司祭の言葉 6/7

※2020年6月7日(日)三位一体の主日A年 

わたしは有る    司祭 鈴木 三蛙  

 アレルヤ! 皆様お変わりございませんか? 今日は三位一体の祝日です。

三位一体・・・私たちの信仰の奥義です。おうぎ・・今は神秘と言っていますね。聖書には三位一体という言葉はありません。イエス様のお言葉の中から導きだされた結論です。神様は唯一ですが、その神さまの中に、父と子と聖霊と言ういわば独立した人格があって、それぞれがいつもわたしたちに寄り添い、救いの御業がなされたことをかんしゃします。私たちを救うと言う主の御業は、父と子と聖霊の共同作業だったからです。

 モーセを通して示された神の名は「わたしは有ると言う者だ」と言うことでした。その神は天地万物を創造し、支え続けています。手のひらに本を載せて宙に浮かせ、手を退ければ、本は下に落ちてしまいます。私たちは常に神の手によって支えられているから、ここに存在するのです。神が支えることを止めればすべては消滅してしまいます。
 
神様は救いの歴史の中で預言者を通してご自分を紹介してきました。「群盲象を評す」というインド発祥の寓話があります。象のお腹やしっぽ、鼻、牙、耳、足を触って、それぞれが象について語るのです。象は壁のようだ、むちのようだ、ホースの様だ、すべすべしてとがったものだ、うちわの様だ、木の幹の様だなどとです。それは象の一面でウソではありませんが、象の全体を示してはいません。預言者たちの語った神の姿も同じだと言えます。

 そこで神ご自身が、この世に肉体をとっておいでになりご自分について語りました。

 前者が他己紹介だとすれば、後者は神ご自身による自己紹介。私たちの傍においでになり、私たちとともにある神の姿を示されました。そして十字架とその死を通して神が愛そのものであることを示されました。

 テレビドラマなどを見ているとき、刑事をしている父親が張り込みなどでその場を離れることが出来ず、奥さんの死に目に間に合えないことを、子供から非難される場面があります。どうしてでしょうか。子供にとっては、いくら仕事のためとはいえ、どうして母のそばにいてくれなかったのか、母の寂しさを想うと薄情な父が許せない・・と言うことでしょう。何をしてあげることが、人を愛することでしょうか。どんなプレゼントよりも、「その人と一緒にいて共に時間を過ごすことが最高の愛」だと感じたことが、わたしたちの体験の中にもあるのではないでかとおもいます。それは「モノではなく、自分自身を与えること」だからです。神はまさにそのような仕方でご自分の愛を示されたと言えます。

 そして天に昇られた主は、世の終わりまで私たちとともにいるといわれ、さらに聖霊が「別の弁護者」として、世の終わりまでわたしたちとともにおられることが示されたのです。

「わたしは有る」と言われた主は、「いつも私たちとともに在る」というその本質を、救いの歴史を通して示してくださいました。

 今日はそのことを黙想し、賛美と感謝の祈りを捧げたいと思います。いちにちも早く新型ウイルスの脅威が去り、ともに感謝の集いのできることを待ち望みながら。