司祭の言葉 11/12

年間32主日 マタイ25:1-13

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエスは「神の国」を、今日の福音のように多く「たとえ」によって語られました。キリスト教の「神の国」に似て、仏教には「浄土」(サンスクリットでは「仏の国」)の信仰があります。仏教の数ある経典の中で特に『観無量寿経』には、仏教の故郷インドの風土や宗教性を背景に美しい「たとえ」による浄土の様子と浄土の教主・阿弥陀仏の姿が細かく記述されています。この経典に説かれている浄土(仏の国)と仏の姿を一目地上で拝みたいとの願いから有名な宇治の平等院が建立されたと言われます。

ところが、主イエスは、ご自身の語られる「神の国のたとえ」において、神の国の様子、あるいは神の国の主の姿を描写することは一切なさいません。なぜでしょうか。もちろんその必要が無いからです。主イエスご自身が、「神の国の主」だからです。

主イエスに聞くキリスト者のわたしたちは、未だ見ぬ「神の国」と「神の国の主」を夢見て生きているのではありません。「神の国の主」ご自身が、すでにわたしたちのもとに来ておられるからです。そして、「神の国の主」キリストが現存されるところ、そこに「神の国」が来ている(現存する)からです。しかし、どこに?もちろん、ミサにおいてです。マリアさまからお生まれになり、使徒たちや多くの人々にご自身を現わされた後、十字架につけられ復活された主は、今や、ミサにおける福音とご聖体において聖霊によって現存されます。これが、わたしたちカトリックの信仰です。

主イエスは、宣教の始めに「時は満ち、神の国は近づいた(むしろ「すでに来ている・始まっている」。ギリシャ語本文では未来形でも現在進行形でもなく現在完了形。英語訳はThe Kingdome of God has come)。悔い改めて福音を信じなさい」と仰せになりました。神の時が満ち、今や「神の国の主」キリストがわたしたちのために来てくださった。わたしたちが、キリストが主であり王である「神の国」に生きることができるように。わたしたち一人ひとりにご自身のいのちを与えて、確実に「神の国」の一員として生きる新しい生活を始めさせてくださるために。わたしたちにとって「神の国」とは、主と共に生きる新しいいのちの体験、教会でミサ毎に体験されている現実です。

この「神の国の主」キリストが、ご自身の「神の国」にお招きくださるためにわたしたちに求められることは何でしょうか。それは、律法学者のように、自分の知恵や正しさを主張して神に認めていただくことでも、死後の往生を願うことでもありません。主イエスのおことば通り「悔い改めること。そして、福音を信じること」です。「悔い改める」とは、「主イエスと心を一つにさせていただく」こと「福音を信じる」とは、「福音そのものである主に、わたし自身を、委ね切る」ことです。そうであれば、今日の福音の「神の国のたとえ」で主の意図されるところも明確です。

今日の主イエスのたとえには、「賢いおとめたち」と「愚かなおとめたち」が登場しますが、それは世間的な意味での賢さ、愚かさではなく、明らかに「神の国の主」キリストに対する信頼ないし生き方の違いです。つまり、信仰の問題です。

「賢いおとめたち」は、主イエスによる「神の国」の到来の事実に目開かれるや、主のみことば通り「悔い改めて福音を信じ」ました。彼女たちは、主と心を一つにし、主の思いを知り、その主に自らを委ね切ったのです。それが、真の「賢さ」です。これとは対照的に、「愚かなおとめ」たちは、主と心を合わせ、主に自らを委ね切る用意がありませんでした。彼女たちは、「神の国」に生きることと、主と心を合わせ、主に自らを委ねて生きることとは別のことと勘違いしていたに違いありません。それを「愚か」というのでしょう。しかし、これは他人ごとではないかも知れません。

主イエスは、難しい修行や特別な知恵によって「神の国」に行くことをわたしたちに求めてはおられません。わたしたちの前に現存される主によって「神の国」はすでに来ていること、なぜなら主こそ「神の国の主」であることにわたしたちの目が開かれることを求めておられます。「神の国」とは、わたしたちが主のみことばに従って「悔い改め、福音を信じる」ことを通して招き入れられる主のみ国だからです。

「神の国」について語ることは、「神の国の主」キリストについて語ることであり、同時にそこに生かされるわたしたちについて語ることです。そうであれば、福音そのものである主イエスこそ「神の国」の一切です。そして、主の「神の国」の核心は、主の過ぎ越し、つまり主の十字架とご復活です。それは、その主に固く結ばれて、死すべき命から復活の栄光へと過ぎ越させていただくわたしたちの過ぎ越しでもあります。ミサは、主イエスによって招かれたこの「神の国」の祝いの宴(食卓)です。

「神の国」とは、「愚かなおとめたち」が考えたような、主イエスと別に体験されるような何ものかでは決してありません。それは「賢いおとめたち」のように、聖霊の助けと御導きを求めて、主と心と思いを一つにさせていただく内に、主とひとつに堅く結ばれてゆくわたしたちの体験の事実です。その主はミサに現存されます。

父と子と聖霊のみ名によって。   アーメン。