司祭の言葉 11/19

年間第33主日 マタイ25:14-30

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

聖週間、即ち主イエスの地上で最後の週に、主がエルサレムでお語りになった、日本語では「終末預言」と呼ばれる主のおことばを、マタイによる福音は、第24・25章の二章を費やして丁寧に伝えています。今日の福音はその後半の一節です。ただし、「終末」や「再臨」という翻訳語が独り歩きしている様な日本の状況は気になります。

そもそも、「終末預言」の「終末」eschatonとは、いかなる時なのか。聖書のギリシャ語eschatonは、単に「時の終わり」を意味せず、古い時の終わりと同時に新しい時の始めを意味する特別な言葉です。ただし、古い時を終わらせ、新しい時を始めることがお出来になるのは神のみです。それゆえeschatonは、そのために神が目に見える仕方で歴史に介入なさることをも意味し、事実、天の父なる神は御子キリストにおいて、歴史の中にそのお姿を現わされました。その事実に立って主ご自身は、「終末預言」を主の「再臨」parousiaの確証によって結ばれています。

「再臨」とは何事か?これをミサと無関係に翻訳から「再び臨む」つまり「主イエスが再び来られること」と理解すると、未来のいつかことであり、如何にしてかは不明です。しかし「再臨」と訳された聖書の原語ギリシャ語parousia(para-ousia)は、para=「傍ら」ousia=「存在」で、明らかに、主が「目の前に、つまり、今、ここに現存・到来している」という現在の事実を示す言葉です。つまり、「再臨」とは、ミサの体験を語る言葉で、主のミサ制定のことば「記念」むしろ「現存」を意味するanamunesisと同義です。(「再臨」は、元来「再度の臨在(つまり現存)」の意味の訳語です。)

また、「時は満ちた。神の国は近づいた」と、主イエスの宣教の初めのことばは訳されていますが、parousiaは、実はこの「時は満ちた」と訳されたpuleromaと同義です(『カトリック教会のカテキズム』参照)。また、「神の国は近づいた」と訳された言葉のギリシャ語の時制は現在完了で、正確には「神の国は(主において)今すでにここにきている」との意味であり、ここに「時は満ちた」の内実が語られるわけです。つまり、「再臨」と訳されたギリシャ語parousiaは、ミサにおいて事実「到来」し「現存」するわたしたちのキリスト体験であり、同時に主において到来し現存する「神の国」の体験を語る言葉なのです。聖書聖典の成立以前、ミサで信仰を死守した迫害時代の初代教会にとって、主の「再臨」とは、このように、主が「ご聖体の秘跡・ミサ」において「再び現存・臨在」されるという彼らのミサにおける圧倒的キリスト体験です。

わたしたちが「終末」を生き、主イエスの「再臨・到来」の証人とされる、まさにその「場」はミサなのです。そうであれば、「終末」に生きるとは、現実を蔑(さげす)み与えられた日々を無為に過ごすのではなく、主の「到来・現存」の証人として日々信仰に生きることです。「終末預言」の一部とされる「タラントンのたとえ」と呼ばれる今日の福音は、終末を生きる、つまり、「今」、神のみ前に生きるわたしたちへの主から問いかけです。主の今日の「神の国のたとえ」には、複数の僕(しもべ)たちが登場します。主人から、5ないし2タラントンの財産を預かった僕たちは、各々預かった財産を有効に用いて、主人の帰るまでに預かった財産を倍に増やしました。しかし1タラントン預かった僕は、ただそれを「隠して」おくばかりで、時を無為に過ごしました。

これらの僕たちの決定的違いは、どこにあるのでしょうか。それは、彼らの「預かった財産の額」つまり彼らの能力や資質にではなく、明らかに、彼らに財産を預けた「主人」に対する彼らの生き方の違いにあると思います。1タラントンを預けられた僕にとっては、見えない主人は存在しないのです。つまり、見えない主人を信頼も期待もせず、おそれもしません。これに対し、5タラントンと2タラントンを預かった僕たちは、見えない主人を信頼し、その約束を固く信じ、主人が彼らに託されたものを大切にして、主人のために与えられた日毎の務めに忠実に励みました。彼らは知っています。彼らに見えるか否かによらず、主人は、常に「現存」されることを。

主イエスが、このたとえによって「終末eschatonを生きる」わたしたちに期待されるのは、後者の僕たちのように、常に「現存」parousiaされる主のみ前に、日々を大切に、誠実に生きることであることは明らかです。改めて、この「たとえ」が、主が十字架によってわたしたちの前から取り去られ、しかし三日目に復活される主の過越の三日間の直前に語られていることに注意したいと思います。確かに、主は十字架によってわたしたちから見えなくされたように思われたのです。しかし、だからこそ主はわたしたちに十字架の直前の「最期の晩餐」でミサ(ご聖体における目に見える主の「現存」の秘跡)を残してくださったのです。それこそわたしたちにとって永遠の主の「現存」parousiaであり、礼拝毎の主の「到来・再臨」parousiaです。

「終末」を生き、主イエスの「到来・再臨」に生かされる。わたしたちは、罪ゆえ閉ざされた目に主が見えないことを理由に時を無為に過ごすことは許されません。主は常に「現存し到来される」からです。「目を開いていなさい」とわたしたちに求められる主に、「わたしたちの目を開いて、現存の主を見させてください」と聖霊を求めるわたしたち。主はミサにおける祈りの内に必ず聖霊をお与えくださいます。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。