司祭の言葉 12/4

待降節第2主日

 クリスマス商戦は今たけなわです。クリスマスの準備は出来ましたかと、お店に誘います。TVではおいしそうなデコレーションケーキの画像が流れ、それを口にほおばり満足そうに微笑む女の子の顔が映し出されます。その準備とは、クリスマスプレゼントとパーティーの支度、楽しくクリスマスの夜を過ごすためのホテルやケーキの予約などです。
 今日の福音はバプテスマのヨハネを通して心の準備を呼びかけます。
 教会の玄関も畳の部屋もクリスマスの飾りが施されました。でもお御堂の中は、アドベントクランツだけです。教会はクリスマスの喜びを先取りしてしまわないように注意しなさいと呼び掛けています。

 モーセと預言者たちの言葉で聖書は構成されています。イスラエルの歴史の中で神の言葉はモーセと預言者たちを通じて語られてきました。イスラエルがパレスチナに定着したのちも、列王記の時代にも、アッシリアやバビロニアの支配に苦しんだ時も、ペルシャの支配が及んだときにも、いつも預言者がいました。

 旧約の預言者は救いの日の到来を次のように約束しました。今日の第一朗読です。
「その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。」 イザヤ11の10

 しかしその後は、ギリシャの支配下でもローマの圧政のもとでも預言者は現れませんでした。400年もの間預言者は一人も出ず、預言者の声は一言も聞かれなかったのです。当時ユダヤ人たちは預言者の声が途絶えたことを悲しんでいたのです。

 そのような中、400年ぶりに、荒れ野にひときわ大きな声が響き渡りました。
バプテスマのヨハネは悪を見つけ次第、大胆に摘発しました。 ヘロデ王が律法に反した不正な結婚をすればそれを非難し、パリサイ人やサドカイ人が儀式中心の形式主義におちいれば、はばかることなくそれを糾弾しました。預言者の出現です。

歯に衣着せず厳しい言葉で糾弾します。
マムシの子ら・・・と呼び掛けます。 彼らは宗教的な生き方を装っているが、そこから生まれる実は傲慢と独善という毒でしかないからです。
ふさわしい実を結べ・・・といいます。罪の告白を伴う洗礼、神が、地上に支配を及ぼそうとしているという現実に目を向け自分の生き方をそれにゆだねることを求めています。

そして来るべき方を予告します。
そのお方は手に箕をもって、麦と籾殻をもふるい分けるお方であると。

 当時の人々は・・メシアに先駆けて預言者エリアが来ると信じていました。

 一つの預言があります。マラキの預言 (3の23)は次のように言います。
「見よ、私はわが使者をつかわす彼は私の前に道を備える。」

 そして列王記下1の8には次のような箇所があります。
 アハズヤはサマリアで屋上の部屋の欄干から落ちて病気になり、使者を送り出して、「エクロンの神バアル・ゼブブのところにへの行き、この病気が治るかどうか尋ねよ」と命じます。その使者にエリヤが神から遣わされアハズヤへの神の言葉を告げます。

 使者たちが帰って来たので、アハズヤは、「お前たちはなぜ帰って来たのか」と尋ねた。彼らは答えた。彼らは答えた。「一人の人がわたしたちに会いに上って来て、こう言いました。『あなたたちを遣わした王のもとに帰って告げよ。主はこう言われる。あなたはエクロンの神バアル・ゼブブに尋ねようとして人を遣わすが、イスラエルには神がいないとでも言うのか。それゆえ、あなたは上った寝台から降りることは無い。あなたは必ず死ぬ』と。アハズヤは、「お前たちに会いに上って来て、そのようなことを告げたのはどんな男か」と彼らに尋ねた。「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました」と彼らが答えると、アハズヤは、「それはティシュベ人エリヤだ」と言った。

らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていたヨハネの姿は、エリヤを彷彿とさせました。そして人々は続々と集まってきました。

 地震は大地がズレ動いた時に生じます・・  断層・・  地上のものは倒壊する
 今は全てがうまくいっているように見えてもズレは必ずはっきりとした形であらわれます。

 罪とは神に背をむけて生きてきた人間と神との間に生じたゆがみ、溜め込まれた負の力です。神の支配が始まろうとする今・・・このズレで生じる負の力を無くす必要があります。
 そのためヨハネは罪の告白を伴う洗礼を施し、人々の生きる道を神へとまっすぐにむけさせようとします。