司祭の言葉 8/25

年間21主日 ヨハネ6:60-69

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます。」

わたしたちのミサのご聖体拝領前の信仰告白の一つは、今日の福音の、ペトロのキリスト告白のこの言葉からとられたものです。

七月から今月の主日にわたって、ヨハネによる福音の伝える「五つのパン」の物語、およびその後の、人々と主イエスとの対話からお聞きしてきました。今日はその結びであり、主の対話の相手は、人々から主の十二弟子に移っています。

主イエスは、「パン」において、人々にお与えになられるものが、実は「キリストのからだ」すなわち主ご自身であることを、すでに人々にくり返しお語りになって来られました。たとえば、主は、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と、仰せになっておられました。

しかし、今日の福音の始めに、主イエスのこれらのおことばを聞いて、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」といって、「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」と、伝えられていました。

このように、多くの人々が主イエスから離れて行く中で、主の許に留まった十二人の弟子たちに、主は、「あなたがたも離れて行きたいか」と問われました。この主の問いかけに対し、十二弟子を代表して、シモン・ペトロが応えて告白したのが、冒頭のペトロのキリスト告白です。

「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

十二弟子を代表してのペトロによるこのキリスト告白こそ、彼ら十二弟子と、主イエスを離れて行った多くの人々とを、決定的に分かつものとなりました。

主イエスを離れていった多くの人々も、聖書が彼らを「弟子たちの多くの者」と呼ぶように、その時点まで、主の弟子を自認し、主に彼らなりの期待や希望や願いを託して主に従っていた人々であったはずです。

あるいは、彼らの人間的な期待は、主イエスが、わずかのパンで、男だけでも五千人の人々の食卓を満たされた「五つのパン」の出来事によって、いやましに増し加えられたのかも知れません。彼らは、その奇跡の翌日も、ふたたび主を訪ねて来たと、ヨハネによる福音は先に伝えていました。

しかし、「五つのパン」の出来事の後、主イエスが、彼らに語られた真実は、彼らの期待、あるいは常識から、余りにかけ離れていたのでしょう。主は、「パン」において、彼らに裂いて与えられるものが、「キリストのからだ」・主ご自身であることを、彼らにくり返し語られるばかりでした。

しかも、主イエスはこのことについて、もはや一切説明なさいません。主が、「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と言われる時、それは比喩でも言葉の彩(あや)でもなく、事実以外の何ものでもないからです。

後に、十二弟子との最後の晩餐において主イエスがお語りになられるミサの制定のおことばも、この事実以外ではありません。福音に基づく「奉献文」は、は、次のように記します。「主イエスはすすんで受難に向かう前に、パンを取り、感謝をささげ、割って弟子に与えて仰せになりました。『皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡される、わたしのからだ、である』」。

今、主イエスのこのおことばの前に、わたしたち一人ひとりが問われています。わたしたちも、十二弟子とともに主を信じ、主のおことば通りの真実を受け入れるのか、あるいは、群衆とともに主を離れていきたいのか、を。

ただし、主イエスのおことばに従って、わたしたちが、「キリストのからだ」をいただき、その内に働かれる聖霊によって、「キリストの似姿」、否、「キリストのからだ」に変えられて行く以外に、わたしたちの救いはどこにもないことは明らかです。

「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます。」

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 8/18

年間20主日 ヨハネ6:51-58

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」

「五つのパンと二匹の魚」の奇跡の翌日、人々はふたたび主イエスを訪ねて来ました。今日の福音は、先の主日の福音に続く主と彼らとの対話の後半です。

主イエスが「パン」において人々にお与えになるのは、じつは「キリストのからだ」、すなわちご自身のいのちであることは、すでに先の主日の福音で明らかにされていました。その主のおことばを、今日の福音はくり返すことから始めます。

「わたしは天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

しかし、主イエスのおことばを、人々はすぐに理解できたわけではありません。彼らは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と互いに激しく議論し始めた、とヨハネによる福音は、正直に伝えていました。

これに対して、主イエスは、もはや、説明を一切なさいません。「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と、主が言われる時、それは、比喩でも言葉の彩(あや)でもなく、文字通りの事実だからです。

主イエスは、「パン」において、事実、「主ご自身の肉」、すなわち「キリストのからだ」をお与えくださる。カトリック教会が、わたしたちの信仰の核心、すなわち「ご聖体の秘跡」・ミサの核心として信じてきたことは、主のこの事実以外の何ものでもありません。カトリック教会は、主のおことばに忠実に、ミサのたびに、主からいただく「パン」において、ご聖体・「キリストのからだ」を拝領し続けて来ました。

ご聖体の秘跡は、主イエスを信じる信仰における事実です。それゆえ、カトリック教会は、ご聖体を、主に信仰を告白し、洗礼を受けた人々にのみ、授けているのです。そしてその時、主を信じてご聖体を受ける者たちすべてにとって、今日の福音で、主が語られた一切のことは、真実です。主は仰せになられます。

「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。」

ここに、主イエスは、ご聖体を受けるわたしたちに与えられる恵みの一切を語り尽くしておられます。その恵みの一切とは、主ご自身のいのち、即ち「聖霊」です。主は、「人の子の肉と血」、即ちご聖体を受けたわたしたちは、「永遠の命」を与えられ、「終わりの日に復活」に与ると、明確に約束してくださっています。この二つともに、「聖霊」の、そして「聖霊」のみの結ぶ実であり、決してそれ以外ではあり得ません。

ご聖体をいただくわたしたちは、「聖霊」をいただくのです。「聖霊」はわたしたちの内に働いて、「永遠の命」「終りの日の復活」を、「聖霊」の結ぶ恵みの果実として、わたしたち自身に、わたしたちの身の事実として、必ず成就してくださいます。

ご聖体をいただくわたしたちは、まさに生ける主イエス・キリストご自身であられる「聖霊」をいただきます。主はさらに続けて、

「わたしの肉を食べ、血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」

ご聖体を受けるわたしたちは、「御父と御子の交わり」の内に招き入れられると、主イエスは仰せです。「御父と御子の交わり(communio)こそ、「聖霊」の本体であり、「聖霊のお働き」そのものです。それは、「二ケヤ・コンスタンチノープル」信条に、「聖霊は父と子(の交わり)より出で」と、明確に告白されているとおりです。

「聖霊」により、「御父と御子の交わり(communio)に招き入れられることは、「神の国の祝宴」、「父・子・聖霊の三位一体なる神の食卓(の交わり)(communio)」に迎え入れられることでもあります。ミサは、地上におけるその天の食卓の先取りです。

「これは天から降って来たパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 8/15

「天の食卓に迎え入れられて」聖母マリアさまの被昇天の祭日の黙想 

(2024年8月15日、ルカ1:39-56) 

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」

聖母マリアさまのこのおことばは、「聖母被昇天」の祭日の「集会祈願」のように、後に「からだも魂もともに天の栄光に上げられた」「神の母」聖マリアさまの喜びを、聖霊により御子キリストを宿されたその時から、すでに先取りしているようです。

実は御子キリストは、ご自身の十字架と、十字架に続くご復活とご昇天を前にして聖母マリアさまと弟子たちに次のように約束しておられました。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(ヨハネ12:32) 紀元五世紀に遡る「聖母被昇天」の祭日。それは、御子キリストが、ご自身のこのお約束をご自身の「母」マリアさま、だれよりも愛しかつ誰にも優って感謝してやまない聖母さまに、わたしたちすべてに先んじて最初に成就されたことの記念です。

ところで、聖母さまが御子キリストによって「上げられた」「天の栄光」とは、何を意味しているのでしょうか。それは、「父・子・聖霊」の「三位一体の神」の「聖なるいのちの交わり(communio)のこと。しかもそれは、教会の伝統では、ロシアのリュブリョフの有名なイコンのように、「三位一体の神」なる「父と子と聖霊」の「天の食卓(の交わり)」として描かれて来ました。そうであれば、聖母さまが「天の栄光に上げられた」とは、聖母さまが「天」における「父・子・聖霊の三位一体の神」の「聖なる交わりの食卓(communio)」に、大切に、かつ感謝をもって迎え入れられたということです。

聖母さまが、三位一体の神の天の食卓に迎え入れられる。これは、「神の母」としての誠実なご奉仕を地上で終えられた後、上げられた天において聖母さまのご労苦に報いるにまことにふさわしいことでしょう。聖母さまは、「天の父なる神」の祝福とご意志を、「おことば通り、この身に成りますように」と受け入れ、「聖霊なる神」に満たされて神の御独り子を身籠り、「御子なる神キリスト」を産み育てられた方。

聖母マリアさまは、「神の母」、文字通り「神に御からだをお与えくださった方」(聖アタナシウス)です。「神の母」マリアさま無しに、わたしたちは、神なる主イエスのご聖体をいただくことはできません。つまり、ミサが成り立ちません。カトリックの信仰は、心の内に神を信じるという以上に、主イエスご自身が制定してくださったミサ(最後の晩餐・過越の祭儀)において「神との霊的・神的な交わり(Divine/Holy Communion)」に入らせていただくこと」です。しかし、聖母さま無しに、わたしたちはご聖体の主イエスにおける神との御交わりに入らせていただくことはできません。

聖母さまは、聖霊によって父なる神の御ひとり子を宿された時から、天の「三位一体の神の交わり」に迎えられる日まで、「神の母」として、天の神の祝福に包まれ、聖霊に導かれ、御子キリストのおことばとみ業を「すべて心に納めて」行かれました。

      (ルカ2:51)

主イエス・キリストが「受肉された神」ご自身であることを、ご聖体の秘跡(ミサ聖祭)の体験を通して「わが身に知る」カトリック教会は、主の「受肉の秘義」に「母」とされることによってお仕えされた聖母マリアさまを、「偉大な人イエスの母」としてではなく、「受肉された御子なる神」の「母」、すなわち「神の母」「神に御からだをお与えくださった方」と、確信と感謝と喜びをもってお呼びさせていただいて参りました。しかし、このことはミサを離れては、決して自明のことではありません。

事実、約300年間の迫害の時を、カタコンベでミサを死守した教会でしたが、4世紀初頭コンスタンチヌス大帝により教会が公認され、保護されるようになると、ミサを離れた観念的な議論で教会を混乱させる人々が現れました。彼らは、聖母さまによる受肉の秘義を認めず、従って主イエスを受肉された神と認めず、聖母さまも「偉大なる人イエスの母」に過ぎず「神の母」ではないと主張しました。ミサのご聖体において「受肉された神キリスト」を畏れと感謝をもって拝領する体験を欠き、主を観念的にしか理解できない人々には、これはやむをえないことかもしれません。

また、御子キリストが、ご自身の母・マリアさまを、父の許に上られる十字架の上から、わたしたちにも「母」としてお与えくださった恵みを忘れるわけには行きせん。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19:26,27)

それは、わたしたちが「神の母」聖マリアさまに抱かれて、「三位一体の神」の祝福の内に新たに生まれることを、御子なる主イエスが切に願われてのことに違いありません。「神の母」聖マリアさまは、わたしたちの母として、わたしたちを「三位一体の神の交わり」の内に、すなわち「永遠のいのちの交わり(commmunio)」の内に産んでくださいます。それは、聖母さまのように、わたしたちも「神の国の祝宴」、「父・子・聖霊の三位一体の神の食卓(の交わり)」に迎え入れられることでもあります。

「神の母」聖マリアさまを「わたしたちの母」とも呼ばせていただけるわたしたちカトリックの幸い。「神の母」聖マリアさま、わたしたち罪人のために、今も、死を迎える時も、お祈りください。  アーメン。

司祭の言葉 8/11

年間19主日 ヨハネ6:41-51

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、誰もわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。」

「五つのパン」の出来事の翌日、ふたたび主イエスを訪ねて来た人々と主との対話を、先の主日に続きヨハネによる福音からお聞きしています。

ところで、マタイによる福音によれば、「五つのパン」の出来事は、洗礼者ヨハネの殉教の直後のこととして伝えられています。これには、深い理由があるはずです。

主イエスは、洗礼者ヨハネから、ヨルダン川で洗礼を受けられて後、ヨハネの殉教の死に至るまで、「悔い改めよ。神の国は近づいた(動詞は完了形で「神の国は(主のもとに)来ている」の意)とのみことばで、福音の宣教を続けて来られました。

しかし今や、ヨハネの殉教の死を転機として、主イエスは、人々に、ご自身のみ国である「神の国」が「近づいた(来ている)」と告げるのみならず、彼らを「神の国」、しかもその「食卓」に招き入れることを、お始めになられます。実は、これが、「神の国の食卓」のしるしとしての「五つのパン」の物語で、福音がわたしたちに伝えようとしていることです。

このように、主イエスが、多くの人々を、ご自身のみ国である「神の国」に、さらにその「食卓」に招かれる。それこそ、わたしたちに、主をお遣わしくださった父なる神のみ旨であることを、主は、今日の福音ではっきり仰せになっておられます。

「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、誰もわたしのもとへ来ることはできない。」

主イエスは、このように仰せになられた上で、父なる神のみ旨にしたがって、ご自身のみ国へと招き入れた人々に対し、さらに、「わたしはその人を終わりの日に復活させる」と、約束なさっておられました。

主イエスの「復活のいのち」つまり「死を越えた永遠のいのち」に与らせるために、彼らが招き入れられた「神の国」、そしてその「食卓」で、彼らが主の復活のいのち(永遠のいのち)に与るための道は、「キリストを食べる」ことだとさえ主は仰せです。

「わたしは天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

「神の国」が、「神の国の食卓」のしるしである「五つのパン」の出来事として語られることには、理由があったのです。主イエスは、父なる神が、彼に「引き寄せてくださ」った人々を、主ご自身のみ国である「神の国」に招き入れるだけではなく、彼らのためにそのみ国に「食卓」を、整えてくださっておられたのです。

しかもその「食卓」で、主イエスが、招かれた人々にお与えくださる食物とは、「天から降って来た生きたパン」であり「世を生かすためのわたしの肉」、つまり「キリストのからだ」・「キリストご自身」・ご聖体であると、主ははっきりと仰せです。

先に、主イエスの「神の国の食卓」のしるしである「五つのパン」の出来事は、洗礼者ヨハネの殉教の死に続けて語られていると申しました。このことは、主の「神の国」について、大切なことを明らかにしてくれています。すなわち、「神の国」は、神のみ前に義しい人である洗礼者ヨハネを殉教の死に至らせるようなこの世の罪を、ご自身の十字架で負い切られることによってのみ打ち建てられる、主のみ国であるということです。そして、「この世」とは、わたしたちのことです。

実際、「神の国」に主イエスによって招かれたわたしたちは、律法学者たちから「神の国」に招かれるにふさわしいと称賛されるような者ではありません。むしろ罪人であるわたしたちを、主がご自身の「神の国」に招いてくださるためには、主ご自身が、わたしたちの罪を十字架で負い抜いてくださる以外に道はありません。

「わたしはいのちのパンである」と言われ、ご自身を、わたしたちを「生かすための肉」と仰せの主イエスにとって、わたしたちにいのちをお与えくださることは、わたしたちのためにご自身を十字架で裂いてご聖体としてお与えくださることです。

「五つのパン」の出来事は、主イエスの昔ばなしではありません。今もごミサの度に、主ご自身がわたしたちのためにしてくださっておられる救いの出来事です。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 8/6

主の変容 マルコ9:2-10

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。」

主イエスの光輝くお姿を目の前に仰ぎみることをゆるされたペトロの言葉です。

マルコによる福音は、主イエスの「パンの奇跡」の後、主が「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」(マルコ8:31)と、ご自身の十字架とご復活を弟子たちに「教え始められた」後、直ぐに続けて、今日の「主の変容」の出来事を伝えています。

マルコは、このように語り続けることにより、「パンの奇跡」すなわち主イエスとの「神の国の食卓」、さらに主の十字架の死と復活の告示、加えて「主の変容」、この三つが、主イエスが神の御子であり、神ご自身であることを、弟子たちに明らかにされた一連の出来事であることを、わたしたちに示しているのではないでしょうか。

さて、主イエスの「山上の変容」。マルコは、その日、主は、ペトロとヨハネとヤコブの三人だけを連れて「高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」すると「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」と伝えていました。

さらにその時、弟子たちは、「これはわたしの愛する子。これに聞け」と、「雲の中からの声」すなわち「天の父なる神の声」を聞いたとも、マルコは伝えていました。

エルサレムに最後に上られるに先立ち、主イエスは弟子たちに、エルサレムで十字架にお就きになられ、さらに復活されるご自身が、実は父なる神の御子であり、神ご自身であられることを、ご自身の光輝く神のお姿への変容をもってはっきりとお示しになられ、また父なる神ご自身も「天からの声」を以てそれを確認されました。

ところで、マルコは、モーセとエリヤの二人が、「イエスと語りあっていた」内容そのものは伝えていませんが、ルカによる福音は、それを次のように伝えています。

(モーセとエリヤの)二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」(ルカ9:31)

ここで、特に「最期」と訳された言葉は、「過越」(exodus; έξοδοςという字であることに注意したいと思います。そうであれば、高い山の上で「モーセとエリヤが話していた」「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期とは、主イエスがエルサレムで成し遂げられる「主ご自身の過越の成就」であったことが分かります。

このように、山上での「主の変容」は、主イエスのエルサレムでの「十字架の苦難を経て復活の栄光に過ぎ越して行かれる主の過越」に堅く結びつけられています。だからこそ、主は、「山上の変容」の前後に、ご自身の「過越」すなわち「十字架と復活」を、弟子たちに予告しておられたのです(マルコ8:31-9:1)。

すべてを創造し、支配される天の父なる神。その御子キリスト、神ご自身が、十字架にお就きになられる。「山上の変容」と「過越の予告」が相まって、ここに驚くべき、神の救いの秘義が明らかにされました。しかも、それだけではありません。

「主の変容」が、直前に語られた「パンの奇跡」の物語により、主イエスの「過越の食卓(神の国の食卓)」とも緊密に結びつけられていることは、すでに指摘しました。

「主の変容」が、主イエスのご受難の40日前であったとの伝承から、紀元5世紀以来、教会の暦では、「主の変容」の祝日は、9月14日に祝われる「十字架称賛」の祝日の40日前の8月6日に祝われて来ました。ここで、「主の変容」が、主の十字架の40日前との教会の伝承は、モーセに導かれたイスラエルの民が約束の地に入るまでの荒野の40年の旅を思い起こさせます。

事実、「主の変容」の後、主イエスは弟子たちと共にエルサレムに上る旅に就かれ、その40日後にエルサレムに入城された主は、弟子たちを、ご自身の十字架に先立ち、「最後の晩餐」つまり「主の過越の食卓」に招かれました。そのようにして、主は、約束の地である「神の国」を、「神の国の食卓」を以てお示しになりました

ただしそれは、主イエスの旅に伴い、旅の終わりエルサレムでの主の十字架と復活を通してのみ招き入れられる「神の国」。また「神の国の食卓」に備えられ、わたしたちに与えられる「永遠のいのちの糧」が、実は十字架で裂かれた「キリストの御からだと御血」であることが、ミサの度に、主ご自身によって明らかにされます。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 8/4

年間18主日 ヨハネ6:24-35

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「わたしがいのちのパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」

来る8月6日は、「主の変容」の祝日です。マルコによる福音は、「主の変容」が、主キリストの「五つのパン」つまり「神の国の食卓」の奇跡の後の、「主の過越」である主の十字架の死と復活の告示(マルコ8:31)に続く出来事とされています。したがって、これら三つのことは、主が神の子キリストであることを、主ご自身が弟子たちに明らかにされた一連の出来事であり、切り離して考えることはできません。

今日の福音は、先の「神の国の食卓」の物語に続く出来事です。主キリストから「五つのパン」で養われた人々が、翌日、再び主を訪ねました。彼らに主は仰せでした。

「朽ちる食べ物のためではなく、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。これ(「永遠のいのちに至る食べ物」)こそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである」

主キリストは、わたしたちに「永遠のいのちに至る食べ物」、むしろ「永遠のいのちそのもの」をお与えくださるために、天の父なる神から遣わされたことを明言されました。主のこのおことばを聞いた人々は、続けて主に、「神の業を行うためには、何をしたら良いでしょうか」とたずねました。主キリストは彼らに、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と、おこたえになられました。

「神の業」とは、フランシスコ会訳が「神が(わたしたちに)求めておられること」と説明するように、人々が主キリストにおたずねしたのは、「永遠のいのちに至る食べ物をいただくために、神がわたしたちに求めておられるのは何でしょうか」と言うことです。これに対して、主は彼らに、「神の遣わされたキリストを信じること。これが、神が求めておられることである」と、お応えになりました。ただし、ここで「主キリストを信じる」とは、わたしたちにとって具体的にはいかなることなのでしょうか。

主キリストと人々との会話はさらに続きます。主が、「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世にいのちを与えるものである」と語られると、人々は、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と願いました。その時、主は、次の驚くべきおことばをもって、彼らにお応えになりました。

わたしがいのちのパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」

つまり、主キリストご自身が「いのちのパン」そのものであると明言された上で、「(いのちのパンである)主キリストのもとに来るものは決して飢えることがない」。つまり、主をいのちのパンとして「受けるために来るもの」は、いのちに満たされると約束されたのです。そして、それがキリストを「信じる」ことであると。神がわたしたちに求めておられることは、「キリストを信じること」。それは、主キリストを「いのちのパン」として受けるために主のもとに来ること(拝領すること)に他なりません。

「神の業」、それは神のお求めに従うこと。それが、わたしたちにとって神から「永遠のいのち」を受ける唯一の道です。その道はまさに信仰の道であり、ここで信仰とは、主キリストを「いのちのパン」として拝領することに他ならない、と主は言われるのです。だからこそ、主はわたしたちにごミサを制定してくださったのです。

これは驚くべきことです。しかし、これがカトリックの信仰です。事実、主キリストが弟子たちとの最後の晩餐でミサを制定された晩から今日に至るまで、わたしたちカトリックは、ミサこそカトリックの信仰として、ミサ毎に主キリストご自身を、その御からだと御血を「永遠のいのちに至るパン」として拝領させていただいています。

実は、「(キリストを)信じる」と訳されたギリシャ語ピスチュウオーは、人ではなく、神を主語に、「(キリストを)信じさせる(疑わせない)」という意味に加えて、「(キリストとの)神秘的な交わり(communio)に入らせる」という意味です。このことは、カトリックにおいては体験の事実です。「信じる」ことが「ご聖体の拝領」(communio)として全うされることは、入信の秘跡の体験そのものだからです。実に、カトリックの信仰で「キリストを信じる」とは、わたしたちの心の確信に止まらず、ご聖体の拝領において体験されるキリストとの神秘的な交わり(communion)の事実です。

このように、わたしたちカトリックの信仰は、入信の秘跡の完成であるミサの度に、主キリストの御体と御血を拝領し、ご聖体の内に働く聖霊によって「キリストとの神秘的な交わり」へと参入させていただくことです。それが「永遠のいのち」です。

(第2コリント3:18)

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 7/28

年間17主日 ヨハネ6:1-15

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

ヨハネによる福音は、主イエスが五つのパンと二匹の魚で五千人の男たちを養われたと伝えています。もちろん、そこにはさらに多くの女性や子どもたちもいたに違いありません。昔から教会で愛されてきた「五つのパンと二匹の魚」の物語です。

ところで、この奇跡の物語に先立って、先の二回の主日にわたって、主イエスが十二人の使徒たちを福音の宣教に遣わされた次第についてお聞きいたしました。

十二使徒たちは、主イエスから「聖霊」を与えられて、「神の国」の宣教のためにすべての町や村に遣わされました。それは、実は使徒たちをお用いになられての「聖霊」による主ご自身の福音の宣教であったはずです。だからこそ、宣教に派遣されるにあたり、主は使徒たちに、主ご自身の福音宣教のみことばとまったく同じ「『神の国は近づいた』、と宣べ伝えなさい」と、お命じになっておられました。

「神の国」とは、神の国の主である主イエスがいますところです。使徒たちをお用いになられての「聖霊」による主ご自身の福音宣教とは、主が、ご自身の「神の国」に皆さんお一人おひとりを招き入れてくださることだったのです。

そのことを、今一度、主イエスご自身が明らかにされるために、主は、「五つのパンと二匹の魚」の食卓で、人々を「神の国」に、実に神の国の主の食卓に招き入れてくださったのです。人々にとって、実はこれこそが「福音」であり、これが主の福音宣教です。さらにこのことこそが、人々に起こった最も大いなる「奇跡」です。

五千人以上の人々が、わずか五つのパンと二匹の魚で養われることは奇跡です。人の世界に自然に起こることではあり得ないからです。しかし、わたしたち罪人が「神の国」に招き入れられる。それこそ、パンの奇跡に遥かに勝る「奇跡」です。

主イエスによって「神の国」に招き入れていただいた五千人以上の人々にとって、「五つのパンと二匹の魚」の食卓は、まさに「神の国の食卓」であったはずです。わたしたちには、そのことが良く分かります。わたしたちも「みことばとご聖体」の内に働かれる「聖霊」なる主・ご復活の主によって、同じ「神の国の食卓」・ごミサに招いていただいているからです。わたしたちもまた、わずかな「パンとぶどう酒」によって、世界中の人々とごミサのたびに同じ奇跡、つまり主に招かれて「神の国」での奇跡の食卓を祝わせていただいているからです。今日の福音の物語は、わたしたちの「神の国の食卓」・ごミサを先取りした物語に他なりません。

ただし、主イエスの十字架の死を経て、ご復活の主とともにごミサ・「神の国の食卓」を祝うわたしたちには、それ以前の、たとえば今日の福音の五千人がいまだ知らされていなかった真実をも知らされている、ということができると思います。

なぜなら、「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」と、今日のヨハネによる福音が伝える「主イエスによって、その御手に取られ、主ご自身によって祝福されたパン」は、もはや普通の「パン」ではあり得ません。それはすでに、「主のからだ」「主イエスご自身のいのち」であることを、ごミサに与るわたしたちは聖霊によってはっきりと知らされているからです。

「主のいのちのパン」。それは、五千人以上の人々を「満腹」させ、「なお残ったパンの屑で、十二の籠を一杯」に満たした、という過去の物語や昔ばなしではありません。それは、今、ここで、わたしたちすべてを「聖霊」によって、「キリストのいのち」に満たしてくださる。そればかりか、「キリストのからだ」は、じつに、神のお造りになられたすべてのものを、主のいのちの恵みとその祝福で満たして「余りがある」

主イエスによって、わたしたちは「神の国」に招きいれられています。わたしたち罪人にとって期待も想像も超えた「奇跡」です。しかもそのために、主はご自身を犠牲にされて「神の国の食卓」・ごミサを整え、「主の食卓」に招いてくださいました。ここでわたしたちがいただく「パン」は、「主ご自身の犠牲、主ご自身のいのち」です。

今日の福音の「五つのパンと二匹の魚」の奇跡の食卓の物語。ごミサに与るわたしたちには、この奇跡を疑う理由は何もありません。わたしたちも、今日の福音の語る同じ主イエスの恵み、「聖霊」によるそれ以上の恵みの奇跡の証人だからです。

ご復活の主イエス・キリストによって「神の国」に招かれた皆さん。その主とともに囲む「神の国の祝宴」・「神のいのちの食卓」。今、ここで、皆さんの命が、主によって養われ、「キリストのからだ(いのち)」によって満たされます。「取って食べなさい。これは、わたしのからだ。受けて飲みなさい。これは、わたしの血の杯。」まさに、奇跡を超えた神の自己犠牲的愛の秘跡。それが、ごミサです。

父と子と聖霊のみ名によって。   アーメン。

司祭の言葉 7/21

年間第16主日 マルコ6:30-34

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「イエスは船から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」

これは、使徒たちが主イエスから派遣された後、ふたたび「イエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」、その後のことです。しかし、これは一体、どういうことなのでしょうか。

主イエスは、十二人使徒を派遣されるに先立ち、ご自身で「町や村を残らず回」られた上でわたしたちが「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれ」(マタイ9:35、36)、使徒たちを「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」わたしたちの魂の牧者として、魂の配慮・霊性の司牧のために派遣されました。このことは、先の主日にお聞きしたはずです。

しかし今日、マルコが語るのは、その後の人々の様子なのです。使徒たちがすでに宣教に遣わされたにもかかわらず、その後、「イエスは・・・、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」

あらためて、これは一体、どういうことなのでしょうか。わたしたちに対する使徒たちの魂の配慮・霊性の司牧が不十分だったのでしょうか。あるいは、問題はわたしたちの側で、わたしたちが主と使徒たちに期待していたのは、わたしたちへの魂の配慮と霊性の司牧ということではなく、何か別の「御利益」だったのでしょうか。

わたしたち信仰者の霊性のしるしとは何でしょうか?日本にカトリックが伝えられた475年前の1549年から数十年の間に、カトリックの人口は、その当時の日本の総人口500万中約50万人に達したとさえ言われます。現在の日本の総人口1億2千万中カトリック信者約40万と比べれば、けた違いです。何が、これほどに当時の日本人をカトリック(キリシタン)の信仰、キリストとの出会いの感動がとらえたのか?それは、日本人が初めて得た魂の自由であったという指摘があります。

「もし、わたしたちが、まことにして唯一の神を畏れるならば、神ならぬ一切のものに対する恐れから自由である。しかし、もしまことにして唯一の神を畏れないならば、神ならぬ一切のものを恐れて生きるほかはない」。これは、第2次大戦中、ナチの軍靴の響きの中でカール・バルトというスイス人の神学者によって語られた、実に勇気のある言葉です。そして、これは、いつの時代においても真実であると思います。

16世紀の多くの日本人にとって、主イエスとの出会いは、まさに、この「まことにして唯一の神」との出会いの体験であったはずです。唯一の神をのみ畏れ、神ならぬ一切のものに対する全く無用な恐れや、人や権威に対する「忖度」から解放された魂の自由。それは彼らに始めて経験され、自覚された霊性の発露と、主に在ってのその霊性の成長・成熟の予感に魂が打ち震えた時であったのではないでしょうか。

確かに、その後日本のカトリック信者方は長期に亘る厳しい禁教政策と弾圧を経験いたしました。しかし、明治初期の再宣教からすでに150年余の時が経過していることも事実です。先の主日、故岡田大司教さまが、さいたま教区管理者時代の司牧書簡から、さいたま教区の第一の課題は、司牧者および信者すべての霊的成長であるとの厳しいご指摘を再度思い起こしました。これは、第一にわたしたち司祭の責任です。主イエスに派遣された司牧者の第一の務めは、信者の皆さんの霊性の司牧、すなわち、皆さんの魂の配慮と霊性の司牧に奉仕することだからです。

もし、主イエスが、今、わたしたちを再度お訪ねになられたとしたならば、主がご覧になるのはいかなるわたしたちでしょうか。現在のわたしたちは、霊性の司牧のために主から遣わされた司牧者からていねいな魂の配慮を受け、秘跡、とりわけご聖体の秘跡であるミサを通して、主のみことばとご聖体に養われ、いただいた聖霊の恵みとそのお働きによって、健やかに、かつ豊かに整えられ、魂の全き自由の内に、十分に霊的に成長した、日本の誰にとっても魅力ある「主の民」でしょうか。

あるいは、未だ「飼い主のいない羊のような」「群衆」なのでしょうか。主イエスが司牧者を遣わされたのに、今なお、真実のご聖体の秘跡であるミサにおける聖霊の体験、すなわちご聖体の主イエスの内に、確実に力強く働かれる聖霊による魂の癒しと霊的成長の恵み、まさに魂の自由が体験されていないままのわたしたちでしょうか。そのようなわたしたちであれば、日本の誰に対しても魅力はありません。

「聖霊、来てください。」ご聖体の主イエスの内に、聖霊が、日本の教会、司牧者と信者の皆さんすべてに強く豊かに働いてくださり、主ご自身が、今なお「飼い主のいない羊」のようなわたしたちの真の魂・霊性の牧者となってくださいますように。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 7/14

年間第15主日 マルコ6:7-13

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエスは、十二使徒たちをわたしたちに派遣してくださいます。それが、今日の福音です。しかし、なぜでしょうか?

ところで、マタイによる福音は、十二使徒の派遣に先だって、主イエスが、ご自身ですでになさった大切なこと、を伝えてくれていました。すなわち、「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」(マタイ9:35) 

ただしその際、主イエスは、残らず回られたすべての町や村で、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」。(マタイ9:36) わたしたちのこの現実に対して、主は、十二使徒たちを派遣されます。

主イエスは十二使徒たちを、決して見ず知らずの土地の、見たことも聞いたこともないわたしたちのために派遣されるのではないのです。主が使徒たちを派遣されるのは、すでに主ご自身が「残らず回られた町や村」であり、そこで主ご自身が「深く憐れまれた」、他でも無い、わたしたちのためなのです。

そうであれば、主イエスが十二使徒を派遣される目的は極めて明快です。主は使徒たちを、「飼い主のいない羊のように弱り果て打ちひしがれている」わたしたちの魂の牧者として、わたしたちの霊性の回復と司牧のために派遣されるのです。

だからこそ、今日のマルコによる福音は、主イエスは、十二人使徒のわたしたちへの派遣に際し、「汚れた霊に対する権能を授け」られたと伝えます。汚れた霊に打ち勝つ権能とは、聖い霊の権威と力、すなわち「聖霊の権能」に他なりません。

主イエスは十二使徒の派遣に際して、彼らに聖霊を託された、すなわち主ご自身を、主の活けるいのちを託されたのです。主は、わたしたちの傷ついた魂の配慮と、わたしたちの魂・霊性の回復とその司牧に、ご自身のいのちをかけておられます

十二使徒の後継者は、司教方です。わたしども司祭は、この司教の代理者として、主イエスから各小教区に派遣されています。したがって、小教区担当司祭は、Vicar、すなわち(司教の)代理者」と呼ばれます。同時に、司祭は、主から託された「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」人々の魂の司牧というべき任務から、Curate、すなわち(魂を)癒す者」・「(魂の)牧者」とも呼ばれます。

わたしたちの「魂の司牧」。それは、主イエスご自身の霊・聖霊にのみよることであり、叙階の秘跡を通して、司祭に特別に主から託された奉仕です。そしてそれは何よりも聖霊のみ業である秘跡において、とりわけご聖体の秘跡であるミサにおいてなされるべきことです。ミサこそ、主ご自身がわたしたち司祭を用いて、皆さんひとり一人にご聖体において聖霊をお与えくださる、まさにその時だからです。

主イエスご自身の霊・聖霊こそ、真のCurate、「癒し主」ご自身です。聖霊は、わたしたちの魂を癒してくださる、すなわち真の意味での魂の配慮をしてくださるのみならず、わたしたちを主の似姿へと霊的に成長させてくださいます。

故岡田大司教さまは、さいたま教区管理者時代の司牧書簡の中で、教区のすべての司牧者および信者の霊性の回復霊的成長こそ、教区第一の課題とご指摘になっておられました。霊性の成熟は、聖霊の働きの実りとして受ける以外に道はありません。したがって、「聖霊来てくださいVeni Sancte Spiritusと聖霊を求めてひたすら祈り、聖霊の恵みとご保護の内にミサにより深く与ることこそが、この課題の解決であることをわたしたちは今日の福音から確認させていただきたいのです。

あらためて、ご復活の主イエスと十二使徒の頭ペトロの対話を想い起こします。主は、三度ペトロに問われました。「わたしを愛しているか。」「主よ、わたしはあなたを愛しています」と、ペトロが三度主にお応えするたびに、主は彼にくり返し、ただ一つのことをお命じになられました。「わたしの羊を飼いなさい。」(ヨハネ21:15-19)

なぜなら、主イエスは、ご自身ですでにわたしたちすべてを訪ねて、わたしたちが「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」ことを熟知しておられるからです。主はこれほどまでに主の羊であるわたしたちの傷ついた魂のことを、その回復を、さらに魂、すなわち霊性の成熟を心にかけてくださっておられます。

だからこそ主イエスは、十二使徒たちの後継者である司教方、小教区におけるその代理者である司祭を派遣し、皆さんを主の聖霊の秘跡・ミサに招いておられます。この切ないまでの主のわたしたちへの思いの内に、今、ミサに与っています。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 7/7

年間第14主日 マルコ6:1-6

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

ルカによる福音は、主イエスが少年時代・青年時代を過されたナザレでのご様子を、「両親に仕えてお暮しになった」と、短く美しいことばで伝えています。神の子キリスト。ヨゼフさまから仕事を学ばれ、また母マリアさまを助けて、おふたりとともに汗を流して働いておられた主のお姿が瞼に浮かぶようです。

しかし、主イエスが、ナザレを後にされる時が来ます。洗礼者ヨハネから洗礼を受け、聖霊に満たされて、宣教のご生涯をお始めになられるためです。その後、カファルナウムを中心にガリラヤ地方で、「神の国の福音」を宣べ伝えてしばらくの時を経られた主イエス。主は、福音を携えて、故郷ナザレの村をお訪ねになります。それが、今日の福音です。

ナザレには、彼の訪問を待ち兼ねていたに違いない母マリアさま。さらに、かつては主イエスと村での生活をともにし、主と一緒に働いたであろう村人たちが、おそらくは期待といささかの戸惑いとともに、ある時、突然村を後にした彼を迎えます。

さて、ナザレでの安息日のこと。村の会堂にお入りになられた主イエスは、ガリラヤの他の村々でと同じように、故郷の人々に「神の国の福音」を宣べ伝えます。ところで、マタイによる福音は、先に、ガリラヤ湖畔で主の福音の宣教、いわゆる『山上の説教』を聞いた人々の様子を、次のように伝えていました。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」

人々は、主イエスに、律法学者には無い「権威」を認めました。「権威」とは聖書の言葉で、「存在そのもの、すなわち主ご自身から出で来たる力」、ないし「存在、つまり主ご自身を切り裂いて(犠牲にして)与えられるもの」を意味し、それは聖霊に他なりません。人々が主に「権威」を認めたという時、それは彼らが、主イエスの内に、主を通して人々に働く聖霊のみ力を認め、主を、ご自身の内に聖霊の働かれる方、すなわち彼らの主なる神・救い主キリストとして受け入れたということです。

このガリラヤ湖畔の人々のように、主イエスの故郷ナザレの人々も、「多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か』」と、当初は主のみことばとみ業に驚き、深く心を動かされます。

しかし彼らは、「待てよ」と、思い直します。そして、「『この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。』このように、(ナザレの)人々はイエスに躓いた」、とマルコによる福音は伝えます。

主イエスに「躓いた」。彼らは、彼らの理解を超えた主を受け入れられず、したがって、彼に、キリストとしての権威を認めることができませんでした。すなわち、主の内に働かれる聖霊を認めることができず、主を、彼らの救い主・神なる主キリストとして、受け入れることができませんでした。

その時、主イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と仰せになられ、「そして、人々の不信仰に驚かれた」と、マルコによる福音は、主の故郷ナザレの村での体験を結んでいます。

ただし、これはナザレの人々だけの問題ではないでしょう。わたしたちも、同じ主イエスの前に、わたしたち自身が、さらにわたしたちの信仰が、問われていると思います。わたしたちも、主イエスにまことの「権威」を認めることができるか否か。言いかえれば、主の内に働かれる聖霊のみ力を認め、したがって主を、ご自身の内に聖霊の働かれる方、すなわち神なる主・救い主キリストとして受け入れることができるか否か。それが、今、このわたしに、問われています。

ナザレの人々が、主イエスにまことの権威を認めることを拒んだ時、彼らは主から聖霊を受けることを拒んだのです。それを、主は不信仰と言われます。なぜなら、信仰とは、主イエス・キリストから聖霊、すなわちわたしたちにご自身を裂いてお与えくださる主ご自身のいのち、をいただくこと以外の何ものでもないからです。

主イエスの権威を認め、主から聖霊を受けさせていただく。その時、聖霊がわたしたちの内に働き、わたしたちを主ご自身の似姿に変えていってくださる。信仰とは、主なる神キリストからいただく聖霊によるわたしたちの新しい命の創造です。

主イエスはその聖霊をわたしたちにご聖体においてくださる。それがごミサです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。