司祭の言葉 12/25

主の降誕

 主の降誕おめでとうございます。私たちは待降節の間主の降誕を準備してきました。どのような備えができたのでしょうか。
 イエス誕生の知らせを真っ先に受けたのは、野原で野宿をしていた羊飼いたちでした。わたしは、そのことに思いを馳せます。そして一向に進歩しない己を反省します。

 もう22年も前になりますが、そのころは2000年問題としてコンピューターの誤作動による大混乱が起こるのではないかと危惧されていました。そしてもう一つ、断捨離という言葉が人々の口の端に登るようになっていたのを覚えていらっしゃいますでしょうか。
 当時わたしも「捨てる技術」という本を読んで、大いに啓発されました。
 著者の辰巳渚さんという方が、「ものは収納スペースいっぱいに増える運命にある。本が溢れて仕方がない人が、本棚を買い足した途端すぐそこもいっぱいになって、また床や階段に本が溢れる事態は良くあることだ」・・・と語っていました。

 わたしは物を大切にするのは美徳であるという時代に生まれていますから、どうしても物が捨てられません。ついついもったいないと思ってしまうのです。

 それで私は、いつか痩せることを夢見て持っていた司祭になりたての頃に手に入れた三つ揃えのスーツと、ナナハンに乗っていた時のブーツ、一度も履いていない冬用のブーツなどを処分しました。物の無い時代に生まれましたので、捨てるときには罪悪感にとらわれ、胸が痛みました。結局このときの「捨てる辛さ」が、安易に物を買うことへのためらいにつながり、本当に必要な物を大切にする気持ちを、芽生えさせてくれるのではないかと思います。そしてかなりのものを処分したのですが、22年経った今、わたしの部屋には再び物が溢れています。

 山本周五郎全集の本のごときは、何時かゆっくり読もうと思いながら、50年も持ち歩いています。大阪の釜ヶ崎日雇い労働者を支援している方々が、本を寄付してほしいと願っているので、この本ともおわかれしましよう。私にはもう一度断捨離の決断が必要です。最近は電子書籍というものがありますから、検索し、パソコンで読むことも可能となっています。本は必要としている人たちに役立てていただくのが一番だと結論に思い至りました。

 さて、クリスマスになるとどこの教会にも飾られている馬小屋ですが、何故飾られているのでしょうか。何のためにでしょう。そして誰が始めたのでしょう。

 馬小屋は聖フランシスコが初めて作ったと言われています。福音の勧め通り何も持たず全てを神に委ねて生活しようと、托鉢しつつ福音的清貧の生活を送ったフランシスコは、イエスの清貧を弟子達に教えるために馬小屋を作ることを思い立ったのだそうです。

 17日のニュースだったと思いますが、戦時下のウクライナで大きなクリスマスツリーが飾られイルミネーションが輝いていました。ロシアによる攻撃で発電所が狙われ、電力不足となって、電気を使うことのできるのは一日にほんの数時間とのこと。思うように使うことができない中で、希望の光として灯されたのだと思います。今ウクライナではあらゆるものが不足しています。
 ある日のニュースの中で、家族を守るために避難することを選択したご婦人がインタビューに応えて「故郷にいるときはあれも足りないこれも足りないと思っていました。でも今思えば、何でもありました。」と語った言葉が印象的でした。

 イエスは家畜小屋で生まれました。飼い葉桶がゆりかごでした。
 貧しさの極みの中で生まれたイエスは、私達に何を問いかけているのでしょうか。
クリスマスは貧しさの中に生まれた・・そして、貧しい者は幸いであると言われたイエスの言葉を思い起こし、イエスが愛されたように貧しい者、やめる者、苦しむ者、迫害されている者、とらわれている者、異国の地にあって苦しんでいる者を思いやる時です。

 羊飼い達に告げられた天使のメッセージは「今日あなた方のために救い主が生まれた・・」というものでした。それは、小さくされているあなた方のために・・ということなのです。

 幼子降誕の記念の日に当たって、モノあまりの時代にあってもいたずらにモノをため込むことなく、本当の意味で物を大切にし、世界中の苦しんでいる人困っている人と連帯することの出来る恵を共に祈りたいと思います。

司祭の言葉 12/18

待降節第4主日A年

 川口教会では毎年道路に面したところに馬小屋を作っていますが、ある日神父さんは「今イエス様は散歩に行っています」と説教で話しました。イエス様だけ誰かに持ち去られたのです。それでも同じところに、今も新しいイエス様を迎えて飾り付けています。
 今年は春日部教会の前にも馬小屋が作られました。すでに何人かから、すごいですねマリア様ですか?などの声が聞かれています。
 町のクリスマスは スノーマン サンタクロース 電飾などの光の洪水
インマヌエルとしておいでになったのに、共にいたくておいでになったのに、どこにもその姿はありません。クリスマスは主がわたしたちと共にいるために誕生した日なのに・・・
でもそのことを、馬小屋の飾りは口で言わなくても伝えてくれます・・・それが教会のクリスマスです。

 さて今日の福音ですが、ルカはマリアへのお告げでキリスト誕生物語を展開していますが、マタイはヨゼフに対するお告げを重視しています。ダビデの系譜を大切にしているのでしょう。

 密かに縁を切ろうと決心した。・・・この短い言葉の中に、ヨゼフの苦悩が読み取れます。
ユダヤでは結婚まで三つの段階がありました。許嫁、婚約、結婚
許嫁(いいなずけ)、しばしば二人が子供のころに決められました。両親や仲人によって
婚約、律法はほとんど結婚と等しい権利と義務を婚約の状態に認めました

期間は結婚準備が整うまで、ほぼ一年でした。婚約者が未来の妻の父親に送るモハルと呼ばれる婚資の贈与がなされると婚約期間は終わったといいます。(イエス時代お日常生活Ⅰ)

 そして姦淫の罪を認められた婚約者は、まだ結婚していなくても、妻のごとく投石されて殺されなければなかったのです。

 「わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ。」(7の14)

このイザヤの預言の乙女と訳されている言葉は、ヘブライ語で「アルマ」といい、娘や若い女性をあらわす言葉です  (処女は ベテュラー ベテュリム)

 イサクの花よめさがしに行った僕が、泉の傍らに行き水を飲ませてくれた乙女(アルマ)が神ののぞむ花よめ (創世記24の43)
 ナイル川で葦のかごを見つけた王女が乳母を求め、モーセの姉を「娘」アルマと呼んでいます (出2の8)

これらの用例は 未婚の若い女性を表しています。
また 雅歌 6の8の 「王妃が六十人、側女が八十人/若い娘の数は知れないが・・」という歌の中の若い娘は既婚とおもわれる・・ということです。

 ですから、神学者の中には、イザヤが処女を考えていたかどうかはわからないと言う人もいます。旧約聖書がメシアを表す時、母がどんな女性であるかに興味を持っていないから・・というのがその理由です。
 しかしセプツアギンタ(70人訳)と呼ばれる旧約聖書のギリシャ語訳は、処女を表すギリシャ語パルテノスと訳しまた (パルテノス 処女 )
そしてマタイ1の23はこの70人訳からの引用をしています。

イエスとインマヌエル

 その名はインマヌエルと呼ばれるとあるのに、イエスと名付けなさいとあります。
ここに疑問を持ったことはありませんか?
 イザヤと天使の言葉が食い違っているのでしょうか。そうではありません。
「神は救う」という名のイエスは「神は我々と共におられる」というインマヌエルとしてこの世に来られ、わたしたちの間に生きておられる方なのです。
マタイはその福音をインマヌエルで始め、インマヌエルで終えています。
「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」・・・マタイ28の20

 そして、ねむりからさめたヨゼフは天使の言葉に従ってマリアを受け入れイエスと名付けました。イエスと名付けることによって、聖霊によって生まれた子は、ダビデの血筋に入れられました。ダビデ家は神のえらびのシンボルであり、そこからメシアが出ると言われてきた家です。

ヨゼフの承諾によって、マリアのフィアット(お言葉どおりこの身になりますように)という承諾の言葉は、実を結ぶことができたのです。

司祭の言葉 12/11

待降節第3主日(A年) 

 今日はガウデーテの主日です。
入祭唱はGaudete in Domino semper: iterum dico ,
Gaudete. Dominus enim prope est.
主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。確かに、主は近い・・と謳います。

 そして司祭は喜びを表すバラ色の祭服を身に着け、アドベントクランツのロウソクも今日はバラ色のロウソクを灯します。ドイツから生まれた飾りつけだと言いますが、待降節の4つの主日をあらわすロウソクと、緑を失わないので生命のシンボルとされる常緑樹の枝で輪を作り飾ります。そこに、赤い実のついた刺のある山帰来の枝を飾ります。サンキライは別名:猿とり茨ともいわれ、刺はキリストのかぶった茨を、赤い実はその血を象徴します。また秋の実りを象徴する姫リンゴや松ぼっくりなども飾られます。

 さて、今日の福音は、洗礼者ヨハネについての個所です。
救い主の到来を準備するために悔い改めの洗礼を呼びかけたヨハネですが、彼は牢獄の中にいます。彼はイエス様にヨルダン川で洗礼を授けた時、すでにイエス様を「来(きた)るべき方」、「世の罪を取り除く神の子羊」と認めていました。それにもかかわらず、なぜ今「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と自分の弟子たちに質問させたのでしょうか。
 人間は努力する限り迷います。この迷いを意図的に切り捨て、偽りの確信を作り上げ、その確信を声高に宣伝し始めると世は荒れ果てます。ヒットラーが民族浄化を推し進めたとき、何百万ものユダヤ民族の犠牲者を生み出しました。プーチン大統領も今この偽りの確信にたって戦争を引き起こし、多くの犠牲者を出しているのかもしれません。

 この質問について二つの見方があります。
 一つは、洗礼者ヨハネは捕らえられ、自分が死を迎えることを予感していたので、自分の弟子たちの目をイエス様に向けさせ、イエス様のもとへ導くために、こういう指示をした。洗礼者ヨハネ自身はイエス様が「来るべき方」だということを疑ってはいないとの見方。

 そしてもう一つは、ヨハネが思い描いていた「来るべき方」のイメージと、イエス様のイメージが大きく違っていたので、ヨハネにも迷いが生じた。
 ヨハネは確信をもって「悔い改めよ。斧はすでに木の根元に置かれている」と来るべき方について告げ知らせましたが、ヨハネが思い描いていたのは「神の怒りと裁きをもたらす方」でした。ヨハネはイエス様の実際の活動を見聞きして、それが自分の考えるキリストのイメージと違うことに戸惑ったのではないか・・というものです。

 そしてイエス様の答えは、イエス様の周りで実際に何が起こっているかに目を向けさせるものでした。それは旧約聖書の救いの到来に関する預言の成就と言えることです。
 「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍(おど)り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」(イザヤ35章5-6節)
  「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」(イザヤ61章1節)

 イエス様が行う奇跡はイエス様自身の偉大さを示す為のものではなく、神の声が響き渡り、新しい時代が到来していることのしるしです。ヨハネはそのことを知って、イエス様こそが来るべきお方であったと確信したことでしょう。

 そしてイエス様は、「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大なものは現れなかった」とヨハネを讃えるのですが、「しかし、天の国で最も小さなものでも、彼よりは偉大である」と続けます。
 これはどのような意味でしょうか。

 イエス様によってもたらされた真理、神の奥義は、「神は愛である」という審理です。
この真理は十字架によって明らかになりました。
洗礼者ヨハネはこの真理を知ることができなかったのです。

 ヨハネの使信は福音ではありませんでした。 それは滅亡の警告でした。
神の愛の長さ、広さ、高さ、深さを人が知るためには、十字架が必要だったのです。
そして私たちにはそれを知る恵みが与えられたのです。  

バークレーが紹介する話があります。
「毎日夕方、家の窓から外を眺めると、点火係が道路のランプを灯しながら歩いてゆくのが見えたが、その男は盲人だった」というのです。彼は自分では見ることのできない光を他人のためにともしていたのです。

ヨハネは自分の見ることのできない十字架のために、人々を回心へと招いてくれたのです。主イエス様が讃えた偉大な預言者でした。      

Deo gratias 神に感謝。

司祭の言葉 12/4

待降節第2主日

 クリスマス商戦は今たけなわです。クリスマスの準備は出来ましたかと、お店に誘います。TVではおいしそうなデコレーションケーキの画像が流れ、それを口にほおばり満足そうに微笑む女の子の顔が映し出されます。その準備とは、クリスマスプレゼントとパーティーの支度、楽しくクリスマスの夜を過ごすためのホテルやケーキの予約などです。
 今日の福音はバプテスマのヨハネを通して心の準備を呼びかけます。
 教会の玄関も畳の部屋もクリスマスの飾りが施されました。でもお御堂の中は、アドベントクランツだけです。教会はクリスマスの喜びを先取りしてしまわないように注意しなさいと呼び掛けています。

 モーセと預言者たちの言葉で聖書は構成されています。イスラエルの歴史の中で神の言葉はモーセと預言者たちを通じて語られてきました。イスラエルがパレスチナに定着したのちも、列王記の時代にも、アッシリアやバビロニアの支配に苦しんだ時も、ペルシャの支配が及んだときにも、いつも預言者がいました。

 旧約の預言者は救いの日の到来を次のように約束しました。今日の第一朗読です。
「その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。」 イザヤ11の10

 しかしその後は、ギリシャの支配下でもローマの圧政のもとでも預言者は現れませんでした。400年もの間預言者は一人も出ず、預言者の声は一言も聞かれなかったのです。当時ユダヤ人たちは預言者の声が途絶えたことを悲しんでいたのです。

 そのような中、400年ぶりに、荒れ野にひときわ大きな声が響き渡りました。
バプテスマのヨハネは悪を見つけ次第、大胆に摘発しました。 ヘロデ王が律法に反した不正な結婚をすればそれを非難し、パリサイ人やサドカイ人が儀式中心の形式主義におちいれば、はばかることなくそれを糾弾しました。預言者の出現です。

歯に衣着せず厳しい言葉で糾弾します。
マムシの子ら・・・と呼び掛けます。 彼らは宗教的な生き方を装っているが、そこから生まれる実は傲慢と独善という毒でしかないからです。
ふさわしい実を結べ・・・といいます。罪の告白を伴う洗礼、神が、地上に支配を及ぼそうとしているという現実に目を向け自分の生き方をそれにゆだねることを求めています。

そして来るべき方を予告します。
そのお方は手に箕をもって、麦と籾殻をもふるい分けるお方であると。

 当時の人々は・・メシアに先駆けて預言者エリアが来ると信じていました。

 一つの預言があります。マラキの預言 (3の23)は次のように言います。
「見よ、私はわが使者をつかわす彼は私の前に道を備える。」

 そして列王記下1の8には次のような箇所があります。
 アハズヤはサマリアで屋上の部屋の欄干から落ちて病気になり、使者を送り出して、「エクロンの神バアル・ゼブブのところにへの行き、この病気が治るかどうか尋ねよ」と命じます。その使者にエリヤが神から遣わされアハズヤへの神の言葉を告げます。

 使者たちが帰って来たので、アハズヤは、「お前たちはなぜ帰って来たのか」と尋ねた。彼らは答えた。彼らは答えた。「一人の人がわたしたちに会いに上って来て、こう言いました。『あなたたちを遣わした王のもとに帰って告げよ。主はこう言われる。あなたはエクロンの神バアル・ゼブブに尋ねようとして人を遣わすが、イスラエルには神がいないとでも言うのか。それゆえ、あなたは上った寝台から降りることは無い。あなたは必ず死ぬ』と。アハズヤは、「お前たちに会いに上って来て、そのようなことを告げたのはどんな男か」と彼らに尋ねた。「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました」と彼らが答えると、アハズヤは、「それはティシュベ人エリヤだ」と言った。

らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていたヨハネの姿は、エリヤを彷彿とさせました。そして人々は続々と集まってきました。

 地震は大地がズレ動いた時に生じます・・  断層・・  地上のものは倒壊する
 今は全てがうまくいっているように見えてもズレは必ずはっきりとした形であらわれます。

 罪とは神に背をむけて生きてきた人間と神との間に生じたゆがみ、溜め込まれた負の力です。神の支配が始まろうとする今・・・このズレで生じる負の力を無くす必要があります。
 そのためヨハネは罪の告白を伴う洗礼を施し、人々の生きる道を神へとまっすぐにむけさせようとします。