司祭の言葉 10/22

年間29主日マタイ22:15-21

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 主イエスは、仰せです。しかし、「皇帝のもの」、「神のもの」とは何なのでしょうか。

教会は、今日のこの福音を聞いて捧げる本日のミサの「奉納祈願」で、次のように祈ります。「万物の造り主である神よ、あなたからいただいたパンとブドウ酒を供えて祈ります。神のものをすべて神にお返しになったひとり子イエスの奉献に、きょうもわたしたちが固く結ばれますように。」

「神であるあなたからいただいたパンとブドウ酒」。もちろん、神は、最初から「パンとブドウ酒」をくださるわけではありません。「パンとブドウ酒」は、神からの「大地の恵み」である麦とぶどうを元にしてのわたしたちの「労働の実り」です。それにもかかわらず、その「パンとブドウ酒」を、あえて「神からいただいたもの」、すなわち、本来「わたしたちのもの」ではなく、「神のもの」と、神に感謝し、祈るのです。

「主は与え、主は取りたもう。主のみ名は、ほむべきかな。」災害ですべてを失ったヨブの言葉です。ウクライナ戦争や新型コロナ感染症を含めここ数年の相次ぐ災禍で、ヨブのようにわたしたちも、大きな犠牲を払って学んだことがあると思います。それは、「麦とぶどう」の「大地の恵み」は、確かに神からいただいたものですが、それだけではありません。「大地の恵み」から「パンとブドウ酒」を生産するわたしたちの命、「大地の恵み」よって生かされているわたしたちの自身もまた、実は、神からいただいた恵み以外の何ものでもなかったという厳粛な事実では無いでしょうか。

主イエスが、「パンとブドウ酒」という形で、ご自身のいのちをわたしたちにくださったことの大切さを思います。「パンとブドウ酒」は、わたしたちが地上で命を繋ぐために不可欠な日ごとの糧であるとともに、それによって支えられるわたしたちの地上の命そのものの象徴です。そして、その一切が、神からいただいた恵みです。

しかし、「パンとブドウ酒」によって、わたしたちに、神がお与えくださる恵みは、実は、さらに大いなるものではないでしょうか。なぜなら、「パンとブドウ酒」は、天の父なる神と地に住むわたしたちを、地上の命を超えて、永遠に「固く結び合」わせてくださるために、神がわたしたちにお与えくださる恵み、でもあるからです。

わたしたちは、神からいただいた「パンとブドウ酒」を、感謝を以って神に奉献することを通して、「神のものをすべて神にお返しになったひとり子イエスの奉献にわたしたちが固く結ばれ」る事が許されるのです。なぜなら、そのように、わたしたちの主が、弟子たちとの「過ぎ越しの食事」、すなわち「最後の晩餐」においてわたしたちにお定めくださったからです。わたしたちにとって、ミサこそ、それです。

「パンとブドウ酒」は、神からの大いなる恵み。わたしたちの地上の命を支えるのみならず、主イエスに結び合わされるミサにおいてわたしたちの命を天に繋ぐから。

従って、「パンとぶどう酒」は、わたしたちがそれを自分だけのものと主張し、その結果、わたしたちの間に争いや悲劇を生み出すために、神から与えられるものではありません。そうであれば、地上の皇帝すなわち為政者の役割は明白です。わたしたちを、神のみ前に神の民として整えること以外にはありません。第一に、わたしたちに日ごとの糧としての「パンとブドウ酒」を保証することによって。さらに、その「パンとブドウ酒」を神に捧げることによって、わたしたちが主イエスの奉献に結ばれることができるように、神へのミサへとわたしたちを整えることによって。

今日のミサの「集会祈願」のように、「世界を治める唯一の神、すべての人を救いに導いてくださる方」である主イエスから、皇帝つまり為政者に託されている奉仕、つまり「皇帝のもの」とは、ひとえにわたしたち主の民のために来られた主への奉仕であるはずです。そうであれば、わたしたちにとって「皇帝のものは皇帝に返す」とは、皇帝つまり地上の為政者が、「神のものをすべて神にお返しになる」主に正しく奉仕できるように、彼らために罪の赦しを求め、彼らのために祈ることでしょう。

「パンとブドウ酒」は、わたしたちの日ごとの糧として神からいただいた命であるとともに、実はそれ以上に、それらを捧げて主イエスの奉献に固く結ばれるために、すなわち、主と結ばれて永遠のいのちに与るためにこそ、神からいただいたものです。このことの重要性は、戦争や相次ぐ災害で多くの命を天に送ったわたしたち、とくにカトリックのわたしたちには、身に沁みて感じられることではないでしょうか。

今、わたしたちとわたしたちの愛する日本の望みはどこにあるのでしょうか。それは、神からの恵みである「パンとブドウ酒」を神に捧げ、主イエスご自身神への奉献に固く結ばれることではないでしょうか。主に固く結ばれる事以外に、わたしたちの永遠のいのちへの希望はどこにもないからです。主が永遠のいのちだからです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。