司祭の言葉 9/24

年間第25主日 マタイ20:1-16

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音は、主イエスの「神の国」のたとえの一つで「ブドウ園の労働者のたとえ」と呼ばれてきました。このたとえには、ブドウ園の主人と五組の労働者たちが登場します。各々の組の労働者たちは、その日に主人に雇われた時間が異なっています。夜明けに雇われた最初の組の労働者に始まり、最後の組は日没直前の午後五時頃雇われました。最初の組の労働者たちは夜明けから夕方まで、まる一日働きました。最後の組の人々は、日没前の約一時間働いただけです。しかし、ブドウ園の主人は、一日の終わりにどの組の労働者たちにも全く同じ一日分の賃金を払いました。

このたとえには、最後に雇われ日没前の一時間だけ働き、主人から同じ賃金を受け取った人々の思いは語られていません。彼らはブドウ園の主人から、彼らより先に雇われ長く働いて来た人々と全く同等の賃金をいただけるとは考えてもみなかったでしょう。ブドウ園の主人の、彼らへの思いがけない処遇に接しての彼らの驚き、感激、感謝、さらに、彼らの感動は想像に余りあります。彼らにとってそれは、それまで誰の目にも留められなかった彼らの人生、生きることに意味を見いだせないまま時だけが虚しく過ぎて行くような人生の中で初めて得た生の喜びと充足感、生きる意味を見出し、自尊心に目覚めた瞬間、さらには、始めて自分を心にかけてくれた他者に出会い得た事実に胸が熱くなった瞬間ではなかったでしょうか。

皆さんは、ご自分をどの組の労働者にご自分をなぞらえて、このたとえをお聞きになられたでしょうか?わたし自身は、主イエスのこのたとえを、最後にブドウ園に雇われた労働者に自分自身を重ね合わせて聞かせていただく他ありません。

このブドウ園を主イエスの教会とするならば、実際わたしは「最後に雇われた者」以外の何者でもないと、英国で司祭に叙階された時、強く感じました。日本の仏門に生を受けたわたしには、ローマでは厳しい迫害最中の紀元156年、当時のローマ司教(教皇)聖エレウセルスによる司教区(教会)設立に遡る英国の教会で、わたしの周囲の英国人司祭や信者方のように夜明けや日中から主のブドウ園に雇われ、既に長い間主の教会で奉仕して来た先祖の歴史も自らの過去もありません。主のブドウ園の労働者の末席に加えていただいた。それがその時のわたしの思いでした。

そのようなわたしを英国の人々が英国人司祭方と同等に寓してくれるとは予期していませんでしたが、司祭に叙階された日本人のわたしを、英国の教会の人々は英国人司祭方と同じく、彼らの司祭として大切に迎えてくれました。わたしは英国の人々に対する心からの感謝に加え、司祭叙階の秘跡の力とその恵みに養われてきた英国の教会のほぼ1900年に及ぶ伝統の確かさを知らされました。まさにキリスト教の信仰とは、秘跡に働く聖霊の力を虚心に認め、その恵みに生かされることです。

わたしは英国の大学での神父方との不思議な出会いを通して司祭職への召出しを確信し、カトリック神学、特にミサの神学を専門に学んだ後、縁あって英国国教会で司祭に叙階され、英国で長く司牧させていただきました。その後、今は亡き母の看取りを機に英国国教会と英国カトリック教会双方の司教方の尽力により、当時のベネディクト16世教皇から英国国教会司祭に対するカトリック司祭叙階の特別許可を得て帰国、2011年、当時の駐日教皇大使ボッターリ大司教のご臨席の下、カトリックの司祭として叙階され、日本の教会で司祭としての奉仕を許されました。元来、仏門に生を受けたわたしに、これは考えることもできないことでした。実際、将来キリスト教徒になり、主の教会に英国で、後に祖国日本でも司祭としてお仕えさせていただくことになるなど夢にも思ったことはありませんでした。仮にそのようなことを夢見たにせよ神がお許しくださらなければ、これは起こり得ないことです。

このようなわたしには、主イエスのたとえの最後に雇われた労働者の如く、主のブドウ園に雇って頂いたこと自体、神の憐れみと恩寵です。たとえ一時間でも、主のブドウ園・主の教会で働かせていただけること、しかも司祭として。これは奇跡です。わたしにとってこれ以上の光栄はありません。その上、主なる神は、このようなわたしにも、主のブドウ園で既に長く働いて来られた、例えば英国の教会の方々と、ミサにおいて全く同じ一つの聖霊の恵みをもって報いてくださいます。これは驚くべきことです。しかしこれこそ、わたし自身が体験した「神の国」の事実です。今日の福音を含む「神の国のたとえ」は、「神の国の主イエス」によってもたらされた「神の国」の真実と、主によって「神の国」に招き入れられたわたしたちの身に起こる驚くべき事実を明らかにしてくれます。わたしは、この驚くべき「神の国」の証人です。

わたしには、このようにしてくださった主なる神への感謝とともに、二千年の歴史を刻む主のブドウ園で、明け方や日中から、既に長く誠実に働いて来られた世界の教会の多くの方々に対して申し訳なさも感じます。しかし主イエスのお許しの下、仮に最後の一時間に過ぎずとも、与えられた時間、主のブドウ園・主の教会で主に精一杯お仕えさせて頂く。これが、主のブドウ園に最後に雇われたわたしの願いです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。