司祭の言葉 12/11

待降節第3主日(A年) 

 今日はガウデーテの主日です。
入祭唱はGaudete in Domino semper: iterum dico ,
Gaudete. Dominus enim prope est.
主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。確かに、主は近い・・と謳います。

 そして司祭は喜びを表すバラ色の祭服を身に着け、アドベントクランツのロウソクも今日はバラ色のロウソクを灯します。ドイツから生まれた飾りつけだと言いますが、待降節の4つの主日をあらわすロウソクと、緑を失わないので生命のシンボルとされる常緑樹の枝で輪を作り飾ります。そこに、赤い実のついた刺のある山帰来の枝を飾ります。サンキライは別名:猿とり茨ともいわれ、刺はキリストのかぶった茨を、赤い実はその血を象徴します。また秋の実りを象徴する姫リンゴや松ぼっくりなども飾られます。

 さて、今日の福音は、洗礼者ヨハネについての個所です。
救い主の到来を準備するために悔い改めの洗礼を呼びかけたヨハネですが、彼は牢獄の中にいます。彼はイエス様にヨルダン川で洗礼を授けた時、すでにイエス様を「来(きた)るべき方」、「世の罪を取り除く神の子羊」と認めていました。それにもかかわらず、なぜ今「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と自分の弟子たちに質問させたのでしょうか。
 人間は努力する限り迷います。この迷いを意図的に切り捨て、偽りの確信を作り上げ、その確信を声高に宣伝し始めると世は荒れ果てます。ヒットラーが民族浄化を推し進めたとき、何百万ものユダヤ民族の犠牲者を生み出しました。プーチン大統領も今この偽りの確信にたって戦争を引き起こし、多くの犠牲者を出しているのかもしれません。

 この質問について二つの見方があります。
 一つは、洗礼者ヨハネは捕らえられ、自分が死を迎えることを予感していたので、自分の弟子たちの目をイエス様に向けさせ、イエス様のもとへ導くために、こういう指示をした。洗礼者ヨハネ自身はイエス様が「来るべき方」だということを疑ってはいないとの見方。

 そしてもう一つは、ヨハネが思い描いていた「来るべき方」のイメージと、イエス様のイメージが大きく違っていたので、ヨハネにも迷いが生じた。
 ヨハネは確信をもって「悔い改めよ。斧はすでに木の根元に置かれている」と来るべき方について告げ知らせましたが、ヨハネが思い描いていたのは「神の怒りと裁きをもたらす方」でした。ヨハネはイエス様の実際の活動を見聞きして、それが自分の考えるキリストのイメージと違うことに戸惑ったのではないか・・というものです。

 そしてイエス様の答えは、イエス様の周りで実際に何が起こっているかに目を向けさせるものでした。それは旧約聖書の救いの到来に関する預言の成就と言えることです。
 「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍(おど)り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」(イザヤ35章5-6節)
  「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」(イザヤ61章1節)

 イエス様が行う奇跡はイエス様自身の偉大さを示す為のものではなく、神の声が響き渡り、新しい時代が到来していることのしるしです。ヨハネはそのことを知って、イエス様こそが来るべきお方であったと確信したことでしょう。

 そしてイエス様は、「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大なものは現れなかった」とヨハネを讃えるのですが、「しかし、天の国で最も小さなものでも、彼よりは偉大である」と続けます。
 これはどのような意味でしょうか。

 イエス様によってもたらされた真理、神の奥義は、「神は愛である」という審理です。
この真理は十字架によって明らかになりました。
洗礼者ヨハネはこの真理を知ることができなかったのです。

 ヨハネの使信は福音ではありませんでした。 それは滅亡の警告でした。
神の愛の長さ、広さ、高さ、深さを人が知るためには、十字架が必要だったのです。
そして私たちにはそれを知る恵みが与えられたのです。  

バークレーが紹介する話があります。
「毎日夕方、家の窓から外を眺めると、点火係が道路のランプを灯しながら歩いてゆくのが見えたが、その男は盲人だった」というのです。彼は自分では見ることのできない光を他人のためにともしていたのです。

ヨハネは自分の見ることのできない十字架のために、人々を回心へと招いてくれたのです。主イエス様が讃えた偉大な預言者でした。      

Deo gratias 神に感謝。