司祭の言葉 11/12

年間32主日 マタイ25:1-13

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエスは「神の国」を、今日の福音のように多く「たとえ」によって語られました。キリスト教の「神の国」に似て、仏教には「浄土」(サンスクリットでは「仏の国」)の信仰があります。仏教の数ある経典の中で特に『観無量寿経』には、仏教の故郷インドの風土や宗教性を背景に美しい「たとえ」による浄土の様子と浄土の教主・阿弥陀仏の姿が細かく記述されています。この経典に説かれている浄土(仏の国)と仏の姿を一目地上で拝みたいとの願いから有名な宇治の平等院が建立されたと言われます。

ところが、主イエスは、ご自身の語られる「神の国のたとえ」において、神の国の様子、あるいは神の国の主の姿を描写することは一切なさいません。なぜでしょうか。もちろんその必要が無いからです。主イエスご自身が、「神の国の主」だからです。

主イエスに聞くキリスト者のわたしたちは、未だ見ぬ「神の国」と「神の国の主」を夢見て生きているのではありません。「神の国の主」ご自身が、すでにわたしたちのもとに来ておられるからです。そして、「神の国の主」キリストが現存されるところ、そこに「神の国」が来ている(現存する)からです。しかし、どこに?もちろん、ミサにおいてです。マリアさまからお生まれになり、使徒たちや多くの人々にご自身を現わされた後、十字架につけられ復活された主は、今や、ミサにおける福音とご聖体において聖霊によって現存されます。これが、わたしたちカトリックの信仰です。

主イエスは、宣教の始めに「時は満ち、神の国は近づいた(むしろ「すでに来ている・始まっている」。ギリシャ語本文では未来形でも現在進行形でもなく現在完了形。英語訳はThe Kingdome of God has come)。悔い改めて福音を信じなさい」と仰せになりました。神の時が満ち、今や「神の国の主」キリストがわたしたちのために来てくださった。わたしたちが、キリストが主であり王である「神の国」に生きることができるように。わたしたち一人ひとりにご自身のいのちを与えて、確実に「神の国」の一員として生きる新しい生活を始めさせてくださるために。わたしたちにとって「神の国」とは、主と共に生きる新しいいのちの体験、教会でミサ毎に体験されている現実です。

この「神の国の主」キリストが、ご自身の「神の国」にお招きくださるためにわたしたちに求められることは何でしょうか。それは、律法学者のように、自分の知恵や正しさを主張して神に認めていただくことでも、死後の往生を願うことでもありません。主イエスのおことば通り「悔い改めること。そして、福音を信じること」です。「悔い改める」とは、「主イエスと心を一つにさせていただく」こと「福音を信じる」とは、「福音そのものである主に、わたし自身を、委ね切る」ことです。そうであれば、今日の福音の「神の国のたとえ」で主の意図されるところも明確です。

今日の主イエスのたとえには、「賢いおとめたち」と「愚かなおとめたち」が登場しますが、それは世間的な意味での賢さ、愚かさではなく、明らかに「神の国の主」キリストに対する信頼ないし生き方の違いです。つまり、信仰の問題です。

「賢いおとめたち」は、主イエスによる「神の国」の到来の事実に目開かれるや、主のみことば通り「悔い改めて福音を信じ」ました。彼女たちは、主と心を一つにし、主の思いを知り、その主に自らを委ね切ったのです。それが、真の「賢さ」です。これとは対照的に、「愚かなおとめ」たちは、主と心を合わせ、主に自らを委ね切る用意がありませんでした。彼女たちは、「神の国」に生きることと、主と心を合わせ、主に自らを委ねて生きることとは別のことと勘違いしていたに違いありません。それを「愚か」というのでしょう。しかし、これは他人ごとではないかも知れません。

主イエスは、難しい修行や特別な知恵によって「神の国」に行くことをわたしたちに求めてはおられません。わたしたちの前に現存される主によって「神の国」はすでに来ていること、なぜなら主こそ「神の国の主」であることにわたしたちの目が開かれることを求めておられます。「神の国」とは、わたしたちが主のみことばに従って「悔い改め、福音を信じる」ことを通して招き入れられる主のみ国だからです。

「神の国」について語ることは、「神の国の主」キリストについて語ることであり、同時にそこに生かされるわたしたちについて語ることです。そうであれば、福音そのものである主イエスこそ「神の国」の一切です。そして、主の「神の国」の核心は、主の過ぎ越し、つまり主の十字架とご復活です。それは、その主に固く結ばれて、死すべき命から復活の栄光へと過ぎ越させていただくわたしたちの過ぎ越しでもあります。ミサは、主イエスによって招かれたこの「神の国」の祝いの宴(食卓)です。

「神の国」とは、「愚かなおとめたち」が考えたような、主イエスと別に体験されるような何ものかでは決してありません。それは「賢いおとめたち」のように、聖霊の助けと御導きを求めて、主と心と思いを一つにさせていただく内に、主とひとつに堅く結ばれてゆくわたしたちの体験の事実です。その主はミサに現存されます。

父と子と聖霊のみ名によって。   アーメン。

司祭の言葉 11/5

年間31主日 マタイ23:1-12

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音は、主イエスのエルサレムでの聖週間、すなわち主の最後の一週間のことを伝えています。主は、エルサレム神殿を訪ねておられます。今日の福音は、とくにその火曜日のことです。主は、その日、律法学者とファリサイ派の人々を厳しく非難され、続けて、エルサレム神殿の崩壊を予告されます。

ところで、同じ日の出来事を伝えるマルコによる福音は、主イエスの律法学者たちに対する厳しい非難とエルサレム神殿崩壊の予告との間の出来事として、主が、神殿で自らの一切を神に捧げた「一人の貧しいやもめ」とお会いになられたことを伝えています。おそらく、これらすべては深く関係しあっていると思います。

マタイによる福音は、主イエスの「エルサレム神殿崩壊の予告」を、弟子たちの、当時の巨大なエルサレム神殿に対する讃嘆を受けて、次のように、短く、しかし実に鋭い主のおことばとして伝えています。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(24:1、2)。

実は、マタイによる福音は、「神殿崩壊の予告」に先立って、エルサレムの町に対する主イエスの深い嘆きのおことばを、次のように伝えていました。

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。」(24:37、38)

エルサレムは、主イエスが来られる千年以上前から、神なる主が、「み名」をこの地上に置かれるために、神ご自身によって選ばれていた町です。そのエルサレムには、神のご臨在の目に見える徴(しるし)として、「神のみことば」を記した「十戒」の石の板が納められたご「聖櫃」を護持すべく神殿が建てられ、その神殿に人々が集い、神のみことばに聞き、神を正しく礼拝することが赦されてきました。

そのようにエルサレムは、「神の都」とさえ呼ばれ、主イエスの時に至るまで、神の民の信仰生活の中心であり続けてきました。聖書に語られる通りです。

そのエルサレムに集う人々に求められたのは、ただ一つのことでした。それは、神を神とすること。すなわち、神を畏れ、神のみ前に、謙遜の限りを尽くして生きること。ただしそれは、神のみことばに正しく聞くことにのみよる、ことです。

しかし、エルサレムは、過去にも、繰り返し罪を犯して来ました。神のみことばを聞き入れないという罪です。それは、実に具体的な形をとりました。彼らは、「預言者たちを殺し、神が自分に遣わされた人々を石で打ち殺」して来たのです。

主イエスは、今、この都が再び、しかも決定的な仕方で「神のみことばを聞きいれない」罪を繰り返すことになることを知っておられます。しかも、「神のみことば」である主ご自身に対して。みことばご自身である「神の御子」主イエス・キリストを十字架につけるというエルサレムの信じがたい罪ゆえに、主は深く嘆かれたのです。

主イエスの律法学者に対する厳しい非難とエルサレム神殿の崩壊の予告は無関係ではあり得ません。律法学者は本来、神殿に集う全ての人々が、律法、すなわち神のみことばに聞き、みことばによって主のみ前に神の民として整えられるために、律法の教師として立てられていた者であったはず、だからです。

しかし、彼らは、神のみことばに畏れと謙遜を以って聞くことをせず、したがって神のみ前に、律法によって、彼らが託された民はおろか、自らを整えることさえできず、あろうことか神と人との前に自らを誇る者へと堕してしまっていました。マルコによる福音では、律法学者たちに対する主イエスの非難は、「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」との主のみことばで結ばれています(12:40)。

そのマルコによる福音は、律法学者を厳しく非難し、続けて神殿の崩壊を予告される主イエスを慰めるように、神殿に詣で、自らを神に捧げた「一人の貧しいやもめ」の姿を伝えています。主は、弟子たちに次のように仰せになりました(12:43,44)。

「この貧しいやもめは、神にだれよりもたくさん献げた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて献げたからである。」

律法学者たちの誇りとした地上のエルサレムの神殿は崩壊します。しかし貧しいやもめたちのために、新しい神殿が建てられます。それはご復活の主イエス・キリストご自身です。ただしそれは、エルサレムでの主の十字架の死を経てのことです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 11/1

「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る」

諸聖人の祭日の黙想 マタイ5:1-12a

諸聖人方を11月1日のミサで記念するカトリック教会の伝統は、英国とアイルランドが起源ではないかと言われます。英国では現在でも11月を「聖徒の月」と呼び、ちょうど日本のお盆のように、英国の人々にとっては教会でのミサの後に教会墓地を訪う時とされ、どの墓地もきれいに清められ、まるで花壇のように花で埋め尽くされます。亡き方々を偲ぶ人々の思いは洋の東西を問わず変わりません。

今日、諸聖人の日。諸聖人の筆頭として、主の十二弟子たち。さらに、ご復活のキリストご自身から「みことば」「聖霊」を受けた聖パウロ始めすべての聖人方を記念いたします。彼らの中にはわたしたちと同様に、あるいはわたしたちに代って地上の生活で多くの苦しみを負い、あるいは自らの弱さと戦われた方々もおられます。

聖人の「聖」とは、いかなることなのでしょうか。聖書においては、「聖」である方は、神お一人です。主イエス・キリストお一人です。このことははっきりしています。そうであれば、「聖人」とは、生まれながらに聖い人と言うよりも、主の「みことば」と「聖霊」を受け、神によって「聖くされた人」のことではないでしょうか。

「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。

悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。・・・

心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。・・・」

「心の貧しい人々は、幸いである」と、主イエスは仰せです。「貧しい人々」とは、主の他に頼る方がいない者たち、すなわち、わたしたちのことです。「天国、神の国」について、わたしたちは主イエス以外にいったい誰を頼ることができるでしょうか。そのわたしたちに、「神の国の主キリスト」は、「天国」を約束してくださいます。

主イエスのこれらのおことばは、昔は「真福八端」と呼ばれていました。わたしたちに対しての、八つの詩句からなる主イエスの「祝福のみことば」です。ご自身「聖」なるがゆえにわたしたちを「聖とする」ことがおできになる神の祝福です。わたしたちが「聖とされ、天国を約束されること」。実は、それこそが主イエスの祝福です。

わたしたちが主イエスによって「聖とされ、天国を約束される」。それは、わたしたちが「神の国の主イエス・キリストのものとされる」ことです。それを使徒ヨハネは、「御子キリストに似た者となる」(1ヨハネ3:2)と教えていました。わたしたちが「聖とされ、天国を約束される」、つまり主イエスから祝福されるとは、「御子キリストに似た者とされる」こと主に祝福された「聖人」こそ、「キリストに似た者とされた方」です。

その祝福を主イエスはいかにしてわたしたちにお与えくださるのでしょうか。「祝福のみことば」とその祝福をわたしたちの内に成就させてくださる「聖霊」によって。「聖霊」は、主の「みことば」と共に働いて、わたしたちに「イエスは主である」と告白させてくださいます。「みことばと共に働かれる聖霊」こそ、洗礼においてわたしたちを新たに生まれさせ、ミサで、わたしたちの捧げるパンとブドウ酒をご聖体、主キリストご自身の御からだと御血、主ご自身のいのちに変えてくださる方です。

「みことばと聖霊」において、主イエスがわたしたちにくださるのは主ご自身です。主はご自身を与えることによって、わたしたちを「聖」とし、「キリストに似た者」としてくださいます。それが主の祝福です。主イエスこそ、神の祝福そのものだからです。今日わたしたちが記念する主の十二使徒たちを始め、教会の歴史に輝く諸聖人方は、主イエスご自身を祝福として受け「キリストの似姿に変えられた」方々です。

今、わたしたちもこのミサで、諸聖人方のように、「主よ、わたしたちにみことばと聖霊をください」と、主イエスに願います。主は、わたしたちにも必ず「みことば」とともに「聖霊」を、すなわち主ご自身をくださいます。主は小さなわたしたちにも、ご聖体において、主ご自身を祝福としてお与えくださいます「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」と、主は仰せです。

わたしたちは、諸聖人方とは比べるべくもないかも知れません。しかし、主イエスがご聖体においてわたしたちにもお与えくださる主ご自身は、主の十二使徒始め、すべての諸聖人方にお与えになられた主とまったく同じ主ご自身であるはずです。主は今も、いつも、代々に一人なる同じ主であられるからです。わたしたちのような小さな者にさえご自身をお与えくださる主を、その恵み故に、心から畏れます

諸聖人方は、「天の国」で、主イエスのみ前に主を褒め、主を称えていると信じられています。地上での生涯において、主ご自身を祝福として受け、天に帰られた諸聖人方の主への愛と感謝は、現在のわたしたちの思いを遥かに超えていると思います。しかし、いつかわたしたちも彼らの賛美に加わらせていただきたいと願います。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 10/29

年間30主日 マタイ22:34-40

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これがいちばん重要な、第一の掟である。 第二もこれに似ている。『隣人をあなた自身のように愛しなさい。』 すべての律法と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

これは、「律法の中でどの掟がいちばん重要ですか」との律法の専門家の問いにお答えになられた、主イエスのおことばです。

神の律法とは、神の民の出エジプトの後、神がご自身の民、ひいてはわたしたちすべてに、モーセを通してお語りくださった神のことばの全体です。主イエスは、その神の律法の全体が、「神を愛し、隣人を愛しなさい」との二つの掟に基づいている(あるいは、集約される)と仰せになりました。そうであれば、この二つの掟とは、主なる神のわたしたちへの最も切なる「願い」であり、わたしたちへの「祈り」です。

「祈り」は、わたしたちの信仰生活の要です。大切なことがあります。神なる主イエスが明らかにしてくださったように、わたしたちに先んじて神が祈ってくださっておられると言うことです。むしろ、神はわたしたちを祈りにおいて創造してくださったと言うべきかもしれません。神は祈りの中でわたしたちを子として産んでくださった。そしてご自身の祈りをもって、神はわたしたちを養ってくださっておられます。

ちょうど幼子が母の言葉を聞きながら育ち、母の言葉を真似て言葉を身につけて行くように、わたしたちも神なる主イエスの祈りの内に命を与えられ、神の祈りによって養われ、神の祈りを聞き、神のことばを真似て祈りを身につけて行くのではないか。わたしたちの祈りは、神のわたしたちへの祈りへの応答ではないでしょうか。

あらためて、主イエスと弟子たちのことを思います。主の弟子たちは、主イエスの祈りによって主とともなる生活へと招かれ、つねに主の祈りの内に養われ続ける中で、「主よ、わたしたちに祈りを教えてください」と、主にお願いしました。「主の祈り」は、このようにして弟子たちに、そしてわたしたちに与えられたものです。

祈りとは、わたしたちが自分の知恵や力で始められるものではありません。主イエスに始められ、主からわたしたちに与えられるものです。祈りとは、聖霊において働かれる主からのわたしたちへの賜物であり、聖霊がわたしたちの内に結ぶ実です。

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」「隣人をあなた自身のように愛しなさい。」これは、主イエスのわたしたちへの祈りであり、切なる願いです。しかしわたしたちは、時に、主のこの祈りをわたしの祈りとして祈り得ない自分、主の願いに生きることを拒むような自分の罪の現実の前に、自分で自身におののくのではないでしょうか。

しかし、使徒パウロは教えています。「(聖)霊もわたしたちの弱さを助けてくださいます。わたしたちはどのように祈るべきかを知りませんが、霊ご自身が、言葉に表せない呻きを通して、わたしたちのために執りなしてくださる。」 この聖霊なる神こそ、わたしたちに「イエスは主である」と信じ、告白させてくださった方です。聖霊こそ、祈りの内に働き、わたしたちの捧げる「パンとブドウ酒」を主イエスご自身の御からだと御血、すなわち主のいのちとしてわたしたちにお与えくださる方です。

主イエスは、わたしたちに祈りをお与えくださるだけではありません。わたしたちに祈りとともに聖霊をお与えくださり、その聖霊によってわたしたちの内に働いて、主の祈りをわたしたちの内に成就させてくださいます。主は聖霊によって、わたしたちが主の祈りをわたしたちの祈りとして祈り、主の願いをわたしたちの願いとして生きることができるようにしてくださいます。これが、わたしたちの主イエスです。

「主よ、祈ることを教えてください」と、わたしたちも主イエスに願います。その願いに応えて、主がわたしたちにくださるのは、主ご自身の祈りと同時に、主ご自身のいのちである聖霊です。それは、主イエスご自身をくださると言うことです。聖霊こそ、主の霊であり主の息、つまり主イエスご自身のいのちだからです。

今、わたしたちもごミサで、主イエスの十二弟子たちのように、「主よ、わたしたちに祈りを教えてください」と、主に願います。主は、十二弟子たちにご自身の「祈り」をくださったように、わたしたちにも必ずご自身の「祈り」をくださいます。それは、主にとっては、わたしたちにご自身のいのちをくださることです。聖霊によって。

主イエスのわたしたちへの愛は、わたしたちの主への思いを遥かに超えています。主はいつもわたしたちに先んじて、わたしたちのために祈ってくださるからです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 10/22

年間29主日マタイ22:15-21

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 主イエスは、仰せです。しかし、「皇帝のもの」、「神のもの」とは何なのでしょうか。

教会は、今日のこの福音を聞いて捧げる本日のミサの「奉納祈願」で、次のように祈ります。「万物の造り主である神よ、あなたからいただいたパンとブドウ酒を供えて祈ります。神のものをすべて神にお返しになったひとり子イエスの奉献に、きょうもわたしたちが固く結ばれますように。」

「神であるあなたからいただいたパンとブドウ酒」。もちろん、神は、最初から「パンとブドウ酒」をくださるわけではありません。「パンとブドウ酒」は、神からの「大地の恵み」である麦とぶどうを元にしてのわたしたちの「労働の実り」です。それにもかかわらず、その「パンとブドウ酒」を、あえて「神からいただいたもの」、すなわち、本来「わたしたちのもの」ではなく、「神のもの」と、神に感謝し、祈るのです。

「主は与え、主は取りたもう。主のみ名は、ほむべきかな。」災害ですべてを失ったヨブの言葉です。ウクライナ戦争や新型コロナ感染症を含めここ数年の相次ぐ災禍で、ヨブのようにわたしたちも、大きな犠牲を払って学んだことがあると思います。それは、「麦とぶどう」の「大地の恵み」は、確かに神からいただいたものですが、それだけではありません。「大地の恵み」から「パンとブドウ酒」を生産するわたしたちの命、「大地の恵み」よって生かされているわたしたちの自身もまた、実は、神からいただいた恵み以外の何ものでもなかったという厳粛な事実では無いでしょうか。

主イエスが、「パンとブドウ酒」という形で、ご自身のいのちをわたしたちにくださったことの大切さを思います。「パンとブドウ酒」は、わたしたちが地上で命を繋ぐために不可欠な日ごとの糧であるとともに、それによって支えられるわたしたちの地上の命そのものの象徴です。そして、その一切が、神からいただいた恵みです。

しかし、「パンとブドウ酒」によって、わたしたちに、神がお与えくださる恵みは、実は、さらに大いなるものではないでしょうか。なぜなら、「パンとブドウ酒」は、天の父なる神と地に住むわたしたちを、地上の命を超えて、永遠に「固く結び合」わせてくださるために、神がわたしたちにお与えくださる恵み、でもあるからです。

わたしたちは、神からいただいた「パンとブドウ酒」を、感謝を以って神に奉献することを通して、「神のものをすべて神にお返しになったひとり子イエスの奉献にわたしたちが固く結ばれ」る事が許されるのです。なぜなら、そのように、わたしたちの主が、弟子たちとの「過ぎ越しの食事」、すなわち「最後の晩餐」においてわたしたちにお定めくださったからです。わたしたちにとって、ミサこそ、それです。

「パンとブドウ酒」は、神からの大いなる恵み。わたしたちの地上の命を支えるのみならず、主イエスに結び合わされるミサにおいてわたしたちの命を天に繋ぐから。

従って、「パンとぶどう酒」は、わたしたちがそれを自分だけのものと主張し、その結果、わたしたちの間に争いや悲劇を生み出すために、神から与えられるものではありません。そうであれば、地上の皇帝すなわち為政者の役割は明白です。わたしたちを、神のみ前に神の民として整えること以外にはありません。第一に、わたしたちに日ごとの糧としての「パンとブドウ酒」を保証することによって。さらに、その「パンとブドウ酒」を神に捧げることによって、わたしたちが主イエスの奉献に結ばれることができるように、神へのミサへとわたしたちを整えることによって。

今日のミサの「集会祈願」のように、「世界を治める唯一の神、すべての人を救いに導いてくださる方」である主イエスから、皇帝つまり為政者に託されている奉仕、つまり「皇帝のもの」とは、ひとえにわたしたち主の民のために来られた主への奉仕であるはずです。そうであれば、わたしたちにとって「皇帝のものは皇帝に返す」とは、皇帝つまり地上の為政者が、「神のものをすべて神にお返しになる」主に正しく奉仕できるように、彼らために罪の赦しを求め、彼らのために祈ることでしょう。

「パンとブドウ酒」は、わたしたちの日ごとの糧として神からいただいた命であるとともに、実はそれ以上に、それらを捧げて主イエスの奉献に固く結ばれるために、すなわち、主と結ばれて永遠のいのちに与るためにこそ、神からいただいたものです。このことの重要性は、戦争や相次ぐ災害で多くの命を天に送ったわたしたち、とくにカトリックのわたしたちには、身に沁みて感じられることではないでしょうか。

今、わたしたちとわたしたちの愛する日本の望みはどこにあるのでしょうか。それは、神からの恵みである「パンとブドウ酒」を神に捧げ、主イエスご自身神への奉献に固く結ばれることではないでしょうか。主に固く結ばれる事以外に、わたしたちの永遠のいのちへの希望はどこにもないからです。主が永遠のいのちだからです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 10/15

年間28主日 マタイ22:1-14

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「天の国(神の国)は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。」

今日の福音は、主イエスの「神の国のたとえ」の内、とくに「婚宴のたとえ」と呼ばれるものです。「婚宴」と言えば、主の「カナの婚宴の奇跡」を思い起こします。ヨハネによる福音(2:1-11)は、主が宣教の始めに、母マリアさまの願いに応えて、最初の奇跡をガリラヤのカナという小さな村の婚宴の場で行われたと伝えます。

それにしても、今日の「婚宴のたとえ」を含め、主イエスは「婚宴」の主題を、「神の国のたとえ」の中でよくお用いになっておられます。

「神の国のたとえ」は、主イエスにおいて「神の国」が来ているという事実を端的に指し示します。とくに「婚宴のたとえ」は、「神の国」には、主によって、主とともに祝う「神の国の食卓」が整えられてあることを、わたしたちに想い起こさせます。

ただし、「神の国が来ている」ということを、わたしたちのいのちの真実として認め、わたしたちの身の事実として受け入れるか否かは、主イエスを「神の国の主」キリストと信じるか否かに掛かっています。すなわち、わたしたちの信仰の問題です。

主イエスを「神の国の主」キリストと信じるわたしたちは、「神の国」は、わたしたちののもとに確実に来ているのみならず、そこには、「神の祝宴の食卓」が、間違いなく整えられてあることを知っています。主は今日のたとえの中で仰せでした。

「招いておいた人々にこう言いなさい。『食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意が出来ています。さあ、婚宴においでください。』」

しかし、主イエスを「神の国の主」キリストとまだ認められない人にとっては、主における「神の国」の到来も認められず、したがって、彼らは「神の国の祝宴」への招きに応えることもないでしょう。主は、同じく今日の「たとえ」の中で、「王が家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとはしなかった」彼らは主の招きを「無視した」のみならず、人々を「婚宴に招くために遣わした王の家来たちを、捕まえて乱暴し、殺してしまった」とさえ、語っておられました。

ここで見逃してはならないことは、主イエスの今日の「婚宴のたとえ」が、主が最後にエルサレムにお入りになられた後に語られた「神の国のたとえ」であるということです。事実、父なる神が、「神の国の祝宴」に人々を招くために遣わされた御子キリストは、ほどなく、神が「祝宴」に招こうとされたのに、その招きを「無視した」人々によって、「捕えられて乱暴され、殺されてしまい」ます。しかも十字架の上で。

主イエスは、エルサレムでこの日から数日以内にご自身に起こることの一切を予めご存じの上で、今日の「たとえ」をお語りになっておられることは明らかです。

それにしても、「神の国の主」キリストご自身が、「神の国の食卓」で、わたしたちのために整えてくださった「食事の用意」とは、いったい何だったのでしょうか。

それは、主イエスご自身の御からだと御血に他なりません。わたしたちのために十字架で裂かれた、主ご自身のいのちそのものです。

そうであれば、「神の国の食卓」を、わたしたちのために整えてくださることがおできになる方は、十字架の主イエス・キリスト以外にはおられません。そして今日、主は、すでにエルサレムにお入りになっておられます。十字架におつきになられるために。そこで、わたしたちのために、ご自身のからだを裂き、血を流されるために。

古来キリスト教会は、教会の教父たちの信仰と教えにしたがい、ミサを「婚宴」にたとえられる「神の国の祝宴」と信じ、ミサに与ることを至上の喜びとして来ました。わたしたちも、代々の教会とともに、今、ミサで「神の国の食卓」を祝っています。「神の国の主」キリストご自身が、わたしたちのために、十字架でご自身のからだを裂き、ご自身の血を流して整えてくださった「主の過越の食卓」を。

主イエスの福音に聞くわたしたちは、福音に働く聖霊によって、「神の国の主」キリスト以外に、「神の国」をわたしたちに来たらせてくださる方は、他に決して無いことを知らされています。さらに、主とともにミサを祝うわたしたちは、「神の国」を来たらせてくださる方は、十字架においてわたしたちに「神の国の食卓」を備えてくださるただ一人の方でもあることをも、はっきりと知らされています。

主イエスにおいて、「神の国」は、わたしたちのもとに来ています。わたしたちは、今、主が十字架で整えてくださった「神の国の食卓」に与ります。それがミサです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 10/8

年間第27主日 マタイ21:33-43

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。 

これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」

主イエスが、今日のたとえの最後に引用されたことばは、詩編の第118編の言葉です。この詩編は、ユダヤの「過越の祭」の食卓で詠われた、いわゆるハレル詩編歌と呼ばれた一群の詩編の中でも、とくに「過越祭」の最後に詠われた詩編です。

福音書は、主イエスと弟子たちが過越の食事、いわゆる「最後の晩餐」の結びに詩編を歌ってオリーブ山へ退かれたと伝えています。そうであれば、詩編118編のこの言葉の響きの中で、主は弟子たちとゲッセマネの園に向かわれたと言うことになります。そして皮肉なことに、この同じ詩編の、実は衝撃的な言葉の響きの中で、弟子たちはその夜、主を捨てて逃げ去ったわけでもあります。

「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。 

これは、主のなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」

「最後の晩餐」に続く、主イエスの十字架の死と復活の出来事、さらにはそこで露わにされた弟子たちとすべての人間の罪の現実を、この詩編の言葉ほどに鮮やかに言い表していた言葉は、他に無かったと言うべきかもしれません。

主(神)がなさったことはわたしたち人間の目には「不思議」に見えると訳されています。これは、聖書の元の言葉ではむしろ、「驚嘆する、つまり驚き畏れる」と言う言葉です。畏るべきこと、驚嘆すべきこと、あり得ない事、が起こったと言うことです。

「家を建てる者の捨てた石。」それは大工、実際は石工(いしく)の役に立たぬとの判断で「捨てられた石」です。実は直訳すれば「粉々に砕かれ捨てられた石」。神は、この粉々に砕かれたその石を「隅の親石」、誰にも二度と砕き得ない「盤石の岩」とされた。これは不思議と言う以上に驚嘆し、畏るべき神のみ業すなわち奇跡です。

そして、神の新たに建てられる神の家、神の教会は、この盤石の岩の上にのみ建てられます。神は、わたしたち人の目に良く見える石の中から立派な石を選ばれたのではありません。わたしたちが砕き捨てた石を、永遠の岩、盤石な教会の礎とされたのです。それが、主イエス。十字架において砕かれ、しかし復活されたキリストです。

ところで、その石を粉々に砕き捨てたのは「家を建てる者」であったと言われています。事もあろうに、神の遣わされたただ一人の石工、つまり神の「家を建てる者」である主イエスを前に、彼になり代わって「家を建てる者」を名乗る者は一体何者なのか。神の前に、恥も畏れも知らぬ、倒錯した人間の姿がここに極まっています。

しかし、これは決して他人事ではありません。神の遣わされた唯一の「家を建てる者」である主イエスのみ前で、事もあろうに「家を建てる者」を名乗り、主なる石を粉々に砕き捨ててしまうことさえするわたしたち、そして、その罪の恐ろしさ。

しかし、わたしたちのそれほどまでの罪でさえ、全能の神のわたしたちへの慈しみと愛を妨げることはできません。神は、わたしたちが「砕き捨てた石」主イエスを、わたしたちのために「盤石の岩」にされたのです。神は、御子キリストを十字架につけるほどのわたしたち罪人を、まさにその主の十字架によって救ってくださる。

詩編118編は、先の言葉に続いて、次のように祈ります。

「今日こそ主の作られた日。・・・

主の名によって来たる者に祝福あれ。」

神の作られた今日この日に、主の名によって来たる者。それは主イエス以外にはおられません。この方こそ実に、わたしたちの罪によって粉々に砕き捨てられることを通して、わたしたちの命を盤石の岩であるご自身の上に、主の教会を建てることがおできになる方。この方のみが、わたしたちの罪の贖いゆえに十字架上で砕かれることを通してわたしたちの罪を赦し、わたしたちをご自身とともに復活させてくださる唯一の方。それは、わたしたちに対する主なる神の慈しみと愛ゆえです。

このような神、このような主イエスのみ前に、わたしたちには、最早、不思議、否、驚嘆と畏れ以外には、何も残されていません。ただ、主に感謝し、主を礼拝するのみです。詩編118編は、次の言葉によって、祈りを結んでいます。

「あなたこそわたしの神、わたしはあなたに感謝します。わたしの神よ、わたしはあなたを崇めます。主に感謝せよ、主は恵み深く、その慈しみは永遠。」

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 10/1

年間第26主日 マタイ21:28-32

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音のたとえの内に、主イエスは、「後で考え直して」と言う言葉をくり返しておられます。フランシスコ会訳聖書では、同じ言葉を「悔い改める」と訳しています。しかし、「悔い改める」とはどうすることなのでしょうか。

日本語の「悔い改める」との訳語からは、「後悔する」とか「反省する」とかいうような消極的な響きを感じます。しかし、福音の記されたギリシャ語では、「悔い改める」と訳される語(meta-noeouとともに、今日の福音のmeta-merouも)は、「(主と)思いを合わせる」ないし「(主と)心を一つにする」という、極めて積極的な意味になります。

「主イエスと思いを合わせ、心を一つにして生きる」。主が、今日、わたしたちに願っておられるのは、まさにこのことではないでしょうか。実はそれこそが、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて」福音を信じなさい」とのおことばに始められた福音宣教の最初から、主がわたしたちに願ってこられたことであったはずです。

ただし問題は、わたしたちが「主イエスと思い合わせ、主と心を一つにして生きる」などということが果たして可能なのかということです。そのようなことが、わたしたちの心掛けや思い次第でできるのでしょうか。第一、神ならぬわたしたちが「神なる主の御心や主の思い」を正しく理解しているといえるのでしょうか。主が十字架につけられて殺されたのは律法学者たち、つまり神の心や思いを熟知していると自他ともに認めていた「神のみことば」の教師たちにではなかったでしょうか。

それでは、なぜ、わたしたちは「主イエスと思いを合わせ、主と心を一つにして生きる」ことがそれほどに難しいのでしょうか。明らかにそれは、わたしたちが罪によって神から、わたしたちの心が神の心から引き離されているからです。わたしたちが「主と思いを合わせ、主と心を一つにして生きる」ためには、それを不可能にしているわたしたちの罪こそが解決されなければならないということです。

つまり、「主イエスと思いを合わせ、主と心を一つにして生きる」ためには、もはや罪人のわたしたちが「後悔する」「反省する」というような事では済まないのです。わたしたちの考え方や心の持ち方の問題などではなく、わたしたちの罪の解決こそが問題だからです。このことは、わたしたちの信仰理解の要(かなめ)です。

ただしそうであれば、わたしたちには、為す術がないのではないでしょうか。確かにその通りです。しかし、だからこそ、天の神が主イエスとして地のわたしたちのもとに来てくださったのです。神が罪なるわたしたちを救ってくださるためには、つまりわたしたちが神の御心を知り、神と思いを合わせて生きる者とされるためには、預言者を通して天から語りかけることではもはや済まず、わたしたちの罪を解決してくださるために、神ご自身が贖い主として地に来てくださる他なかったからです。

そのためにこそ、主イエスは、天からではなく、地のわたしたちのもとに来てくださってわたしたちの罪を解決してくださるために、ご自身の肩にわたしたちの罪の贖いの十字架を負ってくださったのです。わたしたちが、「主なる神と思いを合わせ、心を一つにして生きる者とされる」ためには、わたしたちにそれを妨げているわたしたちの罪を、神がわたしたちに代わって贖ってくださる他なかったからです。

しかし、主イエスは、なぜそれほどまで、わたしたちに「悔い改める」こと、わたしたちが「主と思い合わせ、主と一つにして生きる」ことを願ってくださるのでしょうか。それは、わたしたちを「神の国」にお招きくださるためです。「神の国」とは、罪なるわたしたちの理想の国などではありません。いかに素晴らしく思われる国であっても、主イエスが在まさなければ、そこは「神の国」ではありません。「神の国」とは神なる主キリストの御国です。それは、他でもない、わたしたちが、「主と思いを合わせ、主と心を一つにして、主とともに永遠に生きることが赦される国」だからです。それゆえにこそ、わたしたちに「主と思いを合わせ、主と心を一つに生きる」ことを願われる主ご自身の肩には、わたしたちの罪を贖う十字架が負われてあるのです。

主イエスは福音宣教の初めから、十字架にご自身を犠牲としてささげてわたしたちの罪を赦し、それゆえわたしたちが主と思いを合わせ、心を一つにして生きる「神の国」にわたしたちを永遠に生かすために来てくださったのです。なぜなら、そこに、そして、そこにのみわたしたちの真の幸いと祝福が保証されてあるからです。

わたしたちが、永遠に真の幸いと祝福に生きること。それが、そしてそれのみが、主イエスのわたしたちへの唯一の願いなのです。キリスト者のわたしたちは、このような主をわたしたちの神とさせていただいているのです。

信仰とは罪人のわたしたちの確信ではなく、主イエスに罪の贖いの十字架を求めることです。しかし主はそれを厭われません。わたしたちを「神の国」に招くために。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 9/24

年間第25主日 マタイ20:1-16

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音は、主イエスの「神の国」のたとえの一つで「ブドウ園の労働者のたとえ」と呼ばれてきました。このたとえには、ブドウ園の主人と五組の労働者たちが登場します。各々の組の労働者たちは、その日に主人に雇われた時間が異なっています。夜明けに雇われた最初の組の労働者に始まり、最後の組は日没直前の午後五時頃雇われました。最初の組の労働者たちは夜明けから夕方まで、まる一日働きました。最後の組の人々は、日没前の約一時間働いただけです。しかし、ブドウ園の主人は、一日の終わりにどの組の労働者たちにも全く同じ一日分の賃金を払いました。

このたとえには、最後に雇われ日没前の一時間だけ働き、主人から同じ賃金を受け取った人々の思いは語られていません。彼らはブドウ園の主人から、彼らより先に雇われ長く働いて来た人々と全く同等の賃金をいただけるとは考えてもみなかったでしょう。ブドウ園の主人の、彼らへの思いがけない処遇に接しての彼らの驚き、感激、感謝、さらに、彼らの感動は想像に余りあります。彼らにとってそれは、それまで誰の目にも留められなかった彼らの人生、生きることに意味を見いだせないまま時だけが虚しく過ぎて行くような人生の中で初めて得た生の喜びと充足感、生きる意味を見出し、自尊心に目覚めた瞬間、さらには、始めて自分を心にかけてくれた他者に出会い得た事実に胸が熱くなった瞬間ではなかったでしょうか。

皆さんは、ご自分をどの組の労働者にご自分をなぞらえて、このたとえをお聞きになられたでしょうか?わたし自身は、主イエスのこのたとえを、最後にブドウ園に雇われた労働者に自分自身を重ね合わせて聞かせていただく他ありません。

このブドウ園を主イエスの教会とするならば、実際わたしは「最後に雇われた者」以外の何者でもないと、英国で司祭に叙階された時、強く感じました。日本の仏門に生を受けたわたしには、ローマでは厳しい迫害最中の紀元156年、当時のローマ司教(教皇)聖エレウセルスによる司教区(教会)設立に遡る英国の教会で、わたしの周囲の英国人司祭や信者方のように夜明けや日中から主のブドウ園に雇われ、既に長い間主の教会で奉仕して来た先祖の歴史も自らの過去もありません。主のブドウ園の労働者の末席に加えていただいた。それがその時のわたしの思いでした。

そのようなわたしを英国の人々が英国人司祭方と同等に寓してくれるとは予期していませんでしたが、司祭に叙階された日本人のわたしを、英国の教会の人々は英国人司祭方と同じく、彼らの司祭として大切に迎えてくれました。わたしは英国の人々に対する心からの感謝に加え、司祭叙階の秘跡の力とその恵みに養われてきた英国の教会のほぼ1900年に及ぶ伝統の確かさを知らされました。まさにキリスト教の信仰とは、秘跡に働く聖霊の力を虚心に認め、その恵みに生かされることです。

わたしは英国の大学での神父方との不思議な出会いを通して司祭職への召出しを確信し、カトリック神学、特にミサの神学を専門に学んだ後、縁あって英国国教会で司祭に叙階され、英国で長く司牧させていただきました。その後、今は亡き母の看取りを機に英国国教会と英国カトリック教会双方の司教方の尽力により、当時のベネディクト16世教皇から英国国教会司祭に対するカトリック司祭叙階の特別許可を得て帰国、2011年、当時の駐日教皇大使ボッターリ大司教のご臨席の下、カトリックの司祭として叙階され、日本の教会で司祭としての奉仕を許されました。元来、仏門に生を受けたわたしに、これは考えることもできないことでした。実際、将来キリスト教徒になり、主の教会に英国で、後に祖国日本でも司祭としてお仕えさせていただくことになるなど夢にも思ったことはありませんでした。仮にそのようなことを夢見たにせよ神がお許しくださらなければ、これは起こり得ないことです。

このようなわたしには、主イエスのたとえの最後に雇われた労働者の如く、主のブドウ園に雇って頂いたこと自体、神の憐れみと恩寵です。たとえ一時間でも、主のブドウ園・主の教会で働かせていただけること、しかも司祭として。これは奇跡です。わたしにとってこれ以上の光栄はありません。その上、主なる神は、このようなわたしにも、主のブドウ園で既に長く働いて来られた、例えば英国の教会の方々と、ミサにおいて全く同じ一つの聖霊の恵みをもって報いてくださいます。これは驚くべきことです。しかしこれこそ、わたし自身が体験した「神の国」の事実です。今日の福音を含む「神の国のたとえ」は、「神の国の主イエス」によってもたらされた「神の国」の真実と、主によって「神の国」に招き入れられたわたしたちの身に起こる驚くべき事実を明らかにしてくれます。わたしは、この驚くべき「神の国」の証人です。

わたしには、このようにしてくださった主なる神への感謝とともに、二千年の歴史を刻む主のブドウ園で、明け方や日中から、既に長く誠実に働いて来られた世界の教会の多くの方々に対して申し訳なさも感じます。しかし主イエスのお許しの下、仮に最後の一時間に過ぎずとも、与えられた時間、主のブドウ園・主の教会で主に精一杯お仕えさせて頂く。これが、主のブドウ園に最後に雇われたわたしの願いです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 9/17

年間24主日 マタイ18:21-35

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』

かつて8年間奉仕させていただいた川越教会でのある日、お聖堂で「十字架の道行き」(黒沢武之輔作)の聖画像を一枚一枚ていねいに写真に撮っている方がおられました。わたしがその方に、司祭ですと申し上げますと、その方も自己紹介をしてくださいました。その方は、キリスト教の信者ではないとのこと。ただ、教会のお聖堂の「十字架の道行き」が気に掛かり、日本でも、外国でも、可能な限り訪問先の町の教会を訪ねて「十字架の道行き」を、写真に収めてこられたとのこと。

この方は、わたしに対する自己紹介を、次の言葉で結ばれました。「神父さん、わたしはキリスト教についての知識はありませんが、日本でも外国でも、教会で「十字架の道行き」を写真に撮らせていただいているうちに、キリスト教の真実は「赦すこと」にあるのではないかと思うようになりました。神父さん、間違っているでしょうか。」

わたしは、この方の言葉に息を呑みました。「キリスト教の真実は、赦すこと」。それこそ、主イエスの真実です。わたしたちはキリスト者として、わたしたち自身が主に赦された罪人であることを理解しているつもりです。しかし、わたしたちは、時々このことを忘れ、自分自身を、そして人を裁いてしまいます。しかも大切な時に限って。「キリスト者では無いけれども」と言われたその方は、「十字架の道行き」の前で、いつも十字架の主イエスに赦されている自分自身を見つめてこられたのでしょう。

この方との会話は宗教の違いを超えて働かれる聖霊なる神のみ業をわたしに確信させてくれるに十分でした。むしろキリスト者であるにもかかわらず、罪意識も乏しく、神への感謝も懺悔の心も鈍くなっているわたし自身を恥じ、この方に働かれる同じ聖霊なる神の恵みを、再度求めさせていただきたく切に願いました。

今日の福音の主題は、「赦す」ことです。主イエスが、今日の「王と家来のたとえ」によってわたしたちに問いかけておられるのは、他者の罪を糾弾する前に、わたしたち自身が神に赦されている、と言う事実を忘れてはいないかということです。

先の方は、どこの町へ行っても、まず教会を訪ねて、「十字架の道行き」の聖画像の前に跪くと仰いました。赦されている自分を確認するためでしょうか。あるいは自分が赦されているにもかかわらず、他人を赦せない自分を懺悔するためだったのでしょうか。実は、キリスト者のこのわたしこそ、そうあるべきでした。

キリスト者のわたしたちは、教会の「十字架の道行き」の主イエスの聖画像のみ前に跪かせていただくのみならず、わたしたちが与る礼拝においては、福音とご聖体において現存される十字架の主イエスご自身にお会いさせていただくことさえ赦されています。このわたしのために、十字架で裂かれた主の御からだ、このわたしのために十字架で流された主の御血をいただくことさえ赦されているのです。

キリスト者には、先の「キリスト者では無いけれども」と言われる方以上に知らされていることがあるはずです。つまり、「主イエスの十字架の道行き」は、このわたしにとって文字通りのわが身の事実、主とわたし自身の真実であるということです。

教会のミサ曲のように、教会の「十字架の道行き」の聖画像も、宗教の違いを超えて万人を感動させる力があることは疑いようのないことです。しかし、キリストを主なる神と信じるこのわたしには、「十字架の道行き」は、芸術以上のものです。主は、「十字架の道行き」の事実そのままに、わたしのために十字架を負い、十字架上に死んでくださったからです。このわたしの罪を赦してくださるために。

そうであれば、この主イエスのみ前に、わたしたちは主のお求めになるごとく、他者を七回どころか七の七十倍まで赦すべきでしょう。なぜなら、主は、すでにこのわたしを、七回どころか七の七十倍まで赦してくださっておられるからです。

主イエスのみ業は、過去の物語ではありません。主のみ業は聖霊によって、わたしたち一人ひとりに対して常に現在の恵みの事実だからです。しかもそれは、このわたしが赦されるだけではありません。聖霊によってこのわたしに働かれる主の赦しの恵みゆえに、わたしたちも人を赦すことができるようにしていただけるのです。

主イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」主のこのおことばは、決してわたしたちに対する主の無理な要求ではありません。赦された罪人であるこのわたしをさえ用いて、他者の罪の赦しのために、聖霊によって働かれる主の恵みのみ業の約束とその事実です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。