司祭の言葉 8/20

年間第20主日マタイ15:21-28

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音には、一人の「カナンの女性」が登場します。カナンの地に住む女性とは異邦人の女性です。当時のファリサイ派の人々は、異邦人を、救いが約束された神の民とは厳格に区別され、神との契約の相手ではなく、「真の神」とも「真の信仰」とも無縁な神の救いの埒外の者と見なしていました。そのカナンの女性が主イエスを訪ね、主は彼女に「真の信仰」をお認めになった。それが今日の福音です。

確かに、この異邦人の女性にとって主イエスにお会いするまでは、「真の神」も「真の信仰」も無縁だったでしょう。神の民であることを誇るファリサイ派の人々は彼女を異邦人と見下し相手にしません。また彼女の方も、そのような彼らにはまったく関心はなかったでしょう。しかし、主イエスは彼らとはまったく異なった存在でした。彼女は主にどうしてもお会いしたいと切に願いました。そして、主にお会いした時、彼女は主に信頼し、自分自身と重い病を負う自分の娘とをお委ねしたのです。

神なる主イエスに対して、これがこの異邦人の女性がしたことの一切です。しかし、神にとってはそれで十分でした。なぜなら、それこそ「真の神」がわたしたちに期待される「真の信仰」だからです。なぜなら、「真の信仰」とは、主イエスにおいて「真の神」にお会いさせていただき、主に信頼し、主に身も心も主に委ねさせていただくこと以外の何ものでもないからです。だからこそ、主はこの女性に仰せでした。

「あなたの信仰は立派だ(十分だ)。あなたの願いどおりになるように。」

福音の語るこの物語に、わたし自身、畏れと感動の思いを禁じ得ません。わたしには、この異邦人の女性が他人とは思えません。わたしが最初に主イエスのことをお聞きした時、わたし自身、「真の神」も「真の信仰」も知らぬ異邦人以外の何者でもなかったからです。しかし、今日の福音は、主のみ前にはカナンの地に住む女性のように異邦人であること、つまりイスラエルの民ではないことなどまったく問題にはならないことをはっきり示してくれています。それには明確な理由があります。

その時カナンの女性の前に、そして今、わたしたちの前にお立ちになっておられる主イエスこそ、かつてイスラエルの民に預言者を通してみことばを語られた主なる神ご自身だからです。今や、主なる神ご自身が、主イエスにおいてわたしたち一人ひとりの前にお立ちになっておられる。この主のみ前には、かつてのようなイスラエルの民と異邦人の区別はもはやありません。「一人の神の前に一人立つ」このわたしがあるだけです。わたしたちは、今、カナンの女性のように、この「真の神」に信頼し、主に自らを委ねさせていただけば良いのです。それが「真の信仰」です。

また、今日の福音の物語は、「真の信仰」とは理屈でもきれいごとでも無いことを教えてくれていると思います。このカナンの女性は、おそらくは彼女の娘の病を契機に、自らと自らの過去を見つめ直し、そこで自覚された、実は娘の病に増して癒され難い自分自身の罪に直面し、主イエスのことが気になり始め、娘の救いのみならず、自分自身の救いを求めて、主にどうしてもお会いしたいと願うようになったのではないでしょうか。そして主にお会いし、自分と娘をともに主にお委ねしたのです。彼女にとって、それ以外に母子ともに救われる道、生きる道は無かったからです。

このカナンの女性が母として、重い病に苦しむ娘の救い、そして自分自身の救いを求めて一心不乱に主イエスを求めたように、まさに信仰とは、心から主を求め、主にお会いさせていただき、主に自らを委ねさせていただくことです。

その時、神なる主イエスは、わたしたちが主にお会いするために、わたしたちの方で別人になってから来るようにとはお求めになっていません。たとえそのように求められても、カナンの女性にはどうしようも無かったでしょう。わたしも同様でした。若き日の仏道修行で直面したのは、厳しい修行によっても救われ難いわたし自身でした。そのわたしが、幸いにも主の教会に導かれ、真の救い主イエスにお会いさせていただきたいとの願いをあたえられ、しかも、その主に、ミサにおいて確かにお会いさせていただき、その主に一切を委ねさせていただいたのです。

主イエスはカナンの女性に「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と仰せでした。つまり、「真の信仰」とは、「真の神」主イエス・キリストを心から求め、主にお会いさせていただき、主に自分も家族も委ねること以外のなにものでもありません。そして、主は、主を心から求めるわたしたちに、カナンの女性になさったように、わたしたちを家族ごと救ってくださるために、ご自身のからだを裂き、ご自身の血を流してまでしてご自身のすべてをわたしたちにお与えくださいます

「真の信仰」をいただくことは、「真の神」主イエスご自身をいただくこと「真の信仰」である「真の神」主ご自身を、わたしたちは、今、このミサでいただきます。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 8/15

「天の食卓に迎え入れられて」

聖母マリアさまの被昇天の祭日の黙想 
(2023年8月15日、ルカ1:39-56) 

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」

聖母マリアさまのこのおことばは、「聖母被昇天」の祭日の「集会祈願」のように、後に「からだも魂もともに天の栄光に上げられた」「神の母」聖マリアさまの喜びを、聖霊により御子キリストを宿されたその時から、すでに先取りしているようです。

実は御子キリストは、ご自身の十字架と、十字架に続くご復活とご昇天を前にして聖母マリアさまと弟子たちに次のように約束しておられました。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(ヨハネ12:32) 紀元五世紀に遡る「聖母被昇天」の祭日。それは、御子キリストが、ご自身のこのお約束をご自身の「母」マリアさま、だれよりも愛しかつ誰にも優って感謝してやまない聖母さまに、わたしたちすべてに先んじて最初に成就されたことの記念です。

ところで、聖母さまが御子キリストによって「上げられた」「天の栄光」とは、何を意味しているのでしょうか。それは、「父・子・聖霊」の「三位一体の神」の「聖なるいのちの交わり(communio)のこと。しかもそれは、教会の伝統では、ロシアのリュブリョフの有名なイコンのように、「三位一体の神」なる「父と子と聖霊」の「天の食卓(の交わり)」として描かれて来ました。そうであれば、聖母さまが「天の栄光に上げられた」とは、聖母さまが「天」における「父・子・聖霊の三位一体の神」の「聖なる交わりの食卓(communio)」に、大切に、かつ感謝をもって迎え入れられたということです。

聖母さまが、三位一体の神の天の食卓に迎え入れられる。これは、「神の母」としての誠実なご奉仕を地上で終えられた後、上げられた天において聖母さまのご労苦に報いるにまことにふさわしいことでしょう。聖母さまは、「天の父なる神」の祝福とご意志を、「おことば通り、この身に成りますように」と受け入れ、「聖霊なる神」に満たされて神の御独り子を身籠り、「御子なる神キリスト」を産み育てられた方。

聖母マリアさまは、「神の母」、文字通り「神に御からだをお与えくださった方」(聖アタナシウス)です。「神の母」マリアさま無しに、わたしたちは、神なる主イエスのご聖体をいただくことはできません。つまり、ミサが成り立ちません。カトリックの信仰は、心の内に神を信じるという以上に、主イエスご自身が制定してくださったミサ(最後の晩餐・過越しの祭儀)において「神との霊的・神的な交わり(Divine/Holy Communion)」に入らせていただくこと」です。しかし、聖母さま無しに、わたしたちはご聖体の主イエスにおける神との御交わりに入らせていただくことはできません。

聖母さまは、聖霊によって父なる神の御ひとり子を宿された時から、天の「三位一体の神の交わり」に迎えられる日まで、「神の母」として、天の神の祝福に包まれ、聖霊に導かれ、御子キリストのおことばとみ業を「すべて心に納めて」行かれました。

      (ルカ2:51)

主イエス・キリストが「受肉された神」ご自身であることを、ご聖体の秘跡(ミサ聖祭)の体験を通して「わが身に知る」カトリック教会は、主の「受肉の秘義」に「母」とされることによってお仕えされた聖母マリアさまを、「偉大な人イエスの母」としてではなく、「受肉された御子なる神」の「母」、すなわち「神の母」「神に御からだをお与えくださった方」と、確信と感謝と喜びをもってお呼びさせていただいて参りました。しかし、このことはミサを離れては、決して自明のことではありません。

事実、約300年間の迫害の時を、カタコンベでミサを死守した教会でしたが、4世紀初頭コンスタンチヌス大帝により教会が公認され、保護されるようになると、ミサを離れた観念的な議論で教会を混乱させる人々が現れました。彼らは、聖母さまによる受肉の秘義を認めず、従って主イエスを受肉された神と認めず、聖母さまも「偉大なる人イエスの母」に過ぎず「神の母」ではないと主張しました。ミサのご聖体において「受肉された神キリスト」を畏れと感謝をもって拝領する体験を欠き、主を観念的にしか理解できない人々には、これはやむをえないことかもしれません。

また、御子キリストが、ご自身の母・マリアさまを、父の許に上られる十字架の上から、わたしたちにも「母」としてお与えくださった恵みを忘れるわけには行きせん。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19:26,27)

それは、わたしたちが「神の母」聖マリアさまに抱かれて、「三位一体の神」の祝福の内に新たに生まれることを、御子なる主イエスが切に願われてのことに違いありません。「神の母」聖マリアさまは、わたしたちの母として、わたしたちを「三位一体の神の交わり」の内に、すなわち「永遠のいのちの交わり(commmunio)」の内に産んでくださいます。それは、聖母さまのように、わたしたちも「神の国の祝宴」、「父・子・聖霊の三位一体の神の食卓(の交わり)」に迎え入れられることでもあります。

「神の母」聖マリアさまを「わたしたちの母」とも呼ばせていただけるわたしたちカトリックの幸い。「神の母」聖マリアさま、わたしたち罪人のために、今も、死を迎える時も、お祈りください。  アーメン。

司祭の言葉 8/13

年間第19主日 マタイ14:22-33

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先の8月6日に、「主イエスの変容」の祭日を祝いました。高い山の上で、神ご自身であられる主イエスの光輝く真実のお姿を目の当たりに拝して、ペトロは、思わず主に、「主よ、わたしたちがここにいるのは素晴らしいことです」と申し上げました。

わたしたちもまた、このミサで、ペトロとともに主イエスに申し上げます。「主よ、わたしたちがここにいるのは素晴らしいことです」。なぜなら、今、このミサで、福音とご聖体において、主はわたしたちに神なる主ご自身を現してくださるからです。高い山の上で、ペトロにご自身を示されたと同じ光り輝く主ご自身を。

今日の福音は、この「主イエスの山上の変容」の少し前に起こった出来事です。「5つのパン」で5千人の人々を養われた主の「パンの奇跡」に続く今日の福音は、主が「湖の上を歩かれた」ことを伝えています。「パンの奇跡」と「水上歩行の奇跡」。主のこの二つの奇跡によってペトロは、他の弟子たちとともに、主に、「本当に、あなたは神の子キリストです」と、はっきりと告白し、主を礼拝しました。

まさにその時から、彼らは、主イエスをキリストと告白し生きる信仰と礼拝のまったく新しい命へと召されました。その後、人々の間に、イエスとはいったい何者なのかという議論が起こりました。ある者は、彼を「洗礼者ヨハネ」だと言い、他の者が「エリヤ」だという中で、主の「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いに、ペテロは躊躇せず、「あなたはメシア(ヘブル語、ギリシャ語ではキリスト、生ける神の子です」と答えました。そのペテロに主は仰せになります。

「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペテロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16:17-19)

主イエスの十字架とご復活の後、ペトロは、この主のおことば通りの命を生き、ローマでの殉教の死に至るまで、残された彼の生涯の一切を主に捧げて生き、かつ死んで行きました。そのことは、皆さんよくご存知です。

福音は、主イエスにおいて「神の国」が近づいたこと、むしろ、「神の国の主」である主イエスの在すところに「神の国」が来ているとの事実を宣言しています。これは、主イエス個人にのみ関わることではありません。主イエスおよびわたしたちの現実となった出来事です。主イエスの物語は、わたしたち自身の物語でもあります。

主イエスの奇跡と、弟子たち、さらにわたしたちの回心(主と心が一つにされること)。この二つの出来事が、一つの「神の国」の「事実」を語ります。その時、主と弟子たち、さらに主とわたしたちの間に生起した出来事の前と後において、世界は同じではありません。それが、聖書が証言し、わたしたちが体験している「事実」です。

最早、わたしたちには「パンの奇跡」同様、今日の福音の主イエスの「水上歩行の奇跡」を疑う理由は何もありません。それらの「奇跡」によって、事実、ガリラヤ湖の漁師ペテロと他の弟子たちに、「主イエスをキリスト」と告白し、主の使徒とされ、さらに教会の礎とさえされる、かつての彼らにとっては考えることもできなかったまったく新しい命が与えられたからです。まさに「神の国」の奇跡です。

事実、主イエスの使徒の頭(かしら)であるペトロを「岩」として神の教会が建てられ、事実その後の世界は、今に至るまで教会によって新しくされ続けてきました。そして、わたしたちは現に、使徒の頭ペトロの後継者であるローマ教皇を戴く、主の教会の一員であることによって、わたしたち自身がこの「神の国の奇跡」の証人です。

実に、主イエスの「パンの奇跡」と「水上歩行の奇跡」を疑う理由はわたしたちにはありません。なぜなら、それに優る奇跡を、主はペトロと同様にわたしたちに対しても行うことがおできになることを、わたしたちは知っているからです。事実、主はわたしたちの人生において、あるいはわたしたち自身を用いて、それに勝るとも劣らぬ奇跡を行い続けて来られたことを、教会二千年の歴史は雄弁に物語っています。

今、このミサにおいて、高い山の上でペトロに真実のお姿を示された主イエス・キリストご自身が皆さんにお会いくださいます。お会いくださるだけではありません。今、このミサにおいて、皆さんをペトロのような新しい命に生かすために、主は皆さんに、みことばとご聖体においてご自身そのものをお与えくださいます。

最早これは単なる物語ではありません。皆さんお一人おひとりに、今、現に、ここで起こっている主イエスの「神の国」の出来事です。ミサこそ最大の奇跡です。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 8/6

説教:主の変容 マタイ17:1-9

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。」

主イエスの光輝くお姿を目の前に仰ぎみることをゆるされたペトロの言葉です。

マタイによる福音は、主イエスの「パンの奇跡」の後、主が、「必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」(マタイ16:21)と、弟子たちに「打ち明け始められた」後、直ぐに続けて、今日の「主の変容」を伝えています。

このように語ることによって、マタイによる福音は、「パンの奇跡」すなわち主イエスとの「神の国の食卓」、続く主の十字架の死と復活の告示、さらに「主の変容」、この三つの出来事が、主が神の御子、神ご自身であられることを、弟子たちに明らかにされた一連の出来事であることを、わたしたちに示してくれています。

主イエスの「山上の変容」。マタイによる福音は、その日、主は、ペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子を連れて「高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた」と伝えていました。

さらにその時、弟子たちは「これはわたしの子、わたしの心に適う者、これに聞け」「雲の中からの声」すなわち「父なる神の声」を聞いたとマタイは伝えていました。

エルサレムに最後に上られるに先立ち、天の御父とともに御子キリストは、ペトロたちに、エルサレムで十字架にお就きになられ、さらに復活される方が、実は父なる神の御子キリスト、神ご自身であられることを、御子ご自身の光輝く父なる神のお姿への変容および「神ご自身の声」を以て、予めはっきりとお示しになられました。

ところで、マタイは、モーセとエリヤの二人が「イエスと語りあっていた」内容を伝えていませんが、同じ時のことをルカによる福音は次のように教えてくれています。

(モーセとエリヤの)二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」(ルカ9:31)

「最期」と訳された言葉は「過越」(エクソドス)という字であることに注意したいと思います。そうであれば、高い山の上で「モーセとエリヤが話していた」「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期とは、主イエスがエルサレムで成し遂げられる「主ご自身の過越」つまり主の十字架と復活のことであったことが分かります。

このように、山上での「主の変容」は、主イエスのエルサレムでの「主の過越」つまり「主ご自身の十字架と復活」に堅く結びつけられています。だからこそ、主は、ご自身の「山上の変容」の前および後に、ご自身の「過越」すなわち「十字架と復活」を、三度繰り返して弟子たちに予告しておられたのです(マタイ16:21、17:22、20:18)。

わたしたちすべてを創造し、支配される天の父なる神。その御子キリスト、神ご自身が、十字架におつきになられる。「主イエスの山上の変容」と「主の過越・主の十字架と復活の予告」が相俟って、ここに驚くべき神の救いの秘義が明らかにされました。

ところで、「主の変容」は、マタイによる福音ではさらに、「パンの奇跡」の物語によって、主イエスの「過越の食卓」つまり「神の国の食卓」とも結びつけられています。

「主の変容」が、主イエスのご受難の40日前であったとの伝承から、紀元5世紀以来、教会の暦では、「主の変容」の祝日は、9月14日に祝われる「十字架称賛」の祝日の40日前の8月6日に祝われて来ました。ここで、「主の変容」が、主の十字架の40日前との教会の伝承は、モーセに導かれたイスラエルの民が約束の地に入るまでの荒野の40年の旅を思い起こさせます。

事実、「主の変容」の後、主イエスは弟子たちとともにエルサレムに上る旅に就かれ、その40日後にエルサレムに入城された主は、弟子たちを、主ご自身との「最後の晩餐」すなわち「主の過越の食卓」に招かれました。そのようにして、主は、約束の地である「神の国」を「神の国の食卓」を以てお示しになりました

ただしそれはわたしたちにとって、主イエスの旅に伴い、旅の終わりエルサレムでの主の十字架と復活を通してのみ招き入れられる「神の国」です。その時、「神の国の食卓」に備えられ、わたしたちに与えられる「永遠のいのちの糧」が、実は「キリストのからだと血」であることが、ミサの度に主ご自身によって明らかにされます。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 7/30

年間第17主日マタイ13:44-52

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先の二週に続き、本主日の福音も、主イエスの「神の国(天の国)のたとえ」からお聞きします。「神の国」こそ、主の福音宣教の要(かなめ)です。「神の国の主」キリストの在すところに「神の国」が来ています。「神の国」とは、「神の国の主」キリストによってすでにわたしたちが体験することをゆるされている「我が身の事実」です。主は「神の国のたとえ」により、この「事実」にわたしたちの目を開かせ、主と心を合わせ、主に身を委ねて新しい命に生きるようにわたしたちをお招きくださいます。

今日の福音の「神の国のたとえ」は、「神の国」に招かれたわたしたちに、今、主が期待されることを語ります。わたしたちは主のご期待に応えて、福音の語る「畑に隠された宝」を見つけた農夫のように、「良い真珠」を見つけた商人のように、さらには水揚げした網の内から「良いもの」を選ぶ漁師のように、決して時を逸することがあってはなりません。わたしたちの持てる一切に代えて、今、「神の国」に隠されている「宝」や「真珠」や「良いもの」を「手に入れ」させていただくべきです。

しかし、主イエスの「神の国」に隠されている「宝」、「真珠」あるいは「良いもの」とは何のことなのでしょうか。それは、使徒パウロが、コロサイの教会への手紙に書き記したように、「キリストと共に神の内に隠されているわたしたちの命」のことではないでしょうか。パウロは、次のように記しています。

「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたもキリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロサイ3:1-4)

主イエスが来てくださった今こそ、主ご自身の「神の国」の内に神が隠しておられる「主と共に神の内に隠されたわあしたちの真実の命」を「手に入れさせていただく」ことが許される大切な時。この時を失ってはなりません。そのわたしたちに、今、この時、求められていることはただ一つです。主は仰せです。「出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、良い真珠を買いなさい」、あるいは「網がいっぱいになったら、岸に引き上げ、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てなさい。」

最早、過去の自分に拘泥せず「悔い改める」つまり「主と心を合わさせていただく」つまり「主が今わたしにお望みくださることを、わたし自身の望みとさせていただく」ことです。それは、過去のわたしに代えて、主が今わたしに新しくお与えくださる「キリストと共に神の内に隠されている命」を感謝していただくことです。

主イエスは福音宣教の始めに、「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と、仰せでした。「神の国の主」キリストが在すところに「神の国」は来ています。そしてわたしたちは、主によって、主ご自身の「神の国」に招かれています。その「神の国」に、主とともに生きる新しい命、新しいわたし、が隠されてあるのです。

この事実に目を開かれる時、わたしたちは主イエスへと「心を高く上げ」させていただいて良いのです。今や、過去のわたしは「過去」のわたし。主が与えられる「新しい」わたしを求めさせていただいて良いのです。「福音」そのものである主に、わたし自身を、わたしの未来を委ねさせていただいて良いのです。なぜなら、この方こそわたしのために十字架についてくださった主。十字架にわたしの過去を清算して、新しい命をお与えくださるために復活してくださった主ご自身です。わたしたちの新しい命は、主ご自身の命とともに「神の国」に隠されてあるのです。時を失ってはなりません。しかし、その新しい命を、どこで求め、どのようにしていただくのか。

マタイによる福音は第13章全体で、「神の国のたとえ」を七つ重ねて語りました。「神の国の主」キリストは、ご自身の「神の国」とそこに隠された「新しい命」に、くり返しわたしたちの目を開かせてくださった後、マタイ第14章に語られる「五つのパン」の出来事、つまり「パンの奇跡」へとわたしたちを招き入れてくださいます。「パンの奇跡」は、後の主イエスの「神の国の食卓」すなわちミサの「先取り」です。

「神の国のたとえ」によってすでに「神の国」に招かれてあることに目を開かれたわたしたちは、さらに「神の国の食卓」つまりミサに招かれます。主イエスがわたしたちを「神の国」に招いてくださったのは、新しい命をお与えくださるためにわたしたちを「神の国の食卓」に招かれるためだったのです。そして、その「神の国の食卓」・ミサには、聖体においてご自身をわたしたちにお与えくださる主ご自身がおられます。同時に、主によって新しくされるわたしたち自身がいます。「キリストと共に神の内に隠されている新しい命」を、今、このミサでいただいてください。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 7/23

説教:年間第16主日 マタイ13:24-43

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先週に続き、今主日も、主イエスの「神の国のたとえ」からお聞きします。最初が、「毒麦のたとえ」、次が「からし種とパン種のたとえ」です。「神の国の主」キリストにとって「神の国」こそ、福音宣教の中心です。マルコによる福音は、主ご自身の福音宣教の始めを次のように伝えていました(マルコ1:14,15)。

「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を述べ伝えて『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」

「神の国は近づいた(英訳はhas come)と、主イエスは仰せでした。しかし、それはいかなることなのでしょうか。ところでマタイによる福音は、洗礼者ヨハネが、ユダヤの領主ヘロデによって捕えられ、投獄されていた牢の中から自分の弟子たちを遣わし、主に「来るべき方は、あなたでしょうか」と問わせた時、主は次のように「神の国の主」ご自身における「神の国」の到来を、「事実」をもって、お答えになりました。

「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(マタイ11:2-6)

主イエスの在すところに「神の国」が来ています。「神の国の主」キリストの在すところが「神の国」です。主のヨハネへのおことばは、この「事実」を見事に語り示しています。そうであれば、「神の国の主」キリストによってミサに招かれたわたしたちは、すでに「神の国」のただ中にいます。驚くべき、しかし、まぎれもない事実です。

実に、「神の国」とは、「神の国の主」キリストによって、わたしたちがすでに体験することを許されている「わが身の事実」です。「神の国のたとえ」とは、わたしたちが、この「わが身の事実」に目を開き、心を向けるように主によって語られたものです。

そうであれば、今日の福音の最初の「毒麦のたとえ」と呼ばれてきた「神の国のたとえ」は、「神の国」のただ中に在って、「神の国の主」であるキリストのみ前に明らかにされた、わたしたちとわたしたちの世界の現実以外の何ものでもありません。

良い麦と毒麦の混在したようなわたしたちとわたしたちの世界に、だからこそ主イエスは来てくださいました。その主のみ前に、わたしたちは何をなすべきか。自分はよい麦であると自らを誇り、他を毒麦と神に代わって他者を裁くことでしょうか。あるいはその逆に、自分を毒麦と決めつけ、同じく神に代わって自らを裁くことでしょうか。唯一の裁き主であるキリストのみ前に、そのどちらも間違っていると思います。

主イエスのみ前に、わたしたちに求められているただ一つのことは、すべてをご存知の主に、わたしたちをそのままお委ねさせていただくことです。つまり「悔い改める」ことです。聖書で「悔い改める」とは、直訳すれば(主イエスと)思いを一つにする」つまり(主と)心を合わせる」ことです。わたしたちに「神の国は近づいた」と仰せの主は、続けて「悔い改めよ」と仰せになっておられました。

だからこそ主イエスは続けて(神の国の)福音を信じなさい」と仰せでした。ここで「信じる」と訳される語は「委ねる」という言葉です。つまり、主は「福音」である主にあなた自身を委ねてよいと仰せです。今日の第二の「神の国のたとえ」は、「神の国の主」キリストの力を「からし種とパン種」という誰でも知っている事実を以て語ります。そこには主に自らを委ねた主の教会が、二千年の間体験してきた「聖霊」による「主イエスと主のみ国」の驚くべき力と働きが見事に語り尽くされます。

「天の国(神の国)はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」さらに、「天の国(神の国)は、パン種に似ている。・・・」

「神の国の主」キリストによってすでに「神の国」の内に招かれてある幸い。今、主にわたしたちの心を合わせ、すべて委ねさせていただく幸い。「神の国」の中心にはわたしたちの罪の一切を身に受けて十字架につかれ、わたしたちにご自身のいのち「聖霊」を与えるために復活してくださった救い主がお立ちになっておられます。

もう二度と、わたしたちの弱さ、小ささに絶望する必要はありません。何よりも小さなものに働いて、何よりも大きく用いることがおできになる「神の国の主」キリストご自身が、今、ここに、福音とご聖体の内に現存し、「聖霊」において確実に、わたしたちに大いなるみ業を行ってくださる。これがわたしたちの信仰です。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と、主は仰せです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 7/16

説教:年間第15主日 マタイ13:1-23

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」

「みことばの種」が豊かに実を結ぶ「良い土地」とは、どこにあるのでしょうか。さらに、「耳のある者」とは、誰のことなのでしょうか。

今日の福音で、主イエスは、「種を蒔く人のたとえ」を、「大勢の群衆」にお語りになりました。主の「神の国のたとえ」の一つです。その後、主は、「なぜ、神の国を群衆にはたとえを用いてお話になるのですか」と問う「弟子たち」に、次のようにお答えになられました。「あなたがた(弟子たち)には天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たち(群衆)には許されていないからである。」

主イエスは、「天の国(神の国)」を、大勢の群衆に「たとえ」を用いてお語りになりました。なぜなのでしょうか。聖書の「たとえ」は、ある事柄の詳細を説明するためのものではなく、それを聞く者に、彼らのただ中ですでに始まっている「事実」に目を開かせるために語られます。したがって、「神の国のたとえ」は、「神の国の主」キリストによる「神の国」の到来の「事実」に、わたしたちの目を開かせてくれます。

「たとえ」一般がそうであるように、「神の国のたとえ」も、聞く人に応じてまったく異なった働きをします。主イエスの「神の国の福音」を喜んで受け入れる者には、「神の国のたとえ」は、彼らが「神の国」の内に、すでに招かれてあるという「事実」に目を開かせます。それは、聞く者に、深い畏れと感動を呼び起こします。

しかし反対に、主イエスのみことばを聞いても、受け入れない者には、「神の国のたとえ」は、むしろ、彼らに対して、すでに来ている「神の国」の真実を隠す働きをさえします。それゆえ「聞く耳のある者は、聞きなさい」と、主は忠告しておられます。

ところで、今日の福音は、主イエスが、大勢の群衆に「神の国のたとえ」を語られた後、主の弟子たちに対して、「あなたがたには天の国(神の国)の秘密を悟ることが許されている」と仰せでした。ここで、「神の国の秘密」とは、何なのでしょうか。さらに、「神の国の秘密を悟る」とは、いかなることなのでしょうか。

ここで、秘密と訳されている言葉は、ギリシャ語では「ミステリア」、ラテン語ではサクラメント(秘跡)。従って事柄は明快です。「神の国の秘密」とは「神の国の秘跡。わたしたちに見える形で与えられる「神の国そのもの」つまり「神の国の主」キリストご自身・礼拝における聖体(聖餐)のことです。特別な人にのみ与えられる「奥義」などでなく、わたしたち主の弟子たちすべてに与えられる聖霊の恵みです。

事実、主イエスは弟子たちに「あなたがたには天の国の秘密悟ることが許されている」すなわち「神の国そのもの」である「主イエス・キリストを知ることが許されていると仰せです。「悟る」とは「知る」という字です。しかし、これは驚くべきことです。聖書において「知る」とは「一体となる」ことであり、「主イエスを知る」とは、主と一体とさせていただくことだからです。しかしこれこそ神の国のサクラメント(秘跡)、つまり、主を聖体(聖餐)として拝領し、その聖体の内に「主のいのちである聖霊」を受けることによって、主の弟子すべてに体験されている恵みの事実です。

それにしても、主イエスが、「あなたがた(すなわち、弟子たち)には天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たち(すなわち、群衆)には許されていないからである」と仰せになられたのは、なぜなのでしょうか。先に、「たとえ」は、聞く人に応じてまったく逆の働きをすると申しました。主のみことばを聞きながらも、主を「神の国の主」キリストとして受け入れない者には、「神の国のたとえ」は、むしろその真実を隠します。事実、「群衆」は、主のみことばを聞きながらも主を受け入れず、後に主を十字架につけることになります。

しかし、「神の国の福音」に聞き、主イエスを「神の国の主」として喜んで受け入れた弟子たちには、「神の国のたとえ」は、彼らがすでに「神の国」に招かれてあり、主が彼らのために整えられた「神の国」の食卓で、「神の国の主」イエス・キリストのいのちである聖体と聖霊をともに受ける「神の国の秘跡(秘密)」へと彼らを導きます。

みことばを聞いて、主イエスによる「神の国」の到来を喜んで受け入れ、その「神の国の主」キリストに自己の全てを託して従う弟子たちという「良い土地」に「蒔かれる」種には、主は「ご自身のいのちである聖体(聖餐)と聖霊」を与えて、驚くほどの「聖霊の実」を結ばせてくださるとお約束くださいました。実は、わたしたちを大勢の群衆の中から、主の弟子・神の国の秘跡に与る者としてくださったのも聖霊の恵みです。この恵みは、聖霊を求めるすべての人に開かれています。誰も、主のみ前にいつまでも群衆の一人に留まる必要はありません。聖霊を求めてください。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 7/9

説教:年間第14主日 マタイ11:25-30

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

人生に悩み、疲れを覚え、あるいは後悔や絶望の中に蹲(うずくま)っていた時、この主イエスのみことばに慰められ、再び立ちあがる勇気を与えられた方は多いのではないでしょうか。しかしこれは、実は、不思議な主のおことばではないでしょうか。

人生に、負うべき「軛」や「重荷」が無ければと、わたしたちは願います。しかし、本来、弱く、限界があり、加えて、神と人とに対する罪から自由ではないわたしたちにとって、「軛」あるいは「重荷」、すなわち「わたしたちの十字架」をまったく負うことのない人生、否、むしろ、「わたしたちが、本来負うべき十字架」を負おうとしない人生は、かえって自らと他者を、さらには神をも、欺くものではないでしょうか。

もちろん、「神の子キリストが負わねばならない十字架」というようなものがあろうはずはありません。しかし「弱く、罪に汚れたわたしたちが負うべき十字架」を、主イエスは、わたしたちに「あなたの軛、あなたの十字架」とは仰らず、驚くべき事に、わたしの軛」わたしの荷」、すなわち「わたしの十字架」と仰ってくださるのです。

その上で、本来はわたしたちが負うべき「わたしたちの十字架」を、主イエスはわたしたちに、ご自身と共にわたしの軛」「わたしの荷」すなわち「わたしの十字架」を、一緒に負ってくれないかと仰せになっておられるのです。この主のおことばにわたし自身の言葉を失います。ただ、主に合掌し、主を礼拝させていただくばかりです。

ところで、主イエスのこのおことばは、十二人の使徒たちをお選びになり、「神の国の福音」の宣教に遣わされるに際して、弟子たちに語られた主のおことばです。実は、主は、弟子たちを町や村に宣教に遣わされるに先立って、予めご自身ですべての町や村を訪ねておられました。マタイによる福音は、そのことを、次のように伝えています。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、み国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒された。」(9:35)

ただしその時、それらのすべての町や村で、主イエスがご覧になられた、他でも無い「わたしたち」は、どのような様子だったのでしょうか。マタイは続けます。

「(主イエスは)、また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(9:36)

ここで「打ちひしがれている」とは、フランシスコ会訳聖書のように、むしろ「倒れている」、さらには「死にかけている」と強く訳すこともできる言葉です。

これが、主イエスが十二使徒たちを「働き手」としてお遣わしになられるに先立って、主ご自身の目で確認された「飼い主のいない」わたしたちの姿です。しかしなぜ、わたしたちには「飼い主がいない」のか。実は、「飼い主」はいらっしゃるのです。もちろんそれは、神です。わたしたちには「飼い主がいない」のではなく、「飼い主である神から離れて」しまったのです。その結果、「弱り果て、打ちひしがれ、死にかけて」いたのです。誰のせいでも無い、わたしたちの愚かさ、否、罪ゆえにです。

主イエスご自身で確認された、「飼い主を失い、弱り果て、人生の途上で倒れ、死にかけているような」わたしたちとわたしたちの人生の現実ゆえに、主は、十二使徒をお選びになり、宣教、さらに司牧に遣わされたのです。マタイは、さらに続けます。

「そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい。』」(9:37f)

「収穫は多いが、働き手は少ない」と主イエスは仰せです。ただし主は、何を、否、誰を「収穫」されるのでしょうか。わたしたちが羨むような物、あるいはわたしたちと違い知恵と徳に優れた人々でしょうか。そうではありません。「飼い主を失い、弱り果て、人生の半ばで倒れ、最早自分で立ちあがる事のできない」わたしたちです。

主イエスは、このようなわたしたちを、父なる神から与えられる掛替えのないご自身の宝(ヨハネ10:29)として、大切に「収穫」してくださるのです。そのためにわたしたちの弱さと罪の一切をご自身の十字架として負い抜くことさえ顧みられずに。

主イエスは仰せです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。・・・私の軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 7/2

説教:年間第13主日 マタイ10:37-42

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエスの宣教の御生涯は、弟子たちを伴ってのエルサレムに向かう旅でもありました。そして、その旅の果てに主と弟子たちを待ちうけていることを、主はよくご存知です。この大切な旅の途上で、主は弟子たちに、三度くり返して、しかも「はっきりと」、エルサレムでのご自分の十字架の死と復活を予告されます。主の弟子たちへのくり返される予告を、マルコによる福音は次のように伝えます。

「イエスは、『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に、復活することになっている』、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話になった」(マルコ8:31)。

エルサレムに向かう旅の途上、主イエスご自身の内に明らかに緊張が高まって行かれるのと対照的に、くり返し主のご受難の予告を聞かされながらも、心がそれについて行かない弟子たちがいます。主のエルサレムでのご受難の予告を二度目に聞かされた直後でさえ、弟子たちは、彼ら十二人の内で「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」とマルコは伝えます(マルコ9:34)。にわかに信じがたいことです。

しかもマルコは、この直後に十二弟子の一人ヨハネが、主イエスに次のように語ったと伝えます。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」(マルコ9:38)。一見、何気ないヨハネの主への報告に聞こえます。しかしこれは、主のみ前に、神と人とに対して極めて傲慢な言葉と不遜な態度ではないでしょうか。彼は主の弟子というより、人々に対してまるで主になり代わったように振舞っています。事実、主はヨハネのこの不遜な振る舞いに深く心を痛めておられます。実は、今日のマタイの福音の主のみことばは、マルコでは主がこの時ヨハネに向けて語られたことばとされています。

「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(マタイ10:42、マルコ9:41)。

今日のマタイも、主イエスのおことばを、主と共にエルサレムへ向かって旅するわたしたちが一体何者なのかを想い起させてくださるおことばとして伝えています。主のこのおことばから、ヨハネもわたしたちも、主の憐れみと主のご保護の許に生かされている「主の弟子」であり、「小さい者の一人」に過ぎないことを謙遜に自覚すべきです。ヨハネが、漁の仲間であったペトロ、ヤコブと共に、ガリラヤ湖の湖畔で、主から召し出しを受けた時のことを思い出してください。ルカによる福音によれば、この時、主は、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を、夜通し不漁であった彼らの網を魚で満たされた「湖の奇跡」をもって、彼らを漁師としてのそれまでの生活から主に在って神と人とに仕えて生きる全く新しい命、生活へと招いてくださいました。それは、彼らの思いや力を遥かに越えた光栄であったはずです(ルカ5:1-11)。

しかし、まさにその時、彼らは深刻な問題に直面せざるを得ませんでした。それは彼らの罪です。罪人は、神なる主に直(じか)に見(まみ)えることは許されません。ペトロは主イエスに招かれた時、ヤコブとヨハネと共に、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ5:8)と、申し上げる他ありませんでした。罪なる彼らは、主のみ前に、ひとえに神を畏れたのです。

しかし、彼らが、心から自分の罪を認め、懺悔し、主イエスを畏れたからこそ、主は彼らをご自分の弟子とされたのです。その上で、主は彼らに言われました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」その時、彼らはこの主に「すべてを捨てて従った」と、ルカは伝えていました(5:10、11)。

主イエスの召出しを受けたこの時の謙遜なヨハネはどこに行ったのでしょうか。罪故に主を畏れ、主の赦しの許にのみ、全てを捨てて主に従ったヨハネでした。その彼がいつの間にか、人々に対して居丈高に神の恵みを管理する者であるかのように振舞ったと、マルコは伝えるのです。主は、このヨハネに心を痛められたのです。

主イエスと共にエルサレムに上る旅。ヨハネだけではありません。わたしたちも、主と共にその旅の途上にあります。主に従うこの旅は、誰にとっても、主のみ前に、神を畏れ、主の赦しの許に、謙遜と従順の内に全てを捨てて主に従い、神と人とに仕えて生きることを学ばせていただく旅、ではないでしょうか。このようなわたしたちにもかかわらず、エルサレムへの旅の途上、主は、忍耐強くわたしたちに教え、さらに、主を訪ねて来る一人ひとりに、丁寧に心を尽くして出会って行かれます。

この旅は、主イエスにとっては、ご自身の十字架を見つめての旅です。「すべてを捨てて主に従う」わたしたちのために、主はご自身を、ご自身のいのちさえ、十字架に捨ててくださる旅です。このことを決して忘れてはならないと思います。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 6/25

年間第12主日 マタイ10:26-33

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である」(マタイ10:24,25)。

主イエスは、十二使徒たちを宣教に派遣されるに際し、不安を覚える弟子たちに、このようにお語りになっておられました。これは、自分に何の知恵も力もないわたしたちにとって、励ましと慰めに満ちた主のおことばです。

これに続けて語られた主イエスのおことばが、今日の福音です。主は仰せです。

「人々を恐れてはならない。・・・体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」

これは宣教に遣わされる弟子たちやわたしたちが、傲慢であってよいということではありません。ご復活のキリストの使徒パウロも、神と人とに「謙遜と柔和の限りを尽くして」(エペソ4:2)お仕えするようにと、わたしたちを諭しています。

主イエスからのこのおことばをお聞かせいただく時、主が福音の宣教に遣わされる弟子たちに、「汚れた霊に対する権能をお授けになった」(マタイ10:1)と、先にマタイによる福音が伝えていたことを、わたしたちは、改めて思い起こします。

十二使徒が主イエスから受けた「汚れた霊に対する権能」とは何か。もちろんそれは、「聖い霊つまり聖霊の権能」。「聖霊」とは、ヨハネによる福音が伝える通り、ご復活のキリストの「息」。「息」は「いのち」つまりご復活の主ご自身のことです。

「(ご復活のキリスト・)イエスは重ねて言われた。『あなた方に平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」(ヨハネ20:21,22)。

ここで、ご復活のキリストは、宣教に遣わされる弟子たちに、主ご自身を与えておられるのです。そうであれば、福音宣教とは、十二使徒たちを通して、聖霊によって主イエスご自身がみことばを語り、み業をなさるということに他なりません。

事実、マルコによる福音は、ご復活のキリストによって宣教に遣わされた弟子たちの様子を次のように伝えています。「(ご復活のキリスト・)イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは、出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」(マルコ16:20)。

言うまでもなく、十字架以前に弟子たちと寝食を共にしてくださった主イエスと、ご復活のキリストは、同じ方です。そうであれば、今日の福音で使徒たちがご復活のキリストから託された宣教の言葉も、十字架の前からの主ご自身の福音宣教のおことばと同じであったはずです。すなわち、「天の国は近づいた」(マタイ10:7)。

同時に、ご復活のキリストが使徒たちに託された宣教の働きも、十字架に至るまで主ご自身がなさったのと全く同じく、「病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払」(マタイ10:8)うということであるはずです。

福音宣教の働きが、このように勝れて主イエスのみことばと主のお働きにわたしたちがお仕えすることであることから、教会は、ご復活のキリストから託された福音宣教の働きを、決して自分たちの宣教と称したことはなく、必ず「神の宣教」・「主ご自身の宣教」と呼んで、常に、栄光を主に帰させていただいて参りました。

そうであれば、使徒たちにとって福音宣教とは、各々主イエスから派遣された地で、みことばとご聖体において聖霊によって現存される主ご自身にお仕えさせていただくこと以外の何ものでもありません。それは、主ご自身の宣教の証人とされることです。「誇るならば、主を誇れ」(1コリント1:31)と使徒パウロが語る通りです。

それはまた、使徒たちにとって、遣わされたどこの場所においても、ただ主イエスのみを畏れて生きることです。「人々を恐れてはならない」、さらに「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と、主が仰せになっておられる通りです。

宣教とは、聖霊によって現存される主イエスにお仕えすること。それは、聖霊なる主の世に対する勝利の証人とされるのみならず、わたし自身の罪に勝利を収め、罪から解放してくださった救い主キリストの証人とされることです。人を恐れず、主のみを畏れて生きる。それが、わたしたちに主から託された主の宣教・福音宣教です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。