司祭の言葉 10/1

年間第26主日 マタイ21:28-32

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音のたとえの内に、主イエスは、「後で考え直して」と言う言葉をくり返しておられます。フランシスコ会訳聖書では、同じ言葉を「悔い改める」と訳しています。しかし、「悔い改める」とはどうすることなのでしょうか。

日本語の「悔い改める」との訳語からは、「後悔する」とか「反省する」とかいうような消極的な響きを感じます。しかし、福音の記されたギリシャ語では、「悔い改める」と訳される語(meta-noeouとともに、今日の福音のmeta-merouも)は、「(主と)思いを合わせる」ないし「(主と)心を一つにする」という、極めて積極的な意味になります。

「主イエスと思いを合わせ、心を一つにして生きる」。主が、今日、わたしたちに願っておられるのは、まさにこのことではないでしょうか。実はそれこそが、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて」福音を信じなさい」とのおことばに始められた福音宣教の最初から、主がわたしたちに願ってこられたことであったはずです。

ただし問題は、わたしたちが「主イエスと思い合わせ、主と心を一つにして生きる」などということが果たして可能なのかということです。そのようなことが、わたしたちの心掛けや思い次第でできるのでしょうか。第一、神ならぬわたしたちが「神なる主の御心や主の思い」を正しく理解しているといえるのでしょうか。主が十字架につけられて殺されたのは律法学者たち、つまり神の心や思いを熟知していると自他ともに認めていた「神のみことば」の教師たちにではなかったでしょうか。

それでは、なぜ、わたしたちは「主イエスと思いを合わせ、主と心を一つにして生きる」ことがそれほどに難しいのでしょうか。明らかにそれは、わたしたちが罪によって神から、わたしたちの心が神の心から引き離されているからです。わたしたちが「主と思いを合わせ、主と心を一つにして生きる」ためには、それを不可能にしているわたしたちの罪こそが解決されなければならないということです。

つまり、「主イエスと思いを合わせ、主と心を一つにして生きる」ためには、もはや罪人のわたしたちが「後悔する」「反省する」というような事では済まないのです。わたしたちの考え方や心の持ち方の問題などではなく、わたしたちの罪の解決こそが問題だからです。このことは、わたしたちの信仰理解の要(かなめ)です。

ただしそうであれば、わたしたちには、為す術がないのではないでしょうか。確かにその通りです。しかし、だからこそ、天の神が主イエスとして地のわたしたちのもとに来てくださったのです。神が罪なるわたしたちを救ってくださるためには、つまりわたしたちが神の御心を知り、神と思いを合わせて生きる者とされるためには、預言者を通して天から語りかけることではもはや済まず、わたしたちの罪を解決してくださるために、神ご自身が贖い主として地に来てくださる他なかったからです。

そのためにこそ、主イエスは、天からではなく、地のわたしたちのもとに来てくださってわたしたちの罪を解決してくださるために、ご自身の肩にわたしたちの罪の贖いの十字架を負ってくださったのです。わたしたちが、「主なる神と思いを合わせ、心を一つにして生きる者とされる」ためには、わたしたちにそれを妨げているわたしたちの罪を、神がわたしたちに代わって贖ってくださる他なかったからです。

しかし、主イエスは、なぜそれほどまで、わたしたちに「悔い改める」こと、わたしたちが「主と思い合わせ、主と一つにして生きる」ことを願ってくださるのでしょうか。それは、わたしたちを「神の国」にお招きくださるためです。「神の国」とは、罪なるわたしたちの理想の国などではありません。いかに素晴らしく思われる国であっても、主イエスが在まさなければ、そこは「神の国」ではありません。「神の国」とは神なる主キリストの御国です。それは、他でもない、わたしたちが、「主と思いを合わせ、主と心を一つにして、主とともに永遠に生きることが赦される国」だからです。それゆえにこそ、わたしたちに「主と思いを合わせ、主と心を一つに生きる」ことを願われる主ご自身の肩には、わたしたちの罪を贖う十字架が負われてあるのです。

主イエスは福音宣教の初めから、十字架にご自身を犠牲としてささげてわたしたちの罪を赦し、それゆえわたしたちが主と思いを合わせ、心を一つにして生きる「神の国」にわたしたちを永遠に生かすために来てくださったのです。なぜなら、そこに、そして、そこにのみわたしたちの真の幸いと祝福が保証されてあるからです。

わたしたちが、永遠に真の幸いと祝福に生きること。それが、そしてそれのみが、主イエスのわたしたちへの唯一の願いなのです。キリスト者のわたしたちは、このような主をわたしたちの神とさせていただいているのです。

信仰とは罪人のわたしたちの確信ではなく、主イエスに罪の贖いの十字架を求めることです。しかし主はそれを厭われません。わたしたちを「神の国」に招くために。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。