思うかと問われているということです。ピラトがイエスに、【あなたはユダヤ人の王か】と尋ねたとき「あなたがそういうのは、自分の考えからか、それともほかの人々が、わたしのことをあなたにそう言ったのか」と答えられました。 
 人は、今日までイエスに対して述べられた教えをことごとく知り、イエスに対する偉大な思想家神学者の意見をことごとく理解したとしても、それでキリスト信者とはいえません。キリスト教の信仰は、イエスについて知ることではなく、イエスを知ることです。 
 イエスの「あなたはわたしを何者だというのか」と問いかけは、私たちの、一人一人に向けられているのです。あなたはどうこたえるのでしょうか。 

※2020.08.23 21th Sunday in Ordinary Time(A)
      Names
               by Rev. Fr. Suzuki, Michael Kunihiro
There is a program A name of a Japanese that NHK has been broadcasting since last year. I think that many people watched this program which follow the origin of their name. The name Suzuki, for instance, is derived from the Wakayama dialect, which means Suzuki, a mall which store rice straws.

When we read the Bible, Abram came to be called Abraham in the encounter with God, and Jacob was renamed Israel. In the meeting with Jesus, Simon changed his name to Peter and Saul changed his name to Paul. Perhaps because of these, Catholics receive a baptismal name when they are baptized. A new name is given in the prayer of learn from a saint’s faith. In Christian countries, not only in Europe but also in Russia, what is celebrated is the day of their saint’s holidays. Also, in the monastery, we do not celebrate holiday of each but celebrate the holidays of the baptismal name given. The patron saint of Kasukabe Church is Saint Timothy. Did you know its holiday? Just as Simon came to be called Peter, the baptismal name is meaningful. And when is his holiday?

Today’s Bible words speaks of Peter’s confession of faith. Peter is from Galilee and is also known as Simon, Kefa and Simeon. Simeon, in its original Hebrew form, is known as the name in the Church of Jerusalem. Simon is the Greek name of Simeon, and in many places the name Simon is used affectionately. The Gospel of John already said at the time of the calling, “You are Simon son of John, but from now on I will call you Kefah.” Kefa is the spoken language of the time in Aramaic and means rock. In Greek, it is Peter. Since people at that time spoke both their native and Greek languages, the old and new names were often used together in John, like Simon Peter.

What is interesting is that in today’s Gospel of Matthew he is not called “son of John” but called “Baryona”, or “the son of Jonah”. John means “the Lord is gracious,” but Jonah means a “dove.” Peter tries to walk on the water when he sees Jesus appearing in the storm, but when the strong wind blows, he panicked, be drowned and asked Jesus for help. Also, when we see Moses and Elijah appear to Jesus, he confessed and said “we will build up three tabernacles here…” Also, on the night when they had the last supper, He got afraid to be caught and he refused three times to confess that he knows Jesus. So, Jesus may have said he was the son of Jonah as he saw Peter always fluttering like a pigeon and flapping. I believe Jesus gave him the name “rock” in the hope that Peter have a firm belief and be strong as rock.

Now let us turn to the particularly important question in today’s Word. “So, what do you say I am?”

After this question, there would have been a moment of silence, looking at each other.
Then, Peter broke and made a great confession. And Jesus, who will go to the cross, now knows that at least one of his disciples knows himself as the Messiah, the anointed of God, the Son of the Living God.

The point to note here is that Jesus’ questions are addressed to you and you are asked “who do you say I am”. When Pilate asked Jesus, “Are you the King of the Jews?” he answered, “Did you say that from your thoughts, or did other people tell you about me?” 

Even if one knows all the teachings they learned about Jesus to this day and all the views of the great thinker or theologian studying Jesus, it is not enough. Christian faith is not about knowing about Jesus, but about knowing Jesus.

Jesus’ question, “Who do you say I am?” is asked to each of us. What do you confess to him?
(Translation:TK)

司祭の言葉 8/16

※2020年8月16日 年間第20主日A年
(→English)

カナンの女と子犬


                   司祭  鈴木 三蛙
 今日のみ言葉は、カナンの女のおはなしです。イエスがティルスとシドンの地方に行ったとき、女はイエスが来たと知ると、「ダビデの子よ、私を憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめいられています。」と叫びます。でも、「イエスは何もお答えにならなかった」とあります。「何で?」と思いませんか? そして弟子たちはと言えば、うるさいからと追い払おうとするのです。これまた薄情だと思いますよね。さらに引っかかるのは「子供たちのパンをとって子犬にやってはいけない」ということば。犬呼ばわりですよ。これがイエス様の言葉・?と思ってしましませんか。
 まず、カナンに来たいきさつから見てみましょう。今日の個所は21節からですが、15章の初めには、エルサレムから来たパリサイ人と律法学士たちが、イエスの弟子たちが先祖からの言い伝えを守らないことについて、論争を仕掛けています。その前の章ではパンの奇跡と、休むために対岸に行かせたが嵐にあったというお話でした。
 イエスの弟子たちもイエスもかなり疲れていて、本当に休みが必要で、パリサイ人、律法学者たちの偽善に辟易して、足の塵を払うような形で、ユダヤから離れたところでした。
既成宗教に対して足の塵を払ったイエスは、私たちの教会に対しても、もし辟易したら、足の塵を払われるかもしれません。
 ここで一つの言葉に注目したいと思います。「子犬」です。相手を犬呼ばわりするときには、そこに強い侮蔑の意味がこめられます。でも、この子犬という言葉には優しさと愛情が含まれているのです。
 指小辞(ししょうじ)‥という言葉をご存知でしょうか。ある言葉につけて、小さい、かわいい、という意味をあらわす言葉です。今、セウイの台所のわきに野良猫が子猫を生んでいて、時々姿を見つけるそうです。かつて、やはり物置に野良猫が子供を産んだことがありますが、子猫はすばしっこく、決してつかまりませんでした。犬も野良犬は恐ろしいし、その子犬も歯をむき出して威嚇してくるでしょう。人間を犬と呼ぶのは致命的な侮辱でした。そのような犬呼ばわりは、犬はごみをあさる不潔な動物という印象でしたが、ここに出てくるのは、そのような犬ではないのです。ギリシャ語で犬はキュノスですが、ここではこの指小辞が使われていて、キュナリオンなっています。飼い主のところに愛情込めて飼われている子犬という感じです。イエス様は、いわば、愛情込めて「子犬ちゃん」と呼んでいるいうところでしょうか。
 訪れた異邦人の地、あるいはそこに信仰を見出そうとしたのでしょうか。イエスはカナンの女の信仰を試します。イエスの厳しい言葉にも彼女は耐え、娘をいやすことのできる方はこの方を置いてはいない・・その確信をもって、「子犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです」とこたえます。
 カナンの女は、はじめイエスをダビデの子と呼んでいます。世俗的な呼びかけですが、あとからは信仰をもって「主よ」と呼び掛けています。
そしてイエスは彼女の信仰に応え、娘の病気をいやしたのです。

※2020.08.16 20th Sunday in Ordinary Time(A)
      Canaan woman and puppy
                     by Rev. Fr. Suzuki, Michael Kunihiro
Today’s scripture is the story of a Canaan woman. When Jesus went to the provinces of Tyre and Sidon, the woman found that Jesus had come and shouted, “Children of David, have mercy on me. My daughter is terribly suffering from evil spirits.” But, “Jesus did not answer anything.” Don’t you think “Why?” The disciples even try to get rid of her because she asked much. Isn’t it merciless? There is another part that catch our attention. “Don’t take children’s bread and give it to a puppy.” A puppy? Is this the word of Jesus? 

First, let us look at how He came to Canaan. Today’s story starts from chapter 15, verse 21, but at the beginning of chapter 15, the Pharisees and teachers of the law from Jerusalem challenged that Jesus did not keep the traditions of their ancestors. In the previous chapter, I told you about the miracle of bread and that He was sent to the opposite bank to take a rest, but there was a storm.

Both Jesus’ disciples and Jesus were very tired, they really needed a break, and were away from Judah. Because they were so sick of the hypocrisy of the Pharisees and the scribes that they dust their feet.

Jesus, who dusted and left the established religion, might do so our church if he was tired of us. Anyway,I would like to focus on one word here. “Puppy”. When you call your opponent a dog, there is a strong sense of contempt. But the word puppy includes kindness and affection.
Do you know the word syshoji diminutive suffix? This is a word attached to a word to mean small and cute. Stray cats lay beside Sewi’s kitchen, and we sometimes find them around. In the past, a stray cat had given birth to a child in the storeroom, but the kitten was quick and never caught. Dogs and stray dogs might be terrifying, and the puppies would be barking and threatening. It was a fatal insult to call a human a dog. It gives me the impression that a dog is a dirty animal that scavenges garbage, but it is not such a dog I told now. In Greek, the dog is Kynos, but this sishoji is used here to become a Kunarion. That sounds like a puppy who is loved by the owner. Jesus is lovingly calling him “puppy” isn’t it?

Did He try to find faith in the land of the Gentiles He visited? Jesus tests the faith of the Canaan woman. She endures Jesus’ harsh words, and no one can heal her daughter… With that assurance, “a puppy will eat breadcrumbs falling from her master’s table,” she replied.

The woman of Canaan first called Jesus the Son of David. It is a secular way of calling, but afterwards she called Him “Lord” with faith.

And in response to her faith, Jesus healed her daughter’s illness.