司祭の言葉 9/10

年間第23主日 マタイ18:15-20

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」 

この主イエスのおことばに、そのおことばの確かさに、どれほど多くの人々が励まされてきたことでしょうか。とくに、キリスト者が少数で、ともに祈りを合わせる人が限られている日本のわたしたちには、主のこのおことばの温かさが身に沁みます。

ただ、二人または三人のわたしたちは、なぜ主イエスのみ名によって集まるのでしょうか。主は仰せです「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」たった二人でも構わない。人数は問われていません。たとえ二人あるいは三人だけであっても、わたしたちが主のみ名によって心一つにするところには、主が、必ずわたしたちとともにいてくださる。とくにミサこそ、その時です。そのために、主はわたしたちをミサに集めてくださるのではないでしょうか。

事実、ミサでわたしたちが気づくのは、わたしたちが主イエスのみ名によって集まる時、そこに主がわたしたちとともにいてくださると言うよりも、むしろ先に主の方が、わたしたちをご自身の祈りに招いてくださっておられるということです。実際、主の招きによって始められるミサは、主イエスの祈りに、つまり主の御心にわたしたちが心を合わさせていただけるようにと、主がわたしたちをお招きくださっておられるということではないでしょうか

福音は、主イエスが宣教の多忙なご生涯にもかかわらず、否、それ故にこそ、つねに主はご自身の静かな祈りの内に帰って行かれたことを伝えます。ミサで、二人または三人のわたしたちは、この主の静かな祈りの中に招き入れられます。それが、主のみ名によって祈る、と言うことではないでしょうか。その際、主のみ名によって祈るとは、わたしたちにとって主と心を合わさせていただくことに他なりません。

わたしたちの祈りはどのように始まるのでしょうか。それは、わたしたちのために祈ってくださる主イエスを仰がせていただくことから。わたしたちの祈りは、まず主のみ前に主を仰ぎ、主を礼拝させていただくことから始まるのではないでしょうか。

一人ひとりが主イエスを仰ぎ、主を礼拝する時、一人ひとりの心は主と結ばれて一つとされます。それゆえに、主の許に集められたわたしたちの心もまた主によって互いに結びあわされて主のみ心と一つとされます。それが、主の祈りの内にわたしたちが招かれるということではないでしょうか。実は、主の福音宣教の初めのおことば「悔い改めて福音を信じなさい」の「悔い改める」とは、元のギリシャ語では「(主と)心を一つにする」ないし「(主と)思いを合わせる」という意味です。主は最初から、わたしたちの心が主と一つに合わせられることを願っておられたのです。

しかしわたしたちは、残念ながら祈りにおいてさえ罪を犯し得る者です。わたしたちの祈りが自分本位で、他者を裁く罪を恐れます。わたしたちは自分の知恵や力では、祈りにおいてさえ罪から自由ではありません。しかし、主イエスの祈りに加えられる時は違います。聖霊によって働かれる主は、わたしたちを罪から自由にしてくださるからです。主の祈りとは、わたしたちの罪を赦す聖霊の働きそのものです。主は、今日次のように仰せでした。「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

ヨハネによる福音は、同じことをご復活の主イエス・キリストの次のおことばとして伝えています。「イエスは弟子たちに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」(ヨハネ20:22,23)

主イエスのみ名によって祈る。それは主の祈りに招き入れられて、主と、また主と一つにされた人々と心を合わせることです。ヨハネによれば、それは、ご復活の主からわたしたちが共に聖霊を受けさせていただくことだったのです。その時、祈りとは聖霊によってわたしたちの内に愛を成就してくださる神のみ業です。神のこの愛のみ業のうちに、罪なるわたしたちにもかからず、聖霊によって罪赦され、その上さらに聖別されて、主と、そして隣人と心を合わせることが許されます。それがわたしたちの祈りです。その時、神は、わたしたちを罪から自由にしてくださるのみならず、罪人であるわたしたちを用いて他者の罪を赦すことさえお出来になるのです。

主イエスのみ名において、二人または三人のわたしたちが主の祈りの内に招きいれられ、心を合わせて祈る時、わたしたちが体験させていただくこと。それは、主イエスの祈りにおいて働かれる聖霊なる神。わたしたち自身の罪、さらにわたしたちがともに生きる人々の罪を赦してくださる愛の神・主キリストの大いなるみ業です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。