司祭の言葉 1/14

年間第2主日 ヨハネ1:35-42

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「見よ、神の子羊。」

洗礼者ヨハネの主イエス・キリストへのこの信仰告白は、現在も、全世界のカトリック信者にとってご聖体拝領前の信仰告白とされています。日本語では、司祭がご聖体を顕示し、「神の子羊の食卓に招かれた者は幸い」と宣言しますが、ミサのラテン語規範版では、ヨハネの告白通り、「見よ、神の子羊」と宣言されます。

「見よ、神の子羊」。洗礼者ヨハネによる、この実に短い、しかし最も的確な信仰告白。それが、いかに豊かな主イエス・キリストとの出会いへとわたしたちを導いてくれるかを、今日のヨハネによる福音は、わたしたちに物語って余りあると思います。

実はヨハネによる福音は、今日の福音の直前の段落で、すでに洗礼者ヨハネの「見よ、神の子羊」とのキリスト告白を伝えています。そこでは、ヨハネは「神の子羊」キリストを、「世の罪を取り除かれる方」と証ししています。

その上で洗礼者ヨハネはさらに、「神の子羊キリスト」こそ、わたしたちに「聖霊によって洗礼を授ける方」、つまりわたしたちに聖霊をお与えくださることがおできになられる唯一の方、すなわち「神の子」であるとも証ししています。

主イエスは、預言者のように神のみことばを告げるのみならず、神のみことばご自身。また神の子である主イエスは、わたしたちに神のみことばと共に神の霊・聖霊をもお与えくださいます。ヨハネが指し示す真実を聞き逃してはなりません。主は神のみことばと共に聖霊をくださり、聖霊によって神のみことばの実りをわたしたちの内に結ばせてくださる。これが、主イエスからいただくわたしたちの救いです。

ところで、今日の福音は、洗礼者ヨハネが、主イエスに彼の弟子たちを託したと伝えていました。師であるヨハネにとって、弟子たちは掛け替えのない宝であり、ヨハネ自身の未来でもあったと思います。そうであれば、ヨハネにとって弟子たちを主イエスに託すことは、自分の宝の一切を惜しみなく主に捧げたと言うことです。同時に、それはヨハネにとっては、自分の未来、すなわち自分の命をも主イエスに託し切ったと言うことでもあるはずです。実はその結果、主イエスによって、ヨハネの思いを遥かに超えた実りが豊かに結ばれてゆきます。

洗礼者ヨハネが、主イエスに託した二人の弟子たちは、その後「イエスのもとに泊まった」と福音は伝えます。ヨハネは自分のことを、「わたしはキリストの履物の紐を解く資格もない」(マルコ1:7)と言うほどに、主イエスに対して謙遜の限りを尽くし、いつも主を遠くに仰ぎ見て生きていました。わたしたちも、主イエスに対するこのヨハネの姿勢を心の眼に焼き付け、彼の謙遜に習うべきだと思います。

洗礼者ヨハネの祈りと願いに応えて、主イエスは、ヨハネが託した弟子たちをご自身のもとに留まることを許されたのみならず、生活を共にすることさえ許されます。そして最期には、主は彼らにご自身のいのちをさえお与えになられます。しかもご自身の十字架において。洗礼者ヨハネは、牢獄での彼の殉教の死を前に、彼の弟子たちからそのことを伝え聞いて、主イエスがそのようにしてヨハネ自身の祈りと彼の命をも満たしてくださったことに喜びで胸が溢れたに違いありません。

とくに、洗礼者ヨハネが主イエスに託した弟子の一人アンデレは、彼の兄弟シモン・ペトロを主のもとに連れて行きます。その時、主イエスはこのペトロを、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ(「岩」という意味)と呼ぶことにする」とのことばで迎えました。そして、まさにこの「岩」、すなわちペトロの上に、主イエスは、十字架とご復活の後、ご自身の教会をお建てになられるのです。

主イエスは、洗礼者ヨハネから彼の弟子たち、つまりヨハネにとって最も大切な捧げものを喜んでお受け入れになられ、そしてそれを豊かに用いて、ヨハネの思いや願いをさえ遥かに超えた大いなる神のみ業を成し遂げてくださいました。

実に、洗礼者ヨハネの心を尽くした主イエスへの捧げものに、主は豊かすぎるほどの恵みと祝福を以ってお応えになられました。事実、主イエスは、ヨハネの奉献に応えて、彼らにご自身のいのちさえお与えになりました。さらにはヨハネの奉献によって、主イエスはペトロを見いだし、その彼の上に主の教会をお建てになり、わたしたちを含めた後のすべての民の救いの礎としてくださいました。

洗礼者ヨハネは、「見よ、神の子羊」との信仰告白を以って、自らの持てるもの全てを主イエスに捧げました。このヨハネに応えて、主は彼にご自身をお与えくださいました。その時、そこには人の思いを遥かに超えた神のみ業が成就して行きます。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 1/8

主の洗礼(B年・年間第1主日)マルコ1:7-11

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「主の公現」の祭日に続く今日、わたしたちは「主イエスの洗礼」を記念いたします。ご自身そのものである「福音」の宣教をお始めになるに先立ち、ヨルダン川で民衆に洗礼を授けていた洗礼者ヨハネから、主は、民衆と共に洗礼をお受けになりました。しかし、聖なる主がなぜ洗礼をお受けになられたのでしょうか。

実際、マタイによる福音は、主イエスが洗礼者ヨハネのもとに来て、民衆と共に洗礼を受けることを望まれた時、「ヨハネは、それを思いとどまらせようとして、『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか』」と、主に申し上げたと伝えています。このヨハネに、「イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』」(マタイ3:14,15)

御子キリストが、民衆と共に洗礼を受けられるのは、「正しく、ふさわしい」と言われています。つまり、それは父なる神のみ旨であり、民衆と共なる御子の洗礼を通して、神が、民衆すなわちわたしたちを救うということです。事実、主イエスがヨハネから洗礼を受け、「水の中から上がると、すぐ」、神は、次の「三つのこと」をなさったと、今日のマルコによる福音は伝えていました。まず、「天が裂けて」、次に、が鳩のようにご自分に降って来るのを、ご覧になった。」 続いて、「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」

第一に、主イエスが民衆と共に洗礼を受けられたことによって、主と共にあった民衆に「天が開かれた。」これは驚くべきことです。罪人なる民衆に聖い「天」は閉ざされていたからです。詩編は、「死」を恐れる民衆の呻きを伝えます。ただし、彼らが恐れたのは、「死」そのものではなく、罪人のままの「死」によって、彼らに「天が永遠に閉ざされてしまう」こと、つまり神に会う機会を永遠に失うことです。

例えば、詩編第6編にこうあります。「主よ、立ち戻って、わたしの命を助け、慈しみにふさわしく、わたしを救ってください。死の国では、あなたを覚えている者はおりません。陰府の国で、誰があなたをほめたたえるでしょう。」

しかし今や、主イエスが民衆と共に洗礼を受けてくださったことによって、罪人なる民衆、つまりわたしたちに「天が開かれた」のです。ただ一度、かつ永遠に。

ところで、天は「聖霊のご聖櫃」です。したがって、「天」が開かれたのは「聖霊が降る」ことでもあります。事実その時、天から「聖霊が鳩のようにイエスの上に降って来た。」「父なる神のいのち」である「聖霊」が、今や見える形で民衆つまりわたしたちと共に在る「御子キリストの上に降った」。天の父なる神は、この時、イザヤの預言の通りに、神のいのち・神ご自身である「聖霊を主イエスの上に置かれた」のです。

事実、福音が続けて伝える、「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」との父なる神のみことばは、かつて預言者イザヤを通して語られていた次のことばと同じです。「見よ、わたしが支えるわたしの僕を、わたしの魂が喜びとする、わたしが選んだ者を。」 そして、イザヤの預言は、すでにわたしたちがお聞きした御子キリストの洗礼の時を指し示すように、次のように結ばれていました。わたしはわたしの霊を彼の上に置く。」(イザヤ42:1)

父なる神が「ご自身の霊を御子の上に置」かれた。目に見えない「天の父なる神」の霊・「聖霊」が、わたしたちと共に洗礼を受けられた「御子」キリストに降り、主から、また主からのみ、目に見える形(ご聖体の内に)で、わたしたちに与えられる。ヨハネはそれを証ししていました。「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方(主イエス)は聖霊で洗礼をお授けになる。」 主はご自身を以て、わたしたちがご聖体の秘跡に与ることができるように洗礼の秘跡を制定してくださいました。

主イエスの福音宣教は、預言者のように神のことばをわたしたちに伝えるだけではありません。「主の福音宣教」はその始めから、民衆、すなわちわたしたちへの「主イエスにおける父なる神のいのちの働きである聖霊の業」です。それは、天地の創造主・全能の父なる神が、御子キリストに「聖霊」を注いで、わたしたちのために始められた「父・子・聖霊の神のみ業」、すなわち「三位一体の神のみ業」に他なりません。それは、みことばご自身である御子キリストの宣教を通して、父なる神の力が聖霊において働き、わたしたちの一切を新たにする、「神の新しい創造のみ業」です。

ヨハネからの洗礼の後、主イエスは「福音」の宣教に立たれました。見えない「父なる神」が、「御子」において見える姿で働かれる。「御子キリスト」によって、目に見えない「神の霊・聖霊」が、「父なる神」のみことばの実りを目に見える形でわたしたちに結んで行きます。それが、わたしたちすべてを救う主の「福音宣教」です。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 1/7

主の公現 マタイ2:1-12

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

東方から来た占星術の学者たちは、マリアさまと共におられた幼子キリストを礼拝した後、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」と福音は伝えます。

教会は古くから、降誕祭の夜半のミサから主の公現の祭日までを、降誕節の12日間としてお祝いして来ました。降誕祭・夜半のミサ以前のアドベント(待降節)の期間は、復活祭前のレントの期間のように、静かで落ち着いた時が流れていました。その後、その夜半のミサで幼子キリストをお迎えして始められた喜びに満ちたクリスマスの祝いの期間は、主の公現日の今日まで続きます。

降誕節の12日間の祝いの締めくくりである主の公現日の今日、わたしたちは救いの喜びがユダヤを超えて、東方からの占星術の学者たちに象徴されるユダヤの民以外の諸国の民・全世界の民のものとされたことを、感謝の内に記念します。

ところで、「東方の占星術の学者」と言う言葉を聞く度に、わたしは昔の自分を思い起こさざるを得ません。わたしは、仏門に生を受けた者ですが、若い日にわたしの習った仏教、特に真言密教には、古来占星術が伝えられています。聖書に登場する「東方の占星術の学者」の「占星術」の実際は分かりません。しかしそれが「占星術」と言われる以上、普通の人間には隠されているとされる神の秘密ないし奥義を、人間の知恵を極めて探ろうとする試みの一つであったに違いありません。

そのように、聖書の東方の占星術の学者たちも、おそらく先祖代々、人間の知恵の教えを頼りに生き続けて来たのでしょう。主イエスと出会わせていただく時までは、彼らにはそれしか真理に出会う道は思い至らなかった、と思います。

しかし、彼らがマリアさまのみ腕に抱かれた幼子キリストを、彼ら自身の目で見、恐らくは、その主イエスを、マリアさまのみ手から彼ら自身の腕に抱き上げさせていただいた時、彼らは、占星術のような人間の知恵に頼ることの無力さ、その空しさ、無意味さに深く気付かされたのではないでしょうか。同時に、「神の秘義そのものであられるこの幼子キリスト・まことの神ご自身」の前に、彼らの知恵も含めて、彼らが頼りにしてきた一切のものが無価値であることを、骨身に沁みて思い知らされたに違いないと思います。

彼らの占星術も、所詮「人間が神になろうとする試み」に他なりません。その空しさ、それに対する彼らの無力さは、かつてわたし自身が身に沁みて感じたように、彼ら自身が体験上いちばん良く知っていたはずです。その彼らが主の公現日の今日、幼子キリストに見たのは、実に「神が人となられた」との事実でした。

占星術の学者たちは、神に近づくための特別な力と秘密の知恵を得るために、その代償として彼らに多大な犠牲を強いる存在を「神」と信じて礼拝してきたと思います。しかし、この幼子キリストにおいて「人となられた神」は、彼らに何らの犠牲も求めはしません。全くその逆です。神ご自身が主イエスにおいて、犠牲としてご自身を彼らに捧げておられるのです。十字架に至るまで。

彼らはこの時初めて「真実の神」を知り、従って、真実の神に「真実の礼拝」を捧げたはずです。礼拝とは、自己を奉献することです。驚くべきことに、神ご自身の自己奉献が、まず先にあったのです。神がご自身をわたしたちにお与えくださって、既に礼拝の中心になってくださっておられるのです。それが幼子キリストです。それをはっきりと知らされた時、東方の占星術の学者たちは、彼らの持てるものすべてを捧げて、否、彼ら自身を神に捧げて、主なる神を文字通り礼拝したはずです。幼子キリストにおいて、彼らにご自身をお与えになっておられる、まことにして唯一の神を。

今日のマタイによる福音は、彼らは、幼子キリストにお会いした後、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」と、伝えます。彼らは、最早、「占星術の学者」と呼ばれ続けるわけには行きません。また、そのように生き続けるわけにも行きません。主イエスにお会いした彼らは、かつての彼らと同じではあり得ません。彼らは、すでに「キリストのもの(キリスト者)」とされたからです。

主イエスにお会いした後には、最早、誰も「もと来た道」を再び辿って帰るわけには行かないのです。否、そのような道を再び辿らなくても良くなったのです。「神が人となられた」主イエスの前に、「人が神になろうとする」ような、永遠に報われようの無い、虚ろな苦行のような偽善的な人生から、彼らはここに初めて全く自由にされました。かつてのわたし自身が、そうであったように。

主イエスのご降誕を祝ったわたしたちも、主によって「神が人となられた」新しい世界に既に招き入れられています。東方の学者と共に、わたしたちもご聖体において神ご自身を祝福として受け、神を恵みとして生きる「新しい道」を歩き始めるために

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 2024/1/1

「抱(いだ)いたキリストによって抱(いだ)かれる」
―新しい年をマリアさまとともにー

神の母聖マリアさまの祭日(2024年1月1日)の黙想(ルカ2・16~21)


クリスマスの夜、天使のお告げを受けた羊飼いたちは急いで行って、マリアさまとヨセフさま、そして飼い葉桶に寝かされた乳飲み子キリストを探し当てました。彼らは、その光景を彼ら自身の目で確かめ、主イエスを礼拝した後、幼子について、彼らが天使から告げられたことを人々に知らせました。しかし、聞いた者は皆、羊飼いたちの話に戸惑い、不思議に思いました。そのような中で、

「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」


と、ルカによる福音は伝えます。福音は、この時と同じマリアさまのご様子を、後に主イエスが12歳になられた時の過越祭に、マリアさまが主とともにエルサレムの神殿に詣でた際のエピソードの結びにも伝えています。

羊飼いたちが天のみ使いに告げられた事のみならず、主イエスの出来事は、人の目には不思議に見えます。確かに、神のなさることは、旧約の預言者イザヤの語るように、「人の思いや考えを超えて」います。イザヤは告げます、「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道は、あなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」(イザヤ55:8,9)

預言者を通して、このようにあらかじめ語られていた神のみことばにもかかわらず、後に、人々は主イエスについて正しく理解できないままに自分たちの判断で主を裁き、結果として主を十字架につけてしまいます。

マリアさまは違います。主イエスのおことばとそのみ業を、それらの不思議のままに一切を「すべて心に納めて、思い巡らしていた」と、福音は伝えます。

母として主イエスを身ごもり、産み、養い育て、つねに主のお側に生活しながらも、主は不思議であり、マリアさまの思いや考えをさえ超えておられたことでしょう。しかし、マリアさまは主イエスについて、ご自分の思いや考えで判断するようなことは決してなさいませんでした。すべてをそのお心に大切に納めて、神ご自身がマリアさまにその一切を明かされる時まで、静かに待っておられました。「思い巡らしておられた」とは、そういうことだと思います。

なぜなら、マリアさまは主イエスを素直に、素朴に信じておられたからです。子をそのように信じる。これは、母の子に対する愛であり、あるいは母にしかできないことかもしれません。母を天に送ったわたしは、このことを強く思います。

実は、1月1日は母の誕生日です。母は生きていれば、今日91歳になります。わたしは、母の臨終の病床で、母にカトリックの洗礼を授けましたが、1月1日神の母聖マリアさまの大祭日に生まれた母に、母の霊名は迷わずマリアといたしました。

母の願いや期待どおりに生きてきたとは、到底言えないわたしでした。それでも、母はいつもわたしを信じ、支え励まし続けてくれました。主イエスと聖母マリアさまを、わたしとわたし自身の母に当てはめて考えることは、もちろん出来ません。しかし、マリアさまが主イエスの母であるがゆえにおできになられたこと。それは、いかなるときにも素直に、素朴に御子キリストを疑うことなく愛し、信じ抜かれた、と言うことではなかったでしょうか。ご自身をそのまま主に委ねて行かれるとともに、まったく私心なく、一筋に御子キリストを信じ、支え抜かれた。それが、神の母聖マリアさまであられたと、今のわたしには思われてなりません。

新年の初めに、このように聖母マリアさまをなつかしく想い起こさせていただくのは、まことに相応しいことです。神が年の初めにわたしたちにお求めになられておられることは、聖母マリアさまのような主イエスへの聖い愛と信仰と信頼ではないでしょうか。

教会は、マリアさまのことを、感謝を込めて「神の母」と呼ばせていただいて来ました。神の母であられるマリアさまを、ご聖体の神なる主イエスをお納めする「ご聖櫃(せいひつ)」ともお呼びして来ました。聖母マリアさまは、ちょうど「ご聖櫃」のように、ご聖体の主イエスをご自身の内に、いつも大切に抱(いだ)き、納めておられます。

「抱(いだ)いたキリストによって抱(いだ)かれる」という美しい信仰の言葉があります。聖母マリアさまは、御子キリストをご自身の内にいつも大切に抱(いだ)き納めつつ、実は、主の愛の内に、むしろマリアさまこそ大切に抱(いだ)かれておられることを、マリアさまは至福の内にご存知であられたに違いありません。

わたしたちは、神の母聖マリアさまとともに新しい年を迎えます。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 12/31

聖家族 ルカ2:22-40

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

マタイによる福音は、彼の伝える福音の始めに、ヨセフさまの夢の中に主の天使が現れ、次のように告げたと語っていました。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(1:21)

ヨセフさまの夢のみ使いのお告げの通り、マリアさまからお生まれになられた幼子は、「イエスと名付け」られました。新約ギリシャ語の「イエス」の名は、元来の旧約ヘブライ語では「ヨシュア」で、主は救うという意味です。ただし、主イエスにおいて、神はどのようにしてわたしたちを救ってくださるのでしょうか。

クリスマス夜半のごミサの冒頭、今年も教会の古い伝統に従い、わたしは幼子キリストの御像を両掌で抱かせていただいて聖堂に入堂し、祭壇前の小さな馬小屋の前に跪き、その中の飼い葉桶の稟の上に、幼子イエスの御像を安置させていただきました。そのようにさせていただきながら、後に幼子イエスをエルサレムの神殿で、その老いた腕に抱きしめた老シメオンのことを思い起こしていました。その日、老シメオンが感激の余り歌わずにはおれなかった歌を、ルカの福音は伝えています。

「主よ、今こそあなたは、おことばどおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」(ルカ2:29-32)

老シメオンのようにわたしたちも、マリアさまからご聖体の内に同じ幼子イエスを両の掌に受け取り、大切に抱かせていただきます。老シメオンと共にわたしたちもごミサで、ご聖体の幼子キリストの内に神の恵みの約束の一切を、すべての神の救いのご計画の成就を、わたしたちへの祝福として受け取らせていただいてよいのです。これが、主イエスにおいて神がお与えくださる救いです。老シメオンの歌ったように、マリアさまと共にわたしたちも、「神の栄光をこの目で見た」からです。

神の栄光。ヨハネによる福音は、それを次のように伝えていました。「言は肉(フランシスコ会訳では「人」)となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1:14) さらにヨハネは続けて、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(1:18)

確かに、「いまだかつて、神を見た者はい」ません。罪なる者が、聖なる神に見(まみえ)ることは許されていないからです。神を見ることは、罪なる者には死と滅びを招きさえします。ただしかし、自らの罪を自らで贖い切れないわたしたちは、罪を赦してくださる神に会わせていただく他に、救われる道はありません。この二律背反(ディレンマ)の中に、人は長くその身を置き続けて来ました。クリスマスの夜まで。

しかし神は、今ここに、人となられた神イエス・キリストにおいて、わたしたちにお会いくださいます。老シメオンの言葉のように、それは(神が)万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」

ただしそれは、主イエスが、わたしたちの罪を十字架で一身に負われ、わたしたちの罪を贖い切ってくださることによってのみ、わたしたちに成就する救いです。老シメオンはマリアさまに告げていました。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。」

先に、「イエス」という名は、ヘブライ語ではヨシュアであると申しました。旧約でヨシュアとは、神がモーセによってお始めになられた神の民の救い、すなわち神の民のエジプトから約束の地への「過越(出エジプト)」のために、モーセと共に働いて神の民をエジプトから導き出し、さらにモーセ亡き後、モーセを継いで神の約束された約束の地に神の民を導き入れた、「旧約の過越」の成就者の名です。

明らかに主イエスの名には、旧約のヨシュアが隠されていると思います。神が主イエスの聖家族を最初にエジプトに導かれた(マタイ2:13-23)のは、後に、神が彼らを「エジプトからわたしの子を呼び出」されるため」、新しいヨシュアであるキリスト・イエスによって、新しい神の民である聖家族に、新しいエジプトからの過ぎ越し・主イエスの十字架と復活による「新約の過越」を成就させることの「しるし」でした。

「聖家族」。それは、主イエスによって「神の国」へと確実に導き入れられ、「神の国の主」キリストを主として生きる新しい過越の神の民です。洗礼によってわたしたちが招き入れられたのは、この「聖家族」、しかもその「食卓」、すなわちごミサです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 12/25

主の降誕(日中)ヨハネ1:1-18

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「ことばは人となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」

クリスマス、おめでとうございます。皆さんに神の御祝福がありますように。

今年も未だコロナ終息が見通せない中でのアドベントの期間、わたしたちは使徒ペトロの言葉を頼りに、主イエスとそのみ国を「神が約束されたゆえに待ち望み」ました(ペトロ2,3:13)。この世にあって確実なものは「神の約束」だけです。そしてクリスマス。主イエスを、母マリアさまを通して、心からの感謝と喜びの内にお迎えします。

わたしが長く奉仕させていただいた英国の教会では、クリスマスの深夜のミサで、司式司祭が幼子キリストの小さな御像を両の掌(たなごころ)に抱いて入堂します。そして、祭壇の前か祭壇脇に置かれた小さな馬小屋の前に跪き、その中の飼い葉桶の稟(わら)の上に、そっと幼子キリストの御像を安置してからミサを始めます。

英国での毎年のクリスマス深夜ミサの度に、司祭であるわたしは、生まれて間もない赤ちゃんをわたし自身この手に抱いた時のことを思い出しました。同時に、かつて幼子キリストをエルサレムの神殿で、その老いた腕に抱きしめた老シメオンのことも。その時、彼が感激のあまり歌わずにはおれなかった歌をルカは伝えています。

「主よ、今こそあなたは、おことばどおり、このしもべを安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの光栄です。」

(ルカ2:29-32)

「ことばは人となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」

主イエスは、わたしたち人間の思いや力を超えた、だからこそ確実な「神の約束ゆえに」、母マリアさまを通してわたしたちのもとに来てくださった神ご自身です。

クリスマスの礼拝で、マリアさまから老シメオンのようにわたしたちもご聖体の内に同じ幼子キリストを両の掌に受け取らせていただき、大切に抱かせていただきます。老シメオンとともに、ご聖体の幼子キリストの内に神の約束の一切を、神の恵みのご計画のすべての成就を、わたしたちへの祝福として受け取らせていただきます。

クリスマスのミサで、わたしたちも母マリアさまとともに、マリアさまのように、幼子キリストを小さなご聖体の内に抱かせていただき、見つめさせていただきたいのです。幼子キリストをご自身の胸に抱かれたクリスマスのマリアさまの神への畏れ、驚き、喜びと感動、そして安堵の涙、その聖母さまの心の動き、さらに感謝と祈りの一切を、わたしたちも、今、ここで、マリアさまとともにさせていただきたいのです。

人が神に代わろうとしてきたわたしたち人類の長く空しく倒錯した過去は、ここに終わりました。そのために、本当に多くの人が自らを偽り、自分を失い、さらには多くの人を惑わし、傷つけ、犠牲にしてきた過去は、今、ここに確実に終わりました。

「神が人となられた」今、わたしたちが母マリアさまとともに幼子キリストに見つめているのはこの事実です。かつてのように見知らぬ神とその恵みを虚ろに求めて彷徨(さまよ)い続けた時は終わりました。今から後は、クリスマスに神が主イエスにおいて成就された受肉の恵みの事実に立って生きて行けるのです。老シメオンの歌うように、マリアさまとともに、わたしたちも「神の栄光をこの目で見た」からです。

「ことばは人となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

「主イエスにおいて人となられた神の栄光」。それは老シメオンの言葉のように、「神が万民のために整えられた救い、異邦人を照らす光、神の民イスラエルの光栄。」主イエスは人を救い、活かし、人に光栄を与える神のいのち神の栄光とは主イエスにおいてわたしたちに与えられる神の恵み。実は、それは主なる神ご自身です

神はご自身をお与えくださるために人となられた。主イエスとは、そのようにわたしたちにご自身をお与えくださる神ご自身の栄光のお姿です。老シメオンがマリアさまとともに、幼子キリストの内に見つめた神の栄光とは、実は神の自己奉献の事実。それは、わたしたちがミサの度に、ご聖体の内に見つめ味わう神の真実です。

クリスマスから後、主イエスにおいて神の栄光は、さらに輝きを増し加えて行きます。クリスマスの幼子キリストは、栄えて行かれます。十字架、さらにご復活に至るまで。

クリスマスの出来事は、決してクリスマスだけで終わりません。それは、毎日のミサ毎に、ご聖体においてわたしたちに体験され続ける神の恵みの出来事です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 12/25

説主の降誕(夜半)ルカ2:1-14

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

ルカによる福音は、主イエスのご降誕を、その当の夜半に最初にお祝いすることを許されたのは、マリアさまとヨセフさまの他には、貧しい羊飼いたちであったと伝えています。彼らは、マリアさまたちが滞在しておられたユダヤのベツレヘムの地方で、その夜、「野宿をしながら、夜通し羊の群れの番を」していました。

灼熱の日中とは異なり、夜半には気温が零下にも降ることのあるベツレヘム郊外の荒野。おそらく小さな焚火だけを暖を取る手立てとして、野外で肩を寄せ合うようにして夜通し太陽の昇る朝を待ちわびていたに違いない貧しい羊飼いたち。神は、とくにその彼らを、世界で最初のクリスマス夜半の祝いに招かれました。ルカによる福音は、その時の様子を次のように伝えています。「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常におそれた。」

羊飼いたちは恐れました。何を、でしょうか。彼らは神を恐れました。なぜ、でしょうか。町の城壁の外で羊の群れの番をして生活を営む他無い貧しい羊飼いたち。彼らは律法学者が求めるユダヤの律法を守れる境遇にはありませんでした。律法を守ることも、律法に従って神を礼拝する事もできない羊飼いたちを、町の人々は、神の恵みにふさわしくない者たちとして蔑んでいました。羊飼いたち自身も、罪人の彼らにはアドベントは無縁だと思っていたと思います。クリスマスの夜までは。

しかし、神がわたしたちのもとに来られる(アドベント)との決断は、人ではなく神ご自身によることです。使徒ペトロは、わたしたちは神が来られるのを、人の期待や計らいにではなく、「神の約束に従って待ち望んでいる」(2ペトロ3:13)と教えています。

神のみ使いガブリエルは、マリアさまに遣わされた時、驚き恐れるマリアさまに「おめでとう(ギリシャ語kaire、恵まれた方。主があなたと共におられる」と告げました。

み使いが告げたのは、マリアさまが気付かない内に、すでに、神が彼女とともにおられる(インマヌエル)と言う事実です。アドベントとは、この事実への気付きの時です。

実は、クリスマスの遥か以前から、主イエスをわたしたちのためにお遣わしくださるための神ご自身のご準備が、み使いガブリエルに象徴される旧約の預言者の長い時代を貫いて続けられていたのです。その上で、地上のアドベント(神が来られる)は、母マリアさまが聖霊によって神の御子キリストを宿されることによって、歴史の事実、さらに、後にご聖体を受けるわたしたちの身の事実となりました。

真のアドベント来たり給う神をお迎えすることとは、神への恐れと感謝の内にマリアさまと共に、マリアさまのように、わたしたちもこの身に神の御子を宿させていただくことではないでしょうか。ただしそれは、偏に神の恵みにのみよることです。

アドベントとは、ユダヤの律法学者たちのように、律法を上手に解釈し神との一定の距離を保ちながら、自分の心を自分で操作するようなことではありません。わたしたちにとってアドベントとは、マリアさまのようにこの身をそのまま神に明け渡してしまうことです。神の御子をこの身に宿させていただくとは、そういうことではないでしょうか。律法を読むこともできず、律法を解釈して神と自分の間に距離を置く術も持たない羊飼いたちは、ただ神の恵みによってアドベントへと導かれました。

その羊飼いたちは天使のことばを聞いて、神を「非常に恐れ」ました。彼らは、主なる神が来られたならば、主のみ前に自らを弁護する術もなく、主に自分たちを明け渡してしまう他ないことを良く知っていました。同時に彼らは、自分たちが神のものとされることに堪え得ない罪人であることをも、誰よりも良く知っていました。

だからこそ、み使いは、羊飼いたちに告げます。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。神が求めておられるのは、マリアさまのように、また彼ら貧しい羊飼いたちのように、真に神を恐れる者たち、神のみを恐れる者たちだからです。「神を恐れる」者にこそ、神はご自身の御子を宿させてくださるのです。さらに、彼らに宿された神の御子によって、彼ら自身を福音の使者、すなわち「民全体に与えられる大きな喜び」の使者とさえしてくださるのです。

畢竟、それは神の天使たちに加わって神を賛美することです。羊飼いたちの見上げる天には、すでにみ使いたちによる神の勝利と歓喜の歌声が響いています。

「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」

クリスマスのこの夜、マリアさまとヨセフさま、また、羊飼いたちのように真に神を恐れるみなさんに主イエスが来てくださいます。「恐れるな」とのおことばを携えて。

クリスマス、おめでとうございます。神の御祝福が皆さんの上にありますように。

父と子と聖霊のみ名によって。   アーメン。

司祭の言葉 12/24

待降節第4主日 ルカ1:26-38

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

「わたしは主のはしためです。おことばどおり、この身になりますように。」

いよいよ、アドベント最後の主日を迎えました。わたしたちのただ中に輝くアドベントの4本のろうそくに、みことばとご聖体における光なるキリストをみつめさせていただきつつ、クリスマスの秘義に備える緊張感と喜びに胸がはずみます。

クリスマス前の12月17日から24日までの8日間を、カトリック教会は、古来、アドベント・オクターブ(8日間)と呼んで大切にしてきました。今日はその最終日。この期間、教会は伝統に従い、日毎のミサの「アレルヤ唱」及び「晩の祈り」の「福音の歌(マリアの賛歌)」の交唱)に示される特別な主題を覚えて、一日一日を歩んでまいります。

この期間の福音朗読は、(主日に重なった場合、主日の福音朗読個所が優先されますが、) 17日のマタイによる福音の「イエス・キリストの系図」に始まり、18日は同じマタイから、マリアさまの夫ヨセフさまへのみ使いの啓示。19日には、ルカによる福音から、キリストの先駆者・洗礼者ヨハネの誕生の予告。12月20日は、ルカによる福音から、キリストの母とされるマリアさまへの天使ガブリエルのお告げ。21日には、同じルカから、マリアさまのエリザベト訪問。22日は、ルカによる福音から、マリアさまの賛歌。23日も、ルカから、洗礼者ヨハネの誕生。アドベント・オクターブ最終日の24日も、同じくルカによる福音から、洗礼者ヨハネの父ザカリアの賛歌からお聞きいたします。

毎日の主題と福音朗読箇所に導かれて、アドベント・オクターブはアドベントの仕上げとして、クリスマスの秘義に備えて今一度祈りを深めさせていただく時です。(実は、クリスマスChristmasとはChrist-massであり、「クリスマス」それ自体「キリストの秘義」の意。)

クリスマスにマリアさまを母としてお生まれになられるキリスト。この方こそ、わたしたち一人ひとりに命を与え、聖霊によって導き、そのようにしてわたしたちと「始めから」「いつもともに」あってくださった、インマヌエルなる神ご自身です。

罪なるわたしたちには目に見ることが許されないその神ご自身が、主イエスにおいて、ご自身をわたしたちに「よく見て、手で触れる」ことをさえ許し、さらにわたしたちにご自身を「永遠のいのち」としてお与えくださる。それが、クリスマスの秘義

待降節第4主日の今日の福音は、大天使ガブリエル(「神のことば」という名の天使)によって、母マリアさまに、主イエスの受胎告知がなされます。み使いは、ナザレの村のおとめマリアさまを訪れて、神のみことばをお告げになりました。「おめでとう(ギリシャ語kaire)、恵まれた方。主があなたとともにおられる。」マリアさまは、主を畏れました。そのマリアさまに、天使は告げます。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。」

なお戸惑うマリアさまに、さらにみ使いガブリエル(神のことば)は、優しく、しかし力強く語り続けます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」

「聖霊があなたに降り」と、わたしたちが決して聞き逃してはならないことをみ使いはマリアさまに告げていました。神の御子をその身に宿されるために、マリアさまは聖霊によって守られる。わたしたちも同様です。本来神を見ることさえ許されない罪人であるわたしたちこそ、秘跡の内に、つまり洗礼およびご聖体の二重の秘跡の内に働かれる聖霊の、わたしたちの罪を赦す慈愛のみ力により守られて始めてキリストのからだであり主のいのちであるご聖体を受けることが許されるのです。

母マリアさまへの神のことばは次のように結ばれます。「神にできないことは何一つない。」秘跡の内に働く聖霊なる神は、そのみ力によってわたしたちを守り、罪人のわたしたちにご自身を「永遠のいのち」として与えることさえおできになる。もはや、疑うべくもないみことばなる神ご自身に、マリアさまはお応えになられました。「わたしは主のはしためです。おことばどおり、この身になりますように。」

キリストの誕生。クリスマス、すなわちキリストの秘義。神は、見えないご自身を見える方としてくださいます。それのみならず神は秘跡によってわたしたちを守り、さらに秘跡においてご自身をわたしたちにお与えくださいます。キリストは、わたしたちにご聖体として、さらにご聖体の内に働く聖霊として、ご自身をお与えくださるために人となってくださる。神なる主キリストの受肉こそ、神の究極の愛の秘義です

クリスマスの秘義。わたしたちへの神のこの究極の愛ゆえに、神の母として選ばれたマリアさまは、神の奉仕者としてその尊いご生涯全体を捧げて行かれます。「おことばどおりこの身になりますように」 これは、わたしたちの祈りでもあります。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 12/17

待降節第三主日 ヨハネ1:6-8,19-28

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

待降節も第三週を迎えました。アドベント・リースに明るいバラ色のろうそくが灯されました。教会は昔から、この主日を、今日の入祭唱に歌われた使徒パウロの『フィリピの信徒への手紙』の言葉、「主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」から、「喜びの主日」(kairete Sunday)と呼んできました。

実は、ここで「喜べ」と訳されたギリシャ語kaireteは、受胎告知に際して天使ガブリエルを通して父なる神が聖母マリさまに語られた最初の言葉(ルカ1:28)であり、さらにはご復活の主イエスご自身がマグダラのマリアに語った最初のことばです(マタイ28:9)。このことから明らかに、神の受肉およびご復活の主との出会いと重ねられた主の到来para-ousiaに、使徒パウロは主を指し示して告げます。「喜べ。主は近づいておられる。(ギリシャ語副詞engusはparaと同義で「目の前に」の意) (フィリピ4:4,5)

このパウロの言葉は、旧約の時代に主を待ち望む者に預言者ゼファニヤを通して語られた神のみことばを思い起こさせます。「娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び踊れ。」(ゼファニヤ3:14) 実は、預言者はこれに続けて、「その日、人々はエルサレムに向かって言う」(ゼファニヤ3:16以下)と、神が来られるのを来るべき未来のこととして語ろうとするのですが、驚くべきことに、神ご自身が、預言者を遮って次のように、未来ではなく、今現在の事実を宣言されます。イスラエルの王なる主はお前の中におられる。(ゼファニヤ14:15)。

パウロも同じことを語っていました。「主にあっていつも喜べ。主は近づいておられる。」つまり「近づいて来られる主(直訳は、目の前の主)この主にあって、喜べ。」 つまりアドベントに、わたしたちが気付くべき神の事実があります。実は、わたしたちが待ち臨んでいた方は、すでにわたしたちと共におられる。もちろんその方は、預言者を通して歴史の始めからみことばを語って来られた神なる主ご自身です。使徒ヨハネも、降誕日に来られる主イエスを、初めからあった方と証ししています。

「初めから(すでに)あった方」が来られる。どのようにしてなのか。主イエスの弟子ヨハネは、明らかにご聖体の秘跡における主の現存の事実の彼自身の体験から、次のように記します。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、いのちのことばについて。このいのちは現れました(ギリシャ語で事実・現実を示す過去形!)(1ヨハネ1:1,2)主イエスの降誕祭で祝う神の秘義とは、初めからあったいのちのことばが、わたしたちに現れてくださった(わたしたちの現実となった)ことなのです。それは、主が「初めからあった」にもかかわらず、見えないゆえに主を疑っていたわたしたちに、主がご自身を「よく見て、手で触れ」ることができるようにしてくださったということです。

その恵みの事実を、ヨハネは、彼の福音に次のようにも伝えています。「ことばは肉(フランシスコ会訳では「人」)となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」(ヨハネ1:14)「いまだかって、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(同1:18)見えない神が、ご自身を見える方としてくださった。旧約の預言者たちを通して世の始めからみことばを語ってこられた見えない神ご自身が、マリアさまを通して、その御子イエス・キリストにおいて見える方となってくださった。これが、クリスマスの秘義です。

「主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる(副詞engusは、直訳すればほら、ここに)。」わたしたちは、もはや見えないゆえに神を疑う罪の暗闇に迷い続ける必要はありません。「闇に打ち勝つ光」が灯ったからです。アドベント(「神が来られる」の意)という神ご自身の約束の内に、実は、神は、わたしたちのために、わたしたちのただ中で、すでに、主にあっての喜びの時」を始めておられます。

見えなかった神が主イエスにおいて見える方となられる時。それは、同時に、わたしたちが預言者を通してお聞きして来た主のみことばの一切が成就する時でもあります。否、それ以上です。洗礼者ヨハネは、わたしたちに告げていました。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(マタイ3:11)

見えるようになられた神は、すでに語られたみことばを成就されるだけではなく、わたしたちに「聖霊と火」をくださる。主ご自身のいのちである聖霊を、わたしたちの内に永遠に光り輝き続けるいのちの炎としてお与えくださる。見えない神が主イエスにおいて見えるようになるばかりではなく、さらに神ご自身が、「聖霊」としてわたしたちの内にまで来て、わたしたちに「いのちの炎」を灯してくださいます。

クリスマス。それは、わたしたち一人ひとりにおける「いのちの炎・主イエス」の誕生です。実は、それはミサ毎にわたしたちに体験されている命の事実でもあるのです。

「主にあって喜べ!」 父と子と聖霊のみ名によって。

司祭の言葉 12/10

待降節第二主日 マルコ1:1-8

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

アドベントの第二のろうそくに火が灯りました。主イエスの使徒ペトロは、待降節のわたしたちは、「義(即ち、救い主キリストの宿る新しい天と地(即ち、神の国を、神の約束に従って待ち望んでいるのです」と教えていました(第2朗読、2ペトロ3:13)。

そのわたしたちに、洗礼者ヨハネは、「悔い改めよ。天の国(すなわち、約束されていた義であるキリストの宿る新しい天と地)は近づいた」と、今日の福音の内に、待降節(アドベントad-ventつまり、神の到来)を高らかに告げています。

その洗礼者ヨハネを、福音記者マタイは、旧約の預言者イザヤのことばを引いて、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」「荒野で叫ぶ者の声」であると紹介していました(イザヤ40:3a)。このようにして、マタイはわたしたちに、先の言葉に続くイザヤの預言の次の言葉を想い起こさせます。すなわち、「わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。」(イザヤ40:3b,4)

主なる神が近づいて来られる。「来るべき神をお迎えするために、荒野に広い道を準備しなさい。そのために、高い山は削り、深い谷は埋めなさい。険しく狭い道があれば、広く平らにしなさい」と、神は、預言者イザヤを通してわたしたちに求めておられます。神にお会いさせていただくためです。

しかし、神はなぜこのように仰せになられるのでしょうか。わたしたちが、天地の創造主、全能の父なる神にお会いさせていただくためには、わたしたち一人ひとりに高い山を上り、深い谷を降る努力が求められてしかるべきではないでしょうか。実は、神は、預言者イザヤを通して、その理由を次のようにお告げになられます。「主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者(すなわち、わたしたちのすべて)は共に見る。」(イザや40:5)

神がお会いになることを求めておられるのは、高い山に自力で上ることができる者たち、あるいは低い谷を自らの足で降りきることができる者たちだけではありません。そのような優れた者たち、つまりわたしたちの内の選ばれた者たち、限られた者たちだけではなく、「肉なる者」すなわち「わたしたちのすべて」が、「共に」神に見(まみ)えることができるようにと、神は強く願っておられるのです。

ここで「わたしたちのすべてが共に」と言う以上、「弱い者」、「貧しい者」、「小さい者」など、自力では高い山に登ることも、深い谷を渡ることもできない者たちが、その中に含まれていなければなりません。むしろ、神に助けていただくこと無しには生きて行くことができない彼らこそ、神にお会いさせていただかなくてはならないはずです。しかし彼らとは、実はわたしたち自身のことではないでしょうか。

そのようにして神にお会いさせていただいた者すべてに、神はイザヤを通して、「見よ、あなたたちの神。見よ、主なる神」(イザヤ40:9c、10a)と、わたしたちの周りの多くの人々にも、主なる神を示し、救いを告げ知らせることを求めておられます。

わたしたちにとって、生涯かけて礼拝し、お仕えさせていただく神、真に畏れるべき唯一人の神にお会いさせていただくことこそ、真の救いです。もし、わたしたちが真の神にお会いできないならば、神ならぬあらゆるものを恐れて生きる人生を送る他ありません。真に畏れるべき神が不明ならば、神以外のすべてのもの、すなわち恐れる必要のないものすべてを恐れて生きる他無いからです。まことの救いとは、そのような悲惨な人生から解放されることではないでしょうか。

待降節(ad-vent)は、このようにして洗礼者ヨハネに励まされ、降誕日(Christ-Mass)に「わたしたちのすべてが共に」「神の栄光を仰ぎ見」させていただくために祈り備えるための大切な時です。

わたしたちは、ヨハネが彼の命をかけて指し示した「聖霊と火で洗礼をお授けくださる」主イエス・キリストが来られるのを切に待ち望んでいます。「その日」、主は、わたしたちのみ前にお立ちくださるだけではありません。主は、ご聖体においてわたしたちの内にまで来てくださいます。主は、ご聖体の内に、主の霊・聖霊としてわたしたちの内に働かれ、わたしたちすべてをご自身の似姿に変えてくださいます。実は、ごミサこそ当にその時です。

キリストは、わたしたちにご自身のいのちを与え、聖霊によって新たにするご聖体の秘跡となってくだるために、受肉し人となってくださいます。待降節の間、わたしたちが待ち望むのは、この主のご降誕です。「主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者(わたしたちのすべて)は共に見る。」それが主とわたしたちのクリスマスです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。