司祭の言葉 11/24

王であるキリスト(年間34最終主日)ヨハネ18:33b-37

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

待降節直前の主日を、教会は「王であるキリスト」の祭日として祝います。次の主日から始まる4週間の待降節を経て、降誕祭(クリスマス)にお迎えする主イエス・キリストこそ天地の創造主であり、わたしたち「すべて」の王であられることを、待降節を控えてあらかじめ深く心に留めさせていただくためです。

しかし、この歴史の支配者であり、主であり王であられるキリストは、ナザレの村の貧しいおとめを母として人知れずお生まれになります。「王であるキリスト」の祭日の今日は、わたしたちがこの「神の秘義」について深く黙想させていただく時です。

ところで、聖書において「王」とは、神によって油注がれて、神の民のために立てられる存在です。神に立てられた「王」には、神から託される二つの大切な使命があります。一つは、神の民「すべて」にパンとブドウ酒、つまり日毎の糧を保証すること。二つ目には、その同じパンとブドウ酒を奉献しての神の民の神への真の礼拝を、神のみ前に責任をもって整えることです。

神の民「すべて」と言う時、神が最も心にかけられるのは、民の内「最も弱く、かつ貧しく小さい者」のことではないでしょうか。彼らが犠牲にされるところでは、民の「すべて」という言葉は、意味を失います。「最も弱く貧しく小さい者」をこそ含んで「すべて」の人々のために。これは、いかなる政治においても理想であり、目的であるはずです。しかし現実はどうでしょうか。

神が、ご自身の民、すなわちわたしたち「すべて」のために、御子キリストを王としてお与えくださる。そのために、神がなさったこと。それは、神が主イエスによって、わたしたちの内の「最も弱く貧しく小さい者」とご自分を一つにされた。これ以外に、主が神の民「すべて」の王となってくださる道はなかったからです。そしてそれは、主イエスにとって極めて具体的な事実でした。

主イエスは、貧しさの中に生を受け、幼少時より厳しい生活と重労働に耐え、飢えと渇きに苦しむ者とともに苦しみ、宣教のご生涯においても家のない旅の生活の辱めや身を守る術の無い惨めさを味わい尽くされました。このような主を前にして、今日の福音で、当時のローマ帝国ユダヤ総督ピラトは、困惑を隠せません。彼は主イエスに「お前がユダヤ人の王なのか」と問います。「いったい何をしたのか。」

主イエスは、ピラトにお答えになります。「わたしの国は、この世には属していない。」

「それではやはり王なのか」と、ピラトはさらに問います。主は、「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

この主イエスのおことばに、ピラトは最後に問います。「真理とは何か。」このピラトの問いに応えるように、ヨハネによる福音は、今日の福音に続けて、一気呵成に、主イエス・キリストの「過越の秘義」を語りあげます。すなわち、主の死刑の判決に始まり、主の「十字架上の死」を経て、主の「復活」までを。

ご生涯を通して「最も弱く貧しく小さい者」とご自身とを完全に一つとされた神の御子キリストは、その上で、さらに言葉の真実の意味において、神の民「すべて」の王となられるために、ご自身に「十字架上の戴冠式」を求められました。

事実、今日の福音に続けて語られる「主イエス・キリストの十字架上の戴冠式」無しに、冒頭に指摘した、神が真の王に託された第二の使命、すなわち神の民「すべて」を、パンとブドウ酒を捧げての神への真の奉献の礼拝に整えることは不可能でした。なぜなら、天の父なる神への唯一の捧げものは、永遠のパンとブドウ酒、すなわちキリストご自身の御からだと御血以外には、実際にはあり得ないからです。

さらには、真の王の第一の使命である、神の民「すべて」に、日毎の糧であるパンとブドウ酒を保証すること。このことも、実は、主イエスの十字架上のご自身の奉献無しには不可能でした。なぜなら、主イエスが真の「王」として、神の民すなわちわたしたちの「すべて」にお与えくださろうとなさるのは、わたしたちのこの世の命を支えるだけのパンとブドウ酒ではありません。わたしたち「すべて」に、永遠のいのちを与えることができる唯一のパンとブドウ酒です。それは、主にとってご自分の御からだと御血以外にはあり得ません。

「王であるキリスト」の祭日に、わたしたちはこの唯一の王を賛美します。そしてこの同じ方、十字架においてわたしたちすべての王となってくださるこの方を、来週からの待降節の後、わたしたちはベツレヘムに聖母マリアさまからお生まれになる「幼子」としてお迎えいたします。それが、主とわたしたちのクリスマスです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 11/17

年間33主日 マルコ13:24-32

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

マルコによる福音13章全体は、「キリストの終末預言」と言われて来ました。ただし聖書において「終末」とは、たんに「世の終わり」を意味しません。神の遣わされる救い主キリストによって、天地の創造主、歴史の支配者である天の父なる神が、決定的な仕方で、また、目に見えるお姿で、歴史に介入されることです。

「終末」とは、したがって「古い時の終わり」であるとともに、「キリストにおける新しい時の始め」・「神の国の到来」です。「終末」という出来事の中心に立っておられるのは、「神の国の主イエス・キリスト」です。この方を、見失ってはなりません。

マルコによる福音13章の主イエスご自身による終末預言は、「エルサレム神殿の崩壊」の予告によって語り始められます。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい建物でしょう」との、当時の巨大なエルサレム神殿に対する、弟子たちの讃嘆の言葉を受けて、主は、「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と、仰せになられました。

驚く弟子たちの「そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」との問いに応えて、主イエスは、「その時」わたしたちが経験するであろう「大きな苦難」を予告されました。

東日本大震災の傷跡が未だ癒されないままに、今年のお正月の能登大震災の衝撃。その上に、長引くロシア・ウクライナ戦争に加えて、イスラエルにおける内戦と緊張感を増す世界情勢等、「終末の徴」を巡っての議論は尽きません。しかし、主イエスは、そのような「大きな苦難」でさえ「まだ世の終わりではない」、すなわち「産みの苦しみの始まり」であっても、「終末の徴」ではない、とはっきりと仰せです。

(マルコ10:3-8)

実は、主イエスが、マルコによる福音の終末預言において、「終末のしるし」として語られるのは、「聖霊」とその働きです。見えない神ご自身の見えるみ業。「聖霊」とは、終末預言をなさる主ご自身の霊であり、したがって活ける神なる主の働きです。このことを、わたしたちは決して聞き逃してはなりません。

それでは、「聖霊」はいかにして、この「終末の時」に、働かれるのでしょうか。主イエスは、次のように仰せです。「まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。引き渡され、連れて行かれる時、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」(マルコ13:10,11)

わたしたちは、「終末のしるし」である「聖霊」の働きを求めて、あちこち捜し回る必要はないのです。「聖霊」は、主イエスを証しする者たち、すなわちわたしたち教会を通して働かれる。そうであれば、「聖霊の働きである教会」こそ「終末のしるし」、「神の国の到来のしるし」です。これは、驚くべき主のおことばのように聞こえます。しかし、わたしたちが現に教会で体験している事実ではないでしょうか。

これらのおことばの後、主イエスは、今日の福音に語られた「人の子」つまり主ご自身の「来臨」をお語りになられます。それは、教会を通して働かれる「聖霊」が証しする「終末の主」・救い主キリストご自身の来臨のお姿です。

(このような苦難の後の)そのとき、人の子(キリスト)が大いなる力と栄光を帯びて雲にのって来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

「終末の時」には、主イエスの予告のように、それに先だって起こり得る、悪霊の業としか思えないような、大きな災害や混乱や疫病や戦乱が、人の目には大きく映るかもしれません。しかし、実は、そのような出来事の中で、より大きく、またより鮮やかに浮かび上がってくる「終末」のしるしとその真実は、わたしたち教会を用いて働かれる「聖霊」の力です。その「聖霊」によって証され、「聖霊の働きである教会」を「ご自身のからだ」とされる、キリストご自身の現存です。

「終末」を支配されるのは、歴史の主キリストです。主は、勝利の主。ただし、主の栄光は、主の十字架の苦しみを経て成就される勝利です。「終末の時」、わたしたちが受ける一切の苦難。主はそのすべてをご自身の十字架として負ってくださる。主とともにわたしたちも、苦難を経て後、主の栄光の内に復活させていただくことができるように。主は、「終末の預言」を次のおことばによって結んでおられます。

「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしのことばは決して滅びない。」

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 11/10

年間32主日 マルコ12:38-44

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先の主日に続き今日の福音も、主イエスのエルサレムでの聖週間(最後の一週間)の、特に火曜日の出来事を伝えています。主は神殿を訪ねておられます。そこで、主は、神にささげものをしていた「一人の貧しいやもめ」とお会いになられます。

ところで、福音は、エルサレム神殿でのこの「やもめのささげもの」のエピソードの直前に主イエスの律法学者に対する厳しい非難、また直後に主の「神殿の崩壊の予告」を伝えていますが、これらすべては深く関係しあっていると思います。

マルコによる福音は、主イエスの「エルサレム神殿崩壊の予告」を、主の弟子の一人の「先生、ご覧ください。なんとすばらしい建物でしょう」との、当時の巨大なエルサレム神殿に対する讃嘆の言葉を受けて、「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」との、短い、しかし実に鋭い主のおことばを伝えるに留めています。

これに対して、週日のミサで続けてお聞きしているルカによる福音(13章)は、エルサレム入城を間近に控えての、エルサレムの町、とくにエルサレムの神殿に対する、主イエスの深い嘆きのおことばを、次のように丁寧に伝えています。

「わたしは今日も明日も、その次の日も旅を続けなければならない。預言者がエルサレム以外の地で死に遭うことはありえないからである。エルサレム、エルサレム、預言者を殺し、自分に遣わされた人を石で打ち殺す者、めんどりが雛を翼の下に集めるように、わたしはいくたび、あなたの子らを集めようとしたことであろう。しかし、あなたがたはそれに応じようとしなかった。見なさい、あなたがたの神殿は見捨てられたまま残されるであろう。」(14:33-35)

エルサレムは、主イエスが遣わされる千年以上前から、神なる主が、ご自身の「み名」をこの地上に置かれるために、主によって選ばれていた町です。そのエルサレムには、主なる神のご臨在の目に見える徴として、「神のみことば」を記した「十戒」の石の板が納められた「聖櫃」を護持すべく神殿が建てられ、その神殿に人々が集い、神のみことばに聞き、神を正しく礼拝することが許されてきました。そのようにエルサレムは、「神の都」とさえ呼ばれ、主の時に至るまで、神の民イスラエルの信仰生活の中心であり続けてきました。聖書に語られる通りです。

そのエルサレムに集う人々に求められたのは、ただ一つのことでした。それは、神を神とさせていただくこと。すなわち、神を畏れ、神のみ前に人として謙遜に生きること。ただしそれは、神のみことばに正しく聞くことにのみよる、ことです。

しかし、エルサレムは、過去にも、くり返し罪を犯して来ました。彼らが神のみことばを聞き入れないという罪です。ただしそれは、決して彼らの心の内でのことに留まらず、極めて具体的な形をとりました。彼らは、「(神が彼らのためにみことばを託し、神が彼らの救いのために遣わした)預言者を石で打ち殺」して来たのです。

主イエスは、今、この都が再び、しかも決定的な仕方で「神のみことばを聞きいれない」罪をくり返すことになることを知っておられます。しかも、「神のみことば」である主ご自身に対して。みことばご自身である「神の御子」を十字架につけて殺すというエルサレムの信じがたい罪ゆえに、主は深く嘆かれたのです。

主イエスのエルサレム神殿の崩壊の予告と、律法学者に対する主の厳しい非難は、無関係ではあり得ません。律法学者は本来、神殿に集うすべての人々が、律法、すなわち神のみことばに聞き、みことばによって主のみ前に神の民として整えられるために、律法の教師として立てられていた者であったはず、だからです。

しかし、彼らは、神のみことばに畏れと謙遜を以って聞くことをせず、したがって神のみ前に、律法によって彼らが託された民はおろか、自らを整えることさえできず、神と人との前に自らを誇る者へと傲慢の罪に堕してしまっていました。「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」と、主イエスは仰せでした。

律法学者をかくも厳しく非難される主イエスを慰めるように、神殿に「一人の貧しいやもめ」が現れます。主は、この婦人に対して、次のように仰せです。「この貧しいやもめは、神にだれよりもたくさん献げた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて献げたからである。」

律法学者たちの誇りとした地上のエルサレムの神殿は崩壊します。しかし貧しいやもめたちのために、新しい神殿が建てられます。それはご復活の主イエス・キリストご自身です。ただしそれは、エルサレムでの主の十字架の死を経てのことです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 11/3

年間31主日 マルコ12:28b-34

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエスが十二弟子たちとともにエルサレムに迎えられてから、既に三日目。今日の福音は、聖週間の火曜日のことです。エルサレム入城以来、主は、毎日神殿を訪ねておられます。その主に、一人の律法学者が進み出て質問をしました。 「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」。 主は、お答えになられました。

「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

主イエスのおことばに心から頷いた律法学者に、主は仰せになりました。

「あなたは、神の国から遠くない。」

主イエスのこの短いおことばは、神殿の境内で主の周りに集まっていた人々すべてを、驚嘆させて余りがあったはずです。事実、主のこの一言は、すべての人々に、深い沈黙をもたらしました。「もはや、(主イエスに)あえて質問する者はなかった」と、マルコによる福音が、今日の出来事を結んでいるとおりです。

「あなたは、神の国から遠くない。」明らかに、このことばは、「神の国の主・キリスト」ご本人以外には他に誰にも語り得ないことばです。主イエス。この方は、たんに「神のみことば」を教えるだけの律法の教師などではない。この方は、「神の国の主」。聞く者すべてに対して、「神の国の門」を開く権威を持っておられるこの方こそ、長い苦難の歴史を貫いてひたすら待ち望んできた救い主キリストではないか。

しかし、本当にそうなのか。人々と主イエスとの関係は、エルサレムでの聖週間の数日を残して、ここに急展開を告げることになります。

ごミサに集うわたしたちは、主イエスこそキリスト・「神の国の主」であり、「神の国の門」を開くことがおできになる唯一の方、と信じています。そのわたしたちには、今日の福音の「最も大切な掟」についての主のおことばは、いわゆる「神なる方」とわたしたちとの関係を規定する律法というような抽象的なものではありません。主イエスのおことばは、今、わたしたちの前に立っておられる神なる主・キリストご自身とわたしたちを固く結び合わせる神のことばです。

その主イエスが、わたしたち一人ひとりに、「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と、仰せになっておられます。

主イエスは、ここでわたしたちに、どこか遠くにおられる「神」を愛しなさいとを仰っておられるのではありません。主は、わたしたちに、今、わたしたちの前に立っておられる、主なるキリストご自身を愛してほしい、と主ご自身のおこころを尽くして、わたしたちに求めておられるのです。それは、わたしたちへの愛ゆえです。

確かに、わたしたちの愛には限界があります。罪という限界です。わたしたちが神への愛に生きるためには、この罪という限界を自覚し、この罪と闘う他ありません。それは罪なるわたしたちには元来不可能な戦いです。しかしわたしたちは、わたしたち自身の罪との戦いを通して、罪に完全に打ち勝っておられる主イエスにおける神の愛を知り、身の打ち震えるような感動を覚えるのではないでしょうか。

さらに、「隣人を自分のように愛しなさい」との主イエスにおことばに支えられて、罪に勝利された主の限りない愛の内に、主が愛しておられる人の隣人として生きたいとの願いへと、わたしたちも勇気をもって導かれるのではないでしょうか。

主イエスは、神と隣人とを愛するようにと、わたしたちに求められた後、わたしたちに、「あなたは、神の国から遠くない」と、語りかけてくださいます。主は、わたしたちに神のことばを教えるだけの教師ではありません。主は、わたしたちが罪の限界を越えて神と人とを愛する愛に生きることができるようにわたしたちを新たにしてくださる。そのようにして、「神の国の門」を、わたしたちに開いてくださるのです。

「あなたは、神の国から遠くない」とわたしたちに約束してくださった主イエス。主は、今日の福音のおことばの三日の後に、十字架におつきになられます。わたしたちの愛を限界づける罪に対して、最後の勝利を収めてくださるために。わたしたち罪人に「神の国」「愛の国」の門を開いてくださるために、主はご自身を十字架の上で、わたしたちに捧げてくださいます。ここに主イエスにおける神の愛があります。

父と子と聖霊のみ名よって。 アーメン。

司祭の言葉 11/2

死者の日 ヨハネ6:37-40

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

11月1日の「諸聖人の祭日」に続いて、「死者の日」と呼ばれる11月2日は、英国では「諸聖徒の日」(Holy souls)と呼ばれます。日本では、洗礼を受けずに亡くなった方々に配慮して「死者の日」とされたのだと思いますが、この日は「諸聖徒の日」と呼ばれる方が、教会の暦には相応しいと思います。

「諸聖人」、あるいは「諸聖徒」の「聖」とは、如何なることなのでしょうか。聖書においては、「聖」である方は神お一人です。主イエスお一人です。このことははっきりしています。そうであれば、教会で列聖された「聖人」を含めて、広く「聖徒」とは、彼自身聖なる特別な人と言うよりも、神によって「聖くされた人」、つまり「キリストのものとされた人」のことであるに違いありません。

「父がわたしにお与えになる人は皆わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」(ヨハネ6:37-39)

ここで、主イエスが「ご自分のものとされた人」、つまり、主によって「聖とされた人」について、主ご自身は、それは「父がわたしにお与えになった人」と仰っておられるだけです。

主イエスは、わたしたちの中で、特に聖い人たち、正しい人たちを、主が選ばれたとは言われていません。「天の父なる神が、子なる神キリストに託された人たち」を、主イエスは、ご自分のものとする、「聖」とする、と言われるだけです。

即ち、「諸聖徒」とは、天の父なる神から主イエスに託され、主によって「聖」とされた人たちのことです。そうであれば、感謝すべきことに、これはわたしたち全てにも、信仰によって開かれている恵みではないでしょうか。

「諸聖徒」方は、主イエスによって「聖とされた人々」です。彼らについて、主は先のおことばに続いて、さらに、次のように仰せになっておられます。

「(わたしの父の)御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠のいのちを得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(ヨハネ6:39-40)

主イエスのみことばは、単なる慰めや約束の言葉では決してありません。神が聖霊によって成就される恵みの事実です。神のみことばは、聞くわたしたちに、今ここで、聖霊によって働く力であり、事実です。神のみことばは、聞く私たちをして聖霊によって「聖とする力」、即ち「主イエスのものとしてくださる力」です。主は、わたしたちにみことばをくださる時、みことばと共に必ず聖霊をくださいます。これがカトリックの信仰です。ここにわたしたちの希望があります。

そして、この聖霊なる神こそ、元来わたしたちに、「イエスは主である」と信じ、告白させてくださった方です。しかもこの聖霊こそ、みことばと共に働いて洗礼においてわたしたちを新たに生まれさせ、さらに、ごミサにおいてわたしたちの捧げるパンとブドウ酒を主イエス・キリストご自身の御からだと御血、つまり主トご自身のいのちとして私たちにお与えくださる方、に他なりません。

主イエスは、わたしたちにみことばを与えてくださるだけではありません。みことばと共に、主はわたしたちに聖霊をお与えくださり、その聖霊によってわたしたちの内に働き、主のみことばをわたしたちの内に結ばせてくださいます。これが、主イエスのみことばと聖霊の力、すなわち、福音の力です。

11月1日にわたしたちが記念した「諸聖人」方に続いて、今日記念している天にあるわたしたちの信仰の先達である「諸聖徒」方。彼らは、主イエスによって「聖」とされた方々です。主によって、祝福のみことばと共に聖霊を受けた方々です。聖霊によって、主のみことばが、彼らのいのちそのものとされた方々です。彼らは、聖霊によって、神と人とに対する祝福とされた方々です。

諸聖人方と共に諸聖徒方は、天のみ国にあって、愛と感謝を以って、ひたすらに主イエスを褒め、とこしえに主を称え賛美しておられると、教会は信じて来ました。わたしたちの主への愛と賛美は、地上において制約されたわたしたちの主への思いを遥かに超えて、天においてこそ全うされるに違いありません。諸聖人・諸聖徒方は、このことを既によく知っておられる方々であるはずです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 11/1

「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」

諸聖人の祭日(B年・2024年11月1日)の黙想

マタイ5:1-12a

諸聖人と諸聖徒方を11月1日2日のミサで記念するカトリック教会の伝統は、英国とアイルランドが起源ではないかと言われます。英国では現在でも11月を「聖徒の月」と呼び、ちょうど日本のお盆のように、英国の人々にとっては教会でのミサの後、教会墓地を訪う時とされ、どの墓地もきれいに清められ、花壇のように花で埋め尽くされます。亡き方々を偲ぶ人々の思いは洋の東西を問わず変わりません。

諸聖徒の祝日に先立つ諸聖人の祭日には、主イエスの十二弟子たち、さらにご復活の主ご自身から「みことば」と「聖霊」を受けた聖パウロを筆頭にすべての聖人方を記念いたします。彼らの中には、わたしたちに代って地上の生活で多くの苦しみを負い、あるいはわたしたち同様、自らの弱さと戦われた方々もおられます。

諸聖人諸聖徒の「聖」とは、いかなることなのでしょうか。聖書においては、「聖」である方は、神お一人。主イエス・キリストお一人です。このことははっきりしています。そうであれば、「聖人」とは、生まれながらに聖(きよ)い人と言うよりも、主から「みことば」と「聖霊」をいただいて、神によって「聖くされた人」ではないでしょうか。

「心の貧しい人々は、幸いである。天の国(神の国)はその人たちのものである。

悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。・・・

心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。・・・」

「心の貧しい人々は、幸いである」と、主イエスは仰せです。「貧しい人々」とは、主の他に頼る方がいない者たち、つまりわたしたちのことです。「天の国(神の国)」に関して、わたしたちは主以外に誰を頼ることができるでしょうか。わたしたちに「神の国」を約束してくださるのは、ただ「神の国の主」であるキリストお一人です。

主イエスの上記のみことばは、かつては「真福八端」と呼ばれていました。ご自身「聖」にして、わたしたちの罪を赦し「聖とする」ことがおできになる神ご自身からの八つの詩句からなる「祝福のみことば」です。神によってわたしたちが「聖とされ、それゆえに神の国を約束されること」。実は、それこそが主イエスの祝福です。

主イエスによって「聖とされ、神の国を約束される」。それは、わたしたちが「神の国の主・キリストのものとされる」こと。それを使徒ヨハネは、「御子キリストに似た者とされる」(1ヨハネ3:2)と教えてくれます。わたしたちが「聖とされ、神の国を約束される」、つまり主から祝福されるとは「御子キリストに似た者とされる」こと主に祝福された「聖人」方は、わたしたちに先立って「キリストに似た者とされた方」です。

その祝福を主イエスはいかにしてわたしたちにお与えくださるのか。それは、「祝福のことば」とその祝福をわたしたちの内に成就させてくださる「聖霊」によって「聖霊」は、主の「みことば」と共に働いて、わたしたちに「イエスは主である」と告白させてくださいます。「みことばと共に働かれる聖霊」こそ、洗礼においてわたしたちを新たに生まれさせ、ミサでわたしたちの捧げるパンとブドウ酒をご聖体つまりキリストご自身の御からだと御血・主ご自身のいのちに変えてくださる方です。

「みことばと聖霊」において、主イエスがわたしたちにくださるのは主ご自身。主はご自身をお与えくださることによってわたしたちを「聖」とし、「キリストに似た者」としてくださいます。それが主の祝福。主イエスこそ祝福そのものです。主の十二使徒を始め諸聖人方は、主ご自身、つまり聖霊を祝福として受け、聖霊によって「キリストの似姿に変えられた」方々。わたしたちすべてのお手本です。

わたしたちもミサで、諸聖人方のように、「主よ、わたしたちにみことばをください」と、主イエスに願います。主は、わたしたちにも必ず「みことば」とともに「聖霊」、つまり主ご自身をくださいます。主はどのように小さく、貧しいわたしたちにも、ご聖体において、主イエスご自身を祝福としてお与えくださいます「心の貧しい人々は、幸いである。神の国はその人たちのものである」と、主は仰せです。

わたしたちは、諸聖人方とは比べるべくもない者です。しかし、主イエスがご聖体においてわたしたちにお与えくださる主ご自身は、主の十二使徒始め、すべての諸聖人方にお与えになられた主とまったく同じ主ご自身。主は今も、いつも、代々に、一人なる同じ主であられるからです。わたしたちのような小さな者にさえ、ご自身をお与えくださる主。主イエスを、わたしたちはそのみ恵みゆえに畏れます

諸聖人諸聖徒方は、「神の国」で主イエスのみ前にみ使いと共に主を褒め称えていると信じられています。ご自身を祝福としてわたしたちにお与えくださる主への彼らの愛と感謝は、地上のわたしたちの制約された思いを遥かに超えています。彼らは、天に在ってそのことを最もよく知っておられる方々であるに違いありません。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 10/27

年間30主日 マルコ10:46-52

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき」と、今日の福音は伝えていました。エリコからエルサレムまでは、距離にして約20キロ。エルサレムに向かう主イエスの旅も、いよいよ終りに近づいて来ました。マルコによる福音も、エリコでのバルティマイという名の盲目の人と主との出会いの後には、主が弟子たちとともにエルサレムに迎えられた時の様子を語ります。

ガリラヤ地方の北限の町フィリポ・カイサリアで、「あなたがたは、わたしを誰というか」との主イエスの問いかけに応えたペトロの「あなたはメシア、生ける神の子」との信仰告白を受けて、主のエルサレムへの旅は始められました。その後、既に一年に近い歳月が流れていたはずです。この間、主は三度、エルサレムでのご自身の「十字架と復活」について、弟子たちに予告して来られました。

それにしても、エルサレムへの主イエスと弟子たちの旅が終わる直前に、福音が、主が盲目の人の目を開かれたことを伝えることには、何か訳があるのでしょうか。

ここでわたしたちは、今日の福音の直前に伝えられていた、先の主日の福音のエピソードを想い起こさない訳にはいきません。そこに、主イエスの三度目にくり返されたご自身の「十字架と復活」の予告の直後に、十二弟子たちの内のヤコブとヨハネが、「主がエルサレムで栄光をお受けになられる時、すなわち王に即位される時、わたしたちを重く用いてください」と主に願い出たと伝えられていました。

先のペトロのキリスト告白以来、約一年の間、主イエスの弟子たちは、主と旅をともにしてきたはずです。文字通り、主と寝食を共にすることを許されて来たはずです。しかもこの間、弟子たちは、旅の途上で主ご自身から、エルサレムでの主の「十字架と復活」、つまり彼らを伴っての主のエルサレムへの旅の目的をも、彼ら自身の耳にくり返し聞かされてきたはずです。

それだけではありません。弟子たちは、主イエスに伴われての旅の途上で、多くの人々に出会われてきた主が、一人ひとりに仰せになられたこと、またなさったことを、弟子たち自身の目で、逐一、つぶさに見聞きして来たはずです。しかし、彼らの心の目は、主に対しては閉じられたままであった、と言わざるを得ません。

先の主日の福音で、ヤコブとヨハネの要求に対して、主イエスは彼らに「あなたがたは、自分が何を願っているか分かっていない」と、仰せになっておられました。

ヤコブとヨハネに対する主イエスのこのおことばは、今日のエリコの町の盲目の人バルティマイに対する主の問いかけと、深く結び合わされているように思われてなりません。主は、バルティマイに問います。「あなたは、わたしに何をしてほしいのか。」彼は、主に応えます。「主よ、目が見えるようになりたいのです。」

盲目の人バルティマイだけではありません。実は、主イエスの弟子ヤコブとヨハネこそ、「主よ、見えるようにしてください」と、願うべきであったのではないでしょうか。彼らだけではありません。わたしたちもまた、彼らとともに、同じ願いを主に願わせていただくべきではないでしょうか。「主よ、見えるようにしてください。」

わたしたち一人ひとりが、わたしたちの心の目に、主イエスを救い主キリストと、はっきりと見えるようにさせていただく。それ以外に、わたしたちには救われる道はありません。わたしたちの「信仰」とは、ただ漠然と神の存在を信じているということではないはずです。「信仰」とは、主イエスをキリストと告白することです。主イエスをキリストと、心の目にはっきりと見させていただくことです。

主イエス・キリストに、正しく「主よ、見えるようにしてください」と求めた、バルティマイに、主は仰せになられました。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」この主のみことばによって、「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」と、マルコによる福音は、今日の盲目の人バルティマイのエピソードを結んでいます。

わたしたちの「信仰」には、「人格としての姿personaがあります。「主イエス・キリスト」という「姿」です。その「姿」である「主イエス」に、わたしたちの目が開かれた時、「信仰」がわたしたちを救ってくださる。「信仰」は主イエス・キリストだからです。

「盲人は、すぐに見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」主イエスの旅は、ここエリコを出てエルサレムへと向かいます。罪によって閉じていた目を、主イエスをキリストと見る目に開いていただいた。その主へと開かれた目を以て、エルサレムへ向かわれる主に従う。それは、エルサレムで、主がわたしたちにしてくださることの一切を、この目ではっきりと見させていただくためです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 10/20

年間29主日 マルコ10:35-45

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「イエスは一同を呼び寄せて」と、今日の福音は伝えます。ここで「一同」とは、主イエスの十二弟子たちのひとり残らずすべて、です。何があったのでしょうか。

マルコによる福音は、この直前に、最初にはヤコブとヨハネ、後には十二弟子すべてを巻き込んでの、主イエスと弟子たちとの対話を伝えていました。まず、ヤコブとヨハネが、一つのことを主に願い出ました。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」

ここでヤコブとヨハネは、主イエスが旅の終わりエルサレムで、「王」に挙げられる事を期待し、その際、彼らを左・右の大臣に、つまり主の十二弟子たちの中でも、彼らが特別の地位に指名されることを、主に願い出ています。

二人のこのような願いに、わたしたちは戸惑いを覚えざるを得ません。彼らは、主イエスとともにエルサレムに向かう旅の途上、他の弟子たちとともに、旅の果てエルサレムでの主の「十字架と復活」の予告を、実に、既に三度、主ご自身から直接聞かされて来たはずです。しかも、マルコによる福音は、今日の出来事を、主の三度目の「十字架と復活」の予告の直後のこととして伝えているのです。

この二人に主イエスは、「あなたがたは自分が何を願っているか、分かっていない」とお応えになり、続けて、「このわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか」と、お尋ねになられました。それでも主のお心を理解できない彼らは、即座に「できます」と主にお応えした、と福音は伝えています。

しかも、これを聞いていた他の弟子たちが、「ヤコブとヨハネのことで腹を立てた」とも福音は伝えます。主イエスとともにエルサレムに向かう他の弟子たちの主への期待も、実際のところヤコブやヨハネと異なるところがなかったということでしょうか。主の溜息が洩れ聞こえて来るような、主と弟子たちとのやり取りです。

確かに、主イエスはエルサレムで「王」として即位されます。しかし、「主のみ国」は、地上の力と富を求め、隣人から彼らの命を含めたすべてを奪い尽くすことによって建てられる罪の世に属す「この世の王国」ではありません。主が「王」として即位されるのは、そのような罪にしか生きられないわたしたちを罪から贖ってくださるために、主がご自身を十字架の犠牲とされることによって打ち建てられる「神の国」

エルサレムで、主イエスは十字架につけられ、三日目に復活される。ヤコブとヨハネを含む弟子たちすべてのために、本来彼らの負うべき罪の十字架を、主が代って担い、十字架によって罪赦された彼らに、復活して新しいいのちを与える聖霊を注いでくださる。主はそのようにして、彼らすべての魂の「王」となってくださる。

主イエスが彼らのために祈り、願い、彼らのために、旅の果てにご自分を十字架に引き渡そうとなさる。その主のおこころを、主ご自身によって三度もくり返された「十字架と復活」の予告によってさえも、弟子たちはまったく理解していません。

このような弟子たちに、「イエスは一同を呼び寄せて」仰せになられました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」

主イエスはエルサレムで「王」に即位される。しかし、最早、弟子たちに誤解は許されません。エルサレムへの旅は、彼らの願いや期待が成就するための旅ではないからです。彼らを伴ってのエルサレムへの旅は、彼らに対する主の祈りと願いが成就する旅だからです。十二弟子だけではありません。わたしたちにとっても、主イエスの祈りと願いの成就するところにのみ、わたしたちの救いがあるからです。

主イエスのわたしたちへの祈りと願いの成就するところ、主が「真の王」に即位される所、わたしたちのために「神の国」が打ち建てられる所。それは、十字架以外にはないのです。福音は、今日のエピソードを主の次のおことばによって結びます。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

今月10月は「宣教の月」。教皇フランシスコは、「宣教とは、人々に愛を届けることです」と教えてくださいました。先のベネディクト16世教皇も、「主から信仰(すなわち主イエス・キリスト)という人生における最も大切な賜物与えられたわたしたちは、その賜物を自分だけの許に留めておくことはできません」とお教えになっておられました。お二人は同じことを仰っておられると思います。愛とは、キリストだからです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 10/13

年間28主日 マルコ10:17-30

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「イエスが旅に出ようとされると」と、福音は語り始めます。この「旅」はエルサレムに向かう旅であり、その旅の終わりに主イエスを待ちうけていること、すなわち十字架と復活について、主はすでに二度弟子たちにお語りになって来られました。

マルコによる福音は、主イエスと多くの財産を持つ人との出会いを、三度目に主が十字架と復活の予告をされる、その直前に起こったこととして伝えています。これには意味があるはずです。この人が主の許に走り寄り、ひざまずいて主に尋ねました。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」

「永遠の命」を願い求める。この人だけに限りません。わたしたちも、それを真剣に求めています。ただし、「永遠の命」とは、何でしょうか。「永遠」とは、「死に勝利する」と言うことです。使徒パウロがローマの信徒への手紙に語るように「死に勝利する」のは、「愛」だけです。そして、「愛」は「神」です。「神こそ愛」だからです。それは、使徒ヨハネが彼の手紙に語る通りです。しかも、神の愛には「かたち」がある。ヨハネはそのことを、主イエス・キリストの具体的・人格的な事実として語っています。

「神は愛です。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

(1ヨハネ4:8a-10)

「永遠の命」を求める。それは、「死に勝利する神の愛」を求めることです。それは、使徒ヨハネが示すように、「神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとしてお遣わしになられた御子」を求めることです。なぜなら、「ここに、すなわち、神の遣わされた御子に、神の愛がある」からです。むしろ、「神の愛」が、「十字架上でわたしたちを贖ってくださる御子キリスト」となってくださっておられるのです。

「永遠の命」を求める。それは、「神の愛である御子キリスト」を求めることです。実は、「永遠の命」その方である主イエスご自身が、「永遠の命」を求める、富める人の前に、今、立っておられるのです。そうであれば、この人が、主のみ前になすべきことはただ一つです。それは、ガリラヤ湖畔で主に呼ばれたペトロが、「すべてを捨てて、主に従った」ように、すべてを捨てて、主にお従いすることです。

「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と問うこの人に、主イエスは、「神のおきて」すなわちモーセの十誡を示されました。それは「神のことば」です。ところで先週の福音では、主に敵対した律法学者やファリサイ派の人々は、「神のことば」を、「かつての昔に、神が語られたこと」と理解していました。今日の福音のこの人も同じです。彼は、主に、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えました。

しかし、「神のことば」とは、「神の愛のことば」であり、「ことばとなられた神の愛」「永遠の命イエス・キリスト」です。この人は、彼が求めた「永遠の命」主イエスの前に、今、立っているのです。この主に一切を託して従いさえすればよいのです。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人に施しなさい。・・それから、わたしに従いなさい」との主のおことば通りにするだけです。

しかし、「その人は、(主イエスの)このことばに気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」と、今日のマルコによる福音は、主と、このたくさんの財産を持つ人との出会いの物語を結んでいます。

ただこの時、本当に「気を落とし、悲し」まれたのは、実は主イエスの方であられたのではないでしょうか。この人は、「永遠の命」を求めて主を訪ねました。そして、「永遠の命」、すなわち「死に打ち勝つ神の愛であるキリスト」にお会いしたのです。しかし、その時、彼はあれほどに求めていた「永遠の命」キリストに代えて、死とともに失われる彼の「たくさんの財産」を選び取ったのです。皆さんはどうでしょうか。

「子たちよ、神の国に入る、つまり「永遠の命」を得るのは、なんと難しいことか」と、主イエスは言われました。しかし主は続けて、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」と、仰せになられました。

「永遠の命」に代えて、「地上の朽ちる財産」を選んでしまいかねない愚かなわたしたちに、主イエスご自身は、ご自身のいのちに代えてわたしたちを選んでくださる。それが、主のエルサレムに向かわれる旅です。わたしたちのために十字架におつきになられるために。「人間にできることではないが、神にはできる。神には何でもおできになる。」この愛の神に、この十字架の主イエスにのみ、救いがあります。

父と子と聖霊のみ名によって。   アーメン。

司祭の言葉 10/6

年間27主日 マルコ10:2-16.

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

マルコによる福音書にお聞きしながら、主イエスのエルサレムへ向かわれる旅を、主とともに辿らせていただいています。主は、エルサレムへのこの旅が、主の地上での最期の旅であることを弟子たちが理解することを願って、「山上の変容」の前後から、弟子たちに三度も繰り返し次のようにお語りになって来られました。

「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。」

主イエスにとって、エルサレムに向けての一歩一歩は、高まる緊張感との闘いであったに違いありません。しかし、主は、その途上においても、主を訪ねる多くの人々に、主に敵対するファリサイ派や律法学者たちをも含めて、ていねいに出会って行かれます。今日の福音も、その一こまです。

主イエスが、「ユダヤの地方とヨルダン川の向こう側」、つまりガリラヤ湖を水源として南に下るヨルダン川の東岸に広がる、当時デカポリスと呼ばれた地方を訪ねられた時のことです。主は、その地でも人々に「神の国」を宣べ伝えておられました。その主を、ファリサイ派の人々が訪い、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と唐突に尋ねた、と福音は伝えています。

ファリサイ派や律法学者たちが主イエスに向けた、離縁に関する律法を巡ってのこの問いに明らかなように、当時、「律法」、つまり「神のことば」の教師を自認していた彼らにとって、「罪」とは、たんに律法の違反の問題でした。したがってその解決、つまり「罪の贖いと赦し」という、本来、神との根本的本質的な関係の問題も、彼らには、それは律法の適用、あるいは律法の解釈の問題に過ぎませんでした。

「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と主張する彼らにとって、離婚という深刻な問題、およびその解決さえも、それは単に律法の解釈、かつその手続きの問題に過ぎません。彼らには、それが、神のみ前に誓約を交わし、一つとされた男女の関係の破たん、さらには、赦しと同時に癒しが求められるべき神と彼らとの関係の破れ、したがって神との和解の問題、として考えられていません。

律法学者には、神のみことばの教師と自認しながら、神が見えていないのです。

律法学者たちには、「律法」、すなわち「神のことば」に聞くとは、「昔、神が語られたことば」を規範として、それを解釈し、今に適用するということなのでしょう。しかし、本当にそうなのでしょうか。「神のことば」に聞くとは、今、現に、みことばを語られる神ご自身のみ前に立つこと、ではないでしょうか。「神のみことば」とは、事実「みことばなる神」、すなわち主イエスご自身にほかならないからです。

結婚の誓約に生きる一組の男女のいのちの危機、彼らが神の祝福を失いかねない事態を巡ってさえ、律法の解釈とその手続きのみを問題にしている律法学者たち。「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった、それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と、主イエスは彼らに、そして「神のみことば」を聞くわたしたちすべてに、神ご自身のみ前に立っているという厳粛な事実を、はっきりと思い起こさせてくださいました。

「罪」を律法の解釈、その解決を律法の手続きの問題とする律法学者とは異なり、主イエスにとって「罪」とは、「神のみことば」、つまり「みことばである神ご自身」のみ前に明らかとされた、神のみこころに背くわたしたちの悲しい現実の姿です。

そうであれば、「みことばなる神」のみ前に、わたしたちが「罪の贖いと赦し」を真剣に求める時、「律法」、つまり「神のみことば」の解釈や、解釈された律法の適用をもって、自分の罪を自分で取り繕うことなどできはしません。「罪を贖い、罪を赦す」ことがおできになる唯一の方、神なる主イエスを求める他ないのです。

その主イエスのみ前に、今、ファリサイ派の人々は立っているのです。彼らが自らの罪を認め、その赦しを求めるならば、それがおできになる唯一の方、主が、現に彼らの前にいらっしゃるのです。しかしあろうことか、彼らは主イエスを、彼らの解釈した律法に基づいて「罪」と定め、後に、その「罪」の裁きとして主を十字架につけてしまうことになるのです。

その彼らのために、神に背く彼らを裁くことがおできになる唯一の主イエスは、本来彼らの受けるべき裁きをご自分に受け、十字架の上に彼らの罪の一切を贖ってくださいます。「罪」とは、律法の解釈の問題ではなく、神に背くわたしたち自身の問題であり、「罪の贖いと赦し」は、律法の手続きによってではなく、主が、ご自身でわたしたちの罪を負い切ってくださる他には、成就し得ないからです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。