司祭の言葉 12/18

待降節第4主日A年

 川口教会では毎年道路に面したところに馬小屋を作っていますが、ある日神父さんは「今イエス様は散歩に行っています」と説教で話しました。イエス様だけ誰かに持ち去られたのです。それでも同じところに、今も新しいイエス様を迎えて飾り付けています。
 今年は春日部教会の前にも馬小屋が作られました。すでに何人かから、すごいですねマリア様ですか?などの声が聞かれています。
 町のクリスマスは スノーマン サンタクロース 電飾などの光の洪水
インマヌエルとしておいでになったのに、共にいたくておいでになったのに、どこにもその姿はありません。クリスマスは主がわたしたちと共にいるために誕生した日なのに・・・
でもそのことを、馬小屋の飾りは口で言わなくても伝えてくれます・・・それが教会のクリスマスです。

 さて今日の福音ですが、ルカはマリアへのお告げでキリスト誕生物語を展開していますが、マタイはヨゼフに対するお告げを重視しています。ダビデの系譜を大切にしているのでしょう。

 密かに縁を切ろうと決心した。・・・この短い言葉の中に、ヨゼフの苦悩が読み取れます。
ユダヤでは結婚まで三つの段階がありました。許嫁、婚約、結婚
許嫁(いいなずけ)、しばしば二人が子供のころに決められました。両親や仲人によって
婚約、律法はほとんど結婚と等しい権利と義務を婚約の状態に認めました

期間は結婚準備が整うまで、ほぼ一年でした。婚約者が未来の妻の父親に送るモハルと呼ばれる婚資の贈与がなされると婚約期間は終わったといいます。(イエス時代お日常生活Ⅰ)

 そして姦淫の罪を認められた婚約者は、まだ結婚していなくても、妻のごとく投石されて殺されなければなかったのです。

 「わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ。」(7の14)

このイザヤの預言の乙女と訳されている言葉は、ヘブライ語で「アルマ」といい、娘や若い女性をあらわす言葉です  (処女は ベテュラー ベテュリム)

 イサクの花よめさがしに行った僕が、泉の傍らに行き水を飲ませてくれた乙女(アルマ)が神ののぞむ花よめ (創世記24の43)
 ナイル川で葦のかごを見つけた王女が乳母を求め、モーセの姉を「娘」アルマと呼んでいます (出2の8)

これらの用例は 未婚の若い女性を表しています。
また 雅歌 6の8の 「王妃が六十人、側女が八十人/若い娘の数は知れないが・・」という歌の中の若い娘は既婚とおもわれる・・ということです。

 ですから、神学者の中には、イザヤが処女を考えていたかどうかはわからないと言う人もいます。旧約聖書がメシアを表す時、母がどんな女性であるかに興味を持っていないから・・というのがその理由です。
 しかしセプツアギンタ(70人訳)と呼ばれる旧約聖書のギリシャ語訳は、処女を表すギリシャ語パルテノスと訳しまた (パルテノス 処女 )
そしてマタイ1の23はこの70人訳からの引用をしています。

イエスとインマヌエル

 その名はインマヌエルと呼ばれるとあるのに、イエスと名付けなさいとあります。
ここに疑問を持ったことはありませんか?
 イザヤと天使の言葉が食い違っているのでしょうか。そうではありません。
「神は救う」という名のイエスは「神は我々と共におられる」というインマヌエルとしてこの世に来られ、わたしたちの間に生きておられる方なのです。
マタイはその福音をインマヌエルで始め、インマヌエルで終えています。
「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」・・・マタイ28の20

 そして、ねむりからさめたヨゼフは天使の言葉に従ってマリアを受け入れイエスと名付けました。イエスと名付けることによって、聖霊によって生まれた子は、ダビデの血筋に入れられました。ダビデ家は神のえらびのシンボルであり、そこからメシアが出ると言われてきた家です。

ヨゼフの承諾によって、マリアのフィアット(お言葉どおりこの身になりますように)という承諾の言葉は、実を結ぶことができたのです。