司祭の言葉 7/23

説教:年間第16主日 マタイ13:24-43

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先週に続き、今主日も、主イエスの「神の国のたとえ」からお聞きします。最初が、「毒麦のたとえ」、次が「からし種とパン種のたとえ」です。「神の国の主」キリストにとって「神の国」こそ、福音宣教の中心です。マルコによる福音は、主ご自身の福音宣教の始めを次のように伝えていました(マルコ1:14,15)。

「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を述べ伝えて『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」

「神の国は近づいた(英訳はhas come)と、主イエスは仰せでした。しかし、それはいかなることなのでしょうか。ところでマタイによる福音は、洗礼者ヨハネが、ユダヤの領主ヘロデによって捕えられ、投獄されていた牢の中から自分の弟子たちを遣わし、主に「来るべき方は、あなたでしょうか」と問わせた時、主は次のように「神の国の主」ご自身における「神の国」の到来を、「事実」をもって、お答えになりました。

「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(マタイ11:2-6)

主イエスの在すところに「神の国」が来ています。「神の国の主」キリストの在すところが「神の国」です。主のヨハネへのおことばは、この「事実」を見事に語り示しています。そうであれば、「神の国の主」キリストによってミサに招かれたわたしたちは、すでに「神の国」のただ中にいます。驚くべき、しかし、まぎれもない事実です。

実に、「神の国」とは、「神の国の主」キリストによって、わたしたちがすでに体験することを許されている「わが身の事実」です。「神の国のたとえ」とは、わたしたちが、この「わが身の事実」に目を開き、心を向けるように主によって語られたものです。

そうであれば、今日の福音の最初の「毒麦のたとえ」と呼ばれてきた「神の国のたとえ」は、「神の国」のただ中に在って、「神の国の主」であるキリストのみ前に明らかにされた、わたしたちとわたしたちの世界の現実以外の何ものでもありません。

良い麦と毒麦の混在したようなわたしたちとわたしたちの世界に、だからこそ主イエスは来てくださいました。その主のみ前に、わたしたちは何をなすべきか。自分はよい麦であると自らを誇り、他を毒麦と神に代わって他者を裁くことでしょうか。あるいはその逆に、自分を毒麦と決めつけ、同じく神に代わって自らを裁くことでしょうか。唯一の裁き主であるキリストのみ前に、そのどちらも間違っていると思います。

主イエスのみ前に、わたしたちに求められているただ一つのことは、すべてをご存知の主に、わたしたちをそのままお委ねさせていただくことです。つまり「悔い改める」ことです。聖書で「悔い改める」とは、直訳すれば(主イエスと)思いを一つにする」つまり(主と)心を合わせる」ことです。わたしたちに「神の国は近づいた」と仰せの主は、続けて「悔い改めよ」と仰せになっておられました。

だからこそ主イエスは続けて(神の国の)福音を信じなさい」と仰せでした。ここで「信じる」と訳される語は「委ねる」という言葉です。つまり、主は「福音」である主にあなた自身を委ねてよいと仰せです。今日の第二の「神の国のたとえ」は、「神の国の主」キリストの力を「からし種とパン種」という誰でも知っている事実を以て語ります。そこには主に自らを委ねた主の教会が、二千年の間体験してきた「聖霊」による「主イエスと主のみ国」の驚くべき力と働きが見事に語り尽くされます。

「天の国(神の国)はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」さらに、「天の国(神の国)は、パン種に似ている。・・・」

「神の国の主」キリストによってすでに「神の国」の内に招かれてある幸い。今、主にわたしたちの心を合わせ、すべて委ねさせていただく幸い。「神の国」の中心にはわたしたちの罪の一切を身に受けて十字架につかれ、わたしたちにご自身のいのち「聖霊」を与えるために復活してくださった救い主がお立ちになっておられます。

もう二度と、わたしたちの弱さ、小ささに絶望する必要はありません。何よりも小さなものに働いて、何よりも大きく用いることがおできになる「神の国の主」キリストご自身が、今、ここに、福音とご聖体の内に現存し、「聖霊」において確実に、わたしたちに大いなるみ業を行ってくださる。これがわたしたちの信仰です。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と、主は仰せです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 7/16

説教:年間第15主日 マタイ13:1-23

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」

「みことばの種」が豊かに実を結ぶ「良い土地」とは、どこにあるのでしょうか。さらに、「耳のある者」とは、誰のことなのでしょうか。

今日の福音で、主イエスは、「種を蒔く人のたとえ」を、「大勢の群衆」にお語りになりました。主の「神の国のたとえ」の一つです。その後、主は、「なぜ、神の国を群衆にはたとえを用いてお話になるのですか」と問う「弟子たち」に、次のようにお答えになられました。「あなたがた(弟子たち)には天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たち(群衆)には許されていないからである。」

主イエスは、「天の国(神の国)」を、大勢の群衆に「たとえ」を用いてお語りになりました。なぜなのでしょうか。聖書の「たとえ」は、ある事柄の詳細を説明するためのものではなく、それを聞く者に、彼らのただ中ですでに始まっている「事実」に目を開かせるために語られます。したがって、「神の国のたとえ」は、「神の国の主」キリストによる「神の国」の到来の「事実」に、わたしたちの目を開かせてくれます。

「たとえ」一般がそうであるように、「神の国のたとえ」も、聞く人に応じてまったく異なった働きをします。主イエスの「神の国の福音」を喜んで受け入れる者には、「神の国のたとえ」は、彼らが「神の国」の内に、すでに招かれてあるという「事実」に目を開かせます。それは、聞く者に、深い畏れと感動を呼び起こします。

しかし反対に、主イエスのみことばを聞いても、受け入れない者には、「神の国のたとえ」は、むしろ、彼らに対して、すでに来ている「神の国」の真実を隠す働きをさえします。それゆえ「聞く耳のある者は、聞きなさい」と、主は忠告しておられます。

ところで、今日の福音は、主イエスが、大勢の群衆に「神の国のたとえ」を語られた後、主の弟子たちに対して、「あなたがたには天の国(神の国)の秘密を悟ることが許されている」と仰せでした。ここで、「神の国の秘密」とは、何なのでしょうか。さらに、「神の国の秘密を悟る」とは、いかなることなのでしょうか。

ここで、秘密と訳されている言葉は、ギリシャ語では「ミステリア」、ラテン語ではサクラメント(秘跡)。従って事柄は明快です。「神の国の秘密」とは「神の国の秘跡。わたしたちに見える形で与えられる「神の国そのもの」つまり「神の国の主」キリストご自身・礼拝における聖体(聖餐)のことです。特別な人にのみ与えられる「奥義」などでなく、わたしたち主の弟子たちすべてに与えられる聖霊の恵みです。

事実、主イエスは弟子たちに「あなたがたには天の国の秘密悟ることが許されている」すなわち「神の国そのもの」である「主イエス・キリストを知ることが許されていると仰せです。「悟る」とは「知る」という字です。しかし、これは驚くべきことです。聖書において「知る」とは「一体となる」ことであり、「主イエスを知る」とは、主と一体とさせていただくことだからです。しかしこれこそ神の国のサクラメント(秘跡)、つまり、主を聖体(聖餐)として拝領し、その聖体の内に「主のいのちである聖霊」を受けることによって、主の弟子すべてに体験されている恵みの事実です。

それにしても、主イエスが、「あなたがた(すなわち、弟子たち)には天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たち(すなわち、群衆)には許されていないからである」と仰せになられたのは、なぜなのでしょうか。先に、「たとえ」は、聞く人に応じてまったく逆の働きをすると申しました。主のみことばを聞きながらも、主を「神の国の主」キリストとして受け入れない者には、「神の国のたとえ」は、むしろその真実を隠します。事実、「群衆」は、主のみことばを聞きながらも主を受け入れず、後に主を十字架につけることになります。

しかし、「神の国の福音」に聞き、主イエスを「神の国の主」として喜んで受け入れた弟子たちには、「神の国のたとえ」は、彼らがすでに「神の国」に招かれてあり、主が彼らのために整えられた「神の国」の食卓で、「神の国の主」イエス・キリストのいのちである聖体と聖霊をともに受ける「神の国の秘跡(秘密)」へと彼らを導きます。

みことばを聞いて、主イエスによる「神の国」の到来を喜んで受け入れ、その「神の国の主」キリストに自己の全てを託して従う弟子たちという「良い土地」に「蒔かれる」種には、主は「ご自身のいのちである聖体(聖餐)と聖霊」を与えて、驚くほどの「聖霊の実」を結ばせてくださるとお約束くださいました。実は、わたしたちを大勢の群衆の中から、主の弟子・神の国の秘跡に与る者としてくださったのも聖霊の恵みです。この恵みは、聖霊を求めるすべての人に開かれています。誰も、主のみ前にいつまでも群衆の一人に留まる必要はありません。聖霊を求めてください。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 7/9

説教:年間第14主日 マタイ11:25-30

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

人生に悩み、疲れを覚え、あるいは後悔や絶望の中に蹲(うずくま)っていた時、この主イエスのみことばに慰められ、再び立ちあがる勇気を与えられた方は多いのではないでしょうか。しかしこれは、実は、不思議な主のおことばではないでしょうか。

人生に、負うべき「軛」や「重荷」が無ければと、わたしたちは願います。しかし、本来、弱く、限界があり、加えて、神と人とに対する罪から自由ではないわたしたちにとって、「軛」あるいは「重荷」、すなわち「わたしたちの十字架」をまったく負うことのない人生、否、むしろ、「わたしたちが、本来負うべき十字架」を負おうとしない人生は、かえって自らと他者を、さらには神をも、欺くものではないでしょうか。

もちろん、「神の子キリストが負わねばならない十字架」というようなものがあろうはずはありません。しかし「弱く、罪に汚れたわたしたちが負うべき十字架」を、主イエスは、わたしたちに「あなたの軛、あなたの十字架」とは仰らず、驚くべき事に、わたしの軛」わたしの荷」、すなわち「わたしの十字架」と仰ってくださるのです。

その上で、本来はわたしたちが負うべき「わたしたちの十字架」を、主イエスはわたしたちに、ご自身と共にわたしの軛」「わたしの荷」すなわち「わたしの十字架」を、一緒に負ってくれないかと仰せになっておられるのです。この主のおことばにわたし自身の言葉を失います。ただ、主に合掌し、主を礼拝させていただくばかりです。

ところで、主イエスのこのおことばは、十二人の使徒たちをお選びになり、「神の国の福音」の宣教に遣わされるに際して、弟子たちに語られた主のおことばです。実は、主は、弟子たちを町や村に宣教に遣わされるに先立って、予めご自身ですべての町や村を訪ねておられました。マタイによる福音は、そのことを、次のように伝えています。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、み国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒された。」(9:35)

ただしその時、それらのすべての町や村で、主イエスがご覧になられた、他でも無い「わたしたち」は、どのような様子だったのでしょうか。マタイは続けます。

「(主イエスは)、また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(9:36)

ここで「打ちひしがれている」とは、フランシスコ会訳聖書のように、むしろ「倒れている」、さらには「死にかけている」と強く訳すこともできる言葉です。

これが、主イエスが十二使徒たちを「働き手」としてお遣わしになられるに先立って、主ご自身の目で確認された「飼い主のいない」わたしたちの姿です。しかしなぜ、わたしたちには「飼い主がいない」のか。実は、「飼い主」はいらっしゃるのです。もちろんそれは、神です。わたしたちには「飼い主がいない」のではなく、「飼い主である神から離れて」しまったのです。その結果、「弱り果て、打ちひしがれ、死にかけて」いたのです。誰のせいでも無い、わたしたちの愚かさ、否、罪ゆえにです。

主イエスご自身で確認された、「飼い主を失い、弱り果て、人生の途上で倒れ、死にかけているような」わたしたちとわたしたちの人生の現実ゆえに、主は、十二使徒をお選びになり、宣教、さらに司牧に遣わされたのです。マタイは、さらに続けます。

「そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい。』」(9:37f)

「収穫は多いが、働き手は少ない」と主イエスは仰せです。ただし主は、何を、否、誰を「収穫」されるのでしょうか。わたしたちが羨むような物、あるいはわたしたちと違い知恵と徳に優れた人々でしょうか。そうではありません。「飼い主を失い、弱り果て、人生の半ばで倒れ、最早自分で立ちあがる事のできない」わたしたちです。

主イエスは、このようなわたしたちを、父なる神から与えられる掛替えのないご自身の宝(ヨハネ10:29)として、大切に「収穫」してくださるのです。そのためにわたしたちの弱さと罪の一切をご自身の十字架として負い抜くことさえ顧みられずに。

主イエスは仰せです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。・・・私の軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 7/2

説教:年間第13主日 マタイ10:37-42

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエスの宣教の御生涯は、弟子たちを伴ってのエルサレムに向かう旅でもありました。そして、その旅の果てに主と弟子たちを待ちうけていることを、主はよくご存知です。この大切な旅の途上で、主は弟子たちに、三度くり返して、しかも「はっきりと」、エルサレムでのご自分の十字架の死と復活を予告されます。主の弟子たちへのくり返される予告を、マルコによる福音は次のように伝えます。

「イエスは、『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に、復活することになっている』、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話になった」(マルコ8:31)。

エルサレムに向かう旅の途上、主イエスご自身の内に明らかに緊張が高まって行かれるのと対照的に、くり返し主のご受難の予告を聞かされながらも、心がそれについて行かない弟子たちがいます。主のエルサレムでのご受難の予告を二度目に聞かされた直後でさえ、弟子たちは、彼ら十二人の内で「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」とマルコは伝えます(マルコ9:34)。にわかに信じがたいことです。

しかもマルコは、この直後に十二弟子の一人ヨハネが、主イエスに次のように語ったと伝えます。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」(マルコ9:38)。一見、何気ないヨハネの主への報告に聞こえます。しかしこれは、主のみ前に、神と人とに対して極めて傲慢な言葉と不遜な態度ではないでしょうか。彼は主の弟子というより、人々に対してまるで主になり代わったように振舞っています。事実、主はヨハネのこの不遜な振る舞いに深く心を痛めておられます。実は、今日のマタイの福音の主のみことばは、マルコでは主がこの時ヨハネに向けて語られたことばとされています。

「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(マタイ10:42、マルコ9:41)。

今日のマタイも、主イエスのおことばを、主と共にエルサレムへ向かって旅するわたしたちが一体何者なのかを想い起させてくださるおことばとして伝えています。主のこのおことばから、ヨハネもわたしたちも、主の憐れみと主のご保護の許に生かされている「主の弟子」であり、「小さい者の一人」に過ぎないことを謙遜に自覚すべきです。ヨハネが、漁の仲間であったペトロ、ヤコブと共に、ガリラヤ湖の湖畔で、主から召し出しを受けた時のことを思い出してください。ルカによる福音によれば、この時、主は、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を、夜通し不漁であった彼らの網を魚で満たされた「湖の奇跡」をもって、彼らを漁師としてのそれまでの生活から主に在って神と人とに仕えて生きる全く新しい命、生活へと招いてくださいました。それは、彼らの思いや力を遥かに越えた光栄であったはずです(ルカ5:1-11)。

しかし、まさにその時、彼らは深刻な問題に直面せざるを得ませんでした。それは彼らの罪です。罪人は、神なる主に直(じか)に見(まみ)えることは許されません。ペトロは主イエスに招かれた時、ヤコブとヨハネと共に、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ5:8)と、申し上げる他ありませんでした。罪なる彼らは、主のみ前に、ひとえに神を畏れたのです。

しかし、彼らが、心から自分の罪を認め、懺悔し、主イエスを畏れたからこそ、主は彼らをご自分の弟子とされたのです。その上で、主は彼らに言われました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」その時、彼らはこの主に「すべてを捨てて従った」と、ルカは伝えていました(5:10、11)。

主イエスの召出しを受けたこの時の謙遜なヨハネはどこに行ったのでしょうか。罪故に主を畏れ、主の赦しの許にのみ、全てを捨てて主に従ったヨハネでした。その彼がいつの間にか、人々に対して居丈高に神の恵みを管理する者であるかのように振舞ったと、マルコは伝えるのです。主は、このヨハネに心を痛められたのです。

主イエスと共にエルサレムに上る旅。ヨハネだけではありません。わたしたちも、主と共にその旅の途上にあります。主に従うこの旅は、誰にとっても、主のみ前に、神を畏れ、主の赦しの許に、謙遜と従順の内に全てを捨てて主に従い、神と人とに仕えて生きることを学ばせていただく旅、ではないでしょうか。このようなわたしたちにもかかわらず、エルサレムへの旅の途上、主は、忍耐強くわたしたちに教え、さらに、主を訪ねて来る一人ひとりに、丁寧に心を尽くして出会って行かれます。

この旅は、主イエスにとっては、ご自身の十字架を見つめての旅です。「すべてを捨てて主に従う」わたしたちのために、主はご自身を、ご自身のいのちさえ、十字架に捨ててくださる旅です。このことを決して忘れてはならないと思います。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 6/25

年間第12主日 マタイ10:26-33

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である」(マタイ10:24,25)。

主イエスは、十二使徒たちを宣教に派遣されるに際し、不安を覚える弟子たちに、このようにお語りになっておられました。これは、自分に何の知恵も力もないわたしたちにとって、励ましと慰めに満ちた主のおことばです。

これに続けて語られた主イエスのおことばが、今日の福音です。主は仰せです。

「人々を恐れてはならない。・・・体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」

これは宣教に遣わされる弟子たちやわたしたちが、傲慢であってよいということではありません。ご復活のキリストの使徒パウロも、神と人とに「謙遜と柔和の限りを尽くして」(エペソ4:2)お仕えするようにと、わたしたちを諭しています。

主イエスからのこのおことばをお聞かせいただく時、主が福音の宣教に遣わされる弟子たちに、「汚れた霊に対する権能をお授けになった」(マタイ10:1)と、先にマタイによる福音が伝えていたことを、わたしたちは、改めて思い起こします。

十二使徒が主イエスから受けた「汚れた霊に対する権能」とは何か。もちろんそれは、「聖い霊つまり聖霊の権能」。「聖霊」とは、ヨハネによる福音が伝える通り、ご復活のキリストの「息」。「息」は「いのち」つまりご復活の主ご自身のことです。

「(ご復活のキリスト・)イエスは重ねて言われた。『あなた方に平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」(ヨハネ20:21,22)。

ここで、ご復活のキリストは、宣教に遣わされる弟子たちに、主ご自身を与えておられるのです。そうであれば、福音宣教とは、十二使徒たちを通して、聖霊によって主イエスご自身がみことばを語り、み業をなさるということに他なりません。

事実、マルコによる福音は、ご復活のキリストによって宣教に遣わされた弟子たちの様子を次のように伝えています。「(ご復活のキリスト・)イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは、出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」(マルコ16:20)。

言うまでもなく、十字架以前に弟子たちと寝食を共にしてくださった主イエスと、ご復活のキリストは、同じ方です。そうであれば、今日の福音で使徒たちがご復活のキリストから託された宣教の言葉も、十字架の前からの主ご自身の福音宣教のおことばと同じであったはずです。すなわち、「天の国は近づいた」(マタイ10:7)。

同時に、ご復活のキリストが使徒たちに託された宣教の働きも、十字架に至るまで主ご自身がなさったのと全く同じく、「病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払」(マタイ10:8)うということであるはずです。

福音宣教の働きが、このように勝れて主イエスのみことばと主のお働きにわたしたちがお仕えすることであることから、教会は、ご復活のキリストから託された福音宣教の働きを、決して自分たちの宣教と称したことはなく、必ず「神の宣教」・「主ご自身の宣教」と呼んで、常に、栄光を主に帰させていただいて参りました。

そうであれば、使徒たちにとって福音宣教とは、各々主イエスから派遣された地で、みことばとご聖体において聖霊によって現存される主ご自身にお仕えさせていただくこと以外の何ものでもありません。それは、主ご自身の宣教の証人とされることです。「誇るならば、主を誇れ」(1コリント1:31)と使徒パウロが語る通りです。

それはまた、使徒たちにとって、遣わされたどこの場所においても、ただ主イエスのみを畏れて生きることです。「人々を恐れてはならない」、さらに「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と、主が仰せになっておられる通りです。

宣教とは、聖霊によって現存される主イエスにお仕えすること。それは、聖霊なる主の世に対する勝利の証人とされるのみならず、わたし自身の罪に勝利を収め、罪から解放してくださった救い主キリストの証人とされることです。人を恐れず、主のみを畏れて生きる。それが、わたしたちに主から託された主の宣教・福音宣教です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 6/18

説教:年間第11主日(A年・2023年6月18日)マタイ9:36-10:8

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエスは、十二使徒たちをわたしたちに派遣してくださいます。それが、今日の福音です。しかし、なぜでしょうか?

マタイによる福音は、今日の福音の直前に、十二使徒の派遣に先だって、主イエスが、ご自身ですでになさっておられた大切なことを伝えてくれていました。すなわち、「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」(マタイ9:35)。 

その際、主イエスは、残らず回られたすべての町や村で、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(マタイ9:36)。 わたしたちのこの現実に対して、主は、十二使徒たちを派遣されます。

主イエスは十二使徒たちを、決してご自身が見ず知らずの土地の、見たことも聞いたこともないわたしたちに対して派遣されるのではないのです。主が使徒たちを派遣されるのは、すでに主ご自身が「残らず回られた町や村」であり、そこで主ご自身が「深く憐れまれた」わたしたちのためなのです。

そうであれば、主イエスが十二使徒を派遣される目的は極めて明快です。主は、「飼い主のいない羊のように弱り果て打ちひしがれている」わたしたちの魂の牧者として、わたしたちの霊性の回復と司牧のために、使徒たちを派遣されるのです。

だからこそ、今日のマタイによる福音は、主イエスが、十二使徒のわたしたちへの派遣に際し、「汚れた霊に対する権能を授け」られたと伝えます。汚れた霊に打ち勝つ権能とは、聖い霊の権威と力、すなわち「聖霊の権能」に他なりません。

主イエスは十二使徒の派遣に際して、彼らに聖霊を託された、すなわち主ご自身を、主の活けるいのちを託されたのです。主は、わたしたちの傷ついた魂の配慮と、わたしたちの魂・霊性の回復とその司牧に、ご自身のいのちをかけておられます

十二使徒の後継者は、司教方です。わたしども司祭は、この司教の代理者として、主イエスから各小教区に派遣されています。したがって、小教区担当司祭は、Vicarすなわち(司教の)代理者」と呼ばれます。また、司祭は、主から託された「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」人々の魂の司牧というべき任務から、Curateすなわち(魂を)癒す者」・「(魂の)牧者」とも呼ばれます。

わたしたちの「魂の司牧」。それは、主イエスご自身の霊・聖霊にのみよることであり、叙階の秘跡を通して、司祭に特別に主から託された奉仕です。そしてそれは何よりも聖霊のみ業である秘跡において、とりわけ聖体の秘跡ミサにおいてなされることです。ミサこそ、主ご自身がわたしたち司祭を用いて、皆さんひとり一人に聖体において聖霊をお与えくださる、まさにその時だからです。

主イエスご自身の霊・聖霊こそ、真のCurateすなわち「癒し主」ご自身です。聖霊は、わたしたちの魂を癒してくださる、すなわち真の意味での魂の配慮をしてくださるのみならず、わたしたちを主の似姿へと霊的に成長させてくださいます。

故岡田大司教さまは、さいたま教区管理者時代の司牧書簡の中で、教区のすべての司牧者および信者の霊性の回復霊的成長こそ、教区第一の課題とご指摘になっておられました。霊性の成熟は、聖霊の働きの実りとして受ける以外に道はありません。したがって、「聖霊来てくださいVeni Sancte Spiritusと聖霊を求めてひたすら祈り、聖霊の恵みとご保護の内にミサにより深く与ることこそが、この課題の解決であることをわたしたちは今日の福音から確認させていただきたいのです。

あらためて、ご復活のキリストと十二使徒の頭ペトロとの対話を想い起こします。主は、三度ペトロに問われました。「わたしを愛しているか。」「主よ、わたしはあなたを愛しています」と、ペトロが三度主にお応えするたびに、主は彼にくり返し、ただ一つのことをお命じになられました。「わたしの羊を飼いなさい。」(ヨハネ21:15-19)

なぜなら、主イエスは、ご自身ですでにわたしたちすべてを訪ねて、わたしたちが「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」ことを熟知しておられるからです。主はこれほどまでに主の羊であるわたしたちの傷ついた魂のことを、その回復を、さらに魂すなわち霊性の成熟を心にかけてくださっておられます。

だからこそ主イエスは、十二使徒たちの後継者である司教方、小教区におけるその代理者である司祭を派遣し、皆さんを主の聖霊の秘跡・ミサに招いておられます。この切ないまでの主のわたしたちへの思いの内に、今、ミサに与っています。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 6/11

説教:キリストの聖体(年間第10週)ヨハネ6:51-58

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音は、主イエスの「五つのパンと二匹の魚」の奇跡。教会は、主の「パンの奇跡」を、後に十字架の前晩、主が12使徒と「最後の晩餐」で祝われ制定された「聖体の秘跡」(ミサ)先取り(しるし)として大切にお聞きして参りました。

主イエスが、十字架の死の直前の「最後の晩餐」で、「聖体の秘跡」(ミサ)を制定された時のことを想う度に、一つの言葉が脳裏をよぎります。「一期一会」。これは千利休以来の日本の茶道の心を語ることばとして大切にされて来ました。利休自身の言葉では、「一期に一度の会」あるいは「一期一席」ともされます。一椀のお茶をともにいただく出会いは永遠であり、その出会いの内に人は永遠に生きる。このお茶に命の一切を懸ける。このお茶をいただいた後、死んでも悔いはない。

事実、利休は、愛弟子との最後のお茶の直後に、秀吉から賜った死を遂げました。利休の死を看取った彼の妻も、彼の最愛の弟子であった大名・福者高山右近も共にキリシタン。利休はその最期の時、「最後の晩餐」に続いて死を遂げられた主イエスのことを想ったのではないでしょうか。「利休のお茶の背景にカトリックのミサが考えられる」と、裏千家の前家元が英語版のお茶の本に書いていました。事実、一つの椀から回し飲みをするのは、利休の濃茶とカトリックのミサ以外にはありません。

「一期一会」。弟子たちとの「最後」の晩餐。そのことは、十字架を前に、主イエスには明確に自覚されていたはずです。後に、それは弟子たちにも、「最後の晩餐」に続く主の十字架の死と主のご復活を経て、明確にされました。「一期一会」。「わたしの記念として、これを行え」と、主が、わたしたちに残された「聖体の秘跡」(ミサ)。これこそ「一期一会」の秘跡。人と人との出会いの秘義を教える利休のお茶をはるかに越えて、神と人との出会いの永遠の秘義に目を開かせ、さらにその永遠の秘義をわたしたちの身の事実とさせてくれるものこそ、ミサです。

「一期一会」。利休が、お茶としてわたしたちに残していったのは、彼自身です。彼との出会い。さらに彼個人と出会いを越えて、人と人との出会いそのものの秘義です。「一期一会」。「最後の晩餐」、すなわちミサで、主イエスが、わたしたちに残されたのも、主ご自身。主イエスにおける父なる神との「一期一会」の出会いです。神と人との出会い。そしてそれは、余りにもリアルです。ミサは、伝えます。「主イエスはすすんで受難に向かう前に、パンを取り、感謝をささげ、裂いて、弟子に与えて仰せになりました。『皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡されるわたしのからだである。』食事の後に同じように杯を取り、感謝をささげ、弟子に与えて仰せになりました。『皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である。これをわたしの記念として行いなさい。』 信仰の神秘(秘跡)。」

ミサの中で司祭を用いて主イエスが、みことばと行為によって聖別されたご聖体において、聖霊によりご復活の主ご自身が現存されます。歴代の信者・殉教者たちが、聖体の内に現存されるご復活の主に彼らの生涯を託し、最後には彼らの命を捧げ、唯一人たりとも裏切られたことの無い、これがわたしたちの信仰です。

聖体における主イエスとの「一期一会」の出会いの内にご復活の主のいのちを受けた聖アウグスティヌスは語ります。「キリストのご聖体を拝領する時、わたしたちは、主をわたしたちの体に変えるのではなく、ご聖体を受けたわたしたちが、主によって主のからだに変えられますその時わたしたちの罪なる体が、キリストの栄光のからだへと変えられます。皆さんは、ご聖体によって、ただキリスト者(キリストに属すもの)とされるのではありません。皆さんはキリストのからだとされるのです。」

わたしたちの内にまで来て、「わたしたちの罪なる体を、キリストの栄光のからだに変える」ことがおできになるのは、「聖霊」なる神お一人です。聖アウグスティヌスは、ミサで、わたしたちがご聖体としてお受けするのは、実は「聖霊」に他ならない、と明確に教えてくれているのです。「福音とご聖体において、活けるご復活の主キリストにお会いさせていただく」と先のベネディクト16世教皇はミサの秘義を教えてくださいました。わたしたちはすでに、聖アウグスティヌスから、ご聖体においていただくのは、「聖霊」に他ならないと教えられていました。この「聖霊」こそ、目に見えないけれども活けるご復活の主ご自身に他なりません。

今、ミサで、ご復活のキリストが、ご聖体においてご自身をわたしたちにお与えくださる。ご聖体の内に働かれる「聖霊」は、わたしたちの内に来て、罪なる体から主のからだへと変えてくださる。わたしたちは主のからだに変えられて神の国に「過ぎ越」させていただく。これこそ確実に神の国に帰らせていただく道です。ミサで祝うのは、ご聖体のキリストにおける神と人との「一期一会」の出会いの秘義、ご聖体の主とわたしたちとの「過越の神秘」です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 6/4

説教:三位一体の主日(年間第9週)ヨハネ3:16-18

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「聖霊降臨の主日」に続けて祝う今日「三位一体の主日」の集会祈願で、「唯一の神を礼拝するわたしたちが、三位の栄光を称えることができますように」、と祈りました。「唯一の神」を、父と子と聖霊の三位のみ名を以てお呼びさせていただく。実はこれは、ご復活のキリストご自身が、すでになさっておられたことなのです。主は仰せでした。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:18b-20)

主イエスは最後の晩餐の説教で、ご自身が去られた後、天の父なる神は、わたしたちに「聖霊」をお遣しくださり、その「聖霊」によって、主がわたしたちにお約束くださった救いのみ業を完成してくださると、仰せになっておられました。実は、これに先立って、主は、父なる神が「聖霊」によってわたしたちに完成してくださる救いのみ業は、「父なる神」「御子キリスト」との間には、すでに、かつ永遠に成就されている事実であるとして、次のように仰せになっておられました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである。」(ヨハネ3:16)

この永遠の事実に目を開かせてくださるのも「聖霊」です。主イエスは仰せでした。「真理の霊(聖霊)が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」(ヨハネ16:13)「真理」とは、神のわたしたちに対する救いのみ業の一切のこと。ただ、それはどのようなことなのか。神は、それをどのようにして完成されるのでしょうか。

「聖霊降臨」の主日に、わたしたちは、「御独り子と共に神の国を継ぐ人々の上に、あなたは今日、聖霊を注ぎ、過越の神秘を完成してくださいました」と祈りました。したがって神のわたしたちに対する救いのみ業の一切とは、わたしたちに完成されるべき「過越の神秘」です。すなわち、ご復活のキリストがわたしたちにご自身のいのちである聖霊を与えて、本来罪によって死すべきわたしたちを、ご自身のご復活のいのち、永遠のいのちへと過ぎ越させてくださることです。

「唯一の神」を信じるわたしたちですが、ユダヤ教やイスラムの人々のように、たんに「天にいます神」とではなく、主イエスご自身にしたがって、神を「父なる神・御子なる神・聖霊なる神」「三位一体の神のみ名」でお呼びします。わたしたちの救いわたしたちにおける「過越の神秘」の完成のために、唯一の神が三位の神のみ名で働かれるからです。罪深いわたしたちが、罪人ゆえの死ではなく、神の永遠のいのちに新たに生まれさせていただくためには、唯一の神が、わたしたちに「父なる神」、「御子なる神」、「聖霊なる神」として、救いの秩序において働き、わたしたち一人ひとりの内に神の救いのみ業・「過越の神秘」を完成してくださる他ないからです。

すなわち、「天の父なる神」は、天地の創造主としての権能・権威とみ力の座である天を離れることがないままに、自らを「御子キリスト」として地のわたしたちのもとにまで来て、わたしたちの罪の贖いためにご自身を十字架につけてくださいました。さらにわたしたちのために復活され、ご昇天の後には、わたしたちにご自身の霊である聖霊をお遣わしになり、その聖霊はわたしたちの内にまで来て、わたしたち一人ひとりをキリストの似姿に変えつつ、わたしたちすべてを罪の地上から聖なる神の国へと過ぎ越させてくださる。これ以外に、わたしたちが、神のみ国に帰らせていただく確かで確実な道はありません。神はこのようにして、わたしたち一人ひとりに主の救いのみ業の一切、すなわち「過越の神秘」を完成してくださいます。

そしてそれは、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」福音が証し、わたしたちに「聖霊」によって成就される神の自己犠牲の愛ゆえです。天の神から与えられる律法の順守によって、地のわたしたちが救いか滅びかに定められるというのではありません。わたしたちには、律法を順守して自らの力で天の父の許に帰って行くような知恵や力はありません。そのようなわたしたちに、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」に、主イエスが成就してくださった救いの綿密な手続きを一つ一つ指折り数えるように、唯一の主なる神を、父・子・聖霊と三つのみ名を順に懺悔と感謝の心を込めてていねいにお呼びさせていただく。神が複雑な方だというのではありません。わたしたちの側が、わたしたちの罪が、わたしたちを救ってくださる神の救いの手続きを複雑にしていたのです。

「三位一体の信仰」は単なる教理ではなく、わたしたちの懺悔と感謝による賛美と信仰の告白です。罪なるわたしたちに「過越の神秘」を完成してくださる神の綿密な救いのみ業を丁寧に思い起こさせていただく時、わたしたちは神のみ名を、単に「天にいます唯一の神」とではなく、「父なる神」「子なる神」「聖霊なる神」と指折り数えるように、心からの懺悔と感謝をもってお呼びさせていただく他ないのです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 5/28

聖霊降臨の主日 ヨハネ20:19-23

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

ご復活のキリストは、弟子たちに「息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』。」「聖霊」とは、「ご復活の主イエスの息」です。聖霊降臨の主日のヨハネによる福音は、わたしたちに一つの「事実」の大切な二つの側面を想い起こさせてくれます。

最初に、ご復活のキリストは、「造り主なる神」であるという疑いようのない事実です。ご復活の主は、わたしたちにご自身の「いのちの息・聖霊」を吹きかけ、命を与えてくださいました。これは「造り主なる神」にのみおできになることです(創世記2:7)。

同時に、ご復活のキリストから「いのちの息・聖霊」をいただくまで、わたしたちの内には命はなく、神のみ前に命を失ってさえいたと言うわたしたちの現実です。マタイが記すように、かつてのわたしたちは「牧者のいない羊の群れのように疲れ果て、倒れていた」(9:36)。そのようなわたしたちを、ご復活の主は大切に「抱き起こし」、「ご自身の息・聖霊」を与え、わたしたちを再び「生きる」者としてくださいました。

ヨハネによる福音で主イエスご自身が「聖霊」を「弁護者」つまり「傍らに来て助け起こす方」とお呼びになっていたこと、さらに『聖書』の言葉で「復活する」とは、元来「倒れている人を抱き起こす」あるいは「傷ついた人を介抱する」との意味であることを想い起こせば、「聖霊」とは目に見えないご復活のキリストご自身であり、したがってわたしたちに具体的に体験されるご復活の主その方のお働きです。

ご復活の主イエスがわたしたちに「ご自身の息・聖霊」をくださる。それは、ご復活の主によって、「倒れていた」わたしたちが、大切に「抱き起こ」され、「傷ついていた」わたしたちが「介抱して」いただいたという、非常に具体的な体験、ご復活の主によって命を与えられたわたしたち自身の復活の体験ではないでしょうか。

ただし、わたしたちはご復活のキリストのみ前に、なぜ「いのちを失い」、「傷つき倒れて」いたのでしょうか。明らかにそれは「罪ゆえ」です。主はそのわたしたちに「聖霊」すなわちご自身のいのちを与えて、罪を赦してくださいます。それのみならずわたしたちは、「聖霊」によって罪赦されたわたしたちを通して多くの人々に罪の赦しを与えようとなさる神に奉仕する者としてさえ用いられるのだと福音は告げていました。「聖霊を受けよ。だれの罪でも、あなたがたが赦せばその罪は赦される。」

ご復活主日から五十日目に、わたしたちは、「聖霊降臨」を記念し祝います。「聖霊降臨」について、聖書の語り方は一様ではありません。「聖霊降臨」がわたしたちの日常の体験を超えた出来事である以上、これは当然のことなのでしょう。

ただし、ヨハネの福音が語るように、「聖霊降臨」の核心には、ご復活のキリストご自身が、わたしたち一人ひとりにご自身の「いのち・聖霊」を吹きかけ、罪の赦しによる新しい命をお与えくださったという、具体的なわが身の事実があります。

つまり「聖霊降臨」の核心には、傷つき倒れ、命を失っていたわたしたちが、ご復活のキリストによって大切に「抱き起こされ」さらには「傷を癒していただいた」という、わたしたち自身の死から復活への体験の事実があります。「聖霊降臨」とは、わたしたちのこの体験とともに語り得る、確実なそして深い魂の感動の事実です。

従って聖霊降臨の「祝い」の中心はこの「事実」、この事実の感動です。造り主なる神・ご復活の主ご自身からのわたしたち一人ひとりへの「聖霊の注ぎ」。罪に死んでいたわたしたちの神のいのちへの復活。これが、聖霊降臨の日にわたしたち一人ひとりにご復活の主が聖霊によって成就してくださる事実です。これが福音です。

最早わたしたちは、自らの罪ゆえの弱さ、惨めさの内に絶望し蹲る必要はありません。今や、ご復活のキリストがわたしたちにお与えくださる「聖霊」によって主ご自身が「いつも共にあって」わたしたち一人ひとりを「抱きしめ」「抱き起こし」、主ご自身の新しいいのちと希望でわたしたちを生かし支え続けてくださるからです。

洗礼者ヨハネは、自らの殉教の死を前に、しかし、死を超えてご復活のキリストによって始められる「聖霊」による新しいいのちの予感に歓喜して叫びました。「わたしは喜びで満たされている。キリストは栄え、わたしは衰える。」(ヨハネ3:29b、30)

洗礼者ヨハネのこの言葉と響き合うようにして、ご復活のキリストの使徒パウロも彼自身の体験の事実の大いなる感動の内に語ります。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)

聖霊降臨。「聖霊」による新しい命の始め。それはわたしたちの思いを遥かに超えた「造り主なる神」の天地創造のみ業。同時に、ご復活の主がわたしたち一人ひとりに、「聖霊」において成就してくださる、非常に具体的なわたしたちの身の事実です

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 5/21

説教:主の昇天(復活節第7主日)(A年・2023年5月21日)
マタイ28:16-20

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

最後の晩餐の席で、主イエスは、ご自身の十字架を前に弟子たちに「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたの所に戻って来る」と仰せでした。事実、主は十字架の死の後わたしたちの所にご復活の主としてお戻りくださり、その後「弁護者」である「聖霊なる主」として、わたしたちと共にいてくださいます。

しかし、ご復活のキリストは、なぜ今日天に昇られるのでしょうか。なぜ主は、ご復活のままのお姿で地上に留まってくださらないのでしょうか。実は、主は、最後にエルサレムに入城されてすぐ、ご自身のご昇天について、次のように仰せでした。

「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

(ヨハネ12:32)

主イエスのご昇天。それは、わたしたちのためです。主ご自身が天の父なる神のもとに抱き上げられるとき、主はわたしたちをご自分のみ手に抱き上ってくださる

旧約及び新約の言葉で「復活する」、また新約の言葉で「弁護する」も、元来は「抱き起こす」「抱き上げる」と言う意味の言葉であると、すでに申しました。ご昇天においても、主イエスはわたしたちを「抱き上って」くださいます。父なる神のみ許へ。

ところで今日の福音で、ご復活のキリストのご昇天を前になお、弟子の中には、主のご復活を「疑う者もいた」と聖書は伝えます。気に掛ります。聖書では、神を疑うことを「罪」と言うからです。しかし不思議な事に、ご復活の主ご自身は、弟子の内にご復活を「疑う者がいる」ことを、とくに問題にしておられません。なぜでしょうか。

ご復活のキリストは、すでに十字架上で、わたしたちの罪に最終的な勝利を収めておられるからです。今やわたしたちの罪でさえ、ご復活の主の愛を妨げるものではありません。それゆえ、ご復活の主は、今なお主のご復活を疑う者をも含めたわたしたちすべてに、ご自身の約束と命令のことばを託すことがおできになるのです。

ご復活のキリストは、わたしたちに、罪への罰に代えて聖霊を与えて、わたしたちをキリストのもの(キリスト者)としてくださいます。これが、罪人であるわたしたちへのご復活の主の最終的な愛の勝利です。その主が、地上から上げられる時、わたしたちすべてを、天の父なる神のもとへ抱き上げてくださいます。主は仰せでした、

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」(マタイ28:18)

聖霊によりキリスト者とされたわたしたちは、自らを縛りつけていた一切の偽りの力や権威、すなわち疑い、罪、死から全く自由です。今や、真の力と権威は、自分で自分を愛することさえできないわたしたちではなく、わたしたちへの愛ゆえにご自身のいのちさえ捧げてくださった主が持っておられる。このことこそ、救いです。

実際、もしわたしたちの命を最終的に決定する存在がわたしたち自身であるならば、つまりわたしたちにとって神が無い、あるいはわたしたち自身が神でなければならないとするならば、それほど恐ろしいこと、それほどの悲劇がまたとあるでしょうか。わたしたちが行き詰まり、絶望と死の淵に佇む時、最早、救いはないからです。

しかし、十字架とご復活のキリストが、わたしたちに対する最終的な力と権威を持っておられるならば、わたしたちがいかに行き詰ったとしても、主イエスは、なお、わたしたちに道を開いてくださることがおできになる。わたしたちの内には、絶望と死の他には何も無くとも、主の内には、なお希望といのちがある。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」主のこのことばこそ、わたしたちの希望です。

その上で、「だから」と、主イエスはおことばを続けられます。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」

主イエスはわたしたち全てに、洗礼の秘跡によって「父と子と聖霊の名」による新しい命をお与えくださいます。ただそれはいかなる命であり、わたしたちはそれをどのように受けるのか。さらにそれをいかにして多くの人々と分かち合って行くのか。

ご昇天に先立ち「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と仰せの主イエスは、最後の晩餐でご聖体の秘跡(ミサ)を残してくださいました。ご聖体(ミサ)こそ「父と子と聖霊の名によって」わたしたちが、今、ここで主から受ける新しい命。そしてこの命は、主のご昇天により天の永遠のいのちに堅く結ばれます。

「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。